第七章 十話 神々の誇り
企みが上手くいっているかの判断なんて、その者、いやそのモノたちには判断がつかなかった。
彼らの眼前にある小高い丘の天辺の様子はなにやら騒然としているから、都合良く解釈すれば万事順調であるようにも見える。
と、なれば彼らがようやく取り戻した理性を再び手放すべきなのかもしれない。
凶暴なまでに研ぎ澄まされた使命感、これを満たすことのみに注力すればいいのかもしれない。
獣となって天辺目指してなだれ込めば、それだけで悲願を達成できる予感すらしてくる。
だが彼らは、特に理性を取り戻した五柱は野生じみたその欲求を飲み干した。
今すぐにでも駆け出したい肢体を必死に律した。
思い出せ。
悲願を阻む宿敵どもの強さを、と。
彼らからすれば宿敵がもつ身体はきわめて脆弱で、力も微弱で一個体を斃すのにさしたる苦労を必要としないはずなのに。
そうだというのに現状はどうだ。
今日この時に至る長い間宿敵らを滅ぼせなかったではないか。
それどころか、つい一年前には返り討ちにあい、逆に彼らが滅亡寸前にまで追い込まれてしまったではないか。
まんまと出し抜かれて祭殿を荒らされ、彼らが守るべきモノをどこかに隠されてしまったではないか。
そう、宿敵を甘く見てはならないのだ。
力が弱くとも奴らは知恵が働く。
その頭の回転は圧倒的力量差をひっくり返すほどに鋭いのだ。
だから慎重になるべきだ、と彼は思った。
たとえ目指すべき丘の天辺が泡を食っているように見えていても、それすら彼らを騙すための演技であるかもしれないから。
それにたった今相対する宿敵どもについて、気になることもある。
慎重にならざるを得ない懸案事項が。
だから彼は意見を聞くことにした。声を飛ばした。
空気を震わせる原始的なやり方ではなくて、思念を波にして飛ばすという高等なやり方で作った声を。
思念が向かう先は――同胞の中で唯一羽を有しているモノ。
「同胞。羽を持つ同胞。聞こえるか?」
「同胞。二本足の同胞。聞こえている」
「丘の上はどうだ? 奴ら――力ある者どもの姿は見えるか?」
同じく思念の声を返した羽つきの同胞に二本足の彼は問い返した。
個々が貧弱である宿敵どもの中に時折現れる、どういうわけか彼ら以上の力量を持つ特異な個体は存在するのかと。
返事は間をおかずに返ってきた。
彼の脳髄を強く揺さぶる思念がやってきた。
「――見つけた。きちんと六体。丘の上に居る」
「感謝する」
理性が存在せぬ眷属の減りが時折、異様に速くなることがあると思っていたが、なるほど。
やはりここ最近に限らず幾度となく彼らを苦しめてきた、あの強き者どもが居るのか。
ならば、と彼は戻ってきてまだ間もない理性でこう思った。
吶喊しなくて正解であったと。
慎重を期した判断は誤っていなかったと。
もしあふれる害意をむき出しにしてあの丘を登り切ってしまえば、問題の連中と出くわして返り討ちにあってしまいそうだから。
だがしかし、どうにも同胞の中にはこの選択に得心がいっていないモノがいるらしい。
今度は苛立ちを隠せない思念波が彼の下にやってきた。
「同胞。二本足の同胞。聞こえるか」
「同胞。甲羅持ちの同胞。聞こえている」
「なにを恐れているのだ? なにを躊躇っているのだ? たとえ強き者どもが居たとしても、我らのすることは変わらないではないか」
「つまり。勢いそのままに突入せよ、ということだな?」
「その通り」
念波の向こう側から伝わる首肯の気配。
戻ってきたばかりの理性を努めて働かさなくても感じ取れる、明確な不満の雰囲気。
丘の天辺に突っ込みたい、いや今すぐに突っ込まなければならぬ。
その思念の気配は要望と言うよりも、むしろ一種の強迫観念と呼んで差支えない強固な響きがあった。
「あの丘に上に我らに願いを捧げた宗徒が居る。あの丘の上に我らが救わねばならぬ子羊が居る。見殺しにしてはならぬ。足を止めてはならぬ」
「同胞。思うところは我とてわかる」
「ならば」
「されど」
躊躇いは敵だ。
甲羅持ちの同胞が主張することは彼も認めるところで、それ自体になんら口を挟む気はなかった。
躊躇った結果、彼らに救いを求めた存在をこの世界から消滅させてしまったのならば。
それは彼らの存在意義に反してしまうから、決して許してはならないことであった。
しかし、だからこそ、ここは冷静にならなければいけない。
二足で立つ彼はそう確信していた。
「だからこそ慎重にならねば。忘れたのか? 我らが守るべき大神殿に強き者どもが足を踏み入れたことを。そしてそれによって、我らが守るべき一つの命を失いかけたのを」
この世界の人類を数多に食らい、知恵を取り戻した今だからこそ彼にはわかる。
力押しで宿敵らを攻め立てても、きっと向こうは厄介極まりない知恵を駆使してこちらの裏を取ってくることを。
そしてそういった知恵というのは、往々にして宿敵たちが真に追い込まれてしまった状況で生じやすいのも理解していた。
そうである以上、彼らの知恵の泉をむやみに刺激するのはよろしくない。
一気に追い込んで危機感を煽ってしまうのは、却ってこちらにとっての不利を生みかねない。
だからこそ、彼はただいまの真綿で首を絞めるかのような攻め方を提案したのだ。
じわじわと追い込んで疲労を与え、厄介極まりない頭脳を働きにくい状況を生み出せば、いつかは宿敵どもらに綻びが生じるはずだ。
「――機を待つのだ。同胞よ」
そしてその綻びが認められたのならば。
すわその時こそ、一気呵成に彼奴らを攻め立てる好機。
間違いができない状況だからこそ、逸る気をなだめてくれないか。
二足の彼は諭すような波長の思念を飛ばした。
異論を唱えた甲羅持ちのみならず、知恵を取り戻した同胞すべてに向けて。
「当然、我らに傅く者を必ずや救わねばならぬ。彼女の大願成就こそが我らの存亡にかかっているからではない。同胞たちよ。その理由はわかっていような?」
「むろんだ。二本足の同胞」
羽持ちでも甲羅持ちでもない新たな思念の声。
四つ足の同胞の声が彼の脳髄を直接揺さぶった。
「たとえその存在が歪んでしまおうとも。時空を超えた代償に理性をなくそうとも。この世界にとっての災厄となろうとも。我らは――」
波を飛ばし続ける四つ足の同胞は、一旦そこで主張を区切って。
一拍、二拍。
たっぷり間を開けたのちに。
「――我らは神だ。間違いなく。祈る人のための」
四つ足の同胞は、努めて威厳のある波長を披露した。
「そうだ、我らは神だ。民の祈りを奇蹟に変えるのを義務づけられた」
「その通りだ」
四つ足の表明に賛同の波長。
それぞれ羽持ち、そしてさきほどまで不満を露わにしていた甲羅持ちの波長だ。
「そうだ。その通りだ」
そして四つ足の彼も当然同心していた。
どんなにその存在が歪もうとも、たとえ世界を超えてきた存在であろうとも、我らは神に違いないのだ、と。
なんとも数奇な運命なことか。皮肉なことか。
この世界の人類に邪神と呼ばれ忌み嫌われる彼らは、実際のところ”神”という一点において、呼称と内実がぴたりと符合する存在であったのである。
彼らは間違いなく信仰されるべき存在であったのである。
ただし枕詞としてかつては、という言葉がついた上に、この世界の外の、という注釈が付くものどもであったが。
多くの人類が夢想する神と実在する神の認識には、大きな隔たりがある。
人類のそれがあくまで概念的な存在であるのに対し、実在の姿はやや特殊な栄養補給を必要とする一個の生物的な存在だ。
そしてその特殊な栄養補給とは、すなわち祈願の成就。祈願の成就による信仰の獲得。
すなわち神とは信仰によってその存在を維持できる、人類と一種の共生関係にある生物であったのだ。
邪神と呼ばれている神々はそのいずれもが信仰をまったく失った、言わば忘れられかけた神々。
餓死を待つばかりの哀れな生類。
そんな彼らに何者かがこう祈ってしまったからこそ、百年にも及ぶ血みどろな戦争の火蓋か切られてしまったのである。
この世界の文明よ、消え去ってしまえ、と。
そして彼らはその願いを聞き入れてしまった。
むろん人類との共生関係を崩壊に導くその祈りを彼らが聞き入れたのは、彼らが死を待つばかりの余裕のない存在であったのもある。
だがしかし彼らは滅びかけているからこそ、自らの種族に対する強烈な誇りがあった。
同情すべき子羊が願ったのならば、全力でもってその願いを叶えずになにが神か。
多くの神々がとうに忘れてしまっていた、勤勉さ。
誇りと共にこれを彼らは今も持ってしまっていたのだ。
「同胞たちよ。救うぞ。祈りを捧げし者を。必ずや滅ぼすぞ。この世界の人間を。祈願を成就すべくこの世に生をを受けた、我々神々の誇りに賭けて」
だからこそ、彼らは全力を注いでこの世界の人類を滅ぼそうとしていた。
たしかに自らの延命という利益はそこにあるけれど。
しかしそれ以上に祈願を成就しなければという使命感と、そんな悲痛な願いを捧げてしまった者への多大なる愛を示すために。
救うべき者を救うという神の使命と誇りをまっとうするために。
必ずやこの争いで勝利を収めてみせよう――
彼らは一同に、この世界でたった一人の信仰者に勝利を誓ってみせた。




