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第七章 十三話 間一髪の希望

 轟音。

 響く。

 身体そのものを押し返すのでは、と思うほどの。

 皮膚と肉を貫通し、臓物を揺さぶるほどの。

 とても大きな、大きな音がにわかに響いた。


 きっとこの音は、この庭で味方として戦っているすべての者の注意を集めただろう。

 俄拵えのタコツボにて伏せていたソフィーはそう思った。


 轟音の正体は爆音だ。

 爆音のような、という形容ではなく。

 文字通りなにかが爆発して産み出した暴力的な音。

 身を守るはずの防御壁がそのまま爆弾となって爆発した音。


 ぱらぱらとささやかな音を立てながら辺り一面に落ちてくるのは、巻き上げられた細やかな土壁の破片か。

 ソフィーはその音が止んだのを確かめてから、いささか土に汚れた面を上げた。


 眼前の風景は一変していた。

 防御壁と柵は跡形もなく吹き飛び、その先の坂にあった低木も大嵐が来たかのように根元からへし折れていた。

 なまじ屋敷の庭が立派で塀や坂の低木までもに一種の均整さが見て取れた往時の姿は、いまやあさっての方角に吹っ飛んでいた。

 この光景の痛々しさときたら、まともな神経の持ち主であるならば目を背けてしまうほど。


 しかしソフィーはひとときも目を背けなかった。

 それどころか――


「よしっ」

 

 無残に荒らされてしまった光景を見たというのに。

 にやり。

 唇の両端をわずかにつり上げ笑みを作る始末。


 たしかに今のソフィーは戦闘の興奮によって、少しだけ神経の働きがおかしくなってはいる。

 しかし今のリアクションを示した理由はそれだけではない。


 彼女はこの惨状の中に、たしかに希望が転がっているのを見つけたからだ。

 その希望の正体は砕けた土壁の残骸ではない。爆風によって引きちぎれてしまった鋼鉄柵の切れ端でもない。


 ソフィーににたりと笑みをもたらしたモノ。

 それは(むくろ)だ。

 この屋敷を攻め落とそうとしていた。

 押し寄せていた無数の邪神の。

 頭が。

 腕が。

 尾が。

 翼が。

 そこかしこに転がっていた。

 壁と柵とそれらの死骸で拵えた、物騒極まりないカクテルがあたり一面にぶちまけられていた。


「全員面上げ! そして刮目せよ!」


 ソフィーの大音声(だいおんじょう)

 それを受けて都合四つのタコツボに身を寄せていた親衛隊員と守備隊員たちの頭が上がる。

 この惨劇の現場を眺める。


 そして皆一様に、まるで事前に打ち合わせがあったのかのように。

 ざわざわ。おお。

 口々に感嘆を漏らす。

 控え目ながらも喜悦の空気が立ちこめる。


 ここだ。

 ソフィーはこの瞬間に機を見た。

 ここで兵らの敢闘精神を鼓舞できたのならば、己が手でこの危機を脱せられるはず。


 そして人間の集団心理を刺激する方策なんて、古今東西より相場は決まっている。

 それが激しい語調と鋭い言葉によるアジテーションだ。

 動揺した場にそれを加えるだけで、群衆というのはあっという間に興奮状態となる。


 この場は戦場。

 扇動したい者どもは兵。

 そうであるならば。

 将校であるこの身を扇動する道具に使わないでおく理由が、この世のどこにあろうか。

 ソフィーはそう思った。


「我が策、ここで成れり! 諸君! 見よ! 爆風に巻き込まれた我らの天敵どもは泡を食っている! すなわち、今このときこそ――」


 新米少尉はタコツボを一息に登る。

 爆発により空気と塀の残骸と血肉、それらがブレンドされた地面を踏みしめ、胸を張る。

 剣を抜く。

 その切っ先を天敵らへと向けて。

 大きく息を吸い込んで。


「敵を排除する絶好の機! 突撃! 我に続けえ!」


 ソフィーは再びの大音声を張り上げた。

 そして突然の爆発に戸惑い、口々に遠雷にも似た不気味なうなり声をあげる邪神どもに向かうために。

 彼女は精一杯、力一杯、地を蹴った。


 混乱した状況に、敢闘精神を鼓舞するアジ。

 しかもそれが、兵らが付き従わなければならない将校によってもたらされたのだ。

 兵らが刺激されぬ理由はない。

 その証拠に――さきの爆音にも負けぬほどの圧と低さを誇った胴間声の合唱が地ならしを起こす。

 いや地を鳴らしたのは、兵たちがあげた声だけではない。

 邪神へと駆け寄る足音もまた、この地を重たげに揺らす要因であった。


 (とき)の声にも似た兵らの合唱、そして追従する重たい足音の群れ。

 それを背中で聞いたソフィーはほんのちょっぴり唇をつり上げて、ひどく好戦的な笑みを作って。


「さあさ、邪神ども! 待たせたな! 今から私たちがお前らを!」


 ソフィーは狙いを定める。

 爆風に巻き込まれた個体を。

 四つ足の内の左前足を失い、持ち前の機動力を活かせぬ獅子級をじろりと睨む。

 対象は突然の爆発に泡を食い、ソフィーの接近に気がついていない。

 ソフィーにとっては好都合な状況。

 彼女はますます唇を歪めて、地を蹴る足にさらなる力を込めて。

 手に握る軍剣、その柄をきゅうと絞り込んだのちに。


「さきに死んだお前らの同胞の下へ! 送ってやろう!」


 軍剣、正午の陽光をきらりと照り返す。

 一閃、銀色の光線となりて三つ足の獅子級へと伸びゆく。


 混乱と身体欠損。

 この二つの要素に見舞われた獅子級はソフィーの一撃を躱せる余裕はなかった。

 抵抗はこれっぽっちも見て取れなくて。

 ソフィーの一撃は、けばけばしい色をした首へと吸い込まれるように入っていった。


 人のそれよりも、いや野生の虎や獅子よりもずっとずっと大きな頭が天高く飛び上がる。

 一瞬、ソフィーへと差していた陽光が遮られる。

 斬り飛ばした邪神の頭が――その素っ首が日輪と重なったから。


 ソフィーが獅子級の首を飛ばしたその始終を、どうやらきちんと見届けたらしい。 

 喚声があがった。

 いや、これは。


「おおっ! 少尉が獅子級をやった! おい、これは!」


「ああっ! やれる! 十分にやれるぞ! 立ち向かえるぞ! 私たちでも剣で! 邪神に!」


 歓声。そう歓声だ。 

 数歩遅れて、ぼろぼろとなった邪神の群れへと殺到する兵らの。

 分隊でもない人間が、手負いであるとはいえ邪神を軍剣で簡単に葬りさったのだ。


 きちんと機を見れば、特別な才能がなくとも十分に邪神は倒せる。


 ソフィーが示したそのメッセージは、追従する兵らからすればまことに心強いものであった。


 かくして人類は勢いを盛り返した。

 形成は逆転した。

 なにが起きたのか。それをいまだ理解できていない邪神たちを人類は次々と刈り取ってゆく。

 防衛部隊の勢いは凄まじいものがあった。

 そのまま丘を駆け下って麓の邪神どもを食い殺してしまうのでは、と思わせるほどであった。


(上出来。だが、これに慢心してはならんか)


 彼女の行いによってまんまと目論見通りに事が進み、指揮する部隊が最高の勢いを手に入れたのだ。

 ほくそ笑みたくなる欲求にソフィーは見舞われたけれども、彼女はそれを苦もせず飲み干した。

 勢い任せに邪神どもを乱取りする兵らと違って、彼女の思考は冷静であった。


 彼女は理解していたのである。

 今のこの勢い、これはあくまで一時的なものであると。

 邪神が落ち着きを取り戻してしまったのならば、圧倒的身体能力の差でもって、逆に押し返されてしまうことを理解していた。


 だから先陣を切りながらも、ただいまのソフィーは一心不乱に邪神を葬る一団から、一歩引いたところに突っ立っていた。

 邪神が立て直す兆候を感じ取ったのであるならば、逆襲を食らわぬよう兵らに次なる指示を与えるために。

 一瞬たりともその指示に遅れが生じないように。

 自分でも不思議になるくらいに冷静な視線でもって、ソフィーは戦況を見定めた。


「おやあ? 少尉殿。あんな啖呵切っておいて自分はこっそりおサボりですか? ちゃっかりしてますなあ」


 だが、そんな今のソフィーの姿は、悪意がある者が見ればサボタージュを起こしているようにも見えるらしい。

 いかにもそれを揶揄する幼い声が彼女の背中側から飛んできた。

 声の主はソフィーの隣に立つ。フェリシアだ。髪色と同じ瞳はやはり声色通り意地悪な形に歪んでいた。

 

「そういう君もサボっているようで。まあ、爆弾を作ってくれたから文句は言わんが」


「失敬な。ぼくはこれでもちゃんと戦ってますよー……銃で」


 どうやら今のフェリシアにはきちんと戦意はあるようだ。

 相も変わらず嫌々な態度は崩してはいないものの、小さな手に握られているパーカッションリボルバーがその証拠だ。


 しかもどうやら彼女は、すでにこの乱戦の最中で一発撃っているらしい。

 ちらとのぞく六つのシリンダーの、その内一つにはあるべきはずの鉛玉がどこにも見当たらなかった。


「きちんとやってくれるのはいいが、兵たちに当ててくれるなよ。人間は脆いからな。当たればどんなに当たり所が良かろうとも動けなくなる」


「ぼくの腕を信用してないな? 見といてよ、一応人並みには扱えるんだぞ?」


 現状は邪神と人類のくんずほぐれつの大混戦。

 下手に銃を撃とうものなら、正真正銘の誤射が起こりかねない状況。

 腕に少しでも自信がなければ二の足を踏んでしまうこと請け合い。


 しかしフェリシアが見せた動きには迷いが一切なかった。

 淀みない動きで銃を構え、狙いを定めて。

 やはり迷いなく一息に引き金を引いた。

 乾いた破裂音が響く。


「ビンゴ! ヤーハー!」


 喜々としたフェリシアの声。

 直後鼓膜を震わすは、重たいマットを床に落としたかのような音。

 邪神が伏したから生じた音。

 空飛ぶ翼竜級を撃墜させたからの音。

 それは言うまでもなく命中の証であった。


 なるほど。

 流石は戦場を知る者か。

 たしかに射撃の腕は言うとおり悪くはないようだ。

 ソフィーは素直に舌を巻いた。


「ふふん。どうだ見たか。おサボりの将校さん?」


「お見事。だが、私とてただぼうとしているわけでは――」


「ぼうとしてるわけでは?」


 急にとぎれたソフィーの言葉。

 台詞が途中で断たれてしまったその理由とは。


「あれは。まずい」


 見出してしまったからだ。

 ソフィーは舌を打つ。


 ソフィーの視線のさきには、いかにも戦場に不慣れな感を隠しきれない親衛隊員が居た。

 勢いに任せて勇戦し、対峙する片腕の猿人級をじりじりと押してはいる。

 それは問題ない。

 しかし問題なのは――


「げっ」


 フェリシアの呻き。

 ソフィーに遅れて彼女もその問題に気がついた。

 猿人級と戦う親衛隊員の背中から。

 ひっそり、こっそり。息と気配を顰めてにじりよる獅子級の存在に。


 このままでは彼女はあの獅子級にやられてしまうだろう。殺されてしまうだろう。

 しかも厄介なことにソフィーらの位置から射撃でもって危機を排除しようにも、射線があまりにも悪すぎる。

 獅子級を狙うと、獅子級に当たる前に親衛隊員に当たってしまうのだ。射線が重なってしまうのだ。


 ゾクリュ守備隊はともかく、メアリー王女の親衛隊の実戦経験は皆無に等しい。

 今は絶好の機会故に初陣特有の恐怖心は薄れているだろうけれど、もし、今ここで戦死者が発生してしまった、という報が流れてしまったのならば。


(きっとこの勢いは萎んでしまう。忘れていたはずの恐怖心が表在化してしまう。剣を握る手が鈍くなってしまう。まだ多くの邪神が混乱しているこの好機、逃してしまうわけには)


 急転直下、形勢が悪化しかねない。

 これを排除するために、あの親衛隊員に獅子級の存在を知らせるべきか。

 いや、今彼女は目の前の猿人級で精一杯。

 そんな中、前には猿人級、後ろには獅子級という現状を知らせてしまったらパニックにならないか?

 いや、パニックにならずとも、経験の薄い親衛隊員が二体同時相手をするなんて到底――


「くそっ!」


「あっ! おサボり少尉?!」


 最良の答えが見つからない。

 けれども、なにもせずにいられるわけがない。

 そんな境地に陥ったソフィーは気がつけば、精一杯力を込めて地を蹴っていた。

 剣を抜いて再びの突撃を敢行しようとしていた。


 こうして全力で、必死で駆ければ問題の獅子級に自分の気迫が伝わるかもしれない。

 そうすればあの親衛隊員を襲うのを諦めるかもしれない。


 しかしそれは淡い期待であった。

 必死の形相で、精一杯殺気をかき立てて全力疾走するも、獅子級はその足を止めようとしない。


 まずい。

 距離が離れすぎている。

 これでは向こうが先にたどり着いてしまう。

 自分が彼女の下にたどり着く前に、獅子級の間合いに入られてしまう。


 ソフィーはぎりりと奥歯を噛んだ。


「そこの! 一度退け! 後ろに獅子級が!」


 パニックになるかもしれない。

 あまりの情報量に動きを止めてしまうかもしれない。

 けれどももしかしたら、現状を知らせれば彼女が上手に立ち回ってくれるかもしれない。


 ソフィーは一縷の望みにかけるも。

 しかしなんとも不都合なことか。

 彼女はソフィーの声に気がつかない。


 その間にもソフィーは駆けて、駆けて、駆けて。

 距離を詰めるべく涙ぐましい努力を重ねるも。

 みるみると危険な距離にまで詰められてしまって。


「退けえ! 気付け! 気付けえ!」


 再びの大声で危機を知らせるも。

 結果はさきとまったく同じ。

 興奮して戦っているが故にその声は届かず。


 そうしている内に、ああ、なんとも悔しいことか。

 ついには獅子級の必殺の間合いにまで詰められてしまって。

 件の邪神はぐっと身体を落としてバネを溜めて。

 飛びかかるための体勢を作ってしまった。


 ダメか? ダメなのか?

 血の気が頭から引いてしまったせいか。

 見るものすべてが急に遠くなったように思えた。

 目に見えるモノがなんだかミニチュア模型のようにすら見えた。

 ソフィーの胸に無力感が襲いかかってきた。


 ぶつり。

 強く歯を噛みしめたせいか。

 唇の端がわずかにちぎれた。


「――畜生。畜生っ。畜生っ!」


 なんて無力な。

 なんと無慈悲な。

 ソフィーは己が力量のなさとあまりの不運を嘆き、後悔と怨恨に満ちた言葉を吐く。


 疾走している最中での独言であること、そして周りにそれを聞ける人影がないこと。

 この二つの理由でもって、本来それに答える声はない――はずであった。


「諦めるには」


 そう、誰も聞けるはずのない呻きであるのに。

 しかしたしかに声はした。

 聞き覚えのある声。

 けれども、どうして?

 ソフィーは思った。

 本来ここではしないはずの声なのに――


 直後に風。

 後ろから。

 なにかに押しのけられて生まれた風。


 その風を伴ったなにかはとっくにソフィーを追い越して。

 件の獅子級の頭部を、思いっきり蹴り飛ばした。 

 よほど力を込めて蹴ったのだろう。

 蹴った頭がザクロのように弾け飛んだ。


 この非常識に強力な脚力。

 そして先ほどソフィーの耳朶を打ったあの声。

 

 間違いない。

 どういう裏技を駆使したのかは知らないが。


「まだ早いんじゃないのかな? 少尉殿?」


 来れなくなってしまったはずの、独立精鋭遊撃分隊が一人。

 ウィリアム・スウィンバーンがそこに居た。


 希望が間一髪でやってきた。

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