第六章 十八話 宴の後の消化不良
いやはや、今日はずいぶんと濃い一日であった。特にフェリシアが殿下を連れてきた夕方からは、まるで瀑布よろしくに怒濤の勢いで時が流れていった。
パブだか宮廷主催の食事会かよくわからない奇妙な一時は、少し前にお開きとなった。
この夜半にて耳を澄ませてみれば、世界そのものの寝息すら聞こえてきそうだ。今、静かな廊下に居る分なおさらに。
それほどまでに夜が更けたのだけれども、しかし、わざわざ神経を世界へと向けなくとも深夜を感じさせる要素は、屋敷の内側にもあった。
さらに厳密に言えば、深夜の空気は俺のすぐ隣からも感じ取ることができた。
気配をその身に受けながら、俺は目の前の扉を開ける。
「ほら。ギルトベルト。部屋に着いたよ。きちんと自分でベッドまで行ける?」
「ん……ぬ。あ、ああ。すまねい、ウィリアム」
呂律が回っていない声を右耳が捉えた。
ずっしりとしたなにかが右肩の上にある。俺がギルトベルトに肩を貸しているからこその重みだ。
ギルトベルトは王族との会食というノーブルなプレッシャーを、酩酊すれば免れると考えたようだ。
明らかに速いペースでグラスを次々干していき、あれよあれよの内に顔が真っ赤になってしまったのだ。
その酔いっぷりたるや、街に戻すのを憚れるほど。
いくら治安がそこまで悪くはないゾクリュ(最近怪しくなっているが)とはいえ、その辺の道端で寝てしまったのならば、翌朝彼がどんな姿で発見されるか予測できたものではない。
その上、悲しいことに酒の力で殿下との会食を切り抜けようとしたのは、ギルトベルトだけではなかったのである。
酒が飲めないフェリシアとムウニスを除けば、無国籍亭組ときたらそれは見事に痛飲して、誰も彼もがギルトベルトと相違ないザマときた。
とてもではないが彼らを帰らせるわけにはいかず、かくして本日全員がご宿泊という運びになったのであった。
「ほら、行ける? ベッドまで運ぼうか?」
もう一度ギルトベルトに問いかけて、彼の意識の有無を確かめる。
さきほどすまないと返事をしたものの、かの大男の足がこれっぽっちも動こうとしなかったからだ。
「ん。や。らいじょうぶだ。一人で……行ける」
右の目の端で捉えていたギルトベルトの影がふらりと揺れた。
一瞬そのまま倒れ込むのでは、と思わせるほどにドアからベッドに向かう動きは、とても危ういものだった。
一歩を刻む度に右に左にと体軸がずれるその動きは、まるで歩き始めの幼子が如し。まったく安心できるものではない。
瞼も半開きで今にも落っこちそうだし、転んで床に突っ伏してしまったのならば、このまま眠ってしまいそうなほど。
と、なれば目を離す理由など一つもなく、かくして初秋の深夜に大の男が大の男の様子を見守るという、とてもシュールな光景が誕生してしまった。
幸い、懸念は懸念のままに終わった。
怪しい足運びはなんとかベッドまで保った。
彼にしてみれば気力を振り絞って、たどり着いたのだろう。
緊張の糸は身体と精神を繋ぐものであったのか。それがぷつりと切れると、ギルトベルトはどぼんとベッドへとダイブ。
時を待たず巨体に似合ったいびきが聞こえはじめた。
「じゃ、おやすみ」
ふうと息をついたのちに一言挨拶。
眠ってしまったから返事は期待していない。彼の言葉を待たずにドアを閉めた。
心配事がなくなったのが原因だろうか。
夜虫のノイズがあるというのに、どういうわけか今夜の廊下は一等静かに感じた。
足を止めてみる。
すぐさまちょっと寂しげな静寂が包み込む。
けれども悪いものではない。
むしろ落ち着いた。
夕方から変に騒がしかったからだろう。
身体は静けさを求めているようであった。
「ウィリアム。どう? あのデカイおっちゃんを無事に部屋まで案内できた?」
しばらく廊下に突っ立ってぼうとしていると、右方よりしじまを破る声。
音の方へと目を向けてみれば、まだ点灯している廊下の燭台、その頼りなさげな光に照らされる赤毛の影があった。
エリーだ。
「なんとかね。他の酔っぱらいたちはどう?」
「ん。コックの兄ちゃんと、ファリクも積極的に手伝ってくれたから問題はなかったよ」
「それはよかった」
他の酒に溺れてしまった面々の移動もどうやら恙なく終えたようだ。
これ以上奇妙な騒ぎが起きなくて実に素晴らしい。
ぐちゃぐちゃな一日になってしまったが、終わりが悪くなければそれでいいのだ。終わりよければすべてよし、ってやつ。
「それにしても、いやはや。なかなかとんでもない夜になってしまったよ。正味な話、俺も酒をたくさん飲んで潰れた方が楽だったかも、って思ってる」
「それは。王女様のご宿泊を受けて?」
「まさかまさか。そのような考えを抱くのは、なんと恐れ多きことか」
鼻笑いとともに言葉を紡ぐ。
言うまでもなくそのハミングにも似た笑声は、台詞そのものへの打ち消しを意図していた。
そう。
泥酔こそしてはいないものの、ゾクリュに住まう戦友たちの他に屋敷に泊まるお人が居るのである。
臣下たちを置いて自分だけ帰るなぞ、それこそ王族としての名折れだ! 王女殿下は今宵そう宣った。
戦場でそれを聞いたのならば、間違いなく後の史書に刻まれること受け合いの名言であろう。
もっとも、お開きが決まった宴の場で飛び出さなければの話、であるが。
状況が状況なだけに、遊び場から家に帰りたくない駄々っ子を連想させてしまうし、事実として殿下の要求はまったくそれと同じであった。
おまけになんと恐ろしいことか。明日は昼間から宴席を開こうぞ、とも言っていたのだ。
宿泊の目論見は間違いなくもっと遊びたいからに違いなかった。
「近衛の人たちももう少し頑張って王女様のワガママ、拒否してくれてもよかったのにねえ」
「……まあ、長く殿下に付いているからわかったんだろう。殿下が妥協するつもりがなかったのを。いかにもみんな頭が痛そうな顔してたし」
実際、俺たち分隊員も気が付いてしまったくらいだった。あのときの殿下は、なにがなんでも意思をゴリ押すつもりであったのを。
経験上こうなってしまった殿下を説得するのは不可能であるのも知っていたし、それ故皆一様に渋っ面を作らざるをえなかった。
だから近衛の皆々様には、ちょっとした期待を抱いていたのだ。
俺たちではああなった殿下を止めることはできないが、俺たち以上に殿下のそばに居る近衛であるのならば、対処法を知っているのではないのか、と。
もっともその期待は淡いものに終わってしまい、形ばかりの抵抗をしただけで、彼女たちも早々に諦めてしまったわけだけれども。
「まったく。今日ばっかりはクロードの悪癖を羨ましく思ったよ。奴め。自分だけはちゃっかり酔い潰れてしまって」
「あー。クロードも大分キてて寝ちゃってたねえ」
「俺も大酒を飲んで意識を手放した方が気が楽だったかもしれない」
「うーん。それはしないで正解だったと思うけどな。絶対に明日が辛くなるよ」
「それはそうだけどね。でも、本当にクロードもちゃっかりしてるよ。あんな真剣かつ奇妙なことを聞いておきながら、自分はさっさと酔い潰れるんだから。おかげであの質問の意図。結局わからずじまいだ」
クロードの酒癖の悪さに、小さくため息を吐く。
殿下の興味が街の戦友たちに向いていたときにした奇妙な質問の件だ。
彼はあろうことか自分で質問しておきながら、その意図をこちらに説明するその前に酒の世界へと逃げてしまったのである。
しかも全員律儀にクロードに答えを返したのに(驚いたことに、全員覚えていないという答えだった)その態度なのだ。
彼は質問の意図を教えるまで酒を我慢できなかったのだろうか。
おかげでなんとも言えない消化不良を今に到るまで抱いてしまっていた。
愚痴めいた口調になってしまうのは、無理もないだろうと声を大にして主張したいところだ。
「……こと今回に到っては。クロードがお酒に逃げたのは悪いこととは言えないかな? 私はそう思うよ」
「ちょっとその弁護は苦しくない? だってクロード。一応まだ殿下直属なんだぜ? いくらオフとは言え、上司の面倒をこっちに見させる――」
「いや。そういうことじゃないよ」
「ん?」
けれども、エリーはなにやらクロードに思うところがあるのか。
俺の言葉を否定で遮った。
声色、顔付き双方甚だ切なる様子。
エリーのその姿を見て、俺は少し不思議に思った。
彼女とクロードとの接点はそこまでない。
だから彼のふとした仕草からその内心を推察するのは不可能であるはずだ。
にも関わらず今のエリーの口ぶりは、クロードの思うところをしっかりと理解できているかのよう。
俺は訝しんでエリーを見る。
その顔に迷いはない。
いつものどこか弛んだそれではなく、まっすぐな目をしていた。
心の底から今日のクロードはああなって然るべき、と信じている様子だ。
「きっと、今日話しそびれたこと。明日みんなの前で改めて話すと思うよ、クロードも」
「そう? だといいけど。いや、良くないか。だって、たっぷり一日も勿体ぶるってことは……また独演会をやるつもりなのか? ヤツは」
「……そう、かもしれないね」
本当に感情がコロコロと変わる少女だ。
エリーは真剣味はそのままに、されどついさっきのが嘘であったかのように、歯切れの悪い口ぶりとなった。
文字におこせば肯定の言葉なれどその声色とは一致していない。
独演会にはならないと暗に告げているようであった。
と、いうことは彼女はやはり知っているのか。
クロードの内心を。
この歯切れの悪さは、心の内という極めてプライベートな領域を知ってしまったが故のものではないだろうか。
他人の秘密を意図せず知ってしまった罪悪感を、今の彼女は抱いているのだろうか。
それを確かめてみる。
ぼんやりとした燭台の暖色光を頼りに、じっとエリーの目を覗き込もうとする。
しかし能わず。彼女自身が下目に逸らしたが故に。
少女の身体の輪郭から、罪悪感がにじみ出ていた。
やはりそうなのか?
知ってしまっているのか?
しかしどうやって?
接点は少ないというのに。
まさか馬鹿げたこととは重々承知だが。
エリーは他人の心を読む能力でも備えているというのか?
疑問が募る。
クロードのせいで心の消化不良を患っていることも手伝って、追及したい欲求にかられる。
そしてそれに従うことにする。
口に出そうとする。
なにか知っているのか、と。
けれど機先を制された。
「ウィリアムもたっぷりと寝た方がいいよ。クロードの長話の中で眠ってしまわないように。大切な話を聞きそびれないようにね。それにきっと」
「きっと?」
「多分、明日は。朝からとっても騒がしい一日になるだろうから。それこそ――戦争さながらに」
「戦争?」
「じゃあ、おやすみ」
「え、ちょっと、エリー?」
そしてエリーは不自然に話を変える、一方的に終了させた。
就寝の挨拶とともに踵を返して小走りで眼前から去って行った。
かくして俺は静寂の中に置いてけぼりをされた。
不思議な態度のエリーのせいなのだろう。
胸に滞ったモヤモヤのせいでさっきまでは心地良かった静寂が、なんだかひどく寂しく思えてしまった。




