第六章 十一話 影、つなげて
その日はまったくもって退屈で、それでいてちょっとばかし悔しい日であった。
昼下がりになるまで雨が降り続いたせいでオランジェリー造りに精も出せず、ずっと屋敷に缶詰。
そもそもにして、なんだか一日を無駄にしたような気分となっていた。
屋敷の内側の仕事はアリスたちの管轄であり、手持ち無沙汰な俺が手を出せるものなどなにひとつもなく、となればやれることといえば書斎で籠城を決め込むか、なにがしのゲームで気を紛らわせるのかの二択。
結局この日は後者を選んだのだけれども、後になってみればこれがまったくの大失敗。
証券を高値で摑んだその直後に大暴落に見舞われた投資家の心情、それにとてもよく似た後悔を俺は抱くこととなってしまった。
あれは取り返しのつかない過ちであり、思えば最悪な一日を送るか否かの最初の分水嶺であった。
気まぐれに俺と同じく暇を持て余してたヘッセニアとチェスをしてみたのだが、これが自然と自嘲の笑みがこぼれるくらいにボコボコにされてしまったのだ。
対局開始から一貫して盤上の旗色は甚だ悪く、あれよあれよの内に俺が仕えるべき王はあっさり討たれ、惨敗と呼ぶにもなお不足する歴史的大敗を喫してしまった。
あまりにもあっさりと、それも一方的なやられっぷりであったので、ついつい俺もムキになって再戦を申し出たのであるが、だ。
だが今にしてみればわかる。
これが最悪な一日となるのを免れる、最後の分かれ道であったことを。
頭に血が上ってしまったが故に誤った道を猛進した俺は、それからも連戦連敗。
俺は黒星が積み重なるのを阻止することができなかった。
そして愚かな俺は次は勝てるはず、次こそは、とひたすらリベンジを申し出てはその度に負けを量産。
俺がヘッセニアに勝利を収めるのは、人類が大瀑布の流れを堰き止めんとするのに匹敵するほどの無謀であったと悟ったのは、結局雨雲が過ぎてクリアとなった空が、柔らかな西日を湛えるころであった。
拵えた黒星の数は――いや、考えたくもない。
「……流石に最後の方はいくらなんでも舐め過ぎだよなあ。だって初心者のアンジェリカに代打ちさせるんだもん」
しっとりとした夜の静けさを裂いているのは、丘から聞こえる虫たちのノイズ(皇国人はこれに風流を感じるらしい。なぜだ)と俺の恨めしげな独言。
俺を侮りに侮ったヘッセニアが、自分の代わりにアンジェリカを起用したことへの恨み言であった。
一応アンジェリカの後ろでヘッセニアがアドバイスをしながらの対局であったけれども、その指南にしたって散発的。
態度も真面目とは言い難く、勝手に書斎から持ち出してきた本を片手にしながら、であったのにだ。
それでも奴のアドバイスは嫌らしいくらいに的確で、どれもこれも俺からすれば致命的な一手ばかり。
かくして俺はヘッセニアの操縦はあったものの、今日初めて駒に触れたアンジェリカにさえもやられてしまったのであった。
「でも。言い訳がましくなるけれど。気になることもあったしね」
まったくの言い訳ではなくて、これは事実であった。
ガーディアンエンジェル憑きのアンジェリカと対局している最中、俺は集中力のすべてが盤面に向かなくなってしまう心配事をにわかに抱いてしまったのである。
くどいようだがこれは決して言い訳ではない。
だってそうだろう? 勉強嫌いのいたずらっ子を無理矢理机に縛り付けたら、果たして彼が驚異的な集中力を見せてくれるだろうか? 両親が望むような素晴らしい成績を、彼はもぎ取ってくれるだろうか?
断じて答えは否だろう。あのときの俺は、そんな哀れな彼と同じ境遇に立たされていたのだ。だから負けても仕方がなかったのだ。
さて、そのようにして俺の集中力を奪ってしまった事情とは――おっと。
なんとも都合が良く、ロマンチックな表現を用いるのであれば、運命を感じさせるかのようなタイミングでそれが現れた。
廊下に等間隔で設えた燭台の、ぼやけていながらもクラシカルで趣のある光に照らされる人影、その人こそが夕方からの俺の懸案事項であった。
影の持ち主は廊下の窓枠に手を置いて、なにやら思案顔で夜空を見上げていてその先には――
「いい月だね。雲もなくて、欠けたところ一つもなくまん丸。思わずキャンバスを引っ張り出したくなるくらいだ」
その人の思案は思いのほか深いものであったのか。
声をかけてはじめて俺の存在に気がついたその人は、ほんの小さく肩をふるわせて。
ゆったり、そろり。
窓の外で輝く月がもし繭であったのならば、それから紡がれた糸はこんな色となるのだろう。
そんな確信を抱かざるを得ない、いつもは結われている綺麗な亜麻色の髪を波打たせながら、ガウン姿のアリスはこちらに振り向いた。
「ウィリアムさん。すいません。気がつかなくて」
「いや、こっちこそごめんね。急に声をかけちゃって。驚いた?」
「ほんのちょっとだけ。その、物思いをしていたものですから」
「ふうん」
隣に立って、アリスに倣い俺も窓枠に手を置く。
ガラス越し故にほんの少しだけたわんで見える夜空を仰ぐ。
昼間までの雨空が嘘のように晴れ渡り、川床から集めた砂金がたっぷり入ったゴールド・パンの中身を、そのまま鉄紺色の夜空に向けてぶちまけたかのような星空とアリスの髪とまったく同じ色の月。
ああ、まったくもって本当に。
「いい夜空だ。たしかに物思いするには最適、と言いたいけれど」
未練たっぷりにいつまでも見ていたくなる今宵の空と別れを告げたあと、俺は隣のアリスを見る。
彼女の目はすでに俺に向けられていた。
まっすぐに、それでいて眉尻がわずかに垂れているような、どことなくアンニュイな顔色であった。
「でもその物思い。雨が止む前からずっと続いてない? 一人で解決できないような、なにか深刻なこと?」
「えっと……その」
アリスは口ごもる。
つまりは胸の内を明かすのに躊躇いがあるということ。
俺に気軽に告白できないのは、その物憂いの種が他ならぬ俺にあるか、あるいはアリスの性格を考えると思い悩み易い俺を気遣っているのか。
そのどちらか、いやもしかしたらその両方かもしれない。
アリスは視線をケーシングに落とす。見るからに話すか否かを逡巡する。
廊下には、そして俺たちの間には、野外の虫たちのぎいぎいと耳障りで機械的に思える声がぎゅうぎゅうに詰まっていた。
どうやらとても話しにくいらしい。
彼女の言葉を待てば待つほど、なんだか気まずくなってくる。
堪え性のない俺はその沈黙にさっさと降参。
またしても窓の外を眺めた。
「思い出すね」
「はい?」
「最終作戦の直前に与えられた休暇のことさ。その初日の夜も、こんな綺麗な夜空だった。ああ、そういえば日中雨だったのも同じだね」
あの日駅を出れば生命力に満ち満ちた木々の緑色と、湖が奏する波音が俺たちを出迎えるはずだったのに、お迎えに上がったのはまさかの漆黒の雲塊と、油がはねるのにも似た雨音だったのだ。
出鼻を挫かれるとはまさにこのことで、事実俺たちはあんまりなお出迎えにちょっとばかし肩を落としてしまったものだ。
だがそんな風情も遠慮もない雨音は、それらの源泉たる雨雲と一緒に夕方には立ち去り、本来かの避暑地が持つ清爽な空気が大遅刻をしながら俺たちの下にやってきて。
そして遅刻のお詫びとばかりにスモッグで汚れた王都では見られなくなった、満天の星空と儚くも美しいお月様を披露してくれた。
あの夜空を知っているのはこの屋敷では俺とアリスだけで、ある種それは二人だけで共有する秘密のようなもの。
だからここで一つ思い出話をすれば、思い悩んだ風なアリスの気を紛らわせるはずだ、と思ったのだけれども。
当のアリスはというと、にわかに息を呑んだ。
両の手を真っ白で一目で清潔とわかるガウンの胸元へそろそろと持っていって、恐る恐る、といった風体でぽそりと尋ねる。
「覚えて……いたのですか?」
「ん」
口の中で短く返事をしながら俺は頷いた。
彼女の言葉のニュアンスから、夜空を眺めたことのみを覚えているのか、と問うているのではないとすぐにわかった。
返事を受けてアリスの身体から力が抜けていく。
心配が杞憂に終わって脱力した、といった感じだ。
「……よかった」
「アリス?」
「その、私。ついこの間までその日のこと、忘れていたんです」
「……忘れたかった記憶だった? もしかして」
「違います!」
かぶりを振りながらのその声は外の夜虫たちよりもずっと力強くて、またずっとずっと感情的であった。
その後を含めて忘れたくない記憶であったと力説したに等しく、その意味に気がついたのか、アリスはほんのりと耳を赤くした。
「本当は……忘れたくない、忘れるはずのない思い出だったんです。でも、自分でも悔しくなるくらいに忘れちゃってて……実は思い出したそのこと自体が、ただの思い過ごしであって。私の妄想のようなものかと思っていて……」
「だから悩んでた?」
アリスは小さく頷いた。
「もし、ウィリアムさんに確かめたのならば。もし、そんなことはなかったと言われてしまったら。それ自体が夢であったとわかってしまいそうで、こわくて……聞けなくて」
アリスはまたしても俯いた。
金色の髪がはらりと降りてきて、まるで緞帳のように彼女の目元を覆いつくす。
おかげでアリスの表情が読み取れなくなったけれど、しかしそれでもまったく構わなかった。
ぱたりぱたりと音がする。
雨音にも似た音。
あの日に、そして今日の昼間に嫌ほど聞いた水が滴る音。
けれどもこと今回に至ってはうんざりとはしなくて。
きらきらとした月色のスクリーンに手を伸ばしてかき分けて。
「夢なんかじゃないさ」
向かい合って、きらきらと光るアリスのその瞳。
そこから伝い落ちる銀色の雫を指で拭う。
指先に乗った雨粒はアリスのぬくもりそのものであった。
「まるであの朝とは逆だ」
「そうですね。本当に。あのときはウィリアムさんが――」
「わっ」
髪をかき分けたり、涙を拭ったり。
なにかと忙しい俺の指は今度はアリスの唇へと向かう。
人差し指を立てて軽く押し当てて彼女の口の動きをそっと遮った。
「自分で話振っておいてなんだけど……そっちの方は忘れたままでいてくれない? いや、忘れたふりでもいいから。やっぱ男があんな風にぴーぴー泣くのは、どう考えてもみっともないからさ」
「ダメです。そのことを含めて、私にとっては大切な思い出なのですから」
「どうしても、ダメ?」
「はい。たしかにウィリアムさんが泣くのを見るのは辛かったです。でも、ちょっとだけ嬉しかったのですよ? ウィリアムさんが心から私を頼ってくれているって知ったから。あの日の誓いが果たせているとわかったから。苦いようで甘い、まるでチョコレートのような思い出なのです」
くすりと笑んだ顔は、ついさっきまで泣いていた人間とは思えないほどに茶目っ気に溢れていた。
もしかしたならばちょっと涙で赤くなった目の対比によって、一層それが目立っているのかもしれないけれど。
「いつまでも大事に抱きしめていたら、溶けちゃうよ?」
「溶けてもいいのです。抱き続けますよ。今のところ、それ以上に甘い思い出がないものですから」
「それはもうちょっと俺の感情を。君への感情を。もっともっとストレートにぶつけてくれっていう要望?」
「さあ、どうでしょう。確かめてみるのも、一つの手だと思いますよ」
「ふふっ。一理ある」
手を伸ばす。
触れる。
彼女の頬に。
アリスは微笑みとともに首を傾げる。
つややかな髪が一房、手の甲を滑っていく。
手を重ねてくれて。
握り合って。
薄暗い燭台の灯りでも、彼女の顔がよく見えるように。
近づいて。
影を一つにつなげる。




