第六章 六話 タイトロープ、そしてパーティ
ただいまは夏だ。
いくら今日が曇りで、いささか外の世界が薄暗くとも。
ただじっとしているだけで汗ばむような猛暑でなくとも。
この食堂が日差し遮る、屋内にあったとしても。
それでも一年を通してみれば、十分に暑い日であるはずなのだ。
そうだというのに、俺は寒気を覚える。
外的要因ではなくて、心的要因によって。
俺の心に圧をかけているその要因は、テーブルを挟んだ先に居た。
少し着慣れた感が出てきた、レッドコートを着込む、歳が俺と近い女将校、ソフィー・ドイル。
彼女が身に纏う雰囲気がそれであった。
「わ、悪いね、食事中で。君も食べる? 多分、用意できると思うけど」
「いや、お気遣いは結構だ。行儀は悪かったが、行きの馬車の中でミールディールを摂ったからな」
まるではじめて会った頃のように、今のソフィーにはトゲがあった。
最近ではずいぶんと俺にたいするあたりが、柔らかくなってきたというのに。
もっとも、この態度の要因は――
「それに」
きっと生来のものであろう。
ソフィーはややきつめのつり目で、キッと扉の近くで佇むアリスを捉えた。
「死にはしないだろうが。腹を下す程度の毒を混ぜられちゃたまらん」
「あら。心外な。使用人の誇りにかけて、そんなことはしませんよ」
「ふん。どうだか。来客に敵意むき出しにする時点で、私にはお前が立派な使用人とは思えないわ」
「私もお客様から、こうまで露骨にぞんざいに扱われるのははじめてですよ。ご実家では、とっっても深い尊敬を集めていらっしゃるのでしょうね。使用人の尊敬を」
ちくり、ちくり。
まったくもってウマが合わない女性二人が、毒を吐き合う。
二人の間で見えない火花がばちばちしているようだ。
きっと、こんなやり取りを門からここまで続けてきたのだろう。
アリスに付き従って仕事をしていたアンジェリカの顔色は蒼白そのもの。
彼女の様子から察するに、もしかしたら今ここで繰り広げられている以上に、強い調子でやりあっていたのかもしれない。
と、なれば放っておけば、俺と、たまたま食堂に居合わせたヘッセニアも、アンジェリカみたいに青い顔になってしまうかも。
せっかくそれなりの午後を過ごせそうであったのに、それはちょっと勘弁したいところだ。
「あー……アリス?」
「はい。なんでしょうか?」
「お願いがあるんだ。お茶のおかわり、ポットでもらえないかな?」
「はい。わかりました。それではご用意しますね。しばしお待ちください」
にっこり。
アリスはいつも通り綺麗な笑顔を浮かべる。
その笑顔は俺に向けたものであったからか、さっきまでソフィーに向けていた、愛想笑いのように毒のにおいは感じ取れなかった。
それだけにちょっとだけ、アリスに恐怖を覚えた。
ここまでハッキリ、綺麗に、完璧に笑顔を使い分けられる強かさに。
アリスはぺこり、一礼。
静かな所作で踵を返して、食堂を後にした。
一拍おいてアンジェリカも追随。
「……よし、アリスは行ったね。じゃあ、エリー?」
「あいあい。なにか御用っすか?」
「君にも仕事だ。少尉殿のためのティーセットを用意して。いいね?」
「いえっさ。でもいいの? そしたらアリス、もーっと不機嫌になるかもよ?」
「そしたら必死になってご機嫌取りをするだけさ」
「あらー。主様も気苦労多くて大変ねえ」
「まったくさ。特に最近は食器やら花瓶やらが、なぜかよく壊れるからね」
「へ……へへへ。精進しますわ。それじゃあ、仕事。やってきまーす」
皮肉の矛先が、自分に向いたことを、敏感に感じ取ったらしい。
エリーはへつらいの笑みをひとしきり浮かべたあと、まさしく逃げるような機敏さで、さきのアリスに倣う形で退出。
扉の前での一礼は、アリスのそれに比べていささかぎこちないものであった。
「……すまないな。どうにも私は、あの女との相性が良くないようだ。顔を合わす度、なにか文句を言わないと気が済まないんだ」
「こっちとしては我慢して欲しいのだけど。無理?」
「無理だな」
「そんな即答しなくとも……」
苦笑いを浮かべながら、俺は身体を背もたれに預けた。
いい仕事をしている椅子が、ほんの小さな声できいと鳴いた。
「抑えきれないってことは、あれか。いわゆる、生理的嫌悪ってやつ?」
「いやあ。それは違うと思うよ。ウィリアム」
不機嫌なアリスに怖れをなして、身を小さくしてやり過ごしていたヘッセニアがくちばしをはさむ。
「生理的に嫌悪してるのであれば、多分言葉を交わすどころか、顔を見るのも嫌だと思うから。だって、声を聞くだけでもイライラするしね。生理的に合わない人と出会うと」
「そういうものなの? 俺にはよく解らないな」
「……たしかに。アルッフテルの言う通りだ。だがならば、私にとってアイツとはどのような存在なのだ? 姿を見て頭にきはするが、出来れば存在そのものが消えてくれ、とは願いはしない」
「おっかない発言だな。生理的に合わないと、存在そのものすら許したくないのか」
神妙な顔をして腕を組んだソフィーの発言に身震いを覚える。
でしょでしょ、としきりに同意を求めるヘッセニアの姿のおかげで、さらに怖れは強くなる。
どうにも、この手の感情は女性の方が抱きやすいようだ。
俺にはよくわからないが、どうにも生理的嫌悪ってやつを抱くと、彼の者の存在そのものすら許せなくなるらしい。
ぎりぎり殺意に至らず、といった具合にも見える。
もしかしたのならば、少なくない人間がこの手の感情を覚えるから、人類は法という発明を生み出したのでは、と詮無きことを思ってしまう。
野放しにしてはそこかしこで強硬手段に出る人が後を絶たないから。
「ま、まあ、物騒な話題はここで打ち切っておこうか。それで? 今日はどんな御用?」
「ん。まあ、話し辛いことではあるのだが……」
ソフィーは一度ため息をついて間を取った。
渋い面構えにもなる。
アリスとやりあっていたときも、面持ちはよろしくなかったのではあるが、それとはいささか趣を異としていた。
アリスへのときは、怒りだとかその手の感情が主であったのだが、今度はなんだか目覚めが悪そうな感じ。
話題は後ろめたいものなのであろうか。
「フィリップス大佐が王都に召喚されてしまったので、今、代理の隊長が赴任していることは知っているか?」
「うん。クロードから聞いた。代理はボリス・フィンチ大佐……だっけ?」
「耳が早くて結構。プリムローズ大尉から聞いたということは……まあ、二つ名とその人となりも知っているのだろう?」
「まあね。優秀な将校なのは認めるけど。出来れば戦場では一緒になりたくない御仁だってのが本音だね」
「正直だな。ウチの下士官たちもそんな反応を見せていたよ」
「そりゃ、兵を直接面倒見るのが俺らの仕事だったから」
つまりは兵らの素直な感情をぶつけられるのも、俺たち下士官の仕事なのである。
あの戦争は、人類の存亡をかけたもの。
だから、勝利につながるのであれば、兵らは皆、死をも受け入れる覚悟をしていた。
しかしながら、いくら覚悟を決めていたとはいえ、だ。
その死の間際になると、ぽろりと本音が零れ出る者が、出てきてしまうものなのだ。
死にたくない、死ぬのは嫌だ。
そんな最期の恨み言を、散々聞かされるのが下士官であるのだ。
恨み言をぶつける壁になるという、精神的に重たい仕事をするのは、誰だって嫌だ。
その手の仕事を、躊躇いもせずに何度も何度も下士官に押しつけてきた実績のある人物が、自分の上に着くとなれば。
守備隊の下士官らがどんな顔を作ったのかは、想像に難くはなかった。
「まあ、上官の陰口を言うことになるが……兎角、神経質に過ぎるお方でな。フィリップス大佐のやり方が気に入らず、あれこれ私たちの仕事に文句を付けて、隊舎はてんてこ舞いだよ」
「それはご愁傷様。まあ、フィリップス大佐がちょっといい加減過ぎた、ってのもあるのだろうけど」
「否定はしまい。だが、スウィンバーン。貴殿も他人事ではないぞ。フィンチ大佐の神経質は、貴殿にもきちんと向けられているのだから」
「と、言うと?」
「ほとんど素通しであった外出申請だがな。その通過基準が相当に厳しくなる。そして例え、通ったとしても、だ。守備隊員の同伴が必須条件となった。自由は大分制限されると覚悟して欲しい」
「……なにそれ。ウィリアムがまるで危険分子のような扱いじゃん。例の裁判もそうだけどさあ。王国の上層部ってあったま悪いし、目も節穴だよね」
眉をひそめ、露骨に非難する声はヘッセニアのもの。
爆発に興味の大部分を注いでいる彼女からすれば、失礼だけど、大分珍しい反応と言わざるを得ない。
俺を慮ってくれるのは嬉しいが、だがしかし、俺が危険分子であることは正直否定し辛い。
経済と軍事力が戦争によって疲弊してしまった王国を打ち倒そうとする不埒な奴らからすれば、俺の存在は、御輿として担ぐには、これ以上になく適しているからだ。
俺にその意図がなくとも、混乱の種になる、という展開は十分にありうる。
「私とて本意じゃないんだ。だが、アルッフテル。わかるだろう? 上官命令だ。私はどうこうする権利を有していない」
「おっと意外。君が俺の肩を持ってくれるとは。俺を面倒事の種としか見ていないと思った」
「貴殿には散々協力してもらったのだ。そしてそれは、貴殿が立ち上がれたチャンスでもあった。混乱に乗じてな。だが貴殿はそうはしなかった。私は恩を仇で返そうとする甲斐性なしでもない」
「へえ。てぇことは。少尉殿は大佐殿の命令の、対抗案があるってことでいいんかね? お姉ちゃん」
「結局のところ他人任せであるがな。プリムローズ大尉に相談させてもらった」
「……ずいぶんと大きく出たね」
思いのほか大胆な行動に出たソフィーに俺は目を剥いた。
こと俺の問題でクロードに相談するのは、即ち彼の後ろに存在する、メアリー王女殿下のお力を使おうとしているのと同義。
ソフィーの立場からすれば、これはかなり危うい行いだ。
軍隊の命令系統を根本的に破壊する、とんでもない越権行為、とみても過分ではなく、事実関係が明るみにでれば、重い処分すら下されかねない。
もちろん士官学校を主席で卒業している優秀なソフィーであるから、そんなことはとうに承知しているはずだ。
たまにはタイトロープも悪くはない――
そう不言にて語る、肝の据わった目付きがその証拠である。
どうやら彼女は心から、俺に仇を押しつけるのを嫌がっているらしい。
嬉しく思う反面、将来有望なぴかぴかなソフィーに危険な橋を渡らせてしまった事実に、俺は申し訳なさを覚えた。
「そう遠くない内に、王女殿下からフィンチ大佐に圧力がかかるだろう。それによって大佐が翻意してくれれば御の字だ」
「翻意できなかった場合の妥協案、あんの?」
今日は珍しいことが続く日のようだ。
他人への興味が希薄に見えるヘッセニアが、身を乗り出さんとする勢いで、ソフィーの話に食いついた。
「まあな。と言っても、これも私のものではなく、プリムローズ大尉の提案であるが……殿下が素描した、貴殿の社会復帰プラン。これを大いに活用することとなろう」
「孤児院云々、ってやつ?」
「ああ。そうだ。もっとも新たに子供を預かってもらう、のではなく、今回は招待する、という形になるがな」
「招待?」
いまいちソフィーの言わんとしていることが飲み込めず、首を傾げる。
ちらとヘッセニアを見てみれば、灰色髪の戦友もまた、俺と似たり寄ったりのようだ。
肩をすくめてみせていた。
「要するに祭りだ。この屋敷にそういった子供たちを持てなして、気楽に騒ごうじゃないか、という話だ」
ああ、なるほど。
つまりは彼女はこう言いたいらしい。
パーティを開こう。
それがちょっとした俺の娯楽になるはずである、と。




