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第七章 四話 軍人の鑑

 街を走る鉄道馬車の本数が、早朝故に少ないからだろう。

 空気は馬や客車が巻き上げる塵芥がほとんどなくて、どこまでも遠くを見通せそうなほどに透明感があった。

 人通りもまばらで、今のゾクリュは日中の猥雑さが考えられぬほどに静かであった。


 そんなまさしく爽やかな朝の空気、それを楽しめぬ場所がゾクリュには存在していた。

 そこには駆ける足音がひっきりなしに聞こえ、きつい音色の叫喚、絶え間なく響き――と、いかにも落ち着きがない。


 たしかに仕事が始まる直前の朝というのはみな一様に焦って、慌ただしいもの。

 だからある意味ではその場所も一応平和な朝を送っていると言えるのかもしれなかった。


 だがそんな気遣いに満ちた解釈は、残念ながら見当違いであった。

 それは件のところ――ゾクリュ守備隊隊舎に流れる空気を感じ取ってみれば、嫌でも認めざるを得ないだろう。

 隊舎に満ちる空気は極限にまで緊張で張り詰めていた。

 隊員たちは廊下を、部屋を、中庭を、あるいは兵器庫をせかせかと駆け足で行き交う。

 とくに若人らは、大体がとてもかたい面持ちを湛えているあたり、抱く緊張はいっそう強いのだろう。


「オリバー・ディスペンサー軍曹です」


 隊舎は緊張した空気でぱんぱんとなって、針で一突きすればぱんと破裂してしまいそうなほどであった。

 オリバーがいかにも気を遣い払い、控え目に隊長執務室の扉を打ち鳴らしたのは破裂を恐れてのことだろう。


 余裕を失い、自分のことでいっぱいいっぱいになってしまった若い兵らを尻目に、この歴戦の軍曹には他者を慮る余裕があった。

 現に入室許可を待つ彼のごつごつとした顔には、緊張だとか怖れだとかの色は一切見られない。

 余裕に満ちたその顔は、流石は邪神戦争を最後まで生き抜いた歴戦の兵、とみるべきだろう。


「入れ」


 返事を聞いて、オリバーはやはり極力音を立てぬよう丁寧に扉を開ける。

 真っ赤な絨毯の上でそっと足を揃えて、オリバーは敬礼を捧げた。

 堂に入った見事な敬礼。

 だが肝心の敬礼を捧げられた対象、ボリス・フィンチは彼の敬礼の滑らかさに舌を巻くことはなかった。

 そもそもボリスの視線はオリバーに向いていないのだ。

 いかにも神経質そうな大佐は、後ろ手に組み視線を足元に落としながら、所在なさげに窓際にて壁から壁を行ったり来たりをしていた。


「騎兵の出撃準備、整いました。小官らは下知あらばいつでも急行可能です」


「そうか。了解した。では、次なる指示があるまで待機せよ」


「……はっ。仰せのままに」


 敬礼を捧げながらのオリバーの返答。その直前にはちょっとした間があった。

 しっかりと彼の立ち振る舞いを観察していなければ、気がつかないくらいの僅かな間である。

 その空白の数瞬の意味とはオリバーの上官に対する、ささやかな反抗であった。


 最後まで整わなかった騎兵の準備を終えたというのに、だ。

 問題の現場である、ウィリアム・スウィンバーンが幽閉されている屋敷に急行できるというのに、だ。

 いかにも神経質そうに窓辺でうろうろしている男は、しばし待機せよと言う始末。

 現場の状況は甚だ芳しくないのに、この隊舎にて待てと命ずる始末。

 少なからずウィリアムに恩義を抱いていて、すぐにも丘に向かいたいオリバーからすれば、不愉快極まりない指示でしかなかった。

 それ故彼は沈黙によって精一杯の抗議の意を、代理で着任してきてしまった眼前の大佐へと差し向けたわけだ。


 しかし彼の抗議はどうやら神経質な大佐には届いていなかったようであった。

 なぜならオリバーが執務室へ足を踏み入れてから、ボリスは一度も歴戦の軍曹の方を見なかったからだ。

 ボリスはひたすらに自らの足元に視線を注いでおり、ただいまのオリバーが見せた機微など捉えられるはずもなかった。


「ディスペンサー軍曹。確認したいことがある」


「はっ。どのようなことでしょうか」


「件の屋敷がただいまも邪神に包囲され、頑強に抵抗しているとのことだが……屋敷から銃声が聞こえている、というのは真実か?」


「はい。真実です。現に報告によらば、あの屋敷は弾幕でもって邪神の侵攻を押しとどめているとのことです」


「……なるほど」


 ぴたり。ボリスは足を止めた。


「なるほど、なるほど」


 くるり。ここにきてボリスははじめて身体の真っ正面を、オリバーへとむけた。

 当然ボリスの顔もまっすぐにオリバーへと向く。


 そしてオリバーは――思わず息を呑んだ。


 なるほど、なるほど、と小声で何度も何度も反芻する仮初めの上官の顔から、いつも貼り付けているヒステリックな感情が嘘のように消えていたからだ。


 オリバーは戦慄すら覚える。

 緊張によってきゅうと心臓が握られる感も得る。

 それらの反応の由来は、オリバーにとって今のボリスの顔が既知のものであったからである。

 不都合な予感が胸に走ってしまったからである。


 ボリスの落ちくぼんだ眼窩の奥底にある黒目は小揺るぎもせずにぴたりと固定され、その顔からは感情の鱗片一つも見出すことができない。

 感じ取れるのは、なにがあっても流されてたまるものか、といった風の意思の強さだけだ。


 ――戦場にて上官がこの顔をするのは。


(なにかを決意したときだ。それもとんでもないなにかを)


 それまでは努めて自らの感情を表に出すまいとしていたオリバー。

 しかしとうとうその努力も限界を迎えたのか。

 下唇をきゅっと締め付けた。

 まさに定型通りの苦虫を噛みつぶした顔となった。


 歴戦の軍曹が渋面を拵えたのは当然だ。

 なにせ、ボリス・フィンチという男は”味方殺し”なる悪評がつきまとう男なのだ。

 事実その悪評通りの所業をあの戦争中に積み重ねてきた男なのだ。


 そんな男がなにかを決意した、となれば。

 その決意の内容を察するに難しい話ではないだろう。


「軍曹。不思議な話ではないかね?」


「なにが、でしょうか」


「どうしてあの屋敷から銃声が聞こえてくるのか、がだよ。あの場は彼の者の幽閉場所だ。隔離先だ。そうではないかね?」


「はい、大佐。ごもっともです」


「そうであるならば、だ。本来あの場に銃はあってはならない。違うか?」


「昨夜からドイル少尉らが詰めかけているからでしょう。少尉たちの銃声、ではないでしょうか」


「たかだが数挺の拳銃で、無数の邪神の足止めが能うというのか? 君は?」


「……今のあの屋敷には。彼以外にも同居人の存在があります。それに昨夜から街に住まう戦友たちと宴も開いています。彼らは全員罪人ではありません。であれば銃器の携帯など、珍しくはないと思いますが」


「はっ。詭弁だな。軍曹」


 嫌味たっぷりな笑声混じりのボリスの一声。

 言われなくとも、それがまったくの詭弁であるのはオリバーも重々承知していた。

 彼の下唇の締め付けはますます強いものとなる。


「あの流刑の意味とは、すなわち軍閥形成を防ぐための予防措置だ。彼を不届き者らと武力から引き離すための方策だ。にも関わらず、あの屋敷に武器があった、ということは」


 淀みない足取りでボリスはオリバーへと歩み寄る。

 どういうわけか足音が一切しなかった。

 は虫類にも似た薄い唇の持ち主であることも相まってか、オリバーはその無音の接近に嫌悪を抱いてしまった。

 それはまるで毒蛇に這い寄られているかのような嫌悪であった。


「ウィリアム・スウィンバーンにその意思がなくとも。あの場に集った者どもが、武装を必要とする野心を抱いていた――そう考えるのが自然じゃないかね? となれば」


 一度蛇を連想してしまったからだろう。

 上官の薄笑いに歪んだ唇が開く度に、赤い口腔がちらちらとのぞく度に、舌なめずりをする蛇を連想させてしまって、オリバーの嫌悪は一層強くなった。


「奴らを王国にとっての不届き者ども、とみなして構わないわけだ。ならば、邪神もろとも砲撃であの屋敷を吹き飛ばせば。王国にとっての憂患が二つも吹き飛ばせることとなる。 違うか? 軍曹?」


 オリバーが抱いてしまっている嫌悪に気がついているのか、それとも気がついていないのか。

 ボリスは対面する軍曹を一切慮ることなく歩み続け、いまやその距離、互いの鼻息がふりかかるほど。

 あまりに至近。

 思わず後ずさってしまいたくなるほどに。


 けれどもオリバーはその欲求をこらえた。

 嫌悪をどうにか飲み干す。

 その目も、いまや蛇の化身と化した大佐から背けない。

 彼は逃げなかった。

 何故ならば。


(ここで逃げたのならば!)


 あの騎士級乙種事件のときの恩人が死んでしまう。

 恩を仇で返してしまうこととなる。

 オリバーはそれをなんとしてでも避けたかった。

 上官を翻意させる言葉を紡ぐために。

 彼は締め付けた下唇をふっと緩めた。


「……しかし。御前裁判で裁かれた者を。小官らのような国の中枢から遠い人間が、勝手に裁いてしまうのは。それは王の意に背く真似ではないでしょうか?」


「ふうむ?」


「それに王女殿下もかの屋敷にご滞在なされています。なおさら砲撃は慎重になるべきです」


「なるほど。たしかに貴殿の言うところに一理ある」


 互いに顔を見つめ合う根性比べは、より高位な方がぷいと背けることで決着がついた。

 ボリスがオリバーの言に理を認めたのだ。


 これは説得に成功したか?


 軍曹の緊張が少し和らぐ。

 心臓の締め付けも心なしか緩くなったようだ。


「王意なしに彼の者を消してしまうのは。そして王女殿下をも巻き込んでしまったのならば。大逆と取られかねぬ暴挙とみられてもおかしくはない」


「はい。故にまずは電報によって王室特務に取り次いで。王の意を確認するべきと小官は具申――」


「だがしかしな、軍曹」


 しかし流石はたたき上げのオリバーと違って、士官学校で体系的な知識を叩き込まれた将校と言うべきか。

 ボリスは人の心を挫くのに、効率的な手段を知っていたようだ。

 そして今、まさに彼はそれをこの場で披露した。

 目線を外して、あたかも話が通じたかのような態度を見せておいて、オリバーに希望を抱かせて。


危急存亡(ききゅうそんぼう)(とき)、いちいち指示を仰ぐ真似がはたして賢い行いと言えようか? 責任を恐れて尻込みすることが、はたして将校に求められる資質と言えようか?」


 そしてほんの少しオリバーが油断を抱いたところで、説得は無駄であったとひと睨みしながら告げてみれば。

 軍曹の手中に収まりかけた希望をひょいと取り上げてみれば。

 まったくの不意を突かれたこと、努力が徒労に終わってしまったことを悟ってしまった悔恨が合わさって。

 オリバーは咄嗟に反論をする心構え。これが乱れてしまった。


 いや、それはまずい。


 上官にそう告げるためにオリバーは言葉を探すも、乱された心模様では一向にみつけることができなくて。

 はくりはくりと何度も口が空を噛むのを繰り返してしまって。

 そして。


()()()()()()()()()()()。砲兵の兵装確認を今一度入念に行え」


「……はっ」


 すべては自分が責任を負う――


 それはいかなる反論すらねじ伏せる、高位の軍人のみに許された最後通牒であった。

 こうなってしまえば、もう部下としては止める手立てはなかった。


 今度はオリバーが味方殺しの上官から目を逸らす。

 それは駆け引きのためではなく。

 純粋に敗北を認めてしまったが故のものであった。


「軍曹」


「……は」


「一人の王族と。数人の元兵士と。そして()()()()()()()()()()()()()()()()()()で、臣民の安寧が守られるのだぞ? これは割のいい取引ではないかね?」


 いつまでもしかめっ面を浮かべるオリバーへと差し向けられたのは、諭すようなボリスの口調であった。


 オリバーにとってなによりもこれがよくなかった。

 このせいで彼は知ってしまったのだ。

 ボリス・フィンチという男が、ただの臆病な小物ではないことを。

 いざというときは自らの首をかけて臣民を守ろうと決意できる、王国陸軍の鑑であることを。


 もはやオリバーは気力でもそして理性でも。

 ボリスの主張に異を唱えることができなくなってしまった。


「邪神と国賊をそろって撃滅するために。王国を守護する軍人の役目をまっとうするために。かの丘へと進軍する。良いな?」


「……了解」


 力のない歴戦の軍曹の返答。

 それは彼の後悔でいっぱいいっぱいとなった心持ちを、まったく表現したものであった。


 結局抵抗叶わず、オリバーは自分の無力さを力一杯に呪った。

 そして普段では滅多にやらない、ないものねだりすらしてしまった。

 もしゾクリュ守備隊の本来の長、ナイジェル・フィリップスがまだこの場に居てくれたのならば。

 こんな恩知らずな真似をしなくてもすんだはずなのに、と。

 オリバーは心の底からそう思ってしまった。

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