第六章 四話 くたびれた部屋にて陰謀の影を見る
もし、これが捕虜に対して行われたのならば、虐待行為と見なされ、きっと国際問題に発展するだろう。
王都にある陸軍省。
その一角に存在している、しばらくの宿となる部屋を見たナイジェルは、ぼんやりとそう思った。
窓の外から見えるのは、王都の風光明媚な街並み――ではなく、風流もへったくれもない、無機質で味気のない工場の煙突の群れ。
そしてそこから立ち上る煤煙と、工場どもの煤煙よって、見通しは甚だ悪い。
見えている煙突どもだって、自らが出す煙によって、そのシルエットをぼんやりとさせてしまっているくらいだ。
窓の外には目を喜ばせてくれる代物が、一つもない。
ならば、部屋の内はどうかと問われれば、これまた悲しいことに、答えは否となる。
皺一つのない真っ白なシーツに、同じく輝かんばかりの清潔さをアピールする、まだ十分にハリを感じさせる毛布。
これだけ見れば、それなりに快適な住環境が整えられている、と思わないでもない。
だがむしろ、このベッドがナイジェルに与えられた部屋では異質なのだ。
では、ベッドを除いたナイジェルの同居人の面子はどのようなものか。
その質問を口さがなく答えるのならば、どいつもこいつもくたびれにくたびれきった、養老院が実にお似合いな連中ばかりであった。
開けるのに一苦労するキャビネットはどうみたって、ナイジェルの親と歳が近しいだろう。
部屋の真ん中にぽつんと置かれている、なんの木材で作られたかわからない、真っ黒なテーブルに至っては、くたびれた、というより、もはや腐りかけと断ずるに適当なほど。
実際テーブルにもたれかかってみれば、断末魔めいた軋み音を上げるし、天板も場所によっては押すだけでべこべことへこむ。
そして一番くたびれてしまっているのが、何を隠そう、ナイジェルに与えられた部屋自体だ。
きっと、長い間手入れされていなかったのだろう。
足を踏み入れた瞬間、嗅覚を麻痺させるほどのかび臭さが出迎えるし、歩く度に、床が射る寸前の弓よろしくにしなる。
窓と扉。その二つを除いた四方の壁にぴったりと背中を預けた、天井に届くほどの本棚、その真下の床が、これまでよく抜けなかったものだ、と感心するほどの古ぼけっぷりだ。
「しっかし、まあ。あんまりとやかく言う権利がないのは重々承知だけど。でも、もうちょっとまともな部屋に閉じ込めても、バチはあたらないと思うんだけどなあ」
相も変わらず櫛の通っていない、見るからにずぼらな髪を、ナイジェルはガシガシと掻いた。
もちろん唇を山形に曲げ、不満たらたら、といった面持ちで。
譴責のために王都に連れてこられたとはいえ、ある程度の待遇改善の権利は有しているはずだ。
ここならば、刑務所にある平民用の牢か、あるいはただの営倉に放り込まれた方がよっぽどマシに違いない。
だが、ナイジェルが抱いた不満のその内訳を見るのならば、部屋へのそれはむしろ大きくはない。
かような独房以下の環境よりも、彼に不満を覚えさせたのは、そもそも王都に来てからの、王室特務の対応であった。
急にゾクリュにやって来て、ナイジェルを捕まえたというのに、いざ王都にやってきたかと思えば、お偉方は多忙故に、数日間ここで待機せよ、だ。
王都に呼び出して捕まえる、という特務お決まりのパターンを崩してまで連行してみせたのだから、よほど急ぐ理由があるのだろう、と思えばこの結末だ。
忙しいから、忙しくなくなるまで、適当なところに突っ込んでしまえ。
連行された挙げ句、役場のたらい回しに似た真似をされてしまったのだ。
いくら鷹揚なナイジェルとはいえ、苦言の一つや二つは言いたい気分になっても、なんら不思議ではない。
「……いや、僕がそれよりも。なによりも気に入らないのは。こーんな目に遭っているというのに」
まだ、ナイジェルの愚痴は止まらず。
二回、三回。首を回して部屋の四方にて、しゃんと背を伸ばして屹立している本棚を眺めたあと。
辛うじて腐敗からは逃れている、おんぼろキャビネットを睨んだ。
力を込めなければ開かない引き出しのその上、天板の上。
そこにはこれが札束であったら一生遊んで暮らせるのに、と思わざるをえないほどの大量の書類が、でんとふんぞり返っていた。
「いくら時間が空いてるからってさあ。ほとんど軟禁されている奴に仕事任せる、普通? せーっかく、一日寝て過ごせる環境を手に入れたっていうのに」
それこそが本日のナイジェルが抱く、もっとも大きな不満であった。
国憲局時代に対尋問訓練を受けていることもあって、ナイジェルからしてみれば、実のところこの程度の環境であれば、十分快適に過ごせて問題はないのだ。
生来ものぐさな性分の彼からすれば、たらい回しの果ての軟禁も、自由に昼寝をする権利を得た、とポジティブに考え直すことも可能。
だが、ものぐさ故に仕事嫌いのナイジェルからすれば、こんな場末な部屋に閉じ込められてまでやる労働だけは、どうしても彼の心持ちを暗澹とさせてしまうのである。
しかもやる仕事といえば、まさかの単純作業、書類整理。しかも日付順に並べ直せという、整理の中でもとりわけ単純なやつ。
どうやら忙しいのは、お偉方のみならず、王都に存在するすべての官庁も同様であるらしい。
こんな簡単な、仕事でさえ満足にできていないのだから。
いずれにせよ、おおよそ大佐の地位にいる者にやらせる仕事ではなく、人によっては激怒すること受け合いであろう。
「まあ、やるけど。寝る以外には、これしかやることがないからやるけどさあ」
幸いにもナイジェルは激憤する人間ではなかった。
量こそ多いが、作業そのものは難しくはない。
怠け者の彼からすれば、嫌々やる仕事としては、まだ良かった方なのであろう。
いかにも億劫さを隠しきれないため息ののち、ナイジェルはキャビネットから、ほとんど腐っている机に書類の束を移す。
案の定、上がる机の悲鳴を聞かなかったことにして、まずは束の一番上にあった、こより留めされた書類を手に取った。
書類は邪神の討伐記録であった。南の復興地区の。
日付はゾクリュで騎士級の乙種が出現した、その翌日。
部屋に立ち並ぶ本棚から、当該地区のファイルを抜き取り、きちんと差し込まなければならなかったのだけれども、幸いせかせかする必要がないほどには、時間の余裕がある。
他の守備隊がどのように邪神襲来に対応したのか、ナイジェルはスケベ心を出して、それを覗くことにした。
彼の指は、こより留めされた報告書をめくる。
「あーあー。市民の犠牲者はゼロに抑えたようだけど。避難誘導は上手くいかなかったみたいだね。しかも随分とマズかったようだ。現場検証の写真に、市民たちが群がって……うん?」
書類に添付された、討伐の証したる邪神の死骸を写した写真。
頭部が吹き飛ばされ、裸の地面に真っ黒な血だまりを作って横たわる猿人級と、野次馬たちが群がる様子が記録されている、その写真。
ナイジェルの目と独り言を止めるに値するものが、それに写っていた。
一様に視線を死した猿人級に注いでいる野次馬の群れの中。
どこかで見たことがあるような少女が、そこに居た。
くたびれたコートに、よれよれのシャツ。
自称旅人にして、現在はかの丘の上の屋敷の使用人、エリー・ウィリアムス。
野次馬に混じってちゃっかりと、検証写真に写っていた。
「あちゃー。あの娘もツイてないね。ゾクリュで邪神騒動に遭う前に、似たようなことがあったとこに居たとは」
まさかこんな場所で、知っている人間の写真を拝めるとは。
そうない偶然にナイジェルは苦笑いを浮かべながら、手に持つ書類をぱたんと閉じる。
ざっと目を通した限りでは、ここの復興守備隊は討伐は上手くやってのけたものの、民衆の避難に失敗。
そして、野次馬の集結を許してしまっているあたり、どうにも民衆の統制も上手ではないようである。
数々の事件を処理せざるをえなかった自分は、この手のミスをしなかった。
ならばまあ、一応はまともな指揮を執れたのではないのか。
ちょっとだけナイジェルの自尊心は満たされた。
ほんの少し、気をよくしたせいだろう。
ナイジェルのスケベ心は収まるところを知らないらしく、またしても、束から一冊報告書をつまんで、中を覗き見すると――
「え?」
彼の表情がにわかに凍り付いた。
先ほどまでのわずかに上向いた機嫌はどこへやら。
一気にシリアスなものへと成り果てる。
さきと同じく現場検証の写真に写っていた、それを認めてしまったから。
「……日付は。歌劇座事件の直前か。場所は、前回のそれとは正反対。王国の極北……でも、ここにも」
なんという偶然か。
ここにもエリー・ウィリアムスが写っていた。
やはり、現場検証に押し寄せていた野次馬に混じっているところを、見事に激写されていた。
「……二度は偶然で済むけど。三度目は流石に。よほど運が悪いとみるか、それとも」
南で北で、そしてゾクリュで。
エリーは軍人でもなければ傭兵でもないのに、この短い間で三回も邪神と遭遇してしまっている。
偶然の可能性も否定はできないけれども、しかし、こうまで短い間隔で続くとなると、嫌が応にも必然の可能性も見えてきて。
だから、ナイジェルは束となった報告書を、次々に手を取っては開いて、検証写真に目を通す。
偶然か必然かを見極めるために。
ここでまた、彼女が写ったそれが出てきてしまえば、もはや彼も認めざるを得まい。
なにが原因か、そして彼女にその意思があるのかどうかは不明なれど。
エリー・ウィリアムスは邪神を呼び寄せてしまう存在である、と。
果たして結果は――
いかにも重苦しいうめき声がナイジェルから漏れるに終わった。
つまりはあったのだ。
それもいくつも、いや、写真が添付されている報告書すべてに彼女はきちんと写っていた。
「まっずいなあ。これ、フィンチは知ってるのかな? 知ってたらまずいぞ。下手をすれば」
ナイジェルは自分の代理として、しばらくの間ゾクリュ守備隊隊長を勤める男の、その人となりを思い出す。
極端に臆病な男。
あの戦争で度々拘束砲撃を敢行した男。
味方殺しの嫌悪感を、誰よりも上手に割り切れてしまっている男。
そんな人間が、もし、である。
エリー・ウィリアムスは邪神を誘引する存在である、という可能性を知っていたら――
「彼はやる。絶対にやる。あの丘の上に、砲口を合わせることを」
一年ぶりに味方殺しをしてのけてしまうに違いない。
ロクに調べもせずに。
もしかしたら必要がないのかもしれないのに。
吹き飛ばしてしまうに違いない。
邪神が湧いて出てくるやもしれぬ、という恐怖心から逃れるために。
そしてこの国のお偉方が、そんな人間を自分の後釜に一時的とはいえ任命してしまう、ということは。
調査を偽装してまで、エリーをあの屋敷に住まわせた、ということは。
どうしても、ウィリアム・スウィンバーンに死んでもらわねばならない――
そう考えている雲上人らが、決して少なくない、ということに他ならなかった。




