第七章 八話 粋な挑発
「皆さん! ご飯をお持ちしました! お粥です! 少し下品な食べ方になってしまいますが、啜って食べてください!」
若い男の声が血腥い戦場に響いた。
声の主は厨房で糧食を作ってくれたムウニスだ。
ちらと一瞬声の方へと目を向けてみれば、いつもは屋敷の中をごろごろと移動しているワゴンと共に彼は居た。
ワゴンの天板からゆらゆらと白い湯気が立ち上っていた。
ありがたいことに、彼は料理ができてすぐに運んできてくれたようであった。
「ごめん! ムウニス、今全員持ち場から離れられない! 悪いけど一人一人の下に配ってくれないかな!」
「了解です!」
前線が手が離せない状況であるのは、織り込み済みであったようだ。
彼は返事をするや否や、ひょいとすでにいくつかのスープカップがセットされた銀色のトレーを持ち上げて、そそくさと配膳をはじめた。
その動きはずいぶんと軽やかで節々に余裕がある。
きっと、無国籍亭の客入りのピークはこれ以上に忙しいのだろう。
手助けの必要性を感じさせることもなく、ムウニスはあっという間に人数分のカップを配り終えた。
「なんだか珍しいお粥だね!」
「ええ! 私の故郷の料理ですから!」
ちらとカップを覗いてみれば、白磁よろしくに白いものが満たされてた。
王国では定番であるエン麦のお粥ではなさそうだ。
ムウニスの故郷である海峡商国のお粥は、どうにも米が使われているらしい。
硝煙を押しのけるほどの豊かな香りから察するに、塩で味付けされたポリッジとは作り方が大分異なっているようだ。
「これ! なにで煮たの!」
「チキンスープとヨーグルトで煮ました! ケシクにすれば、一口毎に牛乳に浸す手間も省けるから! 味もポリッジよりは深いと思うので、どうぞご賞味あれ!」
「ありがとう! 楽しみにしておくよ!」
別の場所に運ばねば。
そんな一言を残してムウニスは足早に、けれどもなるたけワゴンを揺らさぬよう、しずしずとした足取りで次なる現場へと去って行った。
夜明け前にソフィーに起こされてから、ここまでずっと働き詰めであったからだろう。
異国のお粥が放つ香りは俺の食欲を直に揺さぶった。
折角ムウニスが危険を冒してまで、出来たてを運んできてくれたのだ。
装填を終えたその手をスープカップに伸ばして、唇を火傷しないように慎重深くお粥を啜った。
乳製品由来の濃厚なコクとチキンスープのうま味、それとほのかに舌の奥で感じるのは焦がし気味のタマネギが持つ香ばしさだろうか。
ムウニスが言うとおりにポリッジよりは複雑な味わいがある逸品であった。
「ん。君たちも隙を見計らって食べなよ。おいしいから」
「しかし――」
「今なら大丈夫だよ。理由はわからないけど、敵の攻勢が弱くなっているから、一人ずつ代わりばんこに一口啜っていけば問題はないさ」
俺の言葉にライフルを構える親衛隊とソフィーが連れてきた守備隊は、躊躇うそぶりを見せた。
ちらちら。目玉をぎょろぎょろ俺と討つべき邪神どもを行ったり来たりさせていた。
たしかに彼らの気持ちもわかる。口をつけたら隙ができるのも、またたしかであるからだ。
だが幸運なことに、ここの戦況は小康状態にあった。
敵の進行速度はかつてないほど遅く、いや、むしろ弾幕のみで押し返している感すらある。
故にただいまが小休止をするに絶好の機会といえよう。
激戦を経験したか否かの差がここで出た。いまだ逡巡する親衛隊を尻目に、守備隊の方がさっさと順番を決めてカップに口をつけはじめたのだ。
戦場では次にいつ小休止が取れるかわからない。
最近ゾクリュで起きている事件から、彼らはそれをきちんと学んでいたようだ。
食べ物を、それも温かいものを口にしたからか。
ファリク印の防衛壁の内側には、先んじてお粥を啜った守備隊員らの安堵のため息がぽつりぽつり、一つ一つ。時間差をおいてあがりはじめた。
「おう、ウィリアム」
フェナーがスープカップ片手に声をかけてきた。彼はライフルを担いでいなかった。声もどこかお気楽なもの。
死線真っ只中にしてはいささか気の抜ける態度と姿であるが、けれども彼はサボっているわけではなかった。
投擲が厄介な猿人級を片付けてくれた功績によって、俺たちよりも一足先に休憩に入っていたのだ。
「意外となんとかなりそうだな。これは援軍が来る前に決着がつけられるのではないか?」
「そう祈りたいけど、厳しいだろうねえ。何百年も生きたせいで、ぼけてきちゃった? おじいちゃん?」
いくらでも一息はついてもいいけれど、安易な楽観的展望を抱いてもらっては困る。
十倍以上の年齢差があるエルフの戦友を窘める。
たしかに今の状況は勝機が見え始めた、と捉えてもおかしくはない。
だがそれはあくまで表面だけで見たのならば、の話だ。
俺の嗅覚はまことに残念なことであるが、きちんと嗅ぎ取ってしまっていたのである。
いやなにおいを。
ここから戦況が大きく、それも悪い方へと傾く前兆を。
十年に及ぶ戦場暮らしで発達してしまった、いわゆる第六感ってやつでもって。
「がはは。言うじゃないか、坊や」
端麗な容姿には不釣り合いなほどに豪快で、少しだけわざとらしい笑声。
発砲音とケシクを啜る音以外は静かだった場に、いきなりそんなものが聞こえるものだから、ほんの一瞬だけだけれどもフェナーは兵らの注目を集めた。
一息はつけられるけれども、しかし予断を許さぬ状況なのになんと呑気な。
彼が集めた視線はいずれもそういったものであった。
しかし俺の反応は趣を異としていた。
むしろ安心した。
それなりの付き合いがあるからわかるのだ。
今のフェナーのわざとらしい笑い方は、彼が冗談を切り上げるときのものであることを。
現にほら。
フェナーの顔はきりりと一気に締まりを得て。
内容が士気に影響するものなのか。
ずいと一歩詰めてきて、そっと顔を寄せて、俺だけに聞こえるよう小さな声でぼそりぼそりと紡ぎはじめた。
「伊達にこのフェナー、さきの戦争を生き抜いたわけではない。これは勝利が目前にあるが故の好戦ではないことくらいはわかっている。嵐の前の静けさってやつだな」
「そのさきの戦争ってやつは、一体いつの戦争なのよ」
俺と同じく彼もきちんと嫌な予感を抱いていた。
彼がたるんでいなかったのを知って、今度はお返しとばかりに俺もわずかに肩の力を抜いて軽口を叩く。
おじいちゃん、いつの話をしているの? と言ってみる。
エルフは長命故に時間の感覚が他の三人類とはズレており、彼らの言うところのこの前が、俺たちにとっては祖父母世代の出来事であったりするのだ。
エルフを茶化すときの鉄板ネタ。
案外この手のおふざけが好きなフェナーはすぐさま乗ってきた。
彼はふとその視線を宙に打ち上げて指を一つ折り、二つ折り、三つ折り――と、遙か遠い昔を思い返すような仕草をわざとらしく披露した。
そして四つ目を折り曲げて、あのときの王朝はたしか――と、とても小さな声で呟いた。
そのときであった。
晴天の空にそこかしこに木霊する発砲音とは異なる、火薬が爆ぜる音が聞こえたのは。
反射的に音の方へを振り返る。
急拵えの櫓。
その天辺からまるで定規を使ったかのように真っ直ぐな煙が立ち上っていた。
あれはヘッセニアが即席で作った信号弾だ。
煙の色は白。
呼ばれているのは俺。
何処かの方角が邪神の接近を許してしまっているのか。
それを知るために、櫓を注視。
すると。
破裂、破裂、破裂。
立て続けに三回の爆音。
これが意味することは。
ああ、畜生。
舌を小さく打つ。
「あらら。乙種か。ご指名か。とうとうおいでなすったようだな」
信号弾、間をおかずの三連発。
すなわちそれは乙種出現の報。
突如飛び込んできた凶報。
現場の空気が一気に引き締まる、いや凍り付いた。
ただ、フェナーは流石はベテランと言うべきか。
緊張した様子は一切見せなかった。
「案外やつらもすきっ腹かもなあ。ケシクのにおいに誘われたのかもしれん。鍋を差し出せば助かったりしてな」
むしろ、周りの緊張を解きほぐすためか。
またしもフェナーは声を大きくして、冗談めかした物言いをした。
ならば俺も彼に追従する必要があろう。
わざとらしいため息と、あーあ、がっかりだ、と演技ががった所作で肩をすくめてみせる。
なにも心配する必要はない。
それを周りに伝えるために。
「まったく。俺もちょっと一息つきたかったな。せめてこのお粥は食べきりたかった」
「安心しろ。残った粥は私が代理で食っておいてやる。エン麦もいいが、米の粥もなかなかイケる」
「どうぞ。ただしこの貸しは高くつくよ」
「お、本当に残りをくれるのか? いやあ、ラッキーだ。礼として今度、無国籍亭で好きなだけ奢ってやろう」
「なんて太っ腹。それが原因で素寒貧になっても知らないよ?」
「ああ。やれるもんならやってみな」
それはずいぶんと挑発的な物言いであった。
けんかっ早い人間が聞けば、もしかしたのならば手が出てしまいそうなほどに。
だが、今の台詞の裏に隠れた意図は言わずとも理解できた。
つまり彼はこう言いたいのだ。
私を素寒貧にしたくば、見事にここから生還してみせよ、と。
なんて粋な挑発だろうか。
こんな挑発を投げかけられてしまったのならば――
「後悔しないでね」
「ああ。後悔させてみろ」
――言質はとったからな、覚悟しておけ。
生還前提の挑発をし返すに限る。
これ以上のコミュニケーションは、きっとこの世に存在しないはずだと俺は確信していた。




