第六章 十七話 聞きたいこと
ランプに燭台に、とかく照明器具を総動員しているからだろう。
日はとっくに沈んだというのに、今宵の食堂は薄暗さが欠片もなかった。
クリスプやフィッシュアンドチップス、シェパードパイにスタウトシチューとソーセージ。
マスタードやビネガーのビンと一緒に並ぶそれらは、今更言及するのをおこがましくなるほどにポピュラーなパブフードだ。
東の帝国で焼かれた磁器と、テーブルを覆う真っ白なクロスの上に置かれていなければ、この場はパブであると誤解してしまいそうである。
それほどにまでこの手の料理が屋敷の食堂に並ぶのは珍しい。
昼食で度々登場するクリスプ、単純に俺がアリスによくリクエストするシェパーズパイを除けば、まず姿を見せない連中だ。
しかしそれは悪いことではない。
これからお酒をメインにして腹を満たそうというのだから。
その手の席のお供としてパブフードほどの適任はないだろう。
と、なれば自然と目の前の光景は自然と頬が緩みそうになるというもの。
楽しい席を予感させて、無自覚な微笑みを湛えそうというもの。
だというのに、この部屋の空気はさにあらず。
なんだか不自然な緊張感に満ちていた。
いや、不自然なのは雰囲気だけではない。
実のところパブフードが並ぶテーブルの上でさえも、より広く見たのならばちょっとした違和感があるのだ。
違和感の正体、それは料理の取り合わせ。パブフードと共に肩を並べる料理たち。
大皿に鎮座するローストされたノウサギ、マトンチョップ、銀食器に盛り付けられたオイスターにブドウやパイナップ等々のフルーツ――
そう、パブではお目にかかれないような上等なメニューがしれっと混ざり込んでいるのだ。
ただ、それだけならばアリスかムウニスが張り切ったのかもしれない。
不思議な取り合わせだけど、食堂を奇妙な空気で覆い尽くすにはいささかインパクトに賭けているだろう。
そうだというのに、だ。
俺の隣の席に座すクロードの顔付きといったら、口をきっちり横一線に結んでいてとてもかたいもの。
いかにも件の空気のせいで緊張している面構え。
いや、緊張に満ち満ちている顔をしているのはクロードだけではない。
俺と同じ側の席にいる分隊員たちも、テーブルを挟んだ先のギルトベルトを筆頭とした無国籍亭の面々も。
そして席もなく直立不動でいる監視役のソフィーらまでもが、かちかちに固まった顔をしていた。
多分俺自身も彼らと似たような顔を浮かべているだろう。宴会には到底似合わない渋い顔を。
宴席をこうまで思い空気にさせてしまっているその元凶とは一体なにか。
それは寝坊で遅刻してきた魔族の少女、フェリシア(そのくせ彼女はこれっぽっちも緊張してない。理不尽!)が連れてきた。
「ぬっ! このチップスを揚げたのはアリスだな?! 油がまったく臭くない! さては上等な油を使いおったか! ええい、この手の料理はもっと下品に作るべきだというのに!」
フォークで刺したチップスをついばむや否や、いきなりお冠となった一応の上座に陣取っているそのお人こそが緊張の源泉だ。
王位継承者第一位たるメアリー王女殿下は周囲の堅苦しい空気をまるっきり無視して、ジャガイモのフライがあまりに上品すぎると素直に憤っていた。
つまりはそういうことだ。
気の置けない仲間内で猥雑にどんちゃん騒ぎしようとしていたのに、急に王女殿下が乱入してしまったものだから、宮廷晩餐会よろしくのお堅くて、その上お上品な夕餉と化してしまったのである。
テーブルのメニューが素朴なんだか贅沢なんだかがよくわからなくなってしまっているのは、まさに殿下がやって来てしまったから生じた現象だ。
近衛の皆々様としては殿下の口に入れるに相応しい品を要求し、実際その材料を厨房に押しつけに来たのだが、当のご本人がそれをまったく承諾しなかったのだ。
近衛はとにかく強硬に反対していたのだが、そこは破天荒王女の面目躍如といったところ。
頑として忠臣の諫言を受け入れることなく、たとえ向こうに道理があろうとも受け入れずごり押しにごり押しを続け、とうとうこの玉石混交の卓上を勝ち取ったのである。
「いやいや殿下。これはなかなか屋台じゃ食べられない素晴らしいチップスですよ。全然使い回されてない油での揚げ物、ぼく一度食べてみたかったんだー」
「フェリシア! お前もわかってないな! 油は何回か使い回したほうがより味が出るということを!」
「えー。それはたしかにそうかも知れませんけれど。でも大体の屋台で出されるのは、使い回しの限度を超えてますよ。いっかにも身体に悪そうですし」
「だからいいのではないか! この手の茶色い食べ物はちょっと身体に悪そうな雰囲気をかもしてこそだ! でなきゃわざわざ私が屋台巡りをしようとした意味がない!」
「や、屋台巡りをしようとしていたのですか?」
ここに連れてきてしまったフェリシアと、殿下のマイペースなやりとりに俺は思わずくちばしを挟んだ。
前回の訪問もゾクリュの行政になにも伝えていないゲリラ的なものであったから、どうせまた今回もそうなのだろうとは思っていた。
予感はやはり当たっていて、しかもそれなりに真剣な理由があった前回とは異なり、今回の訪問理由はあまりにもひどすぎた。
そんな理由で行幸した王族なんて、王国史史上殿下がきっと初であろう。
「そうだ! だがしかし、どうしたことか! 市場に出向こうとも屋台が一件も出ていなかったのだ! 実につまらなかったわ!」
「ほんと、あれは不思議でしたねー。ぼく、あんな光景はじめて見ちゃった」
「だからフェリシアには感謝しきりだ! こんな楽しそうな場に案内してくれたのだからな! 無駄足をせずに済んだ礼として、後日なにかくれてやろう!」
「ありがたき幸せー」
わざとらしい臣下の礼を演じてみせるフェリシア。対する殿下もおとぎ話の王様よろしくに、演技がかった笑声を部屋に響かせる。
そんな空気が読めない二人に近衛の皆様は冷めた目を、いや、フェリシアにいかにも恨みのこもった視線を遠慮なく投げかけていた。
言うまでもなく今日市場に屋台が出ていなかったのは、近衛が店主たちに握らせて臨時休業させていたのだろう。
それは当然の対応と言えた。
なにせ王国の屋台めぐりというものは、まさに運試しの代名詞。
適当な調理法が施されているか、不等なかさ増しがなされているかどうか、果てには食材が可食であるか否かがまるっきり不透明なのだ。
行幸先で殿下が食中毒にでもなったら間違いなく近衛の責任問題に発展するというのに、それを防ごうとしない理由がどこにあろうか。
だからこそ根回しをしたというのに、あろうことかフェリシアは近衛の苦労を踏みにじってしまったのだ。恨みの視線を寄越されない方がどうかしている。
とは言え俺は近衛に同情はできなかった。
たしかに殿下の口に奇天烈なものを運ばせたくない、という思惑は十分に理解できる。
けれども、である。
なにせこのテーブルに並ぶパブフードを殿下に食べさせたくはなかった、と思っていたということは、アリスとムウニスの料理を屋台のそれらと同列視したということでもある。
二人に余計な疑念を抱かれるのは、親しい仲にある俺としてはいい顔ができるはずもなかった。
「ん? なんだお前ら、酒も料理も進んでいないではないか。ほれ、好きなのを飲んでつまむがいい。当たり年の共和国ワインもあるぞ」
「あ……その。き、恐縮でございます」
直近に居たギルトベルトが犠牲となった。話し相手として彼が選ばれたようだ。
王族から声をかけられるというのは、一市民からすれば正真正銘の異常事態。
現に哀れ彼はいつもの豪胆な様子、これを少しも見せることもできずに、肩と顔を強ばらせてギクシャクとした受け答えしかできないようであった。
「なに、堅苦しくする必要はない。ええっと、ギルトベルトと言ったか」
「は、はっ。お名前を覚えいただき光栄でございます。王女殿下」
「だから緊張する必要はないというのに」
殿下はかちかちな返事にご不満らしい。子供のように唇を突き出す。
だがそんな可愛らしい顔を見せようが、状況が殿下の望むものになることはあるまい。
要求しているものが、あまりに理不尽すぎるからだ。
むしろ本当に何気兼ねなく会話してしまっているフェリシアの方がおかしいのだ。
きちんとした態度で殿下と向かおうとしているのに、異常な方を基準に考えられてはギルトベルトとしてはたまったものではないだろう。
幸い、今回の殿下は譲歩の姿勢を見せていた。
どこか不承不承といった体であったけれど、それ以上に強く要求することはなかった。
「まあ、よい。それはそれとして、だ。たしか貴殿は私の分隊としばしば共同任務にあたっていたな?」
「ええ。共闘の度、心強さを覚えたものです」
「いひひ。そうだろう、そうだろう。なにせ私が世界中を飛び回って、一人一人逸材を拾い上げてきたからな」
「かの分隊は殿下のご発想であったのは耳にしておりましたが……御身がスカウトをなされたのですか? 初耳でございます」
「うむ。そうだ。まあ、私の苦労話でも聞いてくれ。こいつらときたら、どいつもこいつも頑固でな。分隊を作るのも一筋縄ではいかなかったのだ。例えば――」
しばらくは殿下の興味が俺たち分隊員に向くことはなさそうだ。
王女様はギルトベルトを筆頭にした無国籍亭組の顔を見渡したあと、持参のワインをたぐり寄せて長話する体勢に入った。
殿下の雰囲気から、このプレッシャーに満ちた会話から逃げられないと悟ったか。
フェリシアを除く皆の目の輝きが徐々に失われる様が見て取れた。
ご愁傷様、と言うべきなのだろうか。
「……殿下。分隊結成の裏話を人に話すの好きだよねえ。まだ聞かせていない人を見つけると、すぐに話そうとする」
破天荒王女の被害をしばらくは免れるのを確信できたからか。
あからさまにほっとした声をぼそりと出したのは、マトンチョップにナイフを入れたヘッセニアであった。
たしかにヘッセニアの言うとおりで、殿下はなにかと他人に分隊員集めの苦労話を聞かせたがる気があった。
しかも当人たちの目の前でも構わずこうしてベラベラ喋るのだ。その度にちょっとした小恥ずかしさを覚えざるをえない。
だからせめて俺たちがいないところで話してくれ、といつも思っていた。
面白くはないのだし、どうして殿下がこの話がお気に入りなのか、それがまったくわからなかったけれど。
しかしどうにも、クロードが好んで語る理由を知っているらしい。
手元のパイントグラスにあったスタウトを一息に飲み干して、口を山形に曲げ、美味い酒を飲んだ直後とは到底思えない顔を作ってから口を開いた。
「無理もねえよ。殿下の対外的な初仕事だったからな、分隊結成は。恐れ多いがそれほど思い入れのある事業であった、ということだろう」
「ええ。私もお付きのときには、殿下が王宮にお帰りになる度にお聞かせいただきましたよ」
真っ赤なワインがたっぷり入ったデキャンタを運んできて、食堂に姿を現したばかりのアリスがそう証言した。
使用人にまで語った、ということはよほど殿下はあの話を誰かに話したがっているということか。
そんなアリスの言葉にへえと心底意外そうな声を漏らす者が居た。
今日に限って街で遊ばずに真っ直ぐ屋敷に戻って、この騒ぎに巻き込まれてしまったレミィのものであった。
「意外。自慢したくてたまらなかったんだ。あの王女様にもなかなか可愛いところがある」
「たしかに先任に同感です。自分たちの目の前に現れるときは、いつも気ままで自由すぎて……まあ、捉えどころのない態度でしたからねえ」
「……おい、ファリク。その手のことは聞こえないように言ってくれよ。聞かれてへそを曲げられたら困るから」
「おっ。ウィリアムが言うと含蓄あるねえ。さっすがは軍曹殿。経験がご豊富だ」
マトンの次はソーセージをフォークを刺したヘッセニアが、ニタニタしながらそう言った。
明らかに人を茶化すための表情であった。
「どういう意味だい? ヘッセニア」
「そのまんまの意味よ。殿下の機嫌を損ねるの、ウィリアムが得意だったじゃない」
「同感。向こう見ずにもよく口論していたのが懐かしい」
そしてその嫌らしい笑みはレミィへと伝染する。
彼女たちはしょっちゅう殿下と意見をやりとりしていた俺が、口には気をつけろと喋ったことがよほど可笑しいようだ。
ヘッセニアは口論と言ったが、俺としては殿下にそんな恐れ多い真似をした覚えはない。
たしかに意見のやりとりをしている最中、お互いに熱が入ってしまったことが幾度もあったけど、あれは決して口喧嘩ではない。
主人と臣下のまっとうなコミュニケーションであったはずだ。
たまに熱くなりすぎて、非常識な世間知らずとか言ったこともあった気がするけど。
口論なんかしていなかったよね? と、不言に問うためにアリスとファリクに目を向ける。この二人ならば、悪ノリせずにきちんと事実を彼女らに言えるだろうから。
だがしかし、次に俺は悲しい光景を見る羽目となる。
援護を求めた二人ときたらなんとあらぬ方へと顔を向け、俺の目を見ようともしなかった。
これは重大な裏切りだ。
おかげで俺は二人の言いがかりを完全否定する根拠を失ってしまい、甘んじて二人のニタニタを真っ正面から受けるハメとなってしまった。
二対一では多数に無勢。
ついには二人の邪悪な笑みに屈して、俺は白旗代わりに両手を小さく上げて見せた。
「……そういうことでいいよ、もう。まったく。本当にどうでもいいことを覚えちゃって」
「へへへ。私の頭は造りがいいんだぜ。忘れたいことはすぐに忘れられるからね」
「……忘れたいこと、か」
邪気に満ちたヘッセニアが居る一方で、いかにも重たげな皺を眉間に刻む者も居た。
クロードだ。
小さく呟いたその独言も、苦虫を噛み潰した顔相応に深刻そのものな声音。
それは運よく殿下の注意が無国籍亭組に向いているこの場においては、少しばかり不釣り合いなものであって。
だからこそ、クロードの不思議な様子に気がついたファリクが訝しげに首を傾げていた。
「分隊長? どうかなさいましたか?」
「……なあ。丁度全員揃っていることだし、お前らに聞きてえことがあるんだ」
クロードは今度はワイングラスを摑んで、これまた一息に飲み干してそう言った。
渋面を浮かべたのはワインの重たいボディが原因だからではないだろう。さきのファリクの問いによるものだ。
急に深刻な顔つきで聞きたいことがある、とクロードが聞いたのだから元分隊の全員がそれぞれ怪訝な顔付きを見せあった。
クロードは一体急にどうしてしまったのか。
みんなそう言いたげであった。
もちろん俺もそうだ。
ファリクが新主教事件の調査のために守備隊に呼び出された夕からというものの、なんだかクロードは様子がおかしいように思えた。
あの日もそうだった。
今みたいに誰かの台詞の一節を小さくオウム返しして、一人ひっそりと渋っ面を作っていた。
あの日ととてもよく似た素振りを見せたと言うことは。
俺は彼との会話を思い出す。
クロードはたしかこう言っていた。
幸福な夢を見続けることは、果たして幸福であるのか、と。
夢は必ず醒めなければならないものなのかと。
かの夕方のクロードは意図的に言葉を省いていて、その思うところの全容はいまいち摑めなかったけれども。
今まさに似たような顔を作っていると言うことは。
「お前ら、あの最奥部で繰り広げた最終戦闘、覚えているか?」
顔を真っ青にして、唇を振るわして、なんども空気を噛みつぶして。
いかにも勇気をふるって口にした、クロードが口にしたこの言葉が。
幸せな夢とやらと多分に関係しているのは間違いがなさそうであった。




