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第七章 十一話 言霊の威力

 硝煙のにおいがきっと服に染み付いてしまうだろう。

 洗濯をするアリスたちが、さてどうやってにおいをが取れるのかと思い悩む未来が、瞼を落とせばすぐに思い浮かんでくる。

 ただいまの俺は、濃密な硝煙のにおいが漂っている空間に身を置いていた。


 いくら発射薬が無煙火薬だとしてもだ。

 こうもたくさん燃えてしまえば、鼻と目を刺激する煙がもうもうと立ち上るのが道理。

 もし戦場に身を置いたことがないアンジェリカあたりがこの場にやってきたのならば、まるでタマネギを切ったときのように、鼻水と涙で顔を汚してしまうだろう。


 そしてそんな刺激は当然俺にも容赦なく襲いかかってくる。

 現に鼻はむずむずしているし、目だってちくちくしている。

 けれども俺の身体は一滴たりとも体液を垂れ流してはいなかった。

 それは十年にも及ぶ戦場暮らしのおかげで、身体が硝煙に慣れてしまったというのもある。


 だが、それ以上にはな垂れと落涙を免れたのは。

 そんな生理的な反応を示してしまえば、敵に付け入る隙を与えかねないのでは、という危機感によるところが大きかった。


「ああ! もう! なんて面倒な!」


 悪態を吐き捨てる。

 急拵えの防御壁に身を隠しながら。柵を利用した狭間を覗き込みながら。

 狙いを定める。

 門に続く道ではない故に、不揃いに生える低木に弾が吸われぬように注意しながら。

 休まず引き金を絞る。

 手元で響いた爆音が俺の悪態をかき消す。

 銃口の先に居た猿人級が倒れる。

 それらは瞬き一回する間に起きた出来事。

 俺にとっては都合のよいイベント。

 けれどもそれに慢心はせず、満足もせず。

 気を抜けばすぐさま薄れそうな危機感に鞭打って気合いを維持。

 そうしないと、ほら。

 俺が放った銃弾が直撃し、周りの低木をへし折りながら倒れる猿人級の背後から。


「厭わしい! おぞましい! 汚らわしい! 呪わしい!」


 ぬるりと甲冑にも似た甲殻を身に纏った騎士級が現れる。

 俺の叫びとともに、次なる討つべき宿敵が出現する。

 水音、そしていかにも湿気った太枝が折れるにも似た、どうしても眉間に皺が寄ってしまう音を伴いながら。

 事実それはまったくもって嫌悪すべき音であった。

 何故であるならばその音は、奴にとっては同胞である、死んだばかりの猿人級を踏み越えたのを意味する音であったから。


 胸焼けをしそうなほどに抱いてしまう生理的な嫌悪。

 敵を討つ手を緩めてしまいそうなほどに強烈な嫌忌。

 それを俺は戦場経験と気合いで腹の底にまで飲み干して、努めて冷静に状況判断。


 彼我の距離はライフルはもちろん、拳銃の有効射程内。

 威力はライフルが上。

 けれども一発の銃弾では騎士級は仕留められない。

 その上ライフルのチャンバーが空っ穴な現状であるのならば。

 少しでも邪神を屋敷に近寄らせたくないのであるならば――


 ベルトに挟んだパーカッションリボルバー。

 抜く。

 構える。

 バレルには残り三発。

 狙いを定めて。

 呼吸を一瞬だけ止めて。

 発砲。

 爆音。

 二回。

 二連射。

 着弾音。

 破砕音。

 銃口の先にあった(かぶと)にも似た甲殻が割れる。

 吹っ飛ぶ。

 騎士級の前頭が。


 ぐらり。

 脱力の騎士級。

 膝が崩れ落ちたその直後。

 またしてもさきほどの再現か。

 屍と成り果てた騎士級の影から新たに邪神。

 獅子級。


 ならば、丁度いい。

 おまけとばかりにもう一発発砲。

 ブルズアイ。

 肉色をしたその顔面が欠損。

 スコアがまた一つ増えた。

 敵はカーテンコールを聞き逃したのか。

 今度は骸の後ろから活きのいいヤツが飛び出ることはなかった。


「まったく、ようやく一息つける」


 しかし言葉とは裏腹に俺の手に休息は訪れず。

 目を邪神の群れからひとときも離さずに、手元は空っぽになった拳銃のバレルを外す。

 すでに装填済みのものに取り替える。

 彼我の距離はまだ余裕がある。

 なら撃針銃の腹も満たしてやれる。

 チャンバ―開放。

 装填。

 すぐさま放てる鉛玉は七発となる。

 これならば仮に不測の事態がやってきても、十分に対応できるだろう。

 ふうと文字通りに息を抜く。ほんの数瞬の一休み。


「ええい! くそっ! いつまで奴らは涌き続けるんだ?! キリがない!」


 肉体的にはともかく、精神的には少し休み気味の俺とは対照的なとても腹立たしい声。

 その持ち主はチェンバレン中尉だ。

 中尉は先ほど交わした提案の通り、よく訓練されたライフル捌きでもって丘の麓に停滞している猿人級の乙種を狙っていた。


 だが今のフラストレーションに満ち満ちた声を聞く限り、その首尾は良いものではないようだ。

 ちらと横目で件の乙種を見てみれば、腹立たしいことに奴はまだまだ元気。弾を当てることができていないようだ。


 けれども、それは中尉の腕が悪いのが原因ではない。

 その証拠に奴の足元には幾重にも重なる獅子級の骸がある。

 いずれも乙種を守るために決死の盾となったやつだ。その数は数えるのに億劫になるほど。

 つまりあの骸の数だけ、中尉は乙種に有効なダメージを与えることに成功していたはず、ということ。

 だから断言できるのである。

 中尉の射撃の腕が間違いなくいいはずであると。

 

 まず間違いなく達成できるのに、他所から伸びてきたちょっかいによって仕事がこなせないというのは、それだけできいきい喚きたくなるほどに腹立たしいもの。

 中尉が抱くストレスの強さを想像するのは難しくはない。


「いやいや、ウィりアム。なんとも懐かしい感じになってきたねえ」


 状況は一刻一刻悪化していっているのに、なんとも場違いなことか。

 ひどく嬉しそうなレナの声が左耳に入ってきた。

 その声色と言ったら、顔を見てもいないのに目の前にニタニタと意地の悪そうなレナの笑顔が浮かんでくるほど。

 とても性格がわるいことに、さっきまでやりやっていた中尉がイライラしている姿を見るのを、レナは楽しんでいるようであった。


「なに楽しそうにしているのさ、レナ。こんな渋い状況なのに」


「おや。なにやラ、ウィりアムも不機嫌なご様子。なにかあったか? まずいことでもあったか?」


「今、全部がそうだよ。まずい状況ってやつは」


 わずかに俺に許されたブレイクタイムは、すぐさま終わりを告げた。

 またしても敵が引き金を絞らないと、どうにもならない距離にまでやってきた。

 再び手元のライフルが、あるいは拳銃が化学反応が由来の咆哮を上げる。

 丘の斜面に立つ低木が、斃れた邪神によってばきぼきと折れてゆく。倒れる度に木々に生い茂った葉も、ばさばさと妙に耳障りのいい音色を奏でる。


 丘を登ろうとする邪神の圧が、どうにも乙種出現を境にして強くなっているらしい。

 いっときは弾幕だけで連中の足を止められていたたというのに、今や奴らの足を遅くするのが精一杯となってしまっていた。

 防衛線を突破されることは、それはすなわち、こちらの敗北と同義。

 奴らに近付かれる度、一歩を刻む度に、俺たちにとっての敗北が着実に近付いているのであるならば。

 再び距離を詰められ始めているただいまを楽観視できる材料なんて、どこを見渡してもありはしなかった。


 だからちょっぴり腹が立つ。

 妙にお気楽なレナの態度が。


「もうちょっと真剣に戦ってくれないかな。そんな風にへらへらしてるんじゃ、その内足元掬われるよ?」


 撃ち、弾込め、撃ち、弾込め。

 忙しなく手を動かし、撃針銃を二発放ちながらもレナを諫める。

 もうちょっと真面目に戦ってくれと。

 けれども諫言はレナに響かなかったらしい。

 多分にアイロニックな鼻笑い、しかも肩をすくめながらのそれであるのを容易に想像できるやつを返されてしまった。


「おやおや。ウィりアムともあロう人が、周りのるーキーたちに感化さレてしまったのか? この程度の劣勢で苛立つなんてさ。まだまだジョークを飛ばせる状況だロう?」


「君はそうかもしれないけれど。ここはそうかもしれないけれど。他のところはそうとも限らないんだよ」


 特に分隊員の有無は大きな違いだ。

 各方面には鉄火場のベテランである無国籍亭の面々も配置しているが、邪神の群れを一掃できるほどの非常識な戦闘力は持っていない。

 邪神の侵攻を押し返す力は強くなるけれど、近付きすぎてしまった邪神を片付ける力は手に入らないのだ。


 それができるのは――この場においては俺たち分隊員のみ。


 その事実は中尉とやり合っていたときから、なにかと楽観論を唱えるレナとて認めるところのようだ。

 またしても左隣から、レナが肩をすくめている気配を感じ取った。


「ま、それには違いないけレどね。でも、いいのか? そんな風に都合がよくない想像を口にしてしまって?」


「なにさ?」


「コトダマ……ええっと王国風に言うなラば……あー、うん。まあ、いいや。ともかく言葉には口にしただけで、そレを実現させてしまう不思議な霊力が存在すルって考え」


「つまり? さっきから楽観的な意見を口にしているのは、君がそうなって欲しいって心から願っているからってこと?」


「その通リ。思慮深いだロう?」


「思慮深いというより迷信深いって感じ。それはそうとさ。ちゃんと真面目に撃ってくれないかな。さっきから銃声が聞こえてこないよ」


「おっと失礼」


 レナは軽い調子で答えるや否やそれまで下ろしていた撃針銃を構えて、瞬き一回分ほどの間をおいたのちに引き金を絞った。

 爆音。

 命中。

 低木の間を縫いながら丘を登ってきた猿人級は地に伏した。


 一連の動きを見て、やはりレナは高い練度を誇る良き兵士であることを思い知る。

 この現場の誰よりも構えてから発砲するまでの間が短いし、なによりも狙いも正確できっちり一撃で仕留めている。

 その技量の高さは、王国軍内で見ても優秀な狙撃手と呼んで差し支えないチェンバレン中尉でさえ足元に及ばないほど。

 こと銃の扱いが彼女より上手な人間を、俺は一人(レミィ)を除いて名をあげることができなかった。


「お見事。ちゃんとやれば邪神で鴨撃ちできる腕前なのに」


「おあいにく様。私は危機的状態に陥ラないと、気力がでない人間なんだ」


「そんな風に怠惰で軽口ばっか叩いてるから気が抜けて、種族主義者に捕まっちゃうんじゃないのかな?」


「失礼な。どの口が言うか。ウィりアムだって戦場でよく冗談言ってたくせに」


「さあて、記憶にございませんね」


「あっ。やっぱリ、王国人は二枚舌だ。呼吸をすルかのように嘘をつく」


「そいつはずいぶんと古くさいステレオタイプだね。モノと者への偏見を捨てきれていない証だ。王国に住んでいるんだから、もうちょっと王国人をつぶさに観察してみなさい」


「まったく。やっぱリ、王国の人間は減ラず口を自重しな――」


「二人とも! ちょっとは黙らないか!」


 手を休めずに邪神の討伐は続けていたものの、レナの軽口につい付き合ってしまったのが悪かったか。

 中尉の目から見れば俺たちは、とても不真面目な態度で戦っているように見えたらしい。

 ちらとチェンバレン女史の方へ目をやれば、勘弁たまらず、といったところ。

 まさしく目を三角にして俺とレナを睨み付ける、とてもおっかない中尉殿の姿がそこにあった。


 しまった。調子に乗りすぎたか。

 謝罪の意味も込めて新たに獅子級を葬ってみる。

 やる気があるように見せるため、努めて装填に動かす手をきびきびと動かしてみる。


 だが、あくまで反省の態度をきちんと示しているのは、どうやら俺だけであったようだ。


「解ってないなあ、中尉殿。私の経験則として、だ。軽口も叩けない現場ってのは、大体死にそうな目に遭う。ガチガチになって口を閉ざしている戦場よリも、軽口飛び交う現場の方がよっぽどマシだね」


「むぅ」


 中尉には悪いが、今の屁理屈は誠に遺憾ながらレナに賛成だ。

 余裕とユーモアに満ちた現場の方がどういうわけかは知らないけれど、たとえ激戦があったとしても、軽微な損耗で切り抜けてしまったりするのだ。


 訓練はきちんと積んでいても、こと実戦経験という意味では俺とレナよりも、ずっと乏しいのを自覚してか。

 中尉はけれども、とレナに反論する材料が見つからないらしく、口を山形に曲げて不満を露わにしていた。

 その顔付きがとても愉快なのか。

 皇国人特有の小顔が醜く、そしてとても意地悪そうに歪んだ。


 今のやりとりによって、少なくとも中尉の機嫌はいいものではなくなってしまっただろう。

 不機嫌によって貴重な腕のいい狙撃手が使い物にならなくなるのを恐れた俺は、叱責された立場ではあるが、中尉の肩を持つことにした。


「でもここはまだ軽口を叩ける状況だけど。特に分隊員が付いていない現場は、ちょっと笑えない状況にあるのもきちんと理解してほしいな、レナ」


「おい、ウィりアム。お前はどっちの味方だ?」


「特定の個人の味方じゃない。皆の味方さ。気持ちの上でも、この内線作戦に関しても。文字通りの皆の味方さ」


「まーた減ラず口を」


「いや、まずは聞いて欲しい。真面目な話だから。皆の味方だからこそ、今の状況がのっぴきならないってことを伝えたい」


 レナに、そしてチェンバレン中尉。

 今や二人は俺の方を見ていない。

 レナは斜面に腰を据える下草と木々を踏み折りながらにじりよる邪神を。

 そして中尉は、麓にてこちらを睨む乙種どもをそれぞれ見据えていた。

 二人の手にする銃器が吠える毎に、それらの内の一体の頭が吹き飛び、着実に敵を減らしていた。


 けれども彼女たちの雰囲気から、聴覚はきちんとこちらに向いているのがわかった。

 だから俺も二人に倣って。

 じわりじわりと迫り来る敵をその手に握る黒鉄で駆逐しながら、俺たちが皆の味方であるわけを表明することにした。


「今の状況は、独立精鋭遊撃分隊(俺たち)の即応性が失われてしまっている。出現した乙種がまったく動こうとしないがために、隊員一人一人が応援に出た先で固定されてしまっている。この状況はちょっとまずい。何故ならもし、この瞬間。邪神の接近を許してしまい、俺たちの応援を必要とする現場が出てしまったのならば――」


 ――動こうとしない乙種に睨みを利かせなければならないために、分隊を動かすことができない。

 応援に駆けつけることができない。


 そう続けようとした矢先であった。


 言葉が奪われる。

 にわかに上がった発煙信号によって。

 音は二回。

 独立精鋭遊撃分隊の応援を求める信号。

 ゾクリュ守備隊副長、ソフィー・ドイルが指揮を執る方面から。


 幸いにも三回目が上がらなくて、救援を求める理由が乙種絡みでなかったけれども。

 ああ、しかしなんてことだ。

 たった今、特にレナに説こうとしていたのっぴきならない状況ってやつが。

 よりにもよってこのタイミングで懸念が表に出てきてしまった。

 本日最大の危機がこの戦場に現れてしまった。


「ほラぁ……だかラ言ったのに。口にすルなと。面倒事を口にすルかラだ。こレがコトダマだ」


 冗談と思っていたが、どうにもレナは本気でコトダマの効力ってやつを、今このときにおいては信じていたらしい。

 彼女は混血が進んだ故郷のお国柄がよく現れた、魔族ゆずりの灰色の髪を非難の台詞と共に、がしがしと掻き乱した。 


「……チェンバレン中尉」


「……気持ちはわかる。理屈も妥当性も。だが」


 俺は言外に問う。

 それは淡い期待。

 この場を任せてもいいかと。

 防衛線の突破を何としてでも防がねばならない。

 だから今すぐソフィーの現場に向かってもいいかと。


 されど期待は否定される。

 中尉のしかめっ面が。

 真横に何度も振られることによって。


「私は、私の責務を果たさなければならない。部下の命を(あた)う限り、守らねばならない。故に許可できない」


 奥歯を噛みしめる。

 悔しさによって。

 防衛線を突破されてはならないから、今すぐソフィーの現場に向かわねば。

 俺のこの主張は紛うことなく正論であると、胸を張って宣言できる。

 だがしかし、チェンバレン中尉の言う麓の乙種に即応すべく待機せよ、という考えもまたここを防衛するにあたっては、間違いなく正論であるのだ。


 正論と正論のぶつかり合い。

 こと日常生活においては、両者が心ゆくまで論を交わし妥協点を探るのが上策であるけれど。


 しかし、今は論と論を真っ正面からぶつかり合わせる余裕はない。

 片手間にあしらうのが難しい相手である以上、激論を戦わせながらの撃退はこちらの隙を作ってしまう利敵行為に他ならない。


 そして邪神の群れと乙種。

 これを比べたとき、明らかに後者の脅威が大きい以上――


「……了解」


 悔しい。

 本当に悔しいけれど。

 これ以上の意見具申をする余地はなかった。


 強く下唇を噛む。

 わずかに血の味が口の中に流れ込んできた。

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