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第七章 一話 一日の始まりは不安に満つ

 いよいよ白みはじめた東の空を、俺は丘に根を下ろす低木の枝の隙間から眺めた。

 まだ陽は出てきてはいないけれど、程なくすれば姿を見せるであろう。

 せっかく日の出前に活動できているのだから、昇りゆくそれを拝みながら今日も良き日になりますように、穏やかな一日となりますように、と是非とも願掛けたいところ。


 だがしかし悲しいかな、たった今の俺はそんな余裕すらない。

 そしてなによりも残念なのは。

 陽に託すべき穏やかな一日であれ、という願いがどんなに幸運であろうとも実現能わず、と確信してしまっていることだろう。


 なぜ、はやくも本日がのんびりと過ごせないと確信してしまっているのか。

 その理由を述べるのならば――いや、それよりも百聞は一見に如かずという。

 自らの足元を眺めてみる方がより説得力が生まれようか。


 木々の梢のせいで日当たりがいささか悪いからだろう。

 地面にこびりつくようにして生える下草以外には、落葉しか見当たらないはずの素っ気ない地面。

 だけれども目の前には、本来あってはならないはずの異物がごろりごろりと横たわっていた。


 それらはにおった。

 血なまぐさい。

 それも相当にひどいやつ。

 顔をしかめざるを得ない点においては共通しているが、魚や獣、ましてや人間の血液とも異なる、ほとほと嫌になるにおいであった。


 においは俺からすればまったく馴染みのないにおいではなかった。

 少なくとも俺にとっては、いや本日あの屋敷に居る大多数にとって、この独特なにおいは既知のもので、むしろ慣れ親しんでしまっているくらいだ。


「特に俺は。久しぶりという感慨も抱かなくなってしまっているなあ」


 自嘲たっぷりの声色で呟く。

 当然言葉に返す者は居ない。

 何故ならこの場において動くモノといえば、俺を他において存在しなかったからだ。


 死臭を立ち上らせるのは空を飛ぶ有翼の蛇、翼竜級。


 つまりは邪神だ。

 邪神が死んでいる。

 俺が殺した。

 頭を潰すことで。

 人類の天敵である邪神を葬った。


「しかし。これは参った」


 再び独りごちてその場を去る。

 群生する低木から門に向かう道に出て屋敷へと向かう。


 その道中にも多数の邪神、やはりいずれも翼竜級の死骸がそこかしこに転がっていた。

 おかげであのにおいは、どこまで行っても薄くなることはない。

 夜明けを前にしてまったく参ってしまう。

 やれやれ、これでは冗談抜きで時が去年にまで遡ってしまったのでは、と思っても仕方がないくらいだ。


「ウィリアム。どうだ?」


 ときに死骸の脇をすり抜け、ときに跨いでを繰り返して門へとたどり着くと、クロードの声が出迎えた。

 彼の声ははっきりとしていて、その目は一切揺れずに俺を見据えている。

 どうやら酒は残っていないようだ。

 昨夜しこたま飲んだというのにこれとは、流石は酒豪が多い北部の生まれ、とみるべきだろう。


「門を開けろ!」


 クロードより一拍遅れて聞こえるのはソフィーが部下に開門を命じる声。

 命令が飛ぶと間髪入れずに重たい音を響かせながら、閉ざされた鋼鉄の門がその口を開ける。

 ありがとう、と短く開けてくれた守備隊員に礼を告げながら、俺は再び屋敷の敷地へと足を踏み入れた。


「どうにもよくないね。思った以上に翼竜級が辿りついている。屋敷はともかく、丘は浸透されきってしまっている。今の状況で殿下を逃がすのは大きなリスクだね」


 門が再び閉ざされる音を背中で聞きながら、クロードに軽く報告した。

 東から迫る邪神の群れを認めてから今まで、俺は丘に出て偵察をしていたのだ。 


 そしてクロードに言ったとおり、結果は芳しくなかった。翼竜級に囲まれてしまっていた。

 邪神が大きな群れを成し侵攻するときには、大体において群れの目的地に翼竜級が一足先に到達する。

 先んじてやってきた翼竜級の数は、遅れてやって来る群れ本隊と比例。

 そのため翼竜級の数が、群れそのものの規模を図るバロメーターでもあるのだ。


 そして結果は先に述べたとおり甚だ悪し。

 ゾクリュとその周囲の街から守備隊員を根こそぎ動員すべきほどの群れが、この丘に向かってきていると判明したのだ。

 それほどまでに会敵した翼竜級は多かった。


 帰りこそ数を減らしたからマシだったものの、様子をうかがおうと門の外へ一歩を踏み出した直後はそれはもうひどかったものだ。

 溶けたキャンディに群がるアリよろしくに、空飛ぶ蛇どもは俺を喰わんと殺到してきたのだから。


 この状況下で殿下を逃がそうとするのはちょっと骨である、と言わざるを得なかった。


「ダウデルトたちや、貴殿ら分隊が殿下に随行してもダメか?」


「多分大丈夫だよ。ただ、確実な安全を保証できるのは丘を下りるまで、ってところかな」


 緊張でかたくなったソフィーの声に答える。

 閉ざされたばかりの門を、背中越しに右の親指で指すジェスチャーを付け加えながら。

 指し示したのは、俺を喰おうとして返り討ちに遭った翼竜級どもの死骸ではない。

 その先にある丘の麓だ。

 不気味に光る目玉が何対も、それこそ数え切れないくらいにある。

 当然オオカミの群れではない。

 翼竜級に次いで足の速い獅子級だ。


 獅子級の怪しい眼光は一呼吸ごとにその勢力を増してゆく、丘の麓を埋め尽くそうとしている。

 ついでに翼竜級も次々と低木群に着地しているのを鑑みると、さっき俺が間引いた数はとうに補充されてしまっているのだろう。


 翼竜級の熱烈な出待ちをいなして、続いてあの数の獅子級を始末するのは、ずいぶんと時間がかかってしまう。

 しかも都合が悪いことに、時間をかければかけるほど、状況が脱出するのに不向きになってしまうときた。


 翼竜級だけならともかく、である。

 地を駆ける獅子級がここまで辿り着いているということは、群れ本隊もずいぶんと近いところまで来てしまっている、と考えるべきだろう。

 

 流石に十数の頭数で大規模な動員を必要とする群れと相対するのは、御免被りたいところ。


「あれを突破するのが無理って言うのならば。俺たちはちょっと衰えちまっているってことだよなあ……あれくらい去年まではなんとかなってた気がするんだが」


「そこまで衰えているわけではないさ。ただ、去年までとは状況が違う。今の俺たちには武器が決定的に不足しているからね。ファリクのおかげで刀剣は都合できるけど……焼け石に水ってやつだよ」


 悔しそうに呻くクロードに気持ち程度のフォローを入れる。

 去年よりも現状はよくない。武器がないから。

 分隊ご自慢の個々の戦闘力の高さを十二分に発揮できないとなれば、胸を張って殿下を無事に王都に送り届けられるとは言い難かった。


「俺は素手でも対抗できる手段を持っているけれど。でも、他はそうはいかないだろう?」


「違えねえ。出来ねえこたあねえけど。でもヤッパ(刃物)で連中と戦うのはキツいしなあ」


「同感です。私たち守備隊員は拳銃を持ってはいますが……携行している弾数がどう考えても足りませんし、そもそも火力も不安です」


 優秀な兵士であるのは間違いないけれど、実のところ戦闘力でいえば常識の範疇を出ていないクロードから零れ出た本音に、明らかにほっとした声で答えたのはソフィーだ。

 彼女は俺が問題ない、突撃しよう。と言うのを恐れていたようだ。

 そうなった場合、とてもではないがついて行けない、と考えていたのだろう。

 たしかにこれまでのゾクリュで起きた事件では、俺はなにかと突撃してきた。

 いわば前科持ちといったところで、今回もやらかしてしまうのでは、と懸念を持たれても仕方がない。


「その通り。強大な魔法使いが居るとはいえ、殿下と魔法使いを守りながら運動戦を展開する、となると、兵力も個々の火力もあまりに心許なさ過ぎる」


 ソフィーに安心してもらうためにも、念押しで現状での突破は困難と改めて口にする。

 すると安堵の気配がどこからか伝わってきた。

 ソフィーのものではない。

 門扉の向こうを覗き込んで警戒する、ソフィーの部下らの安堵であった。

 どうやらこの会話が聞こえていたようだ。

 いい傾向かもしれない。

 これからなかなかハードな戦いが予想される。

 貴重な兵力として働いてもらわねばならない以上、緊張したままでは困るのだ。


「と、なると。しばらくはここに籠城するか。畜生、やりたかねえけどなあ。籠城」


 クロードががしがしと頭を掻きながらそう言った。

 いかにもうんざりとした口調で。


「文句言わない。大きな魔法が使えるアリスと爆薬が作れるヘッセニアのおかげで、ここに留まる限りでは要塞なみの火力が期待できるんだから」


「とは言ってもよう。わかるだろ? 籠城っつっても問題が存在するのは」


 クロードが乗り気でないのは理解できる。

 この状況下では籠城を選ばざるを得ないのはたしかだけど、では必ずその策が上手くいくかといえば否であるからだ。


 有効的な籠城をするには、味方の援軍が約束された状況が大前提となる。

 籠城により敵の注意を誘引、消耗を強いて、ぴかぴかの軍団が相手の想定外を突ければ大勝利を収めることができる。

 これこそが教科書通りの籠城策だ。


 逆に言えばそれが期待できない籠城というのは、それは敵をひたすらに遅滞しつづける、大がかりな殿軍と成り果てる。

 死とほとんど同義となる。


 もちろん戦況によってはそんな時間稼ぎも有効になりえるが、今回この屋敷の背中には多くの市民が住まう街がある以上、殿軍としては活用しないはず。

 そのはずだけども、実のところ大きな不安要素も存在しているのだ。


 それがただいまのゾクリュ守備隊長、ボリス・フィンチ大佐である。

 拘束砲撃の名手にして極めて臆病な気性の彼が、きちんと挟み撃ちにすべく援軍をだしてくれるかどうか。

 これが信頼できないのである。


 もしフィリップス大佐が今も居てくれたのならば、こんな不安は抱かなくて済むのだけれども、さて、フィンチ大佐はいかに。


 俺もクロードもそれを問うために、まっすぐに守備隊の副長であるソフィーを見た。

 彼女は返事とばかりに、重々しいため息をついた。


「……立ち振る舞いは気に入りませんが。しかし、フィンチ大佐は優秀です。この状況を把握すればきちんとお役目は果たします」


 ソフィーは断言しているけれども、その語勢は少しばかり弱い。

 心の底からの自信を抱くことができずに、むしろ言葉を発することで自分自身に、そうなるはずだ、と言い聞かせているようにも見えた。


 不安しか覚えないソフィーの返答。

 けれども俺らには殿下の安全を確保しての脱出手段がない。

 かの代理隊長を信じるしかない。


「そいつは心強いね」


 それはクロードも十分に理解しているのだろう。

 さきのソフィー同様、顔と言葉が見事に不一致。大丈夫なのかな、といった不安が隠しきれていなかった。


 そしてクロードのそんな不安は俺も抱いていた。

 フィンチ大佐によって植え付けられてしまった心のもやもや。

 それを晴らすためにふうと一息ついて。

 東の空を拝んで。


「あーあ。ほんっとに。今日はひどい一日となりそうだ」


 そんな素直な感想を黎明の空に打ち上げた。

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