第六章 十六話 罰ゲームと積乱雲
木々の葉っぱたちの水分と緑色が少しずつ抜けはじめ、もはや晩夏と呼ぶのもキツくなってきた頃合。
この地に来て以来なにかと大事に巻き込まれてきたのだけれども、ここ最近はそんな日々が嘘であったのかのように平穏な一時を送り続けていた。
おかげでファリクに頼んだトピアリーも無事に完成したし、俺が手慰みに造っているオランジェリーもあと一歩といったところで、数面のガラス板を張れば晴れて完成と相成る。
と、なれば少しばかり無理をしてでも今日中に完成にこぎ着けたいと願うのが人情というもの。
実際今日は頑張ってみようと思ったわけなのだけれども、しかしどうにも温室の完成は明日以降にずれ込みそうであった。
俺が故あって外出できなくなって以降、頻繁に訪れるようになった来客が本日もやってきたのだと、対応していたアンジェリカから告げられたのである。
それも一人や二人ではないようだ。ちょっとしたパーティならば開けるくらいの人数であるらしい。
はて、俺に知らされていないだけで、またなにかこの屋敷で催し物でもやるのだろうか?
内心そんな疑問を抱きつつ作業場所から門へと足を運んでみれば、これまた予想もしなかった面々がそこに揃っていた。
ギルトベルト、ムウニス、レナ、セナイにフェナー……この面子とはすなわち。
「今日はお店、どうしたんだい? 無国籍亭、及び戦友一同の皆さんや」
「臨時休業だよ、ウィリアム」
そう言ったのは、これはどういうわけか。
樽を肩に担いでいる半ば無国籍亭の代表と化した感のある、大男ギルトベルトであった。
街中で樽を担ぐ人間なんて見たことなんて一度もないし、そうである以上違和感に満ち満ちた光景であるはず。
しかし、彼のその大きくて筋肉質な体躯があいまってのことだろう。
この光景を目している俺は恐ろしいことに大して不思議に思わず、それどころかなにやら熟れた風情を感じ取る始末であった。
「休業? お客さん、文句言わない?」
「ゾクリュにゃ掃いて捨てるほどの飲み屋があるんだぜ? その内の一軒が休んだところとて、いちいちクレームを入れはしないだろうよ」
「それはそうかもしれないけれど。でも、一体どうしてそんな急な休業を? また店が壊れたとかそんな感じ?」
「そう何度も店が壊れてたまるかよ。今日はな。ここで一席宴会を開いてしまおうと思ってな」
ほれ、これが酒だ、と言わんばかりに彼は肩の樽を小さく揺さぶった。
樽はきっちり酒で満たされているらしい。
揺れる度に留め金がより一層木目に食い込んで、きゅうきゅうと小さく鳴っていた。
「へ? ここで宴会? またどうして」
「哀れにも誰かさんが街に降りられなくなったせいで、こないだのやり直しが一向にできていないからな」
「あー……うん。そういえばそんなこともあったか」
それは新主教騒動が起きる前の話だ。
無国籍亭に遊びに行くその日、疲れが原因でアリスが倒れてしまったのは。
当然アリスを置いて遊びに行く暴挙なんてするわけもなく、その話はご破断となったわけだが、そう言えばやり直しの約束をたった今まで忘れてしまっていた。
あのあとの新主教事件で散々な目にあってしまい、それどころではなくなってしまったのだけれども、それは自分の落ち度を正当化するための言い訳にすぎないだろう。
だからこうして彼らが出向いてくれるのは、罪悪感が多分に滲んだ感謝を抱かざるをえないのだけれども、しかし思うところがないわけではない。
これまた言い訳染みているのだけれども、かの一件が落ち着いてから無国籍亭に赴けなかった理由は一応ながらあるのだ。
王都にお呼ばれしてしまったフィリップス大佐の代理であるフィンチ大佐、彼の存在こそそれである。
「だけどギルトベルト。大丈夫なのかい?」
「ん? なにがだ」
「守備隊……と、いうか、あのボリス・フィンチ大佐。絶対にいい顔しなかったでしょ? どうして罪人の下に大人数を集めるんだーって」
「まあなあ。おもっくそ反対されたぜ。ついでにヒステリーも起こされてな。いやあ大変だった、大変だった」
「……おい、大丈夫なの? まさかとは思うけど、今日ここに無断で来てない?」
「いや、それはない」
俺とギルトベルト、そして時折風による葉擦れ以外には目立つ音がなかったこと。
そしてまさかその人の声が聞こえてくるとは思いもしなかったこと。
この二つが合わさったことで俺は心底驚いた顔を作ってしまった。
無国籍亭の一団その最後尾に立っていた隻眼のエルフフェナー、彼の背中から軍靴の音を響かせながら丘を登ってきたのは、士官学校を卒業してからそれほど日を置いていない新米少尉ソフィー・ドイルであった。
なんだってソフィーがこの場に居るのだろう?
目を丸めて彼女を眺める俺が可笑しかったのか、ふんと一つ鼻笑いを漏らした後、彼女自身がこの場に居合わせている訳を語ってくれた。
「途中で私が交渉を試みたんだ。それなりの時間をかけて説得をしたら、フィンチ大佐が折れてくれてな。私と部下数人がこの場を監視する、という条件で認めて下さった」
ソフィーから少し遅れて四人ほどのレッドコート来る。
彼らはソフィーの言うところの部下数人、なのであろう。
「まったく、ありがたいことこの上なかったぜ。お堅い姉ちゃんだと思ったが、なかなか話ができて助かった」
「それもそれで悪い気がするな。だってそうなるとソフィー、君は任務中ってことになる。そんな中酒で盛り上がるのは、なんだか罪悪感を持ってしまうよ」
「気にするなスウィンバーン。私は下戸だ。ああ、連れてきた隊員も酒が飲めぬ面々だから気に病む心配はないぞ。もっともまあ、私たちも少しくらい料理はつまませてもらうが」
「っつーわけで憂いは一つもなしってことだ。それにだ。一応へたっぴなりに強化魔法使ってるとはいえよ。ここまで樽を運んできたこのギルトベルト様の労力を、まさか無碍にはしないよな?」
ギルトベルトが努めて疲れた風の面持ちを作り出す。
たしかに本来酒がぱんぱんに詰まった樽を、ひょいと肩に担ぐなんて真似はまずできない。
と、なれば強化魔法を用いて筋力を増強させるのと同時に、疲労も軽減させているのだろう。
ただ肉体の疲労は抑えられているとはいえ、無国籍亭からここまでずっと魔力を使いっぱなしなのであれば、精神的な疲れは決して無視できないほどに蓄積しているはずだ。
なら、立ち話を長引かせるわけにはいくまい。
気になる一点の了承を取ったのちに、彼らを屋敷に入れるとしよう。
「ん……じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうけど。でも、食材の貯蔵はそこまでないと思うよ? 満足させる料理の数、揃えられないかも」
「ああ、それなら心配いりませんよ。ほら」
ギルトベルトでもなくソフィーでもないその声の主は、無国籍亭の料理人である海峡商国出身のムウニスであった。
ギルトベルトのすぐ後ろに立っていた彼はゆるくカールしたその髪をはためかせながら、少し憐れみを感じさせる目で丘の下を眺めた。
その仕草から誰かが麓からここまで上がっているようなのはわかった。それもちょっと同情するに足る人が。
一体誰が上がってきているのだろう。
気になってムウニスの傍まで歩を進めて坂を見下ろしてみると、なるほど。
たしかに思わず同情するに足る人が、丘の中腹あたりでなにやらもがいていた。
シャツとウェストコート姿のクロードだ。
木製でかつ大きくて、その上荷物を満載したいかにも重そうな荷車をえっちらおっちら、顔は真っ赤っか、歯を大きく食いしばりながら引っ張っていた。
その一歩一歩は甚だ重々しく、今にも足が止まってしまいそうであった。
「おうい。クろード。さっさと上ってこい。はやくしないと荷物の食材が傷んでしまうぞ」
「――――!!??」
独特の訛りが目立つレナの茶化しに、クロードはきちんとした言葉で反応できなかった。
彼の口からただ漏れ出るのは、叫びというかうめきというか、文字におこせない音のみ。
その様はまるで野獣さながらであった。
そんな半ば人間性を失うまでに身もだえしているクロードを見てげらげら、邪悪な笑声を響かせる者が居た。
悪者の正体は酒樽を担ぐギルトベルトであった。
「ひっひっひっ。相変わらずクロードは隠し事が下手くそでな。そのせいでポーカーが弱いのなんのって」
「そういうギルも人のこと言えないでしょう。クロードと熾烈な最下位争いの果てに、なんとかブービー賞をもぎ取って樽運びとなったのでしょう?」
なるほど、樽運びに食材運び。
分担かあるいは力を合わせて挑めばもっと楽できるのに、と思っていたらどうにも出発直前に重労働を賭けたポーカーをしていたようだ。
そして力仕事が最下位とブービー賞に集中しているあたり、下位二つはどうにも他と比べるのにおこがましいほど離されていたようだ。
多分、この推測は誤ったものではないと思う。
現にさっきまでなにかと饒舌で、クロードを嘲っていたギルトベルトが急に押し黙り、右に左にと居心地が悪そうに目を泳がせはじめたのだから。
かろうじて同着最下位ではなかった、といった感じで、換言すればほとんど最下位であったということが容易にうかがえた。
これはちょっと意地悪してクロードがここにやってくるまで無駄話に時間を費やし、ギルトベルトをたっぷり疲れさせるのも悪くはないだろう。
けれどそのせいで彼が潰れて怪我でもしたら夢見心地が悪いのも事実だ。
少しの逡巡ののち、クロードには悪いが彼の到着を待たずご一行様を屋敷の内に案内することにした。
クロードが気がかりだけれども、分隊時代の頑丈さを鑑みるに何かがあっても奴は無事だろうし。
かくして無国籍亭の面々、そしてソフィーを筆頭とするゾクリュ守備隊員というかなりレアな取り合わせを、取りあえず食堂へご案内。
その道中石畳を二股に分けるようにしてそびえる噴水に差し掛かった頃合い、俺の気を引くものが屋敷の二階にあった。
「エリー?」
二階の窓から上体を突き出す影は、恐ろしく不器用な手先を持つ少女エリーであった。
彼女はなにやらじっと一点空を見つめていた。
気になって視力を魔力で水増しして、エリーの面持ちを確かめてみる。
下唇を噛んで、眉根を寄せて――と、なにやら深刻な様子。なにかを心配した感じだ。
遠くを見つめながらのその顔付きは、なんだか嵐の予兆を出航直前に察知した熟練の漁師を連想させた。
ヘッセニアとどっこいのお気楽な彼女から、何が楽観的な感情をかすめ取ったのか。
それが気になって、つうと自分の視線をエリーのそれに伝わせてみると。
地平線の果てにまで戦争の傷跡である荒れ地が続く東の上空にぶち当たって、そしてそこには。
「一雨、くるのかな?」
夏の忘れ物と言うべきか。
晴れやかな青空の一点に、無視できないケチがあった。
黒く重くそして大きな積乱雲だ。
雲はずいぶんと高く伸びていてまとまった雨を、いやもしかしたらちょっとした嵐をもたらすのかもしれない。
そう思わせるくらいに大きな積乱雲であった。
「ん? ウィリアムなにか言ったか?」
「いや。なんでもない」
さきの独り言はギルトベルトに聞かれていたらしい。
彼の問いかけにかぶりを振りながらそう答えて、目線を再び屋敷に戻す。
エリーが突き出ていた窓はいつの間にか閉じていて、窓ガラスの向こう側にも彼女の影も形も見つけることができなかった。
(雨を心配してたのかな、いや、それにしては深刻にすぎなかったか?)
でもどういうことだろうか。
すっきりと影も形もなくなってしまったエリーの姿とは対照的に、俺の心は何故か後味が悪くて。
まったく馬鹿げているとは重々承知だけれども。
雨や嵐とは違うなにかが東からやってくるような気がしてならなかった。




