第七章 二十話 粛清、そして大休止
「……退きたまえ」
その反抗的な顔付きが癪であるのか。
ボリスはぴくりとヒステリックに唇の端をひくつかせながら言った。
そこを退け、と。
しかし軍曹はボリスを真っ直ぐ見返したまま、一歩たりとも動こうとしなかった。
「軍曹? 聞こえなかったのか? 私は退きたまえ、と言ったのだ」
「……できません。承服しかねます」
「ほおう? その意味は。わかっていような?」
抗命した兵の辿る道はたった一つだ。
粛清。
この道だけ。
それは勿論軍隊にとっては常識で。
だからボリスは手を腰の軍剣にかけて。
暗に聞かねばこれだ、と粛清を仄めかしても。
しかし軍曹は意に介さなかった。
ざわざわ。
辺りがざわめく。
「聞き間違えたのかもしれんな。軍曹、もう一度命じるぞ? もう一度だけ命じるぞ? 砲撃準備に戻れ。復唱せよ。軍曹」
「できません! 市民を! 味方を! 王族を撃つことなんて! たとえこの素っ首落とされようとも! 小官には! できません! 承服しかねます!」
「……そうか!」
それが最後通牒となった。
嫌われ者の顔がぐにゃりと皺だらけに歪んで。
怒気に孕んだボリスの叫びが響き、その一拍あと。
ボリスの右腕が動いて。
がつん。
打擲の音色、空高々に響く。
ぐらり。
軍曹の若い体躯が揺れる。
力が抜ける。
どさり。
軍曹の鍛えられた肉体が。
地に、沈んだ。
その瞬間すべての音が消え失せ、しんと静まりかえった。
注目はすべて大佐と軍曹に注がれ、息を呑んで兵らは皆、その惨劇の場を見つめた。
沈黙が辺りにたちこめる。
しばらくの間、その場の音は死に続ける。
無音の間をしばらくすぎた頃合いだろうか。
粛清を見た者どもは、得も言えぬ違和感を覚えたようだ。
はて。
粛清が行われたにしては。
いつまで経っても血のにおいがしてこないぞ、と。
地に伏す軍曹が。
いくら待てども血の海に沈まないぞ、と。
血の気配に欠いた粛清の現場。
しかしその理由は極めて簡単であった。
答えは癇癪持ちの大佐の右手にあった。
一閃を光らせたその軍剣は抜き身ではなかったのだ。
鞘に納まったままなのだ。
つまりボリスは軍曹を、強かに打っ叩いただけなのだ。
粛清は免れぬ。
そんな空気をたっぷりと醸し出していたのに、なぜこんな温情を?
不可解さに兵らは一様に首を傾げた。
そのせいで兵らは与えられた作業を忘れてしまったようだ。
現場はぴたりと停滞してしまった。
「ちっ」
場の停滞を解消するきっかけはその舌打ちであった。
他の誰のものではない。
そもそも停滞のきっかけを作ってしまった張本人、ボリスのものであった。
「衛生兵! 衛生兵を呼べ! 急病人だ! 久方ぶりの実戦により精神が錯乱し気絶した! 急いで隊舎に突き返せ!」
「は、はっ!」
緊張に敗れて、軍曹は気を失ってしまった――
どうやらただいまの騒ぎを、それで収める気でいるらしい。
いつも通り当たり散らすかのような声を張り上げて、ボリスは衛生兵を呼びよせた。
衛生兵はすぐさま呼応。
ばらばらと二人が担架を伴って騒ぎの渦中へと飛び込んだ。
「おい! 衛生兵! なにをまごまごしているのか! さっさとその軟弱者を片付けろ! このウスノロめが!」
「り、了解!」
一連のやりとりのせいで、ボリスはひどく機嫌が悪いようだ。
丁寧な手つきで軍曹を担架に乗せようとする衛生兵たちを怒鳴り散らした。
二人の衛生兵の手さばきはむしろ素晴らしいものであった。
なのに遅いと怒鳴るあたり、ボリスにとってこれはただの八つ当たりであるようだ。
しかしボリスのむしゃくしゃは、二人を怒鳴る程度では晴れなかったらしい。
次の瞬間には鋭い三角となった双眼を、始終を見守っていた兵らにぎろりと向けて。
「なにを手を休めている! 貴君らはあの丘の勇戦を無駄にするつもりか! まだ彼らが生きているうちに! 天敵を拘束できているうちに! 準備を終えなければならん! 撃たねばならん! いいか?!」
ぎりりと歯噛みして薄い唇を精一杯大きく開いて、ボリスは吠えた。
その咆哮に兵たちは我を取り戻す。
慌ただしい手つきで砲撃準備を再開。
だが、どうにも今のボリスは怒りが怒りを呼んでいる境地にあるらしい。
兵らを怒鳴ったことで、さらなる怒りを呼んでしまったようだ。
ますますその顔は怒りで紅潮していった。
「ディスペンサー! ディスペンサー軍曹は居るか!」
ボリスは一層の大声を張り上げて、大ベテランの下士官を呼びよせた。
怒鳴られたオリバー・ディスペンサーは流石はベテランと言うべきか。
ほとんど間を置かず、ひたすら憤激しているボリスの下へとやってきた。
オリバーのごつごつとした顔には、感情の影がどこにも見られなかった。
きっとこのやり取りを聞いていたはずなのに。
なにかしろの思うところはあったはずなのに。
けれども真顔。
これでは表情から彼が思うところを推察するのは、ひどく難しいだろう。
「はっ。フィンチ大佐。小官はここに」
「砲撃準備が完了し次第、観測射撃を行う! 実行部隊に気合いを入れておけ! いいな?!」
「了解」
年の功と言うべきか。
オリバーの返答は、その表情と同じく感情の揺らぎがまったく見られなかった。
見事に己を押し殺していた。
だからこそ、対比によってボリスの癇癪ぶりが余計に目立った。
いまだ腹の虫が治まらぬのだろう。
ふん、と荒い鼻息のあとボリスは大股で、がんがんとした足取りで。
大砲が立ち並ぶその現場から足早に立ち去ろうとした。
しかしどうやらとてつもなくツキのない兵が、守備隊の中に居たようだ。
誰しもが好き好んで話しかけたくないご立腹なボリスに、どうしても話しかけなければならない使命を持った人物が現れてしまったのである。
それはこの行軍に参加していた、入隊したばかりの一際若い兵であった。
年頃はまだ十五、六といったところ。
まだまだ子供の粋を出ていない貧相な体つきのせいで、見る者にどうしようもないほどの頼りなさを感じさせる、そんな兵だ。
「フィンチ大佐!」
「なにか?! この期に及んで、まだ聞き分けられぬ者が居るというのか?!」
「は、はい! い、いいえ! 大佐! 報告がございまして!」
「報告? なにか見つけたか?」
全身から醸し出す頼りなさのおかげでと言うべきか、それともそのせいでと言うべきか。
ともかく少年は、双眼鏡をストラップで首から提げていることからも解るとおり、部隊の後背を見張る任を与えられていた。
彼が報告を携えてボリスの下に訪れたということは、良きものかそれとも悪しきものか。
その判別はまだ解らないけれども、常とは異なるものを見つけてしまったに他ならない。
故にボリスはあからさまに不機嫌なトーンを保ちながら彼に問うた。
一体全体、なにを見つけたのか、と。
「はっ! ゾクリュ方面より接近する軍勢を確認しました! 友軍であるのは確実ですが、予定にない動きでしたので報告を!」
「……軍勢だとう? 知らんぞ私も! 所属は! どこの者どもだ?! まさか隊舎に残る連中が、独断で動いたのではなかろうな?!」
「そ、それが……その所属が……」
予定外の動きを見せている友軍が居る。
なんて不埒な。
ではそいつらはどこの所属の者どもか。
当然の情報をボリスは求めた。
しかしどうにも、少年が携えてきた情報はひどく言い辛いものであるらしい。
ともすると都合の悪い報告であるらしい。
若い彼は急にしどろもどろ、言葉がつかえてしまった。
ただでさえ不機嫌なボリスが、部下のそんな無様な真似を見過ごすわけもない。
唾が前に飛ぶほどに強く舌を打って、眉尻をきゅうと釣り上げて。
そして大咆哮。耳を劈く金切り声で力いっぱい吐き捨てた。
「報告は明確にせよ! どこの連中だ?!」
「王都です! 中央軍です! 大隊規模の! それも……完全武装をした!」
「……中央軍だと?」
ボリスの迫力に負け、顔を真っ青にした若兵が答える。
中央軍がどういうわけかは知らないが、遠路はるばるやってきた、と。
それはボリスにとってもまったく予想外の答えであった。
何故?
王都の連中がここに?
どうして?
何故だとか、どうしてだとか。
ともかくその手の類語がたくさんボリスの頭の中で暴れ回るも、まずは己が目で確かめるべきだと結論を下したか。
ボリスは少年の首から双眼鏡をひったくり、すぐさま報告のあった方へ顔を向け、問題の光景をつぶさに観察した。
居た。
たしかに報告通りの大軍勢が、報告通りの姿でそこに居た。
パンパンに膨れ上がった背嚢に、最新式の撃針銃。
有事での陸軍の正装を決め込んだ者どもが、たしかにそこに居た。
「……なにをしに出しゃばってきた? どうしてああまでガチガチに武装を――」
どうして不必要なまでに武装をしているのか。
ボリスの口から滑り出たのは当然の疑問。
けれどもほとんど独り言めいたそれは、最後まで彼の口から紡がれはしなかった。
言葉が途中で途切れてしまった。
ボリスの網膜が、にわかにきらり。
注視している中央軍から豆粒大でついたり消えたりする、真っ白な光を捉えたからだ。
正体は魔法の光。
妙に目に突く主張の強さを誇っていた。
しかし、その光の主張がやたらと強いのは当然であった。
なぜであるならば、あの光の正体とは――
「……発光信号か」
――意思疎通の手段である発光信号なのだから。
日々安寧に過ごしているのであれば、無意味な点滅を繰り返すだけの光。
しかしボリスは、士官学校で軍事知識をたっぷりと詰め込まれた高級将校だ。
ちかり、ちかり。
さながら自国語を操るが如くの流暢さで、点滅が含む意味を読み解いて。
そして信号を理解したすわそのとき。
ぴくり。
ボリスの薄い唇の端が苛立ちげに震えた。
それは彼が癇癪を起こす寸前であるのを意味するサイン。
すなわち現れた中央軍が、彼の意にそぐわぬ要求を突きつけている証明でもあった。
「――伝令、陸軍省より。砲撃中止だと? 合流するまで行動を禁ずる、だと?」
「ほ、本当ですか?!」
思わずと言った体で反応してしまったのは、かの若兵。
当然それはボリスの怒りに油を注ぐ真似でしかなく。
今日何度目かわからぬ大きな舌打ち、ボリスはそれを打つ羽目となってしまった。
しまった、つい、口にしてしまった。
くだらない失態に顔を真っ青になる頼りない少年とは好対照。
ボリスのはらわたは、まさに今、ぐつぐつと煮えくりかえっていた。
怒りで顔が赤熱した。
くそっ、くそっ!
折角効率よく邪神を潰せる機会に恵まれているというのに!
折角最小限の犠牲で、ゾクリュに住まう者たちの生命が守れるというのに!
どうして急にやってきた連中は、いきなり砲撃中止を命じてくるのか!
居丈高に要求を突きつけてくるのか!
畜生、畜生!
折角、手短に困難を切り抜けられそうだったのに!
ボリスは中央軍の要求を、見なかったことにしたくなった。
そうだ、どうせ大逆で裁かれるこの身。
余罪の一つや二つを背負おうとも結末は変わらないのだ。
人生最初で最後の命令違反をしてもいいではないか。
そんな抗いがたい悪魔の囁きに耳を傾けたくなるも。
「くそっ!」
だが、しかし。
さきほど、自分はあの軍曹に対して命令にはきちんと従うべし、とご高説を垂れたのだ。
にも関わらず自分は例外、とばかりに軍隊の原則、上意下達を無視するなんて。
それはあまりにも虫の良すぎる話ではあるまいか。
将校がしてならぬ行いではあるまいか。
故にボリスは渋々と、そして内心ではカンカンになりながらも。
務めて深呼吸、息を整えて。
辛うじてではあるけれども。
「……全隊。大休止。まずはかの軍勢を迎え入れるぞ」
ぼそり。
ボリスはひとまずの中断を全隊に命じた。




