第七章 十六話 矛盾した命令
それまで緊張感がなかったわけではない。
群れで押し寄せてくる邪神どもに兵たちは隠せぬ恐怖を見せていたし、乙種が沈黙の姿勢を見せたときには、分隊の面々でさえも冷や汗をかいたはずだ。
故に俺たちはずっと緊張しっぱなしで戦ってきたことになる。
そう、そのはずであったのに。
ただいまのこの緊張感はなんだろうか。この空気はなんであろうか。
今日一番で重々しく、ちょっとでもふざけた行いをしてしまえば、すぐさま誰かのカミナリが落ちてきそうなほどに、現場はシリアスな雰囲気に包まれていた。
例えば――ちらと目をレナへと向ける。
今の彼女の様子はまるで別人のようだ。
乙種出現直後チェンバレン中尉を茶化していたレナではないようであった。
灰色のまつげの下にある真っ黒な瞳の輝きはかたさを伴っていた。
まるで黒曜石にも似た感じ。
楽観的な人間であるレナでさえこうなのだ。
生真面目な中尉が纏う空気の重たさは、今更言及する必要もないだろう。
縁起が悪いとレナが忌避していた、軽口も叩けない深刻な現場。
しかし自信を持って言える。
そんな空気に支配されてしまった防衛隊は、決してここだけではない、と。
いまや、この屋敷全体がガチガチな雰囲気が満ち満ちていた。
その原因はさきほど殿下が見つけた、屋敷へと向かう道半ばに部隊を展開した守備隊にあった。
本来であればゾクリュ守備隊を確認した、と言う報は喜ぶべきもの。
そう、そのはずであった。
だけれども、展開した彼らは驚くべきことに砲撃の準備をしていたのである。
それもただ単純に邪神を吹き飛ばすため、ではない。
邪神を俺たちもろとも吹き飛ばすための準備だ。
拘束砲撃を実行するための準備だ。
「……たしかに。現状は俺たちが邪神を拘束しているとも取れる状況だ」
ぼそりと独りごちる。
他部隊が近接戦を仕掛け邪神の侵攻を停滞させたその地点に、砲弾を雨あられと叩き込む戦術、拘束砲撃。
砲を持っているゾクリュ守備隊からすれば今の俺たちというのは、邪神を決死の覚悟で拘束していると見ていい状況だ。
しかも悪いことに最近やってきたゾクリュ守備隊長代理は、拘束砲撃の名手という悪名がついて回るフィンチ大佐ときた。
砲口が丘に向いているのは俺の見間違い、と思いたくとも、それができない状況が出来上がりすぎてしまっていた。
失われるであろう人命の数、それに比して守られるであろう人命の数。
たった十数人の命を使うだけで、数千以上の命が救える選択肢があるのならば。
フィンチ大佐が拘束砲撃を行わない理由がないはず。
自信を持って言えた。
「しかし……正気だと思うか? 本当にやると思うか? スウィンバーン氏?」
「フィンチ大佐が。ここを邪神もろとも吹き飛ばすのだろうか? という話ですか? チェンバレン中尉?」
「その通りよ。たしかに拘束砲撃をするには、あまりにおあつらえ向きであるのは認めよう。しかし――」
一瞬中尉は視線を狙撃対象である乙種から外して、ちらと背中にそびえる物見櫓を見た。
いや、正確にはそこに居るはずの人間を見ようとしたのだろう。
彼女が一番に守るべき対象にして、精鋭遊撃分隊の構想者でもある王女殿下を。
「ここには。殿下が――それなのに拘束砲撃を試みるなんて。私には到底信じられない」
本来中尉の指摘と言うべきか、疑問と言うべきか、ともかく口にしたことは真っ当なものであった。
王国軍人たるもの、臣民と王家の守護者たれ。
これは入隊と同時に叩き込まれる王国軍人の義務だ。
しかしこの場を拘束砲撃するとなると、物見櫓に居る殿下もろとも吹き飛ばしてしまうことになる。
義務を真っ向から否定してしまうこととなる。
しかも将校は一兵卒たちよりも、士官学校でより強烈にそれを叩き込まれているはずなのだ。
将校がもつ王族に対する敬愛精神は人一倍になってしまうものなのだ。
だからこそ、なのだろう。
自身もそれをみっちり叩き込まれた将校だからこそ、チェンバレン中尉は信じられないのだろう。
中尉ならば思いついても絶対に選びはしない、王族を犠牲にする選択をしたフィンチ大佐を認めたくないのだろう。
理解すらできないのだろう。
彼女の表情には強い嫌悪感が満ち満ちていた。
「ええ。私も同感です。それをやるとは信じたくはありません。真っ当な神経の持ち主ならばやれるとも思いません。しかし」
けれども、である。
ただの元兵士がこう言うのはおこがましいかもしれないけれども。
俺にはどうしてフィンチ大佐が、中尉からすればありえない判断をしてしまったのか。
その理由を十分に理解できていた。
だからこそ断言できた。
「フィンチ大佐は。間違いなくやるでしょう。殿下もろとも、この丘を吹き飛ばす判断をするでしょう」
彼なら間違いなく砲撃を敢行するだろう、と。
「その理由を聞いても?」
「……私もあのまともではない戦争を生き抜いてきた一人です。戦争のせいで価値観が真っ当ではなくなってしまった人間です。それはフィンチ大佐も同じこと。狂ってしまった価値観が認めてしまっているのです。王族の命を消費しても、結果が伴えばそれでいい、と」
「例え大逆罪に問われても?」
「問われても、です。失う命の数の割には、助かる命の数が大きすぎますから」
「……なるほど。あの戦争を前線で戦うと。命は数の問題として考えるようになってしまうのね。それが殿下であっても、王族であっても。一個の命として計算するようになるのね」
ゆっくりと中尉の言葉に頷く。認める。
あの戦争がもたらした大病の存在を。
一度でも前線に立ってしまったのならば罹患してしまうタチの悪い病を。
その病の正体は生命観の崩壊だ。
あまりにも多くの命が簡単に失われてしまったが故に。
あまりにも膨大な命を消費して戦果を手に入れ続けてしまったが故に、前線に立った将兵の観念がこう変化してしまったのである。
人命とはすなわち結果を手に入れるための通貨でもあるのだ、と。
本来高値が付けられる上等な戦果を、お買い得な値段で手に入れられるのならば。
通貨を出し渋る理由はどこにもないではないか。
こう考えられるようになるのだ。
フィンチ大佐はこの歪んでしまった価値観でこう判断したのだろう。
王族を含んだたった数人の命を払うだけで、ゾクリュ市民の生命を守られる結果が手に入れられるとは。
ああ、なんて僥倖か!
なんてお買い得なのだろう! と。
心の底からそう思ったはずだ。
「才能の有無はありますが、遺憾ながらそうなります。それに」
「それに?」
「……それが例え大逆であっても、たった一人の命で罪が贖えるのです。戦争犯罪の責は、その指示を出した人間に問われますから。立派な将校であればあるほど……」
そしてこの病の厄介な点は、自分自身の命でさえも特別視できなくなるというところにあった。
結果を手に入れるためには、自死すら躊躇わなくなるのだ。
俺の場合こっちの症状が強く出てしまったから特に理解できる。
殿下もろともここを吹き飛ばすという判断を行ったフィンチ大佐は、間違いなくその責を甘んじて受け入れ、刑死する覚悟ができていることを。
だから断言できる。
あの大佐は間違いなく戦争が生んだ病の重症患者であることを。
そうでなければ今の行動の説明がつかない。
殿下の命をただの数字として捉えているからこそ、粛々と拘束砲撃の準備を進めているのだ。
そして責任を一身に負うことを表明しているから、兵らは命令を拒否せずに淡々と従っているのだ。
こちらの了解もなく勝手に拘束砲撃を敢行せんとしているのは、とても困ったことではあるけれど。
ソフィーから伝え聞く限りでは、その人格に問題があるように思えるけれど。
たった今、フィンチ大佐が見せているこの一連の行いは。
自分の命を賭してでも、名誉が著しく傷つけられようとも。
それでもかまわずゾクリュ市民の生命を守らんとする、悲劇の英雄そのものであった。
それは中尉も認めるところなのだろう。
大佐の在り方を否定したくも言葉が見つからないのか。
声とも音とも取れぬ、実に苛立ちげでモゴモゴとした音を口から漏らしたのちに、忌々しげに舌打ちをした。
「気に入らないわね。本当に」
「ええ。私もです」
「でも。何よりも気に入らないのは。そんなのっぴきならない状況なのに、打開策を一つも思いつかないこの脳みそね。なにが殿下の親衛隊長か。殿下の命をお救いする裏技を思いつかないなんて」
「それを言うなら私も同じですよ。殿下に目をかけていただいたのに。大恩をいただいているというのに。今、ここで返すべきなのに、どうすることもできない」
中尉の苛立ちは、なにもフィンチ大佐のみに向いているものではなかったようだ。
この困難な状況を打開する案を一つも出せない、己の頭脳も等しく呪っているようであった。
中尉の気持ちは十分に理解できる。その言葉に俺は肯んじる。
今、殿下に、いやこの屋敷に詰める人々すべてに必要なのは、どうにかして安全を確保して丘から避退する方法だ。
そうだというのに、戦場暮らしの十年で力ばかり発達してしまった我が身は、その方法を思いつく気配が欠片もない。
そんな自分が情けなくてどうしようもなかった。
「だから、せめて願いましょう。祈りましょう。それは他力本願でしかないけれど。今も必死に解決策をひねり出そうとしているクロード……いや。プリムローズ大尉に知恵が舞い降りることを」
「まったく。本当に歯がゆい。人にまかせるしかできないなんて」
「しかし、私たちにできないことがないわけではありません。クロードが妙案を思いつくまで、今の状況を維持しなければなりません。今は自分を呪いつつも、トリガーにかける指から躊躇いと諦観を捨て去りましょう」
俺の言にチェンバレン中尉は返事をしなかった。
けれども、俺の意見に不満があったのではないのはわかった。
何故ならば停滞する乙種を狙撃するペース。
これが留まるどころか、ますます一発毎の間隔が狭くなっていったから。
銃声でもっていまだ闘志に衰えが来ていないことを示してくれたから。
その返事は今、このときにおいては他のどんな言葉よりも雄弁であった。
気を抜くとどうしようもない無力感に襲われてしまいそうであった。
けれども押しつぶされないようにしなければならない。
ここで俺たちが押しつぶされてしまったら、突破されてしまったらクロードが解決策を思いつくどころではなくなってしまうから。
だから俺も引き金を絞り続けた。
ほとんど機械的に。
迫り来る邪神を相も変わらず屠り続けながら俺は待った。
信号弾なりなんなりで、クロードが俺たちにコンタクトを取ってくるのを。
状況を打破するための作戦を伝えてくるのを。
一体、弾丸を何ダース消費した頃合いだろうか。
もしかして、クロードでさえも策を思いつかなかったのだろうか、という懸念を抱き始めたころだ。
待ちに待ったそれがやってきた。
「スウィンバーン氏! ウィリアム・スウィンバーン氏はまだ健在ですか?! プリムローズ大尉からの封緘を携えて参りました! いずこにいらっしゃいますか?!」
背中から声がした。
フェリシアと同じくらい、いや、もしかしたらそれよりも幼い女の声が。
「ここだよ! ここ! 健在だよ!」
俺の顔をよく覚えていないのか。
迷子にも似た心細さを感じさせるその大声に俺は手を振って応える。
銃声に負けぬほどの大声を張り上げる。
当然、その間も迫る邪神どもから目を離さない。
だから傍から見れば、邪神に向かって手を振る間抜けな姿にも見えただろう。
けれども道化た甲斐はあった。
封緘を持ってきた彼女は俺を見つけることができたらしい。
一人分の足音が真っ直ぐに向かってくるのがわかった。
目をちらと足音の方へと向ける。
やはり声相応に幼い容姿、エリーとどっとこいの年頃の親衛隊員が、簡素な封筒を脇に抱えてそこに居た。
「ああ良かった。ご無事なようで。どうぞ封緘です。隊ちょ……いいえ。チェンバレン中尉と共に見ろ、とのことです」
「ああ。ありがとう。その通りにする」
一度顔を邪神どもが遡る坂から外して、封緘を携えた彼女に合わせる。件の書を受け取る。
与えられた任務を無事にこなせたことの安心感か。
封筒が俺に手に渡るや否や、幼い隊員は露骨に安堵の表情を浮かべた。
挨拶ののちに去りゆく隊員をよそに、今のやりとりを聞いていたのだろう。
ずっと乙種を仕留めようと撃針銃を構えていた中尉が、無言で俺の下へと寄ってきた。
一度中尉の顔を見る。
中尉はまたも無言。小さく首肯した。
それは早速封緘を開けてみよう、という合図であった。
やはり俺も無言で頷いて開封。
御用紙ほどではないけれど、それでも上質な紙を引っ張り出し、中尉にも見えるよう大げさに広げる。
そして目を紙に落とした。
生真面目な気性がそのまま表れた、タイプされたかのように丁寧なクロードの文字を読み込んで。
「ははっ。なーるほどねえ」
自然と笑みが漏れてしまった。
紙上に小粋なジョークが書かれていたからではない。
現に隣で同じ文面を覗き込むチェンバレン女史の顔には、笑みの気配はこれっぽっちもなかった。
むしろその逆。
青ざめてすらいた。
その理由は簡単。
「無茶苦茶な要求だなあ。いや、やっぱ笑っちゃいけないかな? こんな無茶ぶりさせざるを得ないほどに追い込まれているってことなんだから」
「……貴殿は。こんな指示を与えられて大丈夫なの?」
「まあ仕方がないでしょう。こうするより他がないのであれば、やるしかありませんね」
「やるしかないって……無理よ。だって――」
「例え無理であっても。俺たちはやるしかないんですよ。だからこそ俺たちは、ある程度の好き勝手が許されてきた。その一種の自由税を払うためにも」
起死回生の案が含まれているが故に、本来希望をもたらすはずであったクロードの封緘。
しかし肝心の案があまりにも現実離れしていたが故に、チェンバレン中尉から希望を奪ってしまったようだ。
たしかに一見すればその通りだ。
クロードは到底実現不可能な命令を下したかのように思える。
それは俺も認めるところだ。
けれども。
例え不可能のように見えても。
それを見事にこなさなければならない。
そしてこんな不可能なようなことを要求されても。
俺たちはその度にこなしてきた。
だから――
「難しいですが、実現させてみますよ。全力前進し前方に後退。この一見矛盾したような命令をね」
――今回も同じことだ。分隊の名にかけて。戦争中と同じように。
敵陣の真っ只中を突入して後退せよ、という馬鹿げた命令を。
その成否が不安定であったが故に、一番最初に却下された作戦を。
見事にこなしてみせる義務が俺にはあった。




