第七章 二十五話 俄拵えの玉座
エリーが歩み出した。
俺たちの行く手をふさぐ邪神の群れへと歩き出した。
当然誰しもが彼女のその行いに目を剥いた。
なにを考えているんだ。
なにをしようとしているんだ。
恐怖でおかしくなったか。
それぞれの胸には様々な疑問が浮かんだことだろう。
だが、いずれもまず最初はこう思ったはずだ。
まずい。
エリーが危ない!
これである。
俺も然り。
装填を終えたパーカッションリボルバー。
それを構える。
エリーに襲いかかろうとする邪神が現れたのならば、すぐさま射殺するために。
そしてエリーに追いすがる。
彼女を引き留めるために、その肩に手を伸ばそうとした。
しかし、すわそのとき。
早速、拳銃の出番が訪れる。
獅子級、うなり声上げ、地を這うかのような低い姿勢で。
疾駆。
接近。
唾液垂れ流し、大口開けながら。
害意に満ち満ちた眼光、容赦なくエリーに叩き付けながら。
迫る。
当然その企図を許すわけにはいかない。
エリーの肩越しにリボルバーを構え。
万一を防ぐため、少女に制止を求めようと俺は口を開こうとする。
動かないで!
大声でエリーに告げようとした。
「……なに?」
しかし口から出たのは制止の声ではなかった。大声ですらなかった。
ぽろり。
声の勢いは、まるでポケットからうっかりハンカチを落としたのかのような、緩やかさ。
強い調子で叫ぶはずであった制止の声。
これがこうまで力ないものに変わってしまった理由はなにか。
制止が疑問の声に変わってしまった理由はなにか。
すべては眼前にあった。
呆気にとられるしかない、そんなありえない光景が生まれてしまったせいであった。
エリーを食いちぎらんとする勢いで、迫っていた獅子級のせいであった。
そうだ。
迫っていた獅子級。
過去形だ。
つまり現在はさにあらず、ってこと。
さきほどまであの獅子級は、溢れんばかりの殺気に満ちていたというのに。
いまやその勢い、影も形も見られなくなっていた。
「……ヤツの速度が?」
いや、失われたのは殺意だけではない。
エリーとの間合いを詰めようとひたすらに地を蹴っていた、かぎ爪鋭いその四つ足の回転も、みるみると緩まり、緩まり、緩まり。
そしてぴたり。
ヤツの間合いにすら入らない位置で。
完全に停止。
攻撃をやめた?
どうして?
それだけでも信じられないことなのに。
なおも仰天の事態は続く。
俺が引き金を絞ることすら忘れるくらいの。
なんと立ち止まった獅子級。
その場でぺたんと膝を折り。
香箱を作った猫のような体勢になり。
おまけとばかりにぺこり。
それまで力強く上げていたその顔を、ぐったりと下ろすに至る。
まるで自分に殺意がないことを表すかのような態度。
いや、これでは――
「どういうことだ? これじゃあまるで。獅子級が……頭を――」
――垂れているようではないか。エリーに。
あまりにもバカバカしい解釈。
しかし現状を素直に読み解けばそうにしか見えないのだ。
さらに俺の、いや俺たちを混乱させるにたる不思議な出来事は続く。
「な、なんだ。これは? 邪神どもが……急に……?」
それは目の前の現実に対する素直な感想。
当惑に染まりきったその声は誰のものであったか。
男の声であったようにも思えるし、女の声のようでもあったし、いや、もしかしたらこの場に居る全員が、まったく同じ台詞を同時に吐いたのかもしれなかった。
眼前で起きたそれは、そうなっても然りと思わせるだけの出来事であった。
それほどまでに不思議な事態だった。
ぴたり。
邪神の攻勢が止む。
侵攻も停止。
連中が一斉に頭を下げたが故に。
最初に頭を垂れた獅子級に倣う形で。
それはそう。ファリクが足止めをしてくれていたあの騎士級でさえも。
それはあまりにも異様な光景であった。
だから俺たちは当惑するしかなくなる。
おろおろとしながら辺りを見渡すことしかできない。
「……ははっ。冗談が冗談でなくなってしまったな」
力ない乾いた笑い。
それが誰のものかと一瞬わからなかったけれども、数瞬経ってそれは俺のものであったと気がついた。
それほどまで無意識に出た言葉であった。
冗談とはさっき噛みつぶした言葉だ。
邪神がエリーに頭を垂れているようではないか、という台詞だ。
だって、周りを見てみるがいい。
今のこの場はそっくりではないか。
中心に居る者に対して一様に膝をつく姿は。
取り囲むモノどもが、例外なく自らの足元を覗き込む姿は。
玉座の間に詰めかける忠臣らの姿、そのままではないか。
邪神がエリーに頭を垂れるという、馬鹿げた感想。
これを否定する材料が消滅してしまったではないか。
「……これは夢、だろうか? 悪夢か吉夢か。その判断はつかないが、しかし奇妙な夢だ。これではこの中に、私たちの中に。邪神の王が居るかのようではないか」
誰に語るもなく、殿下はぽつりと呟いた。
ここはまるで、玉座の間であるようだ。
その感想を抱いたのは俺だけではなかったようだ。
王族故に、その手の光景に誰よりも慣れ親しんだ王女殿下ですら、俺と同じ印象を抱いたようだ。
殿下の台詞はまったくもってジョークになっていなかった。
くすりとも笑えやしなかった。
邪神の王がこの中に居るだなんて?
本当に悪い冗談だ。
「……冗談にしちゃ笑えませんね。殿下」
「冗談で終わってくれたのなら、私としても幸いだ。だが……なにぶんただいまは、冗談のように悪い出来事が、常日頃、当たり前のように起きてきた時代だ。違うか?」
不敬だから敢えて口にはしないけれど、殿下の見方はかなり斜に構えたものとしか言いようがなかった。
猜疑心に満ち満ちた危うい物の見方でしかない。
希望の灯火が消えかかったこの状況下、殿下のそれのように一種の犯人捜しめいた心理が働いたとき、人はとんでもない暴挙に走りやすいものだ。
この場に居る人間に限って、狼藉を働くとは思いたくないけれど――
警戒は邪神のみならず、身内にも向ける必要があるのかもしれないだろう。
「耳が痛いですね。私たち兵にとっては。勝利を収めるまで、長々と戦い続けてしまったせいで、それをさもありなんと思わせる時代を作ってしまいました。責任重大です」
「いいえ、ウィリアム。この状況をどうにかする責任があるのは。他でもない私に、ある」
エリーが唐突に意味深なことを言い始める。
彼女がこれをどうにかする責任がある?
どうして?
理由がまったくつかめなかった。
「それは? 一体どういう意味?」
「……言葉通りだよ。なにもかも。すべてが合っていた、ということだよ」
「なにもかも? 合っていた? なんだい? 君はなにが言いたいんだい? 物言いがあまりにも――」
「曖昧?」
俺は頷く。
急に妙なことを言い出したあとのエリーの態度は、どうにも煮え切らないところがあった。
いかにも重要な風の物言いはするものの、核心は敢えて話していない感じ。
いや、その感想はいささか違うか。
むしろ核心を話す決意がまだ決めきれていない、といった風か。
先ほどよりエリーはまったくもって俺に目を合わそうとしていなかった。
身体の正面こそ俺に向けているものの、その焦点は俺の頭上にあったり、あるいは彼女の足元にあったりしていた。
そんな様子を見せるということは、なにか秘め事があるのだろうか。
優柔不断の気が否めない態度であった。
「……そう、だよね。ずるい言い回しだったよね」
しかし自分が煮え切らない素振りを見せている自覚はあったらしい。
ぽつりと呟くや、エリーは自らの足元をじっと見たのちに、その赤目をぎゅっと閉ざした。
随分と力をこめて瞼を落としたらしい。
目尻にきゅうと深い皺が刻まれていた。
「……そうだ。もう、のんびりできる余裕もないんだ。だから、きちんと。話さなきゃダメ、だよね」
目を瞑りながら、エリーはそう言った。
辛うじて聞き取れるような、小さくか細い声で。
きっとその小さな声は自分に向けたものだろう。
しじま、来る。
そよ風がもたらす葉擦れが嫌に大きく聞こえるほどの。
急に生まれる音が少なくなったのは、邪神が身動きせずに頭を垂れたからというのも、たしかにある。
しかしそれ以上に大きいのは、みな一様にエリーに注目しているからだろう。
エリーの声を聞き漏らさないために、身じろぎもせずに耳を彼女の方へと傾けているのだ。
まさに固唾を呑んで見守るとはこのこと。
彼女が口を閉ざして、数瞬の間があいた。
何度も何度もそよ風が屋敷と麓を結ぶ道を通り過ぎた。
とうとうエリーが面を上げた。
結った赤髪が静かに揺れる。
顔がこちらに向く。
瞼はきちんと開いていた。
目はまっすぐに俺を見据えていた。
しかし焦点が俺にあったのは、ほんのわずかの間であったのだろう。
もしかしたら瞬き二、三回するのがやっとの間であったのだろう。
エリーはまた俺から目を逸らした。
そして殿下を見た。
俺から視線を外すその寸前、どういう理由かは見当もつかないけれど。
何故だかエリーは申し訳なさそうな眼光を、その赤い目にたたえた。
どうして?
「メアリー王女。正解よ。貴女は合っていた」
「なに?」
「貴女がさっき言ったことよ。貴女が言った冗談が、だよ。この中に、邪神の王が居るかもしれない。その一言は真実にとても近かったってこと」
「……ほう?」
ぴたり。
空気が凍り付いたのがたしかにわかった。
エリーはほとんど認めてしまった。
邪神の王がたしかにこの中に居る、と。
普段ならジョークセンスのなさを揶揄して笑うべき発言だろう。
あまりにも真実味がなさすぎて、真面目な人ならば彼女の正気を気遣ってしまうくらいに馬鹿げた言い分だろう。
けれどもどういうわけか。
今、この時においてはエリーを小馬鹿にした笑いも、彼女への気配りをする声もまるっきり聞こえてこなかった。
それどころかこの場からは、彼女の言を疑う気配がまったくしてこなかった。
それはきっと保証してしまっているからだろう。
この場の異常性が、彼女の言い草の妥当性を。
こんな異常な状況なのだ。
常軌を逸した原因があって然りだ、とみな納得してしまっているのだろう。
特に言葉を直接向けられた殿下の反応は顕著だった。
眉間にみるみると深い皺は刻まれていき、口はきゅっと横一直線に結ばれ……とかく気配が剣呑になる一方である。
そんな鋭利な雰囲気をたたえながら、殿下はゆったりと口を開いた。
ただし――
「それはそれは。正解をいただけたようで幸いだ。だとしたら問わねばなるまいな。なぜ正解だとわかるのだ、と。そしてひいては、この問いへと帰結するだろう」
――その声色はとてもかたかったが。
殿下は一度息を入れた後に。
多分、きっと、恐らく、いや絶対に。
先のエリーの言い分を聞いて。
みなが思ったことを、やはりかたい口ぶりで殿下は代弁した。
「エリー・ウィリアムス。答えを知っているお前は、一体全体何者だ? と」
「殿下のご想像の通り。いや、これでもまだ答えとしては曖昧か。言い逃れできないよう、証拠も見せて答えるべきかな。証明してみせるよ。今から」
頭が話について来れない。
殿下のご想像通りとは?
話が、見えてこない。
いや。
違うか?
多分きっと、俺は敢えて考えないようにしていたのか?
理由はわからないけれど。
本心では殿下が想像したヤツを考えていたのではないか?
考えなかったふりをしていたのではないのか?
それは一種の現実逃避ではないのか?
現実逃避。
どういうわけだかは知らないが、その言葉が俺の中ではしっくりときた。
だからだろうか?
殿下の考えたことを証明してみせる、と赤毛の少女が紡いだ瞬間。
なにをするつもりなのか。
きっとその証明とやらのために、エリーが踵を返したその瞬間。
胸一杯に。
言葉では表現できないほどの。
嫌だ!
そう言うしかない感情がにわかに湧き出して。
「ダメだ!」
「ダメです!」
気づけば俺は制止の大声を張り上げていた。
何故だかアリスもまったく同じタイミングで、同様の台詞を吐き出していた。
けれどもエリーは俺とアリスの偶然重なった声に意に介さず。
すたすたと迷いが一切見られない足取りで、頭を垂れたままの獅子級に近付いていった。
それは間違いなく危険な真似だ。
危ない。
危ないからやめるんだ。
本来ならそう叫んで制止すべき。
けれども、本当に不思議なことが立て続く。
俺はどういうわけか危ないとはこれっぽっちも思わなくて。
理由は本当にわからないけれど。
ただひたすらにこう思っていた。
やめてくれ!
頼むから!
それをやってしまったのならば!
君は!
けれども、エリーはそんな俺の思いはつゆ知らず。
きっと俺と同じ形であろうアリスの願いも知らんぷり。
とうとう先ほどまで、エリーに飛びかかろうとしていた獅子級との距離がゼロとなり。
すうと、静かに獅子級に手を伸ばすと。
獅子とはよく言ったものか。
次の瞬間にはまるで、良く人に懐いたネコよろしくに。
下げた首をすくと上げて。
獅子級は自ら頭を撫でられにいった。
それは今日何度目撃したかわからぬ、本来ならあり得ない光景であった。
「――ご覧の通り」
連中にとってエサである人間が間近に、しかも触れてきているのに一向に獅子級はエリーに襲いかかろうとしなかった。
そのグロテスクな造詣の口から、涎一滴たりとも垂らしてはいなかった。
自ら撫でられにいくということは、獅子級がエリーに害意を抱いていないことの証明。
一向に襲いかからずそのままじっとしているということは、ヤツが彼女を食欲の対象と見なしていないことの証。
立て続けに起こるあってはならないこと。
それがエリーの行動によって起こされたのであれば、認めるしかあるまい。
素面であるならば。
常の場であるならば、バカバカしいとばっさり斬り捨てられて然りであったエリーの、かの主張は。
「私なんだよ。貴女が言うところの邪神の王ってやつは。この世界での邪神の唯一の信者は。私なんだよ」
とても悔しいことに。
とても残念なことに。
紛うことのない真であったと。
掌に爪を食い込ませながら認めざるを得なかった。




