第六章 十三話 悪夢と現実
怒号が響いた。
洞窟に似た閉所故にしっちゃっかめっちゃっか、わんわんと反響する心底焦った風の怒号が。
「伍長! レミィ! 後ろ! 回避!」
ほとんど喚声のそれを上げたのはウィリアムであった。
"祖母"が鎮座する"巣"の最奥、そこにたどり着くまで幾多の戦闘を乗り越えたために、彼のレッドコートは纏わり付いたホコリ汚れによって、その髪色に近しいところまで彩度が落ちてしまっている。
けれども彼がそれを気にしている様子はない。
なぜならその余裕がなくなってしまったから。
独立精鋭遊撃分隊が最奥部に踏み込むためのその斥候役を買って出た、ガンマンたる”赤”の”読み手”のレミィににわかに迫った危機が故に。
はじめクロードはウィリアムがなにを認めて大声を張り上げたのかが、まったくもって理解できなかった。
それはきっと先行するレミィを見守る他の分隊員も、いや注意を促されたレミィも同じであったのかもしれない。
しかし程なくして彼ら独立精鋭遊撃分隊の面々は否応がなく、それも後悔と共に知ることとなる。
彼らの戦友がなにに危機感を持ったのかを。
蟻塚よろしくに、土と糊で固めたような壁に背を預けて先の様子をうかがうレミィの丁度死角。
そこから疾風を伴った正体不明の害意がにわかにレミィへと襲いかかった。
「くそっ!」
ウィリアムの注意喚起への解釈がいまいち上手にできなかったこと、そしてなにより完全に不意を打たれてしまったこともあり、レミィはこれっぽっちも反応できず。
彼女が回避能わぬのをほとんど感覚的に悟ったのか。
ウィリアムはお得意の強化魔法による超加速でもって、エルフのガンスリンガーを救うべく一息に距離を詰める――も。
喚起、理解、そして救援。
そのすべてが遅きに失していて。
正体すら掴めぬ、そのなにかの一撃。
栗色髪をした凄腕の銃手を強かに打って。
土色の低い天蓋覆う中空に。
その御首がぽんと飛び上がった。
遺された者の怒号、絶叫、悲鳴。それらが邪神どもの神殿を大いに揺さぶった。
◇◇◇
「ぐう。ぐっ、げっ、ぐ」
クロードは息苦しさで目が覚めた。
その苦しさたるやそのまま窒息してしまうのではないか、と思わせるほど。
事実として彼は窒息しかけた。比喩表現ではない。物理的な要因によって彼の気道は塞がりかけたのである。
絹を用いてひんやりとしたシーツの上を転がり、故郷のある王国北部で織られた綿のブランケットをはねのけ、ベッド脇のオーク材のキャビネットに手をついて。
天板上の水が張られた洗面器、水跳ねでベッド周りをずぶ濡れになるのを厭わずにクロードはずいぶんと醜く崩れた夕食を吐き出した。
一回。二回。三回。
肩をしゃくりあげてクロードは大きくえずいて、その都度呼吸を妨げていた吐瀉物を洗面器へと注ぎ込む。
たくさんの石が叩き付けられたかにも似た、重たい水音が万物が寝静まった夜半の空気を慌ただしく振るわした。
「くそっ」
嘔気はやっと静まり、口いっぱいに広がった酸っぱい呼気をクロードは罵声とともに吐き出した。
水跳ねの音はすっかりと静まり返る。いまや音を産むのは、柱時計と彼自身の荒い息のみ。
ゾクリュの仮住まいでの寝室に本来あるべき深夜の静けさが戻ってきた。
「……くそっ」
もう一度小さく罵詈を紡いで、跳ね返った水で濡れてしまったガウンの袖口で胃液にまみれた口元を拭った。
彼はもう二人は寝転んでもなお余裕のあるベッドから、力なくよろよろと立ち上がる。
手探りでキャビネットの引き出しを開けて、皇国舶来の漆塗りされたヒュミドールの蓋を乱雑にはねのける。そして魔法で葉巻に着火。
クロードは足早に窓辺へ。その歩調、そして窓辺でカーテンを引く手つきはいずれも苛立ちが目立つ荒いもの。
芳香を楽しむために葉巻に手を付けた、のでないのは明白であった。
ただただ口の中にへばりついた胃液の饐えたにおいを、一刻でも早く追い出したいがための喫煙なのであろう。
「……これで何度目だ? 悪夢に魘されてゲロ吐くのは。情けねえ」
月の仄明るい光に照らされた紫色の煙、それと共に吐き出した台詞には、力がまったくなく自嘲の色も濃い。
クロードの自虐その通り、今の悪夢を見たのはこれがはじめてではなかった。
終戦を迎えてからというもののずっとだ。
毎晩見るのではないが故に眠ること自体に恐怖は覚えず、日々睡眠不足に悩まされることはない。
だが忘れた頃になるとクロードの夢枕にあれがやってくる。
奇襲的に見てしまうために慣れを作れずに、決まってその都度さきのような姿を晒してしまうのだ。
「俺は……くそっ。なんて臆病な」
クロードは葉巻を咥えたまま、こつんと窓ガラスに額を当ててそのまま目を閉じた。
ひんやりとした感覚は悪夢のせいで熱を帯びた頭には心地良いものであった。
だというのにクロードの血相は甚だ悪く、まなじりと眉間にはくしゃりと苦悩においたつ深い皺が刻まれていた。
その表情の由来は当然悪夢の内容自体にもある。
世界を荒らし回る邪神の祖である"祖母"が居座る"巣"。
最終作戦で潜り込んだあの巣穴を舞台とした夢。
そこで部下を一人一人失っていく夢。
彼とウィリアムを遺してしまう夢。
戦場返りの軍人にお似合いのひどい悪夢。
だがそんなタチの悪い悪夢でも、ただいまの彼が抱く苦悩の主成分ではない
「あれを見ちまう理由はわかってんだ。なのに俺は、踏み出せねえでいる」
クロードの苦悩の主たる原因とはまさにこれであった。
実のところ、どうして分隊が全滅してしまうひどい夢を見てしまうのか。
その見当も対策も、彼の中ではとうに答えを得ているのだ。
クロードがその気になっていれば、終戦を迎えた直後にこの問題は解決できていたのだ。
にも関わらず戦争が終わってから一年も経つのに対策を実行に移さず、今の今まで悪夢に魘される日々を甘んじている理由はなにか。
それはひとえに彼が怯えているからだ。
悪夢そのものに、ではない。
「あの悪夢が現実なのか。ただいま俺が居るこの世界が夢なのか。そいつがいまいちはっきりしねえ」
彼は現実に、いやより正確に言えば自らの認識に恐怖しているのだ。
終戦を迎えてから彼は常に思うのだ。
今過ごしているこの日常は果たして本当に現実であるのか?
実はあの悪夢が現実であったのではないか?
それによって、自分の心は砕け散ってしまったのではないのか?
今自分が生きている世界は、こうなるべきと自分が夢想した戦後観を基に築き上げられた妄想の世界ではないのか?
クロードは自分の正気に自信がなくなってしまったのである。
その上都合の悪いことに、この世界が妄想で構築されたものと断ずるに値する証拠も、嘘偽りなく現実であるという材料も確認できるのだ。
今の世界が現実であるならば良い。
気に病む必要もなく、むしろ自分の神経質を笑いのネタにできるであろう。
だが、もしあの悪夢の方が現実であった場合。
あの屋敷に偶然にも集まってしまった、憎たらしくも愛すべき戦友たちの大半はすでに死人であり、自分もまた戦争により心身に異常をきたしてしまったわけで――
「いっそ完全に狂っている方が。どんなに楽だったか」
狂っているかどうか。
今の自分はそれがわからなくなっている、と自覚できる理性があるから、こんなにも悩むのだ。
なまじ理性が残ってしまっているから、どちらが現実か確かめなければ、という義務感が生じるのだ。
だからこんなにも苦しんでいるのだ。
いっそ逃げ出して、時々悪夢に襲われるだけの苦悩で済む現状で甘んじ続ければいいのでは、という甘い誘惑に身を預けてしまいたくなる。
だがしかし。
クロードはここでようやく目を見開く。
うっすらと窓ガラスに映り込むその両目には決意の色が灯っていた。
「たとえ現実が不都合なものであっても。受け入れなきゃならないよな? ウィリアム」
クロードはあの日、ファリクのあまりにも情けない入信理由が明らかになったあの夕方と、そのときのウィリアムの言葉を思い出す。
――夢は醒めなければならない。そうした方が後が楽になるから。
そうだ。逃げている時間が、妄想の世界に耽っている時間が長くなれば長くなるほど、現実を知ったときの心の傷は大きくなる。
そしてウィリアムの言うとおり、夢というのはいつかは勝手に醒めてしまうのだ。
何年、何十年と現実から逃げ続け、不可避の覚醒に直面したときに受ける心の傷は相当に深いはずだ。
きっと二度と立ち直れなくなるくらいに、絶望のあまり自分で自分を殺してしまうくらいに。
「終わらせよう。ハッキリさせよう。この夢か現かわからぬ現実を」
自分を守るために、そしてなによりもきちんとあの戦友どもと向き合うために。
もちろん連中が生きているに越したことはない。
だが、自分が壊れて現実から逃げていたのなら、案外寂しがり屋なあの連中のことだ。
いつまでも墓前に花が手向けられないのに腹を立てて、幽霊と化しこの世界を荒らし回るに違いない。
だからケリをつけなければ。
クロードは夜空に浮かぶ金色の月を眺めた。
同じ月の下に居るはず、と信じているあの屋敷の面々を思いながら。
「お前たちは。ちゃんと生きているよな? 全員」
紫煙と一緒に吐き出したつもりであったのだが、出てきたのは台詞のみであった。
クロードはどうしてと思って窓ガラスに映る自分を眺めてみると。
咥えたままの葉巻はいつの間にか火が消えていた。




