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第七章 七話 血まみれな祈りの価値なんて

 今朝の屋敷は、工事ラッシュが続くゾクリュの街よりもずっとうるさいはずだ。

 アンジェリカはそう確信した。

 耳を澄まさずとも騒音が聞こえてくる。

 しかもそのいずれも日常生活ではまず聞かない音だ。

 花火とはかなり趣の違う爆発音、すなわち発砲音。

 屋敷の庭から途絶えることなくそれらがひっきりなしに響いていた。


 それはこの丘が日常から逸脱し、非日常に突入してしまったのを示唆する音たちであった。

 いくら困難な世の中を生き抜いてきたこの時代の人間であってもだ。

 その個人が鉄火場から遠いところで生活していたのならば、恐慌するのが必然なほどに混沌とした状況。


 そうだというのに齢十一の少女、アンジェリカ・ジェファーソンは見事に平静を保っていた。

 いつもよりも一層殺気立った厨房で、迷いなく、躊躇いもなくきびきびと動き回っていた。

 本日の厨房はただならぬ空気に包まれている。

 直接的な戦闘は繰り広げてはいないけれど、この場もまた戦場であったからだ。

 言うなればここは銃後を支える後方。

 今も命をかけて戦う者どもの腹を満たすために、糧食を作ろうとしているのであった。


「ムウニスさん! レンジの準備できました!」


 普段は屋敷に住まう人数故に、使う必要がなく厨房のオブジェと化していた第二の石炭レンジ。

 アンジェリカはその火熾しを頼まれていたようだ。

 ちなみに彼女の任務はきちんと達成されたらしい。

 コンロの真上は熱された空気が、陽炎めいたゆらぎを生みながら静かに天井へと立ち上っていた。


「わかりました! ではさきの話し合い通りケシク……故郷のお粥を作ります! まずはこれを炒めて下さい!」


 一心不乱となってナイフでまな板を叩く、無国籍亭のコックであるムウニスは、ずるりと木のボウルをアンジェリカの方へと押し出した。

 アンジェリカは調理台の上で滑ったばかりのボウルを覗き込んだ。

 中には山盛りとなったタマネギと、その天辺にはひとかけらのバターが乗っていた。


「このバターで炒めろ、というのですね?! どの程度まで炒めましょうか?!」


「茶色くなるまで! 少し焦げたかも、と思えるくらいまで! 焦らなくてもいいので、弱めの火加減でお願いします!」


「わかりました!」


 そう言うやアンジェリカはボウルを引っ掴んで、先ほど自らが火を熾した石炭レンジへと足早に向かっていった。

 ボウルは大きかった。少なくとも片手で持つと落とす不安を覚えるくらいには。


「エリーさん! フライパンを!」


「あ。う、うん」


 だからアンジェリカはその道中で、皮むきだとか食器洗いを任されていたエリーにフライパンを取ってくれと頼んだ。

 こと調理では戦力外であるエリーは、ムウニスとアンジェリカと比べれば暇であったらしい。

 鬼気迫る、といった表現がぴたりと当てはまるアンジェリカの気迫に押されて、ややしどろもどろしてしまった。


「じ、じゃあ、レンジのそばに置いておくね」


「ありがとうございます!」


 いくら不器用なエリーなれど、さすがにフライパンを運ぶ程度の仕事は恙なくこなせる。

 相も変わらず迫力満点のアンジェリカに気圧されつつも、彼女は使い込まれたうす焦げ色のフライパンをレンジの片隅にそっと置いた。


「……ねえ、アンジェリカ?」


 やはり二人に比べればエリーは忙しくないらしい。

 手持ち無沙汰といった様子で、フライパンをコンロで炙るアンジェリカにおずおずと問いかけた。

 当然忙しい時分になにかを尋ねられるというのは、それだけで苛立ちを覚えるもの。

 アンジェリカはいつもの態度から考えられないくらいにトゲがある声で、エリーに返事をした。


「なんですか?! この忙しいときに!」


「アンジェリカはさ。怖くないの? この状況が」


「怖いに決まっているでしょう?!」


 怖い。

 邪神が屋敷に迫り来るこの状況が。

 アンジェリカはそれを素直に認めた。


 しかしその割には幼い少女の声に、恐怖を端とする震えは聞き取れなかった。

 むしろ恐怖とは真逆に勇ましさすら見いだせるほど。


 だからだろう。

 エリーは不思議そうに小首を傾げたのは。


「怖いの? 本当に? それで? 全然怖がっているように見えないけれど」


「当たり前でしょう?! 命の危機が迫っているんですから! でも! ただ部屋の隅に縮こまってブルブル震えるのは時間の無駄! 状況は好転しない! そうではありません?!」


「まあ、そうだけど」


「だったら! 私は少しでも状況がいい方に転がるように! 私ができるお手伝いをするだけ! 今も戦っているウィリアムさんたちに一瞬でもいいからブレイクタイムを与えるために! やることをやるだけ!」


 その答えによどみはまったくなかった。本心からの答えだ。

 それはアンジェリカ・ジェファーソンという少女が、聡明さと太い肝っ玉を持ち合わせているからこその答えであった。


 騎士級がゾクリュに襲撃した事件でも、彼女のその性質が存分に発揮されていた。

 件の邪神が自分を追ってやってきたのを悟り、住民たちに被害が及ばぬように、その小さな身体を餌に人気のない方へと誘い出したのであった。

 人類の天敵に追われるという極限状態において、自らの安全を顧みないその真似は、真に勇気が必要なのは言わずもがなであろう。


 そしてその勇気は今、このときにおいても存分に発揮されていた。

 立て続けに外で響く発砲音は聞く者に死という暗い事象を嫌でも思い起こさせる。

 だというのにアンジェリカの表面には、そんな根源的で強烈で、だからこそ抗いがたい恐怖に屈した色、これが欠片も見られなかった。


「でも、もし。もしだよ? ベストを尽くしても、それが報われない未来を考えないの?」


「心配御無用! そんな未来が訪れないようにと、今も()()()()()()()()()()()! なんとかしてくださいって!」


 非常時には慣れっこで、よろず余裕の態度を崩さない分隊員たちによる薫陶か。

 アンジェリカは茶目っ気に満ちた軽口を叩いた。

 わざわざ神への祈り、という語句を強調したあたり、アンジェリカは元来信仰心が薄い人間であるらしい。

 科学技術の進歩が著しい当世においてアンジェリカのような人間は珍しくもないのだ。


「神様、か」


 そんなアンジェリカの態度になにか思うところがあるのか。

 エリーは眼前の少女の台詞を小さく反芻した。

 たった今、アンジェリカが披露したウィットに富んだ口ぶりに舌を巻いているのではなさそうだ。

 感心した面持ちはこれっぽっちも見せず、わずかにうつむいて熟慮している風情を見せていた。


 しばしの沈黙。

 されどアンジェリカはエリーのだんまりを不思議に思わず。

 それよりもフライパンの上で溶けては滑るバターの機嫌の方が、彼女にとっては大事だったから。


「ねえ、アンジェリカ?」


「今度はなんですか?!」


「神様ってなんだろうね」


「はあ?!」


 たっぷり間を取ったエリーの問いかけは、ひどく哲学的なものであった。

 あまりに唐突にそんな質問が飛んできたものだから、アンジェリカは思わずフライパンから目を剥がす羽目となる。

 突飛な質問をした年上の少女を眺めざるを得なくなる。


「実在していると仮定して、だよ? じゃあそれはどういった存在なのかな? 生物? 生物だとか非生物だとか。そんな概念を超越した存在? 意識や感情といった類いはあるのかな?」


「いきなりなにを! なんだってこんな――」


 こんなときになにをふざけた質問を。


 少女は強い調子で問い詰めたい気持ちにかられるも、しかし言葉は口から飛び出なかった。

 とんちんかんな台詞を吐いたその張本人の顔が、至極真面目であったのだ。

 エリーは冗談や思いつきであんなことをいったわけではない。なにか意図があったはずだ。

 アンジェリカはそれを悟って、静かに次のエリーの言葉を待った。 


「もし、もしもだよ? 神様が一種の生物だとして。人々の願いを聞き入れる神様が居て。その願いを聞き入れることが、神様が生きるための栄養であるのならば。”神”の称号を冠する邪神もそうであるのならば。この侵略行為が誰かの祈りで、しかもそれが邪神という種を生存させる唯一の祈りであるならば――」


「……本当に、どうしたのです?」


「――この侵略行為を妨げるということは。邪神に捧げた祈りを踏みにじることになってしまう。とある種の生物を絶滅させ、誰かを絶望させてしまう……そうなるとは思わない?」


 常のどこか抜けた様子とは異なるただいまのエリー。

 真剣そのもので、それでいて感情を読み取るのに苦労するほどに平坦な表情を湛えていた。

 口にしていることが相まって、まるで大学勤めの哲学者のようであった。


 だからアンジェリカも眼前の元旅人の問いに釣り合うよう、必死になって頭を回転させた。

 エリーを満足させるための答えを絞りだすために。


 今、彼女が言ったことを大雑把に纏めるのならば、このようなものになろう。

 邪神は、いや神という存在は誰かの祈りを成就させることで、その存在を確かとする不思議な生物で。

 そんな連中にどこかの誰かが、世界文明の滅亡を祈ってしまったのだ。

 しかも祈りを捧げられた方は、人々から忘却された存在でその祈りを成就させなければ消滅は必至。

 つまりは邪神は、誰かの祈りの成就と、自らの生存戦略をかけて必死に人類を襲い続けているのでは? と、エリーは言うのだ。


 それらがここ百年も続いた邪神戦争の真相であるならば。

 人類が生き長らえるために邪神らを退け続けるのは、実のところ、彼我の行いに差はないのではなかろうか?

 知らずの内に人類も、生きるのに必死な邪神という存在を無慈悲に絶滅させようとしているだけではないのか?

 あの戦争は祈りを捧げた者を絶望のどん底に叩き落とさんとする、酷薄な所業であったのではないか?


 もしそうであるならば。

 百年戦争も、それの延長戦でもあるこの戦いも。

 どちらかが不幸になることを約束された戦いではないのか?

 これほどむなしい戦いがあっても許されるのか?


 根拠もなく、とてもぶっ飛んだ主張ではあるけれども。

 もしエリーの言うとおりであったのならば。

 どちらかに絶滅が約束されている以上、救いのない争いであったと認めざるをえないだろう。


 もし、これが例えば国同士であったり人間同士の戦いであったのならば。

 銃と剣を取る手に躊躇いが生じてもおかしくはないだろう。


 だが、しかし。

 アンジェリカはフライパンのグリップをきゅうと強く握りしめた。


「……もし、そうだとしても」


「うん?」


「それがどんなに切実な願いであっても。この世界に生きる人たちの命を潰す必要のある願いなんて。そんなの間違っていると思うんです。誰かの血にまみれた祈りなんて、そんなのが叶ったとしても、私なら――」


「願い下げ?」


「はい」


 それでも自分たち人類は、邪神の側に同情する必要はない、と断定できる。

 罪悪感を抱くことはあっても、後悔は抱くことはないと断言できる。

 そんな自信がアンジェリカにはあった。


 たとえ向こうが切なる祈りと生存戦略のためという大義名分を抱えていても。

 だからといって、それまで少なくとも絶滅の危機がなかった人類を滅ぼしてもいいという理由にはならない。


 自身の幸福を希求するために、他者の幸福を奪うどころかその生命すら奪おうとするなんて。


 そんなの絶対に間違っている!


 賢しい連中は防衛のために戦うことも、また自身のために他者の生命を奪う真似である。

 つまり人類も向こうと同じ矛盾を抱えている、としたり顔で説いてくるだろうが。

 相手が突きつける矛盾を否定するために振るう力が、それと同質の矛盾であるはずがない、とアンジェリカは確信していた。


 静かに、けれども力強いアンジェリカの意思表明に感銘を受けたのか、それとも呆気にとられたのか。

 その判断はつかないけれども、エリーはしばらくの間、言葉を紡ぐことはなかった。

 じっと自らの足元を見つめるのみ。


 またしても、二人の間はしんとした。

 発砲音とバターが爆ぜる音しか聞こえない、騒がしい沈黙がやってくる。


「……そう、だよね」


 そしてたっぷりと間をあけたのちに、ようやくエリーが口を開いた。

 声は小さい。

 ゆったりとエリーは顔を上げた。

 どういうわけだろうか。面持ちは眉尻が下がっていて、どこか寂しげな様子であった。


「歪んだ願いは。間違った願いは成就されてはならない。そうに違いない、よね」


 だが、そんな一種控え目な雰囲気を湛えつつも。

 未だにその声は絞りがちではあったけれど。

 ぽつり。

 紡いだその台詞には、どこにもアンジェリカの答えへの不満は感じ取れなかった。


 それはつまりエリーはアンジェリカの答えは至極まっとうなものである、と認めたに他ならなかった。

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