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第六章 十九話 Midnight fog

 大通りのみならず、細い路地でなければきちんとガス灯が敷設されているのは、数ある王国の大都市の中でも王都くらいなものだ。

 それ故夜間でも街は闇中に沈むことはなく、一見すると朝が来るまで夜通し遊べるように思える。


 だがさにあらず。

 他の都市以上にガス灯に満ち満ちた王都でさえ夜の深い時間となれば、街を出歩く人影はとんと少なくなるのだ。

 その理由は王都に住まう誰も彼もが健康的な生活を送っているから、ではない。

 ガス灯の数に比して街の眠りが早いその要因を説明するのに、もっとも手っ取り早いのは、王都の二つ名を口にすることであった。

 ”霧の都市”。これこそが、王都を健康優良児にせしめる一番のわけであった。


 王都を流れる大河にそって建設された工場群、これらは早めに看板を下ろす街の活気とは真逆に、夜通し稼働を続けるのだ。

 当然心臓たるボイラーもその鼓動を止めることはない。

 工場の煙突から流れ出る煤煙、そして河から昇る蒸気が夜の闇に冷やされることで王都は昼よりもずっと深い霧に包まれてしまい、ガス灯が街を照らそうとも前を見ることにすら満足にできなくなるのだ。

 つまり王都は、街灯が街灯としての役割を十二分に活かしきれない環境にあるのであった。


 そんないよいよ霧も濃くなった夜更け、酔客ですらまばらとなった王都を二人分の影が駆ける。

 鉄道馬車のレールが横たわる目抜き通りを走り抜け、昼間は往来の激しい大石橋を大急ぎで渡り、舗装されたばかり故に均された通りを疾駆してもなお、二つの影はその足を緩めることはない。

 図らずも人造となった濃霧を切り裂くそれらの主は、ジム・クルサードとヘイゼル・バイロン。

 王都に根を下ろす探偵と、まだ歴史の浅い諜報機関の長という奇妙なタッグであった。


「ええい! 畜生! やっぱ見辛えなあ! 王都の夜は前も足元も!」


 ずり落ちかけた鹿撃ち帽を手で押さえて、グレイアウト寸前の視界に毒づくのはジムだ。

 足元の段差を見落として蹴躓き、あわや転倒しかけたのである。


「愚痴を漏らす暇があったら足を動かしなさい! のんびりする時間がないのは知ってるでしょう?!」


「わかっちゃいるが、くそ! 俺はもう市民なんだぞ! こんな夜霧を突っ走る生活は送っちゃいないんだ! ぼやきの一つや二つは認めてほしいなあ!」


「一つや二つで済んでないでしょう! もう、数えるのに両手で足りなくなるくらいには言っている!」


「そうは言うがな! ああ、もう!」


 ヘイゼルの叱責がきちんと届いているかどうか、それが不安となる毒づきを再度ジムは口にするも、求められることはきちんとこなしているらしい。

 ジムは先行しているかつての同僚の背中を見失わずに、ぴったりと追走していた。


「にしても! 閣僚の一人たるバイロン卿は大丈夫なのかよ?!」


「なにが!」


「宰相にたてつく真似をすることにだよ! やがて来る(きたる)処分は解任じゃすまないだろう?!」


 ヘイゼルは返事をしなかった。

 けれども濃霧を切り裂く勢い、毛ほども緩めずひたすらに猛進。

 いざ、すわ、陸軍省へと突き進む。

 つまりはそれが返事であった。

 ジムは口角を上げた。

 やはり彼の願うことと、彼女のそれがぴたりと一致しているのを今一度確認できたからだ。

 二人の胸に抱く望みは、いささか危ういものであった。

 戦後の王国に見え隠れする陰謀の影、これを消し去ってしまおうと考えているのである。


 それはすなわち王国の二つ頭、宰相コンスタット・ケンジットの目論見を打ち砕かんとすることだ。

 宰相の陰謀によって陸軍省に閉じ込められてしまった、かつての同僚ナイジェル・フィリップス。

 彼を解放することで、彼の者のシナリオを破綻させてしまおう――二人の共通意識とはこれであった。


 ジムたちに不安がないわけではない。

 未来展望においては楽観とは無縁で、むしろ悲観的にならざるをえなかった。

 文字通り王国で、もっとも頂点に近い男に刃向かおうとしているのだから当然だ。

 爾後にあるはずであろう報復を思えば、こうして決意した今となっても、陸軍省へと向かう足色は恐怖で悪くなりかねないほどであった。


 その上本来なら相手があまりに強大であるが故に、十重二十重の策謀を巡らし裏からチクチクと攻めるべきなのに、あろうことか彼らは姿を隠す努力すら見せずに、真っ正面から陸軍省に乗り込もうとしているのだ。

 無謀、蛮勇、無鉄砲とはまさに今のジムとヘイゼルを指す言葉であるのは、今更言及する必要性はあるまい。


(だが、しかし!)


 ジムは自身を鼓舞した。きっと前をゆくヘイゼルも同じであると信じながら。


 無理無謀であるのは重々承知なれど、ジムらは馬鹿正直に正面突破せざる得ない事情があったのだ。


 国憲局の現役の長官、そして元局員であった彼らは当初セオリー通り、暗闘にてコンスタットを失脚させようと試みていた。

 実際準備は着々と進んでいき、あと一歩で体勢が整うといったところで、彼らが密かに張り巡らせていた情報網から思わぬ報せが届いたのである。

 陸軍省の一室に軟禁されていたナイジェルの下に、意見陳述のために宰相が直接出向いてしまったのでだ。


 ウィリアム・スウィンバーンの一件でもそうであったように、かの冷血宰相は国益、あるいは自らの(はかりごと)のためであるならば、理屈や法、いやときには憲法までも簡単にねじ曲げてしまう。

 それらしい理由を作り上げた上で、有無を言わさずにケリをつけてしまうだろう。


 そもそもナイジェルが王室特務に捕まってしまったのは、コンスタットの不可解な動きにいち早く気がつき、後戻りできないラインまで踏み込んだがためなのだ。

 今更コンスタットがナイジェルを放免する理由はどこにもない。

 すぐにでも手を下すはずだ。


 そうなればあとに待つのは深い絶望だ。

 王室を欲しいままにする魍魎(もうりょう)、それを祓う(はらう)数少ないチャンスを無為にするという、憂国センチメンタルと。

 親しい友人をなくすという、プライベートな絶望が合わさった強い感情が彼らを強かに襲うだろう。


 それ故、ジムとヘイゼルは入念に築いてきた準備を捨てざるを得なかったのだ。

 時間と知恵を総動員しなくてはならない暗闘に持ち込んでしまっては、間違いなくナイジェルの安全が保証できない。

 だから直接陸軍省に乗り込んで、ナイジェルを無理にでも取り返そうと決意したのだ。


 立憲君主制を信奉する信徒であるために、誼に重きをなすウェットな人間であるために。

 二人はこの小さな叛乱を決行するに到ったのだ。


「っと」


 前を行くヘイゼルのストライドが、ピッチが緩まってゆく。

 減速。

 急停止する気配がないところから鑑みるに、不都合な人物に姿を見られたからではなさそうだ。


 と、なれば彼女が足を止めんとしている理由とは――


 その答え合わせと言わんばかりに、霧の合間からぬるりと威容を誇る影、現る。

 ノスタルジックで事実歴史を重ねたレンガ造りの庁舎が軒を連ねる官庁街において、一際異彩を放つ建造物の影であった。

 頑健な鉄筋コンクリートで構成され、あまつさえ物騒なフレーバーを醸し出す銃眼が暗い口を通りに向けている、庁舎と言うより要塞と呼称した方がしっくりくるそれこそが、まさしく彼らの目的地、王国陸軍省である。

 それが通りを挟んだ先にてふんぞり返っていた。


 その門前には歩哨が二名居座っている。

 撃針銃をかついだ彼らは目を右に左にと振って、陸軍省に攻め入ろうとする愚か者を止めるために睨みを利かせていた。

 だがこれまでジムらの移動を難儀にしていた濃霧は、気まぐれにもここにきて味方する気になったらしい。


 街灯の光の方向か、あるいは風向きか。

 どうやら霧が上手いこと一方的にジムらの姿を隠しているらしく、歩哨の二人は気が付いた様子を見せていない。


 特に問題なくたどり着けたことへの安堵の息か。

 モノがモノ故に、深く吸い込めば体調を崩しかねない濃い霧をヘイゼルは口にして、そして吐き出した。


「さて。尻尾を巻いて逃げるのならば、ここが最後のチャンス……だけれども」


「はっ。俺たちで一番ものぐさな奴が、あんな危険を冒してまで働いたんだ。奴より勤勉な俺たちがここで退いていい道理はないだろう?」


 後戻りはできないが、本当にいいのか? 覚悟はできているのか?

 歩哨に聞かれぬように控えたヘイゼルのその問いに、ジムは肩をすくめながら軽い調子で答えた。

 俺は緊張もしていないし、肝もきちんと据わっている、と暗に知らせるために。


 ジムのその受け答えは、はたしてヘイゼルにとってパーフェクトなものであったらしい。

 しっかりとジムの意思を受け取ったのか。

 彼女は滅多に動くことのない目尻を、ほんの少しだけ下げてみせた。


「なら手筈通りにいきましょう。改修の工期をできる限り短縮したことで、意図せず生まれてしまったスウィートスポット。そこから侵入しましょう。そのためにはまず、歩哨を――」


「しっ。少し待て」


 ないよりはマシといった程度のブリーフィングをジムは遮った。

 音が聞こえたからだ。

 足音だ。

 それも軍靴による。

 方向は――陸軍省から。

 真っ正面から。


 歩哨に見つかってしまったか?

 二人は反射的に歩哨を見た。

 だがジムらに気がついた様子はなく、その場に突っ立って哨戒を続けるのみ。


 だが安心はできない。

 依然として足音はこちらへと近付いてくる。

 歩哨ではない誰かがこちらへと向かってくる。


 抑えられない冷や汗がジムの頬を伝った。

 音の主が誰かわからない、向こうがこちらに気がついているのかがわからない、音が敵なのか味方かがわからない――

 

 これらがわからないから、最適解がはじき出せない。

 冷や汗はそんな未知の恐怖から生じるものであった。


 そしてジムはマズいとも思った。

 霧によって姿は隠せているけれど、この場には身を遮るものはそれ以外には何一つとて存在しない。


 距離が詰まってしまえばこちらの存在が、あの足音の主にバレてしまう。

 もし気がつかれてしまったのならば。

 陸軍省に押し入ろうとする不埒なものと看破されてしまったのならば――


 ジムはそっとウェストコートの内へと手を伸ばす。

 サスペンダーに吊した拳銃をいつでも抜けるようにするために。

 最悪の事態に備え、強引に陸軍省へと突撃するために。

 そしてその動きはヘイゼルも同様であった。


 かくして二人は音がする濃霧を睨んで、睨んで、睨んで――

 そしてぼんやりと狭霧に黒い人影が浮かぶようになったそのころ。

 息を殺してそれぞれの銃把に手をかけた、のだが。


 結局の所、それらの緊張は取り越し苦労に終わった。

 いかにも覇気のない男の像が濃霧をスクリーンにして結ばれたからだ。


「ヘイゼル? ジム? どうしてここに?」


「ナイジェル」


 絞り出すかのような息とともに吐き出された台詞は、ヘイゼルのものであった。

 なんと幸運なことか。

 どのような経緯があったのか。

 二人にそれはとんと推し量ることはできないけれども、ともかく足音の主は囚われているはずだった、ナイジェル・フィリップスであった。


 ジムは霧の中から、にわかに現れた友人のつま先から頭の天辺を何度も何度も眺め見た。

 軽く確認した限りでは怪我はないようだ。

 ジムはヘイゼルからずいぶんと遅れて、ようやく安堵のため息を吐いた。


「ああ。安心したよ。どうやら無事のようだな」


「なんで二人がこんな夜遅くまで起きているのかは知らないけど……でもいいや、天の恵みだ。ちょっと手伝ってほしい。そうなんだ、君たちの情報網を駆使してもらいたいんだ。実は、実は。緊急事態なんだよ」


 陸軍省でなにがあったのか。

 それを聞きたかったジムだけれども、なんとも珍しいことがあるものか。

 よろずのんびりとしたナイジェルらしくない、先を急ぐような早口が安堵した二人を出迎えた。


 ナイジェルの顔をよくよく見れば、ぎょろぎょろと辺りを見渡してまったく落ち着きがない。

 安心したジムらに比して明らかに焦りが色濃い様子。

 しかもどこか深刻味を帯びていた。


「緊急事態?」


「そう。ああ、時間がないからざっと説明すると、兵が要るんだよ。一人でも多く。それはなんでかっていうと――」


 訝しみに満ちたヘイゼルの問いに、ナイジェルはまたしても早口で答えた。

 その上、台詞を言い切るよりも前に再び歩を刻みだして、言葉を置き去りにしようとする始末。

 ずいぶんと先を急いでいるようだ。

 のんびり屋の彼をこうまで急かすなんて、余程のことがあったのか。

 ジムは緩んだ気を引き締め直し、陸軍省を後にするナイジェルに追いすがって、続く言葉の一字一句を聞き逃さないようにした。


 ただし、その心がけは少しばかり裏目に出てしまったのかもしれなかった。


「戦場になるんだよ。ゾクリュがさ。一年前に戻ってしまうんだよ」


「……は?」


 聞き漏らすまいとナイジェルの言に耳を傾けてしまったからこそ、ジムは呆気にとられてしまった。


 戦場になるとは。ゾクリュがまた戦中の世へと逆戻りするのは一体なぜなのか。


 文字通り絶句してしまったジムは、そう問い返すのも忘れてしまって。

 霧中を突き進む、無事に外の世界へと戻って来れた友人の背中を追うのに精一杯となってしまった。 

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