第六章 十話 空のベッド
夢からまず帰ってきたのは、聴覚であった。
このごろではとんと耳にしなかった、小鳥たちの呑気で愛らしさすら覚えるさえずりが彼女の頭蓋を甘く揺さぶった。
次いで戻ってきたのは触覚だ。
血腥く劣悪な環境下にあるだけあって、ごつごつ、とても快適とは呼べない寝床の感触は――いくら待てどもやって来ずその代わりとばかりのお迎えは柔らかく、その肢体を優しく包み込んでくれる肌触り。
ベッドとシーツ、そして毛布の感触だ。
それもまるで自分は大貴族の邸宅に宿泊し、あらん限りのもてなしを受けているのでは、と思わず錯覚してしまうほどに上等なやつであった。
そして一番遅れてきたのは視覚だ。
満を持して彼女、アリスは目を開く。
どこかに落ちている死肉を啜る蠅や、吸血しにやってくる蚊の類いは一切見えない。
緩やかなドレープを蓄えている厚手のカーテン、その隙間から零れ差す青白い朝日、見るからにふかふかなクッションを抱え込む二つのイージーチェア、その間の小さなラウンドテーブルに、足を置いただけで足跡がついてしまう深緑の絨毯――
はて、ここはどこであろう。
まるでお高いホテルの一室だ。
今、彼女が下した評価は正しい。
事実アリスは戦場を離れて、こんな御時世でも逞しくも営業を続ける貴族や資本家御用達のホテルに居た。
そうだ、そうだった。
自分は戦場から程遠い避暑地に足を運んでいるのであった。
ようやくアリスの頭がいつもの調子になって思い返す。
自分がこの部屋に至るまでの大雑把な道筋を。
それはある日突然、隊長であるクロードから伝えられた。
この戦争に終止符を打つための作戦、それが決行される目処がたったと。
さらに最終作戦にあたるための英気を養う目的があってだろう。
アリスらが所属する独立精鋭遊撃分隊のトップ、メアリー王女から分隊員全員に十数日に及ぶ休暇が与えられたのであった。
一級のホテルをメアリーの名でいくつか抑えてあるというおまけつきで。
実家に帰るのもよし、メアリーの厚意を最大限に生かすのもよし。
思い思いの選択をした分隊員であったが、アリスは後者を選んだ。
戦線後退の憂き目にあったせいで、彼女の故郷は地図上では黒塗りにされてしまったからだ。
そして分隊には似たような境遇にあった者が一人居た。
実家が文字通り消滅してしまったウィリアムだ。
すでに浅からぬ関係にあった二人。
どうせならば、一緒に休暇を過ごそう、という話になって。
そして――
「っっっっ!!!!」
アリスは瞬く間に紅潮した。自分でもリンゴよろしくに真っ赤になっているのを自覚できるくらいに。
昨夜なにがあったのか、それをはっきりと思い出してしまったが故に。
まだベッドから起こしていない身体を、恐る恐る、そろそろと翻して、背中側の近景をながめて。
居た。
結果すでに紅くなってしまったアリスの両頬にさらに紅が差す。
アリスの赤面と比すれば、ずいぶんと彩度に欠いたくすんだ赤髪の青年。
共にこの地で休暇を過ごすこととなったウィリアムが背を丸め、寝息すらたてずに静かに眠っていた。
共寝だ。より生々しく表現するのならば同衾。
「と、とにかく。起こさないように。まずはカーテンを」
昨夜の甘ったるい睦言が脳裏に蘇ってしまったアリスは、それを振り切りたいのか。
朝日を遮るカーテンを開くため、ベッドで丸まるウィリアムを起こさないようにひっそりと抜け出そうとした。
彼女自身あの囁かれた言葉が嫌であったわけではなく、むしろ幸せすら覚えていた。
が、いくら休暇とはいえ朝一番からふわふわと幸せな気分に浸ってしまっては、一日がとても締まらなくなりそうな予感があった。
良い未来になるにせよ、悪い未来になるにせよ、この戦争中では最後の休暇になりそうなのだ。
悔いのある休暇にはしたくない。
少なくともぼーっとして一日が終わってしまうような休暇には。
だから幸せな昨夜の睦言を頭の片隅に追いやりたいアリスであったが。
それを邪魔する者が居た。
「えっと、ウィリアムさん?」
ベッドから抜け出そうとマットに手をついたそのとき、邪魔者はアリスの背中から手を伸ばしてしっかりと彼女の手首を摑んだ。
ウィリアムだ。
アリスはちらと彼の顔をのぞき見る。
寝ぼけ眼とは程遠く、彼の意識はしかと覚醒しているように見えた。
多分彼女が目が覚めるその前にウィリアムは起きていたのだろう。
「どうかし――」
どうかしたのか?
そう問いかけたかったアリスだけれども。
「わっ」
言葉は最後まで紡がれず。
ウィリアムがにわかにアリスを抱き寄せたが故に。
二人の距離は一気に縮まる。
昨日用いた石けんと肌の香が合わさったそれがふわりと香るくらいに。
肌がふれあい互いのぬくもりが感じられるくらいに。
これはもしかするならば。
眠りにつく前の続きを所望しているのか。
アリスは思った。
「え、えっと? その。朝ですので。ね? だから――」
実際その最中では痛みと蠢く異物の感覚に、ひたすら耐えるだけであったけれど。
けれど爾後の語り合い、互いの存在を確かめるような撫ぜ合いは心の底からほっとするような安心感を与え独占欲をも満たしてくれた。
あれは癖になりそうな悦楽であった。少なくとも直前の異物感をなかったことにするくらいには。
だからアリスはやんわりと拒んだのである。
朝からそれはまずいと。
自分自身にもそれに耽りたい欲求があるから。
折角の休暇が爛れに爛れて浪費してしまいそうになるから。
だがしかしウィリアムはそれより先に進む気配、これがまったくなかった。
薄いガウンに手を伸ばそうともせず、ただただウィリアムはアリスを自らの胸元に引き寄せただけ。
かといって、アリスのぬくもりを求めている節もない。
本当にただ抱きついているだけ。
どうしたことか。
ウィリアムの様子がおかしい。
アリスはそう思った。
「ウィリアムさん?」
「……子供」
「え?」
「子供。できるかな?」
小さく小さく、蚊が鳴くようなウィリアムの声。
それはアリスからすれば予想だにしない言葉であった。
子供。
本来二人が共に上がるべきステップを、何段もすっ飛ばした台詞。
なぜ彼がこうにもせっかちな言葉を、それも唐突に呟いたのか。
思慮深く滅多に自分の願望を口にしないウィリアムなのに。
それ故アリスは彼の真意をさっぱり掴めず困惑しきりであった。
「あの……その。どうしてそんなことを?」
「ねえ。子供ができれば、さ。アリス」
「はい?」
「君は分隊から外される。後方に送られる。最終作戦を、免れることができる」
「……それは」
「そうなれば。君は絶対に戦死はしない。絶対に」
「……ウィリアムさん」
「アリス。俺は。俺はね」
彼の腕に力がこもる。
より一層きゅうとアリスを自らの身体に引き寄せる。
今や二人の距離はウィリアムの吐息がアリスの耳にかかるくらい。
ガウンかあるいは皮膚。
二人を分かつ境界はもうそれだけ。
そうまでに近付いてしまったからこそ、アリスにはわかった。
今のウィリアムの心持ちを。
「俺はね」
そして彼が泣き出す気配を。
悔しいことに敏感に。
感じ取ってしまった。
「もう。嫌なんだ。もう。大事な人を亡くしたくないんだ。あんな思いはもう。絶対に。だから、だから」
しゃくりあげ、ときに詰まりながら。
またきゅうとアリスを抱く力を強めながら。
「お願い。お願いだから。アリス。死なないで。お願いだから」
きっと胸の奥の奥、最奥にしまい込んだ彼の願いを消え入るような声で囁いた。
ウィリアムは自分が本当に願っていることを隠し通そうとする性分だ。
それが弱音であればなおさらで、彼は基本的に他人に甘えられない人間なのだ。
だが彼は我慢しいであるのと同時にひどく繊細な青年でもある。
それは精神衛生上では考え得る限り最悪な組み合わせと言えよう。
自分が傷付いても誰かに頼ろうとしない。
だからその傷を誰も癒やすことができない。
自分で自分を追い込み続けるだけ。
心の傷は増え続け、やがて限界に至り。
ウィリアム・スウィンバーンという人格は崩壊し、戦場で、いや生活においてもまともな日々を送れなくなってしまう。
そんな悲しい末路を辿るはずであった。
そうあの日。
敗走し、たどり着いた村でアリスに出会わなければ。
あの日アリスに胸の内を明かさなければ。
あの日アリスがウィリアムの理解者にならんと胸に誓わねば。
メアリーの下でただ彼のために必死に頼られる人物像を追い求め、そして実際にウィリアムの信頼を勝ち取らなければ。
彼はとうに壊れていた。
「……大丈夫ですよ」
ウィリアムが悲しみに暮れていることに胸を痛めたアリスではあるが、内心では二つの異なる喜色が灯っていた。
一つは達成感。
この人にとって自分は甘えられる存在となっている。
誓いはきちんと果たされている、この人の役に立っているし、この人をものにしつつある――という妖しい光。
そしてもう一つは独占欲だ。
周りにはわざとらしく気丈に振る舞ってみせるウィリアムが。
あの日から変わらず繊細であり続けてしまったこの人が、こうして弱った姿を自分に見せてくれている。
世界でウィリアムのこの姿を見て触れられる存在は、この自分を他をおいて存在しないのだ。
これは私だけが見ることが許される姿なのだ――そんな愉悦が由来の暗い光。
アリスの心の片隅にはそんな愉悦が根付いているけれど、しかし、狂気以上に彼を安寧を思う心は強い。
もうこの人をボロボロに追い込みたくない、そんな姿を見たくはない、死地に近づけたくない。
彼とはこんな悲しくて暗い秘密の共有ではなく、もっと楽しいものを共にしたいのだ。
心の底から笑っているウィリアムの隣に居られるのであれば、きっと暗い愉悦も、そしてアリスの健全な欲求も満たせるはずだから。
そんな未来を共に送るためにも。
「私は。貴方を置いていきませんから」
アリスは泣きじゃくるウィリアムに、泣き子をあやす母親そのものな語り口で告げた。
大丈夫。ずっとすぐ隣を歩んであげるから、と。
それはウィリアムに向けた言葉であるのと同時に、自分自身に与えた新たな誓いでもあった。
◇◇◇
その日の朝は雨だった。
自室の窓から望む屋敷の庭は、地面にぶつかったせいで生まれる水幕で煙ってあらゆるものの輪郭をぼんやりとさせている。
朝のすがすがしさを演出する小鳥の声は一切消え失せ、代わりに鼓膜を振るわすのは水がはねる耳障りの音だけ。
どんよりとした空と相まって、まったくため息が似合う朝であった。
窓際にてそんな朝を睨みつつ、そういえばとアリスは思い出す。
「……あの休暇の初日。汽車を降りて宿に着くまでのその道中。たしかこんな天気だった」
その日の夜にあったこと、そして翌朝のウィリアムの涙。
絶対に忘れ得ないはずのとても大事な思い出であったのに、どういうわけだろうか。
アリスは今、この時に至るまですっかりと頭の内から消え去っていた。
「本当に。嫌な朝」
どうにも自分は最終戦闘以外にもいくつか記憶が抜け落ちているらしい。
一番大事なはずなウィリアムの思い出を忘れてしまっている自分に、強烈な嫌悪を抱いていた。
だが今朝を嫌なものに仕立て上げている、もっとも大きなものといえば――
アリスは立ち位置を変えずにゆっくりと振り返った。
そこにある共寝する相手が居ないベッドがそこにあった。
アリスはさみしげな視線でそれを眺めていた。




