第六章 十二話 さわやかな朝にこそ泥、現る
こそこそする必要は本来ないのかもしれない。
少なくとも屋敷内での行動の自由はきちんと担保されており、であるならばいかような態度を取ろうと構わないはずだ。
そう、そのはずなのであるが――
昨朝とは打って変わって小鳥のさえずり穏やかに響く、とても清爽な朝。
清らかな空気を胸いっぱい吸い込んで、身体を大きく伸びをしながらてくてくと歩きたいところではあるが、今の俺ときたらなんとも情けないことか。
身を屈めて、廊下の調度品でもある大柄な花瓶の物陰に隠れて、曲がり角ごとでは壁に背を預け、頭だけを出してその先の様子をこっそりとうかがって。
抜き足、差し足、忍び足。廊下に敷かれた深紅のカーペットの上で音を殺すのを企図した足裁き。
さながらこそ泥よろしくに気配を殺し、朝日から逃げるようにしずしずと廊下を往く。
「いや。見られても問題はない。問題はないはずなんだけど」
俺がかくも情けない姿をさらしているその理由はさきほど俺が出てきた部屋、いや目覚めたベッドがある場所にあった。
自室にある俺のベッドではない。
アリスの部屋にある彼女のベッドで、ついでにいえば目覚めたとき傍らにはぬくもりがあって――つまりはそういうこと。
いや、別に後ろめたいことではないのだけれども、なにぶん他の同居人たちが同居人たちだ。
俺が朝一番でアリスの部屋から出てきたのを目撃されれば、なにを言われるかわかったものではない。
アンジェリカや意外とその辺りの口はかたいヘッセニアならまだしも、レミィに見られたら最悪だ。
ただのイジりならまだしも、奴の場合きつい下ネタを絡ませながらイジってくるのが、アンジェリカの教育上非常によろしくない。
エリーとその手の話を聞くや否や緑眼の悪魔を降臨させるファリクもアウトだ。
意図の有無の差はあろうが、きっと口を滑らせてしまってレミィの耳に入ってしまうからだ。
アリスを除いた同居人の内、半分以上に見られてはならないのであれば、もう俺が選ぶ道は一つしかあるまい。
かくして俺は慣れない暗々裏の行軍をするハメとなったのである。
理性に乏しい邪神どもを相手にしていたから、実のところ俺は隠密行動はそこまで得意ではない。
けれどもまったくもってできないわけでもない。
前方の様子をうかがいつつ、戦場拵えの第六感で死角の後ろに注意を払い続ければ、それなりの隠密性は保持できるだろう。
第六感の知覚野に反応はなし。
時々振り返って、直に確認しても結果は直感と符合。
前方も絶えず確認。
動く人影、欠片もなし。
よし。
これならば誰にも気付かれず、俺の部屋まで――
「なにしてんの? ウィリアム?」
声がした。
それと同時にぞくりと悪寒、肌が粟立つ。
この気配はまさか。
拳握りしめて。
ロスタイム、それを数瞬に留めるために。
魔力で強化。
全力で振り向いた。
唐突な身体の強化に俺の目の玉は着いてこれなかったのか。
万物の輪郭を捉えられず、故にそれらが溶け出して彗星のように真横に尾を引いていた。
色さえも白味を帯びてぼんやりとする視界で、真っ赤なカーペットとは別の色合い、くすんだ赤色が視界に飛び込んできたその頃合いか。
気配と声のした方へときちんと振り向けたのは。
ぴたと動きを止め、それから一拍遅れて視界が元に戻ってみれば。
「うおっ」
「……エリー?」
声の主、そして気配の主。
それが俺と似たような髪色を持つ自称元旅人の少女、エリーであると判明した。
彼女の方も、まさか俺が強化魔法を用いてまで振り向くとは思いもよらなかったらしい。
髪の色よりもいささか鮮やかな赤目、真円に見開き喫驚を露わにしていた。
まさか、彼女だったとは。
俺も内心驚きを覚える。
なにせ俺が感じたあの気配は――
(いや、まさか。俺も衰えただけだろう。まったく。ダメだな。邪神の気配と間違えるなんて)
頭を二回、三回。強化魔法を解除したのちに振って馬鹿げた直感を吹き飛ばす。
握りしめた拳もそっとほどいた。
「あー。急に振り向くんだもん、びっくりした。どったの? そんな深刻な顔しちゃって」
「いや。なんでもないよ。それよりも、朝食用意の仕事はどうしたんだい? 廊下に居るんじゃあできないでしょ」
「厨房での役目は終わったよ。これからヘッセニアにモーニングコールするところ。朝食ができたぞって」
「むっ。それはお勤めご苦労様。なら急ぐ……必要もない、か。ヘッセニア、寝ぼすけだし」
「それはそうと。ウィリアム」
これはなんとかして誤魔化せるのではないか?
今のところ食堂とラウンジはもちろん、書斎でさえも逆方向にある自室に向かっているのに彼女は気がついていないようだし。
ちょっと変わったきっかけであったけれど、このまま朝の挨拶の交わし合いで終われるのではないか。
そんな俺の祈りにも似た期待はしかし、残念なことに夢だけに終わってしまいそうであった。
エリーは相好を崩す。
ただしその笑みはにたにたと意地の悪さがにおい立つもの。
間違いない。
これは人を茶化す表情だ。
と、なれば。
「昨晩はどうだった?」
「……どうって。なにが?」
「ずいぶんとアリスの部屋で楽しんだようで。まさか薄暗い部屋で、バックギャモンをやってたわけじゃないんでしょ?」
俺の祈りは無残にも踏みにじられた。
やはりバレていた。
今俺がどこからここまでやってきたのも、昨晩から俺がどこに居たのも。
ほとんど意図せず呻いてしまった。
「いつから気がついてた?」
「なにを?」
「俺がアリスの部屋から出てきたのを。彼女の部屋に居たのを」
「昨晩からだね」
「さくっ……!」
まさか次第の始めの始めの時点で彼女に知られていたとは。
まったくもって予想だにしなかった答え故に、俺は思わずあんぐりと絶句。
その様子はとても間が抜けていて愉快なのだろう。
エリーは先日のリュートの演奏で披露していた美声を、今日は笑声でもって小鳥のさえずりとの合唱を披露。
そののちに彼女は肩越しに親指でその方を指し示した。
「廊下のあのあたり、アリスの部屋の近くでいい雰囲気になってたからさ。ああ、こりゃ一発おキメになるコースだって思ったわけ」
「……そう」
「なによ肩を落として。そんなに二人の仲を誰かに知られるのが嫌なの? 隠すだけ無駄無駄。特にウィリアムは隠し事が下手なんだから。思い切ってオープンにした方が楽よ?」
「いろんな人に言われるけどさ。俺ってそんなに隠し事が下手かな?」
「下手。そりゃ下手。腹芸しようとしている姿を想像すると……ああ、なんてギクシャクしていて滑稽なんだろう、けらけら。そんな笑いが零れるくらいに下手」
「左様ですか」
ここ最近で考えてもアリスやクロード、ヘッセニア、果てにはレミィでさえにも俺が悩んでいるのを見抜かれてしまっている。
彼らと俺は付き合いが深くて長いから、あっさりとバレてしまったと思っていたけれども、どうにもそうではないらしい。
出会ってそう日を置いていないエリーにさえ看破されてしまうとは。
薄々自覚はしていたが、俺の隠し事のセンスは壊滅的なものであるようだ。
いかにもその手のやりとりが上手でありそうなフィリップス大佐が戻ってきたのならば、ちょっとコツを教えてもらうのもいいかもしれない。
今日みたいなのであればまだしも、重い悩み事を周囲に悟らせないようにしたほうが、彼らにとって健やかな日々を過ごせるに違いないのだから。
「で、ウィリアム? どうだった?」
「君も意外とその手の話に興味があるんだな。それともレミィに毒された?」
「年頃ならそうであるほうが健全だよ。まあ、私が聞きたいのはそういう話じゃないんだけども」
「ならどういうこと?」
「記憶の話」
また言葉が奪われた。
またしても息を呑む。
今、エリーは記憶、と言った。
それはつまり、彼女が人の記憶をのぞき込めるようなおとぎ話じみた力を持っていない限りでは、昨日の俺とアリスの語らいを聞いていたのを意味していて。
さきほどと同じく俺は昨日も彼女の接近を許していたわけでもあった。
まったく自嘲の鼻息が思わず漏れてしまう。
それなりに経験のある元兵士が、こうまでごくごく普通の女の子の気配を見落として接近を許すとは情けない限りであった。
「……聞いてたんだ。気がつかなかったよ」
「へっへっへ。気配を殺すのは得意なんだぜ」
「旅人故の特技ってやつ?」
「そんな感じ。で、どうだったの? アリスがそれを忘れていたのを聞いてどう思った?」
「まあ、そういうこともあるかなって。普通じゃ怒るところなんだろうけど、なにぶん俺も最終戦闘の記憶がないしなあ。あの戦争の弊害と考えたら、割り切るしかないよ」
「怒ってない?」
「思い出してくれただけでも嬉しいからね」
「じゃあ、後ろめたさは?」
「うん?」
「後ろめたさはなかった? 自分もそのことを忘れていたのにって。わかったふりをするのに罪悪感はなかった?」
「はい?」
いまいち話が飲み込めない。
忘れていたって? 俺が?
そんなことはなかった。
エリーが昨夜の話を聞いていたのならば、それがわかるはずなのに。
訝しんで首を傾げていると、エリーは一歩踏み込んで、頭一つ分低い位置から真っ赤な瞳を向けてきた。。
じっとこちらを見つめるその瞳に映る感情は読み取れない。
ただただこちらの反応をうかがうようにしている、としか言いようがない。
観察。
あるいは診察?
心理学者がやるような。
やがて満足のいく結論が得られたか。
今度は邪気のない笑みをエリーは湛えた。
「ん。その様子なら大丈夫ね。きちんと忘れてる。忘れているから覚えてる。今ならアリスと幸せを享受できる。きちんと味わいなさい。短いそのときを」
「はあ?」
「気にしないでいいよ。こっちの話だからね。それじゃヘッセニア起こしに行くから、またね」
なにが起きたのか、エリーはなにを思っていたのかさっぱりだ。
きっと彼女は俺なんかよりもずっと自らの感情を隠すのが上手なのだろう。
とはいえあまりに隠すのが上手すぎて、結局エリーが真に伝えたかったことがなにであるのか。
それが俺に伝わっていない以上、それはそれでいいコミュニケーションとは思えないけれど。
もちろん一番は俺の理解力不足が原因なのだけれども。
「……本当に不思議な娘だな」
心の底からの独言を誰も居なくなった廊下で呟いた。
不意の独り言に対しての質問は、今度は飛んでこなかった。




