第七章 二十二話 軋む血管
ツバメはもちろん、そいつが飛ぶ速度はハヤブサでさえも及ばない。
この地上に存在するすべての飛翔生物よりも、ずっとずっと速い動きで飛び回る厄介なやつ。
それが翼竜級乙種。
蛇に翼を付けただけ、といったなんともふざけた造詣の翼竜級に対し、乙種のフォルムはいささか洗練されていた。
南洋で見られるという、人の丈ほどの大きさを誇るオオトカゲ、そいつにコウモリの翼を付けたかのような見た目だ。
それはまるで、おとぎ話に出てくるドラゴンのよう。
そしてやはり乙種の例に漏れず、架空の存在たるドラゴンでさえもかくやという凶暴性を秘めているときた。
その飛翔能力のおかげで厄介極まりない手合い。
あまりに強大な力を誇る人類の天敵。
戦う術に乏しい人たちに、絶対に近づけてはならない強敵。
しかし、今。
そいつが宙を走る。
戦い方を知らない人たちが詰まっている、かの荷車に向かって。
「く、そ……!」
まずい。
焦りが俺の心を冷たくする。
すぐに追いかけて仕留めねば。
そのためにはまず、腕を斬り落としたばかりの猿人級を潰さねば。
ますます剣の柄に込める力を強め、すぐさま倒すべき敵と再び向き合う。
凡百の邪神や、いや、ありふれた乙種でさえも大絶叫をあげて然りなのに。
ヤツは苦悶の声をまったく上げていない。
いまだに神経に障る、くしゃくしゃな嘲笑を浮かべている。
ええい!
目障りだ!
嘲笑うな!
そして狙いを定める。
一瞬で勝負を決めるために。
跳躍。
首を落としやすい位置にまで跳ぶ。
首を刎ねるために。
真横に。
一閃。
ただいま、ヤツは極太の腕を片側二本も失ったために、身体の左右で重さが違うはず。
バランスが狂ってしまったが故に、真っ直ぐ立つことすら困難なはず。
だからさしたる苦労もなく、こいつを討てるはず。
そう踏んだのだけれども――
「んっ。な?!」
冷静さを伴った邪神がこうも厄介な存在なのか。
俺は身をもって知ってしまう羽目となる。
敵は俺の跳躍にあわせて、ぴょんと飛び上がってきた。
俺の一撃の横軸をずらすべく、控え目にジャンプしてしまった。
これはまずい。
そう思うももはや手遅れ。
俺の一閃は、銀色の光跡を鋭く残しながら。
ずぶり。
筋肉質な天敵の胸を切り裂いてしまった。
(まずい、まずい、まずい!)
焦り、さらに色濃くなる。
何故なら今の一閃は、猿人級の首を落とすために繰り出したもの。
樹齢云百年の大木の幹にも等しい、猿人級の胸を両断するほどの力は込められていない。
故に、剣の進みは途中でぴたりと止まってしまうはず。
刃が、ヤツの肉体に阻まれてしまうはず。
そうなってしまったら最悪だ。
刃が止まるや否や、ヤツの体は再生を開始する。
そうすると治癒した肉に剣が巻き込まれてしまう、埋まってしまう。
前にも後ろにも、肉に阻まれて動かなくなるのだ。
それを避けるためにも必死に筋肉を、そして剣にすら魔力を流して強化するも。
しかしそれは空中での一コマ。
踏ん張る地面がないところでいくら力を込めようとも、その程度はたかが知れている。
思ったように力が伝わらない。
そうしているうちにも刃は猿人級の体幹へと突き進み、それに比例して、勢いがみるみる失ってしまって。
そしてついには。
ぴたり。
がっちり。
肉か、あるいは骨か。
そのどちらのせいでかは知らないけれど。
俺の一閃は、猿人級の胴を両断するよりも前に、勢いが死んでしまった。
剣がヤツの胸の中程で止まってしまった。
「見事。良き一撃であった。実に」
さきほど俺が散々煽ったことのお返しというべきか。
やはりごぼごぼとひどく聞き取り辛い声は、明らかに俺を皮肉っていた。
慢心したか、この愚か者め。
かような貧弱な一撃では我を斃すには至らんぞ。
そう、俺を煽っていた。
直後再生が始まる。
剣が、巻き込まれる。
動かせなくなる。
さらに折悪く道理が迫る。
跳べばいずれ地に落ちるという理だ。
このまま剣を保持すれば、猿人級の胸にぶら下がる羽目となる。
言うまでもなくそれは致命の隙。
だから泣く泣く、渋々。
足が地に着くその前に、軍剣を放棄。
かくして俺は丸腰に。
「では。さらばだ。小さくも強き者よ」
猿人級は無事な腕にぐっと力を込める。
俺を打っ叩いて殺すために。
しわくちゃな笑顔をより醜悪に歪ませる。
それはきっと勝利を確信しての笑みだろう。
丸腰であるならば、ヤツは俺を楽々殺せると確信しているのだろう。
その笑みが、そしてその余裕が、ひどく癪に障った。
「甘く見るなよ! 丸腰だからってさあ!」
局所的な暴風、吹き荒れる。
丸太よろしくの猿人級の腕が産んだ暴風だ。
俺を亡き者にしようとする暴力的な風。
それを避けるために。
敵の胸に突き刺さったままの剣目掛けて。
俺は跳んで。
暴力を避けて。
剣を摑んで。
それを支点に、跳躍の勢い活かして逆上がり。
肩に飛び乗る。
今の一撃は渾身のものであったか。
先ほどまでのように、こちらの動きをうかがう様子はない。
時間を稼ぐような小賢しい真似はできない。
好機到来。
目一杯強化。
足を。
そしてフットボールの要領で。
蹴る。
はじけ飛ぶ。
猿人級の頭が。
雌雄決す。
実にあっさりと。
だからこそ。
とても腹立たしくなる。
「時間ないのに!」
貴重な時間を浪費してしまった。
突破してしまった翼竜級に一瞬でも速く追いすがらねばならないのに。
最後の最後まで粘った猿人級にいいようにされてしまった。
絶命し崩れゆく猿人級の身体。
その肩から飛び降りて荷車の方を睨む。
強化施し、一歩を踏み出しつつも問題の翼竜級を見る。
有翼の化け物は中空を我が物顔で駆け抜ける。
地を這うような高度、人膝丈くらいの高さにヤツは居る。
やはり猿人級は余計な仕事をしてくれた。
おかげで翼竜級からだいぶ離されてしまった。
必死に強化すれば翼竜級よりも速度は出せるだろうけれども。
追いつくころにはもうヤツは、護るべき車に到達してしまっている。
間に合わない!
悔しい!
奥歯を噛みしめる。
「レミィ! ごめん、突破された! 翼竜級だ! 乙種だ! 撃て! 撃ち落とせ!」
空飛ぶ相手ならば、剣よりも銃を使った方が倒しやすいはず。
そして全人類でも随一の腕を持つレミィに任せれば、まず間違いはないだろう。
乙種の浸透を防げなかったことに大きな恥を抱きつつも、レミィに注意を促す。
頼み込む。迫る翼竜級の乙種を討ってくれ、と。
「視認! すでにしてる! 狙撃! すでにやっているけれども!」
だが、レミィの反応はなぜだか渋かった。
俺と同じく隠しきれない焦りがにじみ出ていた。
いかにも状況が思う通りに動かせていない感じ。
俺の嫌な予感を増強させる銃声混じりの彼女の声。
レミィがそんな声を上げてしまった理由とは。
「邪魔。邪魔! 邪魔っ! こいつら! またしても!」
坂を駆け下りる前と同じことが起きていたからだ。
乙種どもが麓に現れて、そこから一歩も動こうとしなかったあのとき。
見方を変えれば絶好の機会だからと、チェンバレン中尉がひたすらに猿人級を狙撃していたときと同じように。
レミィの拳銃が火を吹く度に、銃声が俄拵えの銃眼から響く度に。
地を這うようにして飛ぶ翼竜級のそばに居た邪神どもが飛び出てくるのだ。
盾になるのだ。翼竜級の。
ヤツを護るためにその命を散らしてきたのだ。
みるみるうちに荷車と翼竜級との距離は詰まる。
翼竜級が荷車へと襲いかかる未来がますます濃厚となる。
ああ、なんて邪魔な邪神ども!
あれではレミィが翼竜級を撃ち落とせない!
他の邪神どもの意識をこちらに向けないと!
身代わりに飛び出る邪神の数を少しでも減らさないと!
今、それができるのは、俺とファリクだけだ!
「レミィ、待ってて! ファリク! 俺たちはあいつらをどうにかしよう!」
「了解です!」
ファリクを促す。
彼も応と答える。
あとは邪神どもに喧嘩を売るだけ。
少しでも間引くために。
第一歩を踏み出す――
そのはずだったのだけれども。
「軍曹! 左! 危ない!」
にわかに響くファリクの警告。
左。
危険。
反射的に後ろに飛ぶ。
すると一拍遅れて可視の暴風が眼前を通過した。
左から右へ吹き抜けていった暴風の正体、それはまさしく一撃であった。
そう、それは前膊の甲殻が刃状に発達した人型の邪神。
騎士級の一閃であった。
猿人級に引き続いて、ヤツも俺をとうせんぼをしようと試みたのだ。
今の一撃の鋭さを勘案するに、こいつも乙種だろう。
また、乙種が俺の前に現れた。
立ち塞がった。
その事実を認めた瞬間、血が沸騰した。
その沸騰がもたらす圧力たるや、そのままボイラーとしても使えるのでは、と思うほどに高い。
怒りが。
憤怒が。
マグマのようなのが。
頭蓋の内を支配する。
「邪魔を! するな! そこを! どけえ!」
頭の血管が軋む音を上げながら。
俺は吠える。
ああ! なんだってこいつらは!
俺の行く手をこうも阻もうというのか!
もはや冷静ではいられなかった。
一瞬でも早くこいつを排除せねば。
隙を見計らっている暇なんて存在しない。
だから俺は敵の動きもよく観察せずに、強化によって得た筋力で突進。
策なんてなかった。
今、俺が丸腰だろうと関係ない。
今すぐあの冑にも似た頭に張り付いて。
そのまま素っ首を、この剛力でもって引きちぎるのみ!
眼前の天敵を仕留めるために、全身全霊の暴力を振り回すだけの存在に成り果てる。
距離を詰めて詰めて詰めて。
騎士級の間合いに踏み込む。
そしてひたすらに願う。
どうか、どうか機械的に、あるいは本能的に反撃してくれ、と。
なぜならば、そうしてくれたのならば。
俺は敵の隙をつけるから。
あっさりと騎士級にはりつけるから!
けれども現実は厳しい。
俺の思い通りにはならない。
「ふざけるな! 逃げるなよ! 来いよ! 向かって来いよ!」
願いは無残に砕かれる。
あんまりな現実。
がなって威嚇、騎士級を挑発。
されどその甲斐はなく。
敵は反撃の気配、一切見せず先の猿人級同様回避に専念。
一回、二回。ダンスさながらの軽やかな横っ飛びを披露。
距離詰めに失敗。
両足止めて急制動。
畜生。
畜生!
ヤツは真っ正面から殴ってこない。
時間稼ぎを主とした立ち回りをしてくる。
小賢しい!
急いでこいつを片付けて、翼竜級の取り巻きを倒さねばならないのに!
急がないとタイムリミットが訪れてしまうのに!
心は焦燥一色に染まる。
「無理! 間に合わない! みんな! 伏せて!」
怒りにより血液の温度が上昇する一方であったそんなさなか。
にわかに俺の頭をがつんと殴るような、そんなインパクトのある声が耳に届いた。
俺と同じく焦燥と、そしてそれ以上に濃い諦観に染まりきってしまった声の主は、翼竜級の撃墜を試みていたレミィのもの。
まさか――
畜生!
見ればもはや翼竜級は荷車と衝突寸前。
このままでは殿下たちを乗せた車と衝突するだろう。
それはまずい。
ハヤブサ以上の速度を持った、人間よりも重い物体だぞ?
そんなものがぶつかってしまえば、荷車は粉々だ。
そのとき、中がどうなるかなんて――想像もしたくない!
「まだ! 俺は! 諦めない!」
悪あがきを試みる。
急制動、そのときの勢いで、わずかに地面にめり込んだ右のつま先。
それで小石をすくい上げて。
魔法で筋力を限界にまで強化して。
猿人級の頭を吹き飛ばしたのと同じ要領で蹴り飛ばす。
弾丸よろしくの勢いを得た小石は、かの翼竜級目掛けて宙を突き進む。
致命傷は期待していない。
だが当たれば身体に穴は空くはず。
それほどの勢いで蹴り飛ばした。
けれどもあの乙種は、いや、ヤツを取り巻く邪神どもは弾丸にすらできるのだ。
本当に憎たらしいくらいに優れている反射神経を持っているのだ。
いくら今、蹴り飛ばした石が弾丸並の勢いを得ていたとしても。
それ以上の速度を持っていないのであれば――
「本当に! 邪魔だ!」
悪態、自然に口からこぼれて落ちる。
懸念は現実に。
獅子級、にわかに飛び出し、翼竜級の盾となる。
頭蓋は砕かれその命を散らす。
しかし結果、肝心要の乙種は無事。
そしてその命がけの守護はヤツらにとっては最高の、俺たちにとっては最悪の結果をもたらした。
地面すれすれを飛ぶ翼竜級。
今、まさに荷車に衝突する――
その寸前。
幻想世界のドラゴンに似た生命体は、ぐっとその頭を真上に向けて。
頭の動きに身体がついていって。
衝突直前で空飛ぶ乙種は急上昇。
その勢いによって、地面から巻き上げられた土が荷車に降りかかる。
衝突は避けられた。
だが安心はできず。
危機はいまだ危機のまま……いや、むしろ。
余計に悪化した。
何故なら急上昇した翼竜級は。
二度、三度とくるりくるり。
きりもみ回転をしたのちに、翼を広げ、急に中空でぴたり、ホバリングしたかと思うと。
位置はそのままに、唾液の銀糸を振りまきながら開けた大口を荷車へと向けた。
あれはまずい。
ヤツは使う気だ。
翼竜級が乙種化する際に手に入れる、特殊能力を。
しかもきっちりと土を、粒子を荷車にかけているのだ。
少なくとも、あの車の屋根は、壁は――
「させない! ファリク! 騎士級を頼む!」
「了解!」
幸いにもただいま翼竜級は中空で制止中。
そして上空に舞い上がったが故に、ほとんどの邪神は身代わりに飛んではこれない。
ならば急げば間に合うかもしれない。
今度は当たるかもしれない。
俺はひとまず騎士級をファリクに任せる。
そして今度こそは撃ち落とせるように、と心から願いながら。
右足で小石をすくい上げて。
目一杯の力を込めて蹴り上げた。
かくして小石は再び空を切る。
仕留めるべき天敵に向かって。




