第六章 二十話 夜明け前
カーテンから光は漏れ出ていない。だからまだ夜が明けていないのがわかった。
日の入りが遠いわけではないようだ。その証拠にカーテンの隙間からのぞく空の色は、黒というより濃紺といった具合。
払暁直前の時分、俺は自室で目を覚ました。
独りでに目を覚ましたわけではない。
控え目に打ち鳴らされた扉の音、すなわち外的要因によって目覚めたのだ。
はて、やってきたのは誰だろうか。
アリスならば起きているだろうけれど、こんな夜と朝の狭間に訪れたことなんて一度もない。
だから彼女ではないと思うのだけれども……さておき、来訪者を長く待たせるのはいささか失礼か。
スプリングが利いているベッドから抜けだし、気持ち程度にナイトガウンを整えてから扉へと向かう。
そして扉を開けて来訪者を迎えてみると、おっと予想外。
払暁前の仄明るいダークブルーの中でも映えるレッドコートが目に入った。軍隊生活の名残で、すぐさま階級章に目が行く。上等兵か。
無国籍亭の面子と殿下が宿泊してしまったせいで、まさかの任務延長という形で一番の貧乏くじを引いてしまったゾクリュ守備隊の一員が来訪者であった。
「お休みのところ、申し訳ありません」
俺の姿を認めるや否や、ニキビ跡が目立つせいだろう、十代の残り香が強く感じ取れる彼は上官に叩き込まれた通りの敬礼を俺に寄越した。
「いや、起きようとしていたから、なかなかいいタイミングでのモーニングコールだったよ。で、どうしたの?」
「はい。屋敷の外を見張っていたドイル少尉がお呼びです」
「ソフィーが?」
「はい。それも至急、とのことです。ご同行をお願いしたいのですが」
「……わかった。着替えるからちょっと待っていて欲しい」
若くてハリのある声で了解を受けた後、手早く身支度を済ませる。
こういったとき整えるものが少ない男に生まれたこと、そして、着替え時間すらも短縮を要求される軍隊生活を送ったのを有り難く思うことはない。
それらのアドバンテージを十二分に活用して、競馬のマイルレースすら観戦しきれない早さで着替えを終えてみせた。
「悪い。お待たせ」
「では、こちらへ」
きっとまだ夢の中に居る人たちを起こさない配慮であろう。
いかにも神経を使った慎重な足運びを披露している彼に追従する。
音を最小限に抑えて廊下を渡り、幾度も曲がり角を行き、そしてとうとう彼はカンテラを手にし玄関から外へと出た。
庭の石畳をずんずんと進んで門へとたどり着くと、ぱたと先行する上等兵の足が止まった。
どうやらここが目的地のようであった。
それを補足するように、彼は門柱すぐそばに佇む人影に敬礼を捧げてみせた。
「ドイル少尉。スウィンバーン氏をお連れしました」
「ん。ご苦労。では上等兵は仮眠を……ああ、いや。大変すまないがこの場で待機だ。しばし付き合ってもらうぞ」
「了解しました」
そう言うや、案内役はカンテラから漏れ出る石油臭さをたなびかせながら、一歩後ずさる。
かくして俺とソフィーの間に遮るものがなくなった。
カンテラが発するオレンジ色の光に照らされる少尉殿の顔は、唇を真っ直ぐに結んでいて神妙なものであった。
ソフィーの顔を鑑みるにこれは――
「その様子だと。一緒に明け空を見ようっていうお誘いではなさそうだ」
「貴殿は徹夜のせいで、いつも以上にカリカリしやすい難物とともに空を見るのがお好みか? 私が言うのもなんだが、変わった趣味を持っているな」
「なに、空気を柔らかくするための軽口さ。どうせこのあと、不穏な台詞を吐かれるのが目に見えているんだから。下士官流のコミュニケーション術と思っていただきたいですな、少尉殿」
「はっ。なにが下士官流だ。ずいぶんと口が立つ軍曹なことで」
そして肩をすくめた。俺もソフィーもほとんど同時に。わずかに破顔させながら。軽口を叩き合いながら。
思えば出会ったばかりのころと比べると、ずいぶんとソフィーもいっぱしの将校らしくなってきたものだ。
騎士級の乙種が街にやってきたあのころ、実戦を前にしてガチガチに肩を強ばらせていたのが嘘のようである。
いくらか場の空気もほぐれたところで、本題に入ってみようか。
「それで? なにがあったの?」
「どうにも東方が尋常ならざる様子なんだ。奇妙なんだ」
「奇妙? 東が? どんな風に?」
「なんと表現すればいいのか。そうだな……うねっているように見えたのだ。地平線が」
「うねり?」
「ああ。連続的ではないがな。しかし時折、時化の海のように荒々しく、うねうねと動いているように見えた。むろんこのような闇の中故、私の見間違いやも知れぬが……」
奇妙なことを言っている自覚があるのか。
ソフィーは折角わずかに笑みを浮かべていた口元を、山型に曲げて見せた。歯切れも悪い。
たしかによほどの大地震だとか、あるいは砲撃や爆弾、高威力の魔法を用いない限りでは地面が動くなんてことはありえない話。
荒唐無稽の大ボラと見なされても仕方がなく、だからこそ口に出すこと自体も憚れようというもの。
だがしかし、俺はソフィーが嘘をついているとはこれっぽっちも思ってはいなかった。
何故なら彼女は優秀な軍人であるからだ。
軍人は見たままの出来事を自らの口で他人に伝えなければならない。
そうでなくては的確な作戦が立案できない。
自陣営に都合よく脚色した情報を与えてしまえば、そのねじ曲げた部分の想定ができなくなる。
そして往々の場合、その捻じ曲げられて伝わらなかった情報が想定外の事態と化して、軍隊の対応力をあっさりと超越し、兵らの命を奪い取ってくるようになる。
だからこそ、こと作戦任務中の軍人が発する言葉というのは嘘がないのだ。
いかにデタラメに思えようとも、そのデタラメが真実であると受け止めなければならないのだ。
ただそうとは言っても、今の彼女の言が普通ではにわかに信じがたいのも事実。
そう、あくまで聞き手が戦場経験のない普通の市民であるのなら、の話だが。
実のところ、俺にはソフィーの言に幸か不幸か覚えがあった。
「その地平線が歪んだところは。大体どのあたり?」
「説明しようにも目印がないが……おおよそ私が指す方だ」
きっとさっきまで使っていた望遠鏡を、ソフィーは門扉の格子間からぬっと突き出して方向を指示。
次いでソフィーは右の人差し指でとんとんと軽く器械を叩いた。
望遠鏡が必要か? のジェスチャーであろう。
「いや、必要ない。魔力でどうにかする」
望遠鏡の貸し出しを丁重に断り、俺は得意の強化魔法でもって視力を水増し。
するとたちまち闇に溶けて空と一体化していた地平線がくっきりと見え始める。
さらに魔力を目に込めると、今度はつうと横一直線に伸びていた地平線も、より鮮明に捉えられるようになった。
戦争の爪痕、砲撃によるクレーターのせいで、地平線はさながら岩山の肌よろしくにガタガタであるのがわかって――
ああ、なるほど。
恐らくソフィーも望遠鏡越しに見たであろうそれを、たった今俺も捉えた。
砲撃クレーターの底から、明らかに自然物ではないなにかがにょっきりと這い上がってきたのだ。生物的な動きであった。
その瞬間、なにかがクレーターの縁よりも高い位置に飛び出てしまうから、あたかも地平線がうねったように見えたのだ。
「……厄介な。ってことは、だ」
畜生、なんてことだ。
口の中でひっそりと呻いて強化魔法を停止。
厄介という言葉を聞いて、怪訝な面構えを寄越すソフィーはひとまず後回し。
次いで俺は丘の道の両端に茂る低木をじろりと睨んで、睨んで、睨んで――
違和感、察知。
つま先に少し魔力を流して、石畳の一片を引き剥がして、ぽんと中空に蹴り上げて。
そして、右手でキャッチ。
すぐさま投擲。
もちろん魔法で筋力を増強させながら。
石は門柱、門扉の頭上を飛翔。
空気押しのけ、風を産み、闇を切り裂き、立ち木の天辺へと伸びてゆき――そして。
打擲の音色、丘の上にて鈍く響いた。
それは明らかに石と木が当たったものとは、異なる音。
骨肉が石に打ち当たった音。
木陰に投げたのならば、本来しないはずの音。
「なっ」
驚愕の声。
ソフィーの声。
彼女の声と混ざる音がする。
さきほど俺が石を投げた立木の方から。
どさりとなにかが木の根元に落ちる音が。
俺とソフィーとそして案内役の隊員。
三人分の視線が門扉の向こう側の木の根元にへと集まる。
音の正体は。
落下物の正体は。
邪神。
翼竜級。
頭部に石が直撃し絶命した。
息を呑む気配がした。
あまりの事態に言葉を失ったような感じの。
それはソフィーか上等兵のもの。
答えはすぐにわかった。
「……スウィンバーン。これは」
ソフィーがきちんとした抑揚の声でそう問うてきたからだ。
つまり肝を潰しているのは上等兵の方。
「……ソフィー。近衛の人たちを起こしてきて。いち早く殿下を外にお連れしなければならなくなった」
「緊急脱出の用意か。邪神はあの翼竜級だけではない、ということか」
「ああ。そうだよ」
「……もしや。私が見たうねりとあの翼竜級には。なんらかの因果関係があるのか?」
「ご明察。言うなればそうだね。斥候、といったところかな。あの翼竜級は。懐かしいな、一年前までよくやられていたよ」
「斥候、か。ああ、畜生。なんて面倒な」
その言葉にソフィーは悟ってしまったようだ。
この丘に、いやゾクリュになにが迫っているのかを。
今し方俺が選んで使った言葉を聞いて。
斥候。
それは軍隊が”敵”の同行を探るために派遣される、先兵を意味していて。
そしてその斥候が邪神である以上。
斥候が俺たちに向けられている以上――
「つまりあのうねりの正体は。邪神の軍団、いや群れ、ということなのだな?」
そう遠くないうちにこの場所に邪神が押し寄せてくるということに他ならない。
一年前と同様人類を害するために。
ほんの少し上ずったソフィーの声に俺は肯んじた。




