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第七章 五話 不満を飲み込まないと

 かつて王都の軍需工場と前線をつなぐために敷設された鉄の道は、終戦後にまったく平和な使い道を手に入れた。

 弾丸だとか砲弾だとか銃だとか砲だとか。戦中はそんな物騒な代物を満載していた蒸気機関車も、いまや人と郵便物をせっせと運ぶ日々を送っていた。


 ただいま王都から出てゾクリュへと向かう蒸気機関車も、そんな平和な日常を享受していた一両()()()()

 そう。であった、のだ。過去形。

 つまりは昨日まで、という意味。


 今、このとき機関車に感情があったのならば、懐かしい、といった感情を抱くはずだろう。

 朝間のしっとりとした空気を切り裂くその汽車には、ライフルを担いだ兵らがぎゅうぎゅう詰めになっていた。

 その密度たるや、身じろぎをしなくとも肩と肩とがぶつかり合ってしまうほど。

 だいぶ涼しくなったとはいえ、まだほのかに残暑がある時節。

 そんな季節なのに極限までに詰め込まれてしまっているものだから、客車は人いきれでむせかえりそうなほどの空気を蓄えていた。


 極めつけには彼らが身を寄せ合っているのは、屋根と壁がついただけの貨車といった体な三等車ときた。

 椅子という上等な装備がないために兵らは床に直接座らざるをえず、いまも車輪から伝わってくる衝撃を尻で受け止める生き地獄を味わっていた。


 王都からゾクリュまでの長路をかような環境で過ごすとは、ちょっとした拷問に等しいだろう。

 事実、兵らの眉間には例外なく深い皺が刻まれており、拷問という見方がひねくれているとは言い難かった。


 さいわい、ナイジェル・フィリップスは身の毛もよだつ環境から逃れていた。

 ふかふかのクッションが深紅のビロードに包まれている椅子に身を預け、彼は静かに寝息を立てていた。

 彼は大佐という高位な将校故に、普段は一等車として運用されている客車が宛がわれたのだ。


「フィリップス大佐。お休みのところ、申し訳ありません」


 夜半の王都を駆けていたことで得た疲れ。それを仮眠で癒やしていたナイジェルに、控え目な声がかけられた。

 若い男の声。

 席へと向かってくる足音の数からして、やってきたのは二人だな、とあたりをつけたのちに、ナイジェルはゆっくりと目を開く。

 彼の推測は的中していた。

 カーテンの隙間から零れる朝日は、敬礼を作った二人の若い男の横顔を明るく照らしていた。


「ん。おはよう。なにか報告あるのかな?」


「はい、大佐。おはようございます。機関士からの報告です。あとしばらくで、ゾクリュ駅に到着するとのことです」


 はじめに口を動かしたのは二人の内、まるで女のように顔の造詣に恵まれた男であった。


 たしか名前は、ネイサン……


「うん。ありがとう、ティレル少尉。いやあ、それにしても流石に速いね。出発から半日もかかってないじゃないか。いつもはそれくらいかかるのに」


「ええ、まったくです。炭水補給を除いてノンストップで走らせると、王都とゾクリュはここまで近くなるとは思いませんでした」


「だからこそ惜しく思うよ。これが真夜中だからこそ実現できる運行だなんて。日中も何本かこういうの走らせれば便利なのに」


「ですが、日中でノンストップ走行をしてしまうと、いつかは先行車両に追いついてしまいますよ。今回のように線路そのものを貸し切るといった真似をしないと難しいのでしょう」


「うーん、それは残念」


 ナイジェルは両手を頭上に高々と上げて大きく伸びをした。

 椅子の上で寝てしまったから、身体の節々が凝り固まってしまったのだ。


 いや、彼の身体をがちがちにしてしまったのは、なにも無理な体勢で寝てしまったからだけではない。

 昨夜一人でも多くの兵を集めるために王都中を駆け巡ったことも、彼の身体を固めた一つの理由でもあった。


「到着が近いのならば、連れてきた兵たちにも教えないと。流石に寝ぼけ眼で駅に降ろすのはまずいからね」


 ひとしきり伸び終えたあとにナイジェルはそう言った。

 伸びのおかげで凝りはなんとか解消できたものの、身体に刻まれた疲労は誤魔化せず、少しばかりけだるいようだ。


 いくら軍人といえども、である。

 宰相コンスタットの命で誂えたこの特別列車に乗り込むまで、彼は一人でも多くの兵をゾクリュに連れて行くために、王都の隅々を奔走していたのだ。

 疲れが残っているのをみるに、それは大きな負担であったのだろう。


 とはいえ、自分はずいぶんと恵まれた環境で眠れたから、この程度の運動で十分だったのだ。

 より劣悪な環境に居る兵らの固まった身体をほぐすには、少しばかり時間がかかるはずだ。

 ナイジェルはそう思って指示を下すも、しかしその懸念は杞憂であったようだ。


「それに関してはご安心を」


 残る片方、ジャガイモのようなごつごつ顔の大男、バーナード・スチュワート少尉がずいと胸を張って報告をはじめた。


「大佐がお目覚めになる前にその指示は与えました。すでに準備は万端です。仮に今、この汽車が襲撃され急停車しようともスムースな戦闘移行が可能でしょう」


「わお。そいつは素晴らしい。流石は王都所属の将校さんだ。なら僕のやることはしばらくはないね。ゆったりと景色を楽しむとするよ」


 バーナードの報告にナイジェルは心底満足したようだ。

 にへら、と覇気なく破顔してみせて、ゆったりのんびり。実に緩慢な動きで締め切られたカーテンに手を伸ばした。

 足を組んで窓の外を眺めはじめたから、本気で流れゆく景色を楽しむつもりでいるようだ。


 ナイジェルのその向きは、二人の若い少尉たちにとっては予想外であったのか。

 とくにネイサンは元々つぶらな瞳を、さらに驚きでまん丸に丸めていた。


 相方がいかにも面食らった風なのに対して、バーナードはまだ平静でいられたようだ。

 呑気に構えることにした若い大佐を見て、わずかに眉をひそめて。

 そして彼はうっすら咎めがある声を紡ぎはじめた。


「気は。もうすでに抜けない状況なのでは?」


「うん?」


「この列車を手配した者、コンスタット・ケンジットです」


 その名を告げる若人の声には敵意のにおいが漂っていた。

 しかも叶うならぼこぼこに()ん殴ってしまいたい、といった願望が嗅ぎ取れる、いっとう強烈なやつ。


 それがあまりに剣呑な声色だったからだろう。

 のんびりを決め込むことにしたナイジェルの目が、窓から直立する若い大男へと移った。

 無表情に見える無骨な顔は、よく見るとその目尻はわずかではあるが、威嚇じみた角度で釣り上がっていた。


「あの策謀を好む老人のことです。ゾクリュが邪神の大群に襲われる、といった推測だけでこのような動員を認めたとは思えません」


「スチュワートに同感です。ましてや彼の御仁は、鉄道会社からこの列車と線路を貸し切るという大胆な令すら出しています。私たちを使って、なにかを企んでいるのは明白。となれば」


「あの老人の思い通りにならないよう、細心の注意をはらって行動すべきです」


「君たちはずいぶんと宰相殿を嫌って……ああ、そうか。たしか君たちはあの裁判に」


 二人は無言で頷いた。


 そういえばこの二人はウィリアムの御前裁判を傍聴していた。

 その上、判決を覆すべく無断上奏すらしてのけていた。

 なるほど、と、ナイジェルは得心した。なぜ二人があの宰相をこうまで嫌うのかを。

 目の前でまったく理不尽な理由で戦友が裁かれるのを見れば、その首謀者を憎むのも自然な流れといえよう。


 ナイジェルとて二人の心持ちは十分に理解できる。

 ウィリアムと似たような流れで旧友のジムだとかヘイゼルだとかを裁かれてしまえば、いくらのんびり屋の彼でも、冷静でいられる自信はなかった。

 なにがなんでもコンスタットの思惑に反抗してやる、といった気概すら持つはずだろう。


 それにナイジェルも決してかの老宰相に好感は抱いていない。

 むしろ成功する算段があるのならば、彼を追い落とす行動に協力するのもやぶさかではないほどであった。


 とはいえ、である。

 今回のナイジェルは若い二人の意に添った答えを提示できそうにはなかった。


「ま、胡散臭い爺さんの掌の上で踊らされるのがシャクってのはわかるけどね。残念ながら今回は素直に従わざるをえないんだ。なにかをやるには遅すぎたんだよ」


「……遅すぎた?」


 かぶりを振りながらのナイジェルの言葉は、またしてもネイサンの予想の外であったらしい。

 一瞬息を呑むような間のあと、恐る恐ると言った体で、なにが遅すぎたのか。美形の彼はそれを問い返した。


「そう。遅すぎたんだ。(はかりごと)はもうすでに最終段階に入ってしまっている。修正はもう不可能。この期に及んでは、あの爺さんの手足となって動くしかないよ。業腹だけどね」


「もうどうしようもないほど、なのですか」


「そ、もうどうしようもないんだよ、ティレル少尉。宰相殿は自らの思うがままにするために、僕らが考えていたよりも、ずっとずっと前に手を打っていたんだよ」


「一体。どれほど前から?」


 生来剛毅な性分なのか。

 動揺を示すネイサンに変わって、感情の揺らぎが見いだせない低音でバーナードはナイジェルに問うた。

 あの陰険宰相はどの時点で謀を働いていたのか、答えてみせよ、と。


 言葉遣いこそ丁寧なれど、その声色はいささか高圧的。

 だから人によっては不愉快に思うかもしれないが、ナイジェルはさにあらず。

 むしろものぐさな性分なナイジェルからすれば、ストレートに聞いてくれた方が説明する手間が省けるから歓迎する一方であった。


「はじめからだよ。はじめから。君らも居たあの御前裁判から、今このときにいたるまで。ウィリアムさんや君たちや僕、いや、ゾクリュにまつわるすべてがあの老人のシナリオ通りに動いてしまっていたんだ」


「は?」


 いかにも気が抜けた一つの音、いや声が貸し切りの一等車の空気を震わせた。

 声の主は個人によるものではない。混声だ。ナイジェルのそばで突っ立つ二人の若い男たちの。


 邪神の大群がかの地に向かう兆候を見出したから軍備を固めよ、というのがネイサンらに与えられた任務であった。

 だからこの動員がウィリアム・スウィンバーンの流刑に繋がっているとは、二人は露ほども考えていなかったようだ。


「そうだね。任務に集中してもらうためにも、君たちにはすべてを話してすっきりしてもらったほうがいいかな」


 あの老人に敵意を抱くのは十分理解できるけれども、こと今回にいたってはその感情が、ゾクリュ防衛に悪影響を与える可能性がある。

 それに実のところ、老宰相の思惑通りに事を運んだ方が、より平和裏に困難を凌げそうなのだ。

 なんとかしてでも二人には嫌悪を飲み干して、不承不承でもいいから(くだん)の策謀に乗ってもらわねば。

 そのためには。


「すべての始まりであるあの流刑はね。宰相が今にいたるまでこねくり回した策謀はね。恐ろしく不器用な老人たちなりの恩返しだったんだよ。終戦に導いた英雄へのね」


 まずは二人の感情に訴える必要がある、とナイジェルは判断した。

 かの老人さながらの悪辣な手段ではあるが、話を聞いてもらうために彼らの戦友をダシに使うことにした。


 不等に追い出したのに恩返し?


 宰相がしたこととはまったく矛盾した台詞に、若い二人はちらと顔を見合わせて。

 そして訝しげな視線をナイジェルに注いだ。


 食いついた。


 まず彼らが話に興味を持ったことに、ナイジェルは内心ほくそ笑んで。

 一度ちらと日の出の方、件の彼のただいまの住処に目を向けたのちに、彼は語りはじめた。


 昨夜、陸軍省にてコンスタット本人から告げられた、今の事態にいたるまでのそもそもの元凶。

 あの御前裁判の真の意図を静かに、けれども滔々と。

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