第六章 九話 幸せな夢に囚われ続けることは、健全であるといえるのか
屋敷の外からやってくる茜色の光が、ずいぶんと弱々しくなってきた。
オランジェリー造りの今日の工程を終え、窓からオレンジの斜光差し込むラウンジのソファ、それに深く身を沈めていた俺は、ふと思い立って懐の時計で時刻を確認した。
やはりだ。
日没までの時間が数十日前に比べて、明らかに早くなってきている。
時間という客観的な数字を突きつけられることによって、俺は改めて実感してしまった。
ああ、本当に夏が終わってしまうのだな、と。
ちょっとしたセンチメンタルに駆られる。
それでなくたって夏の夕方なるものは、気だるい残暑、そしてすべてのものを真っ赤に染める夕日がブレンドされたにおいによって、わけもなく人を感傷的にさせてしまうのだ。
夏が終わったあとの一年というのは、どういうわけか加速度的に時間の流れが速くなるような気がしてならない。
瞬く間に秋が通り過ぎ、寒さ染み入るつらい冬が呼んでもないのにやってきたと思えば、もう新しい年が始まってしまうのだ。
冬から夏までは気が遠くなるほど長く感じるのに、である。
一年の総仕上げが、ひたひたと足音を立てて忍び寄ってくるのを感じざるをえない季節。
それが晩夏。
だからこそ、終わりが見えつつあるからこそ、嫌が応にも振り返ってしまうのである。
ここまでの一年、はて、充実したものであったのか、と。
夏の終わりのセンチメンタルは、そんな問答を自分自身に課してしまっていた。
「……やめよう。詮無きことを考えるのは。これからを考え、企画した方がよほど建設的だ」
二回、三回と頭を振って、独り言も吐いて、晩夏の感傷を心から振り払う。
この一年を振り返ったところとて、気分が良くなる要素は、決して多くはない。
むしろ暗い心持ちにさせてくれる事件ばかりであった。
ただでさえ、心穏やかでない一日を過ごしていたというのに、これ以上気に病むことを自ら背負う理由が、どこにあろうか。
ソファを軽く座り直す。
上体をゆっくり屈めて、そして目は扉の向こうの、さらに廊下を二、三曲がったその先にある玄関へと向ける。
注意の行き先を正確に述べるのであれば、屋敷と外界を隔てる門、その付随物である呼び鈴であった。
そう。
俺は呼び鈴が鳴らさせれることを、今か今かと待ちわびていた。
まるで、遠く離れた恋人の手紙が運ばれてくるのを待ちわびる、乙女のような心情で。
聴覚を研ぎ澄ます。
呼び鈴の音を聞き漏らさぬように。
こちこちと大気と時を刻む時計の音、風の気まぐれによる窓のがたつき、アリスかアンジェリカかそれともエリーか、廊下の燭台、あるいはランプに火を灯すために屋敷を回る使用人たちの靴音――
平穏で、いつも通りな生活音と環境音のみがラウンジの空気を揺るがす。
待望する音は――いや。
「鳴った」
来客を告げる鈴の音。
その大きさ故に可憐とは言い難い、鉄塊を乱雑に石畳を転がしたような、がらんがらんと無骨な音、わずかに鼓膜を震わせて。
その音をトリガーに、俺は雷管を打っ叩く撃鉄さながら、急な動きで立ち上がる。
次いで馬の速歩よろしくの忙しない歩調で、ラウンジを後に、廊下を渡り、曲がり角を通り、玄関を飛び出て――いざ、門へ。
呼び鈴の音をすでに聞き取っていたらしい。
深紫の夕闇がその他の色を奪いつつある門前には、すでにアリスが居た。
錠は外され、質実剛健を地で行く飾りっ気のない四角柱の格子が並ぶ門扉が、ぎいと両開きに。
その先に居た人を見て。
ああ、よかった。
安堵の息を漏らす。
「お帰りファリク。よかった。拘束はされなかったか」
「ええ、軍曹。ご心配をおかけして申し訳ありません」
ファリクが無事に帰ってきてくれてほっと一安心、安堵の息を漏らした俺とは裏腹に、ファリクのものはバツが悪そうであった。
その声色相応に彼の唇も、片端だけつり上げて気まずさを隠そうともしない。
他人に心配をかけたことに、居心地の悪さを覚えているようであった。
もっとも、ファリクの反応は当然か。
なにせ彼は、彼のみならず屋敷を困惑のどん底に叩き落とすイベントに巻き込まれたのだから。
涼やかな空気漂い、小鳥のさえずり爽やかな、そんな素晴らしい朝のことであった。
朝一番にぞろぞろと突然の来客たちが現れたのだ。
アポもなにもなく、招待されざる、しかも軍服を着込んだ来客たちの襲来に俺たちは目を白黒させるだけ。
その間に彼らは、有無を言わさずファリクを連れて行ってしまったのだ。
ただ、幸いであったのは――
「ったく。面倒かけやがって。新主教なんぞに入りやがって。レミィがこっそり裏とってなけりゃあ、あのまま守備隊隊舎の営倉でご宿泊するとこだったぞ」
門の内よりも、いさかか強くなってしまった闇の中から、どこか呆れのにおい漂う声とともに、ぬっと、人影が現る。
眉根を寄せて不機嫌を隠さず表現していたのは、朝もここにやって来ていたクロードであった。
そう、不幸中の幸いとは、件の来客ご一行様にクロードが含まれていたことであった。
おかげで、どうしてクロードがどこかに連行される必要があるのか、問い質すことができた。
どうやら、例の代理守備隊隊長がフィリップス大佐の新主教の事件の対応に、強い不満を抱いたらしい。
あんな処理は手抜きである、と癇癪を起こして、手始めに足取りが掴めている元信者のファリクに、尋問を試みたようなんだ――
と、いつもより余計に慌ただしくなってしまった朝の屋敷で、クロードは事情を俺に説明してくれた。
それだけに留まらず、さっきの口ぶりから察するに、クロードは尋問に立ち会い、ファリクの身の潔白を証明してくれたようである。
「同感。まったくもって面倒な仕事を増やしてくれた。おかげで、私は残業。その上寄り道もせずに、ここまで帰ってきてしまった」
またしても門外の闇より、声と影来る。
今度は女の声。
屋敷に共に住まうレミィである。
この面子から考えるに、きっとクロードがご自慢のオートモービルで送ってくれたのだろう。
しかし、どうしたことか。
さきのクロード同様、彼女もあまり機嫌がよろしくないらしい。
いつも通りの無表情であるものの、その口ぶりには、バラかアザミのような、とても目立つトゲがあった。
「残業ということは。レミィもファリクの取り調べに付き合ったの?」
「是。たまたま上からこれの入信前後に探りを入れる任務があって。それが転じて、これが国家転覆なんぞを抱いていないって証明になったわけ」
「へ、へへへ……ほんとスミマセン。先任」
へつらいの意図があるのだろう。
にへらと、締まりのない笑みを浮かべながら、ファリクは何度も何度もレミィに頭を下げた。
どうにも、俺が思っている以上にレミィはご機嫌斜めであるようだ。
そんなあまりに情けないファリクを見て、レミィは目を三角にしながら、わざとらしく舌打ちをした。
「不愉快。その態度はとても不愉快。何度も言うが、あんな下らない理由で、安易に入信するからこんな目に会う。私の趣味の時間を潰して。本来なら今頃、あの子と……まったく」
「趣味? あ、先任? もしかして欲求不満で?」
「是。誰かさんのせいで」
「な、なら……自分が責任を取って欲望の処理を――」
「あ゛? なにか言ったか?」
「い、いえっ」
レミィがファリクの台詞に差し込んだ言葉は、あまりに凄味に満ちていた。
まったく事情を知らない俺と隣に居るアリスを身震いさせるほどに。
たしかにファリクのたった今言ったことは、あまりにデリカシーに欠いた言葉で、なにかしらの制裁に値するとはいえ、だ。
常のレミィであれば、もっと直接的でえげつない下ネタを投げ返して、適当にあしらう余裕があるはず。
それがまったくできていない、となると。
クロードの呆れの色濃い声といい、あんまりにも虫の居所が悪そうなレミィといい。
「え、えっと……その。それほどまでに……取り調べは。よろしくないものであったのでしょうか? フィンチ大佐の振る舞いが良くなかったのでしょうか?」
取り調べでなにかがあったに違いない。
アリスは俺が抱いた思いと、まったく同じことを声にしてくれた。
なにかとよくない噂のある大佐が、二人の気分を害してしまったのではないか、と。
だが、どうやら話は違うらしい。
レミィはふるふるとかぶりをふってみせて。
「否。やらかしたのは、これ」
目も合わせもせず、背中越しに親指でファリクを差すや否や、夕闇で艶やかさが失ったように見える栗色髪をたなびかせ、レミィは足早にこの場から立ち去る。
彼女はこの一連の話で、ずっとファリクをこれと称していた。
そう易々と彼女のへそはまっすぐににはならないだろう。
もしかしたならば、屋敷でヘッセニアに八つ当たりをして、大げんかに発展してしまう可能性も否定できない。
さらに下手をすればヘッセニアがキレて、爆発で屋敷が吹っ飛んだりしてしまうかもしれない。
アリスも同じことを考えたか。
一度俺をちらと見て、不言に問いかける。
レミィに着いて、色々とフォローを試みるのがいいのか、と。
「ごめん。頼める?」
「お任せを。では」
アリスは一礼。
音もなく静かに、けれども足早にレミィを追っていった。
これでレミィとヘッセニアの大げんかはきっと防げるだろう。
懸案は一つ片付いた。
さて、残るのは。
「で? スナイ伍長? 取り調べで君はなにをしたんだい?」
「は、はっ。いえっ! 取り調べではなにもしてません!」
「なにも? 本当に」
「ななな、なにもしてません!」
どうしてレミィが、ああまでつむじを曲げてしまった理由を明らかにすべきだろう。
ゾクリュ守備隊隊舎でファリクは一体なにをしたのか。
敢えてかつての階級と強めの口調で、プレッシャーをかけつつ当の本人に聞いてみるけれど、ファリクは否定。
しかし、その口ぶりはしどろもどろ。
目も右に左に、ときには上にぎょろぎょろ動いて、兎にも角にも落ち着きが欠乏している。
明らかになにかを隠している態度だ。
ファリクにどうにも白状する気配はない。
と、なれば現場に居合わせたクロードに問うのが、真実への近道に違いない。
実際のところはどうであったの?
そんな意を含ませた首を傾げるジェスチャーを伴いながら、俺はクロードを見る。
「ああ、その通りだ。取り調べではなにもしてないぞ。尋問そのものは、とてもスムースだったさ。だがな」
「だが?」
「取り調べで明らかになった、伍長の入信理由がな。あんまりにも馬鹿らしくて、一同虚無に駆られただけだ」
「虚無に? どんな理由だったんだい?」
「それは……伍長の口から語るべきだろう。なあ? スナイ伍長?」
「うぐっ」
今度は俺ではなくて、クロードもをファリクを伍長と呼んだ。
ただいまはファリクも退役しているけれども、ついこの間まで軍隊生活をして、軍人のありようってやつが身体に染みついているはずなのだ。
下士官、そして将校のプレッシャーをこうしてかけてみれば、彼は嫌でも思い出すはずなのだ。
上官には嘘偽りなく報告すべし、という軍人の義務を。
果たして、俺とクロードの目論見は上手くいったようだ。
ファリクはその震える、いかにも頑丈そうな唇をようやく開きはじめた。
「――ろう、と思ったからです」
「聞こえないよ。もう一度はっきり言って」
「彼女を! 作ろうと思ったからです! 超常的な力を体得して、それを使って!」
「……は?」
やけくそになったか。
ファリクはあらん限りの大声で、そう宣言してみせた。
その声量たるや凄まじく、思わず顔をしかめざるを得ないほどだ。
もし、これを街の住宅地でやったのならば、住民の皆様が窓やドアなりを開けて、一体何が起こったのか、と外を確認するはず。
それほどの大音声であったが、しかし。
……ちょっと、待って。
今、ファリクはなんて言った?
修行の果てに得る超常的な力。
そいつを利用して彼女を作りたかった、っと言ってなかったか?
たしか、新主教に出家するためには自分名義の資産のすべてを、教団に寄付する必要があったはず。
……ちょっと、もう一回待って。
と、いうことはファリクは胡散臭い力を利用して、女の子と仲良くするために。
「そんなことのために? 私財のほとんどを新主教に寄付した、と?」
「軍曹! 自分にとってはそんなことじゃ済まされないでありますよ!」
開いた口が塞がらないとはこのことだ。
あんまりな入信理由に目眩を覚えてしまうが、どうやら開き直ってしまったファリクにとっては、共感を得られなかったのが、いたく不満であるらしい。
まるで自らが思い抱く理想の社会を、街角で演説する政治家志望の青い学生さながらに、堂々と、そして肩に力を入れつつ、ファリクは自らの胸の内を表明しはじめた。
「いくら、いっくら! たくさんの女の子に積極的に声かけて、コミュニケーションを試みようとも! 必死に努力を重ねても! 自分は不思議とまーったくもってモテない! 女心がこれっぽちも理解できてない大尉でさえ、ゴールならずとも彼女はできるのに! 自分は気配すらない!」
「……なんでそうなるのか、それがわからない内は彼女、難しいと思うよ。色んな女の子に手当たり次第に声かけるのも、悪いと思う」
「てかファリク、おいコラ。どさくさに紛れてなんつうこと言ってるんだ、おい。俺が直接しごいたろうか? あ?」
あんまりな演説に俺とクロードが見せた反応は、それぞれ違っていた。
俺はあまりのひどさに頭を抱え、クロードはいきなり未婚をいじられ、青筋を立てて爆発寸前、といったところだ。
両親から次代のプリムローズ家当主を、日々求められているクロードを未婚でいじるのは、割と冗談になっていないのだ。
だが、悲しきかな。
ファリクは藪蛇であったことに、いまだに気がついていない。
それどころか感情はさらなる高ぶりを見せる、心なしか涙目になっているようにも見えて。
「それをそれを……! そんなことだなんて! 軍曹には! 怖いくらいに一途な軍曹には! 一生わからんでしょうよー!」
ついには彼の高揚は、身体をも突き動かした。
まさに捨て台詞。言葉を置き去りにして、脇目も振らず屋敷に向かって真っ直ぐ疾走。
その姿は正真正銘、脱兎という慣用句がぴたりと当てはまっていた。
かくして門前には俺とクロードの二人が残された。
「……真面目なくせして。さっきのセクハラ発言のように、デリカシーがないのがファリクの欠点なんだけど。それを自覚する日は来るのかな?」
「来ねえんじゃねえかな。あいつも、もう二十超えてるし、手遅れだろう。つうか自覚してくれてるんだったら、俺は戦中、もうちょっと楽できた」
「ごもっとも。それにしてもまったく。まさか俺がこんな問題児たちの保護者の立場になるとは」
「ちったあ、苦労すりゃあいいんだ。それにさりげなく自分を棚に上げてるがよ。分隊で一番の問題児はお前なんだからな。解散後、こんな風になっても厄介を押しつけやがって」
「うっ……それは。誠に申し訳ない。でも同情して欲しいな。一年前のクロードの立場と、今の俺、多分ほとんど変わってないんだから。わかるでしょ? 俺の気持ち」
「……ほとんど変わってない、か」
「クロード?」
ファリクが去って、冗談めかした表情を見せていたクロードだけれども、どうしたのか。
彼は唐突にその面持ちを変えた。
――ほとんど変わってない。
どうやら彼はこのワードに引っかかりを覚えているようであった。
「……たしかに変わってねえな。あの頃は誰かが問題起こして、頭抱えて、謝罪して。いつもいつも俺に厄介が降りかかって。でもまあ、それも悪くはなかった。だからこそ……」
「ねえ、クロード? 本当にどうしたんだい、急に」
「なあ、ウィリアム。幸福な夢を見続けるのは、はたして幸せだと思うか?」
「は?」
「目が覚めてしまえば、辛い現実が待っていると知っているから。ずっと幸せな夢の中に居続けたい、って思うのは、はたして不健全なのだろうか」
急に独り言を紡いだと思えば、今度は俺に向けて発問する。
夢を夢だと自覚して、それをずっと見続けようとするのは、怠惰であるのか、と彼は問う。
戦時中、彼はその粗暴な口ぶりには似合わず、暇があればお堅い詩集や哲学書を読みふけるインテリでもあった。
だから、それらの書に影響された質問をしかけてくることが、ままあった。
もっとも、それはクロードからすれば暇潰しであった。
彼からしても、真っ当な答えを求めてはいなかったのだけれども。
でもたった今のこれは違う。
直感的にそう思った。
瞬きもせずに俺を真っ直ぐに見つめ、血色のいいその唇が横一直線に結ばれている、とてもシリアスな表情には、冗談を挟む冗長がどこにも、ない。
クロードは心の底から、真面目な答えを求めているのだ。
「……そうだね」
ならば真摯に答える必要があろう。
彼に負けないくらいの、真面目な顔を努めて拵える。
「夢は醒めなきゃならない。それが本人の意思でなくてもね。いずれは目を開けなければならない。逃げに逃げ続けた果てに辛い現実に出会うより、覚悟を決めて、自ら辛い現実と向き合った方が、後が楽になると思う。自分の意思で不幸に立ち向かおうとしたわけだからね。いずれそれが本当の幸福に繋がる……って俺は思うよ」
俺の答えは、彼の問いかけに対して、はたして適当なものであったのか。
それは俺にはわからない。
だから彼がどんな反応を見せるのか、どんな言葉を紡ぐのか、それを待った。
たっぷり、じっくり間が開いて。
「……そうか」
ようやくクロードは一言紡ぐ。
どうやら俺の言葉は、あながち見当違いではなかったようだ。
少なくとも今の彼の声には、失望の色はなかった。
クロードは葉巻に火を付ける。
暗闇の天幕が覆う天を仰いで。
「夢は醒めなきゃならないよな」
煙と一緒に言葉を吐いた。
それは俺に向けた言葉ではなくて、クロード自身に向けたものであるように聞こえた。
「……その幸福な夢を見ているのは。クロードなのかい?」
もし彼が、彼が言うところの幸福な夢に囚われていて、抜け出したいと願っているのならば、俺は力を貸してやりたいと心底願った。
悩みがあるならば、解決のために役に立ちたいと思った。
その悩みをここで打ち明けて欲しいと思った。
またしても間が開く。
たっぷり、じっくりと。
何度も何度も夕暮れの冷たさすら覚える風が吹いた。
でもいくら待てども。
辺りに忍び寄る夕闇が、夜闇に姿を変えようとも。
クロードは俺の問いかけに、ついに答えることはなかった。




