第六章 三話 カイゼンせよ!
その主の気性が、良くも悪くも穏やかなこともあって、ゾクリュ守備隊隊舎の内側というのは、軍隊らしからぬ柔らかな空気をたたえていた。
とはいえ、だらしがないわけではない。
主たるナイジェル・フィリップスは、規則の厳守を求めず、有事を除けばなにかと甘い男ではあったが、彼の下につく将校や下士官らが上手に憎まれ役をこなしていたからだ。
ナイジェルが持つよろずに緩く、気だるげな雰囲気に、兵らがあてられないように、適度に締め付けていたからだ。
その締め付け役の中に、まだ士官学校を卒業して間もない、ソフィー・ドイルも含まれていた。
兵らにどう緊張感を与えればいいのか。
ぴかぴかの新米であったソフィーは、そのやり方がさっぱりわからず、はじめは戸惑いしきりであった。
だが、ゾクリュを任地としていた下士官たちは皆、優秀であったのがソフィーにとっての、なによりの僥倖であった。
時には助言を請い、時には見よう見まねで彼らの振る舞いを真似ることで、最近では、なんとか締め付け役もサマになるようになってきた。
ソフィーにとっては、締め付け役という立ち位置は、生来の生真面目な性格と合致しているために、慣れてしまえば嫌な仕事ではなかった。
とは言え、まったく負担がなかったわけではない。
自分の兄や姉と呼べるような年齢の兵らに、時に居丈高な態度で接せなければならないのは、やはり心の奥底では、ちょっとした抵抗を抱いてしまうもの。
だからこそ、件の守備隊長という兵らに悪影響を与えかねない元凶が、しばらく隊舎を留守にしている間は、締め付けを弱め、ソフィーも一息付けるチャンスだと思っていたのに。
「ドイル少尉! ドイル少尉はどこに居るか!」
だが、現実は厳しい。
ナイジェルが王都に呼ばれる前よりも、むしろ心労は増すばかり。
そろそろ休憩を入れようと、書類の山脈が根を下ろした自分のデスクの整頓をはじめた、その頃合い。
ナイジェル時代では考えられないようなヒステリックな叫び声が、隊長執務室の備品、調度品、そのすべてをビリビリと震わせた。
またか。
ヒステリーを起こした者に悟られないように、ソフィーはこっそりと内心でため息をついた。
そしてうんざりとした心境、これを表にはつゆほども出さず、軍人とはかくあるべき、と賞されて然りの、キビキビとした動作で起立。
動きのキレはそのままに、彼女はつい先日まで、覇気の欠片もない、昼行灯の称号をほしいままにしていた上官が座していた席へと歩む。
「お呼びでしょうか。フィンチ大佐」
士官学校で散々叩き込まれた敬礼の動作を、完璧にしてのけてから、ソフィーは口を動かす。
いつもならばぼんやりと気のない壮年将校が居るはずの席。
そこに代わりに居座るのは、席本来の主であるナイジェルと近い年頃の男であった。
階級もナイジェルと等しく、なるほど、軍上層部は可能な限り似た立ち位置の人間を送ろうとしたらしい。
だが――
「なんだ! この記録は! 何故貴官の上官は、このような処遇を下したのか! 答えよ!」
――似ているのは、それだけだ。
口の中でそう独りごちつつ、またしてもソフィーはこっそりと内心で、ため息をついた。
執務室に金切り声が響く。
いい加減、と呼ぶべきほどに鷹揚であったナイジェルの代わりにやってきたのは、おっとりとは対極に位置する男であった。
男のその名は、ボリス・フィンチという。
骨張った顔、細い眉、端を上げるか下げるかして、常に歪んだ唇、そしてこの金切り声。
さきまで手にしていた、ナイジェルが認めた報告書を、頑丈な造りの机に叩き付けたこの男は、一目にしてそんな気性の持ち主と悟ってしまうほどに、事実神経質な男であった。
「はっ。なにについての報告書でありましょうか? 書類を拝見しても、よろしいでしょうか?」
「当然だ! だからこうして書類を貴官に寄越したのだ! よく目を通しておけ!」
「では、拝見します」
八つ当たりとして書類を机に叩き付けた、とソフィーは解釈していたが、どうにもそれは違ったようだ。
ボリスからすれば、今の仕草は書類をソフィーに渡すものであったらしい。
もう少し、丁寧に部下にあたってもバチがあたらないのではないだろうか?
くそ真面目なソフィーが思わずそんな不満を覚えてしまうほどには、いささか乱暴な身の振りであった。
「ああ。先日発生した、新主教事件に巡る報告書ですか。失礼ですが、フィンチ大佐。この件のどの点がご不満でありますか?」
「そんなこともわからぬのか! 在家信徒に対する処遇についてだ!」
しかもどうやら、このボリスという男は、ただのヒステリー持ちではないようだ。
自らに忖度が得られなくなると、即座に癇癪を起こす、恐ろしいまでに気が短い男でもあるらしい。
なんとも手のかかるヤツ。
上官に対して不敬極まる感想を、彼女は抱かざるを得なかった。
「どうして徹底的に尋問をしない! どうして二、三、質問を交わしただけで解放した?! わかっているのか?! 奴ら、この大事件の片棒を担いでいたのだぞ?!」
「ああ、その件ですか」
その点を疑問に思うなんて。
いくらものぐさなナイジェルとはいえ、その答えを報告書に記さないほど愚かではない。
まったく、この男は本当に放って寄越した書類の束に、目を落としたのだろうか?
ソフィーは下唇を噛んだ。
気を抜くと、してしまいそうになる舌打ちを防ぐために。
「教主ともう一人は残念に終わりましたが。なんとか他の幹部は捕まえて、事実関係を確認しました。あのゾクリュ転覆計画に一般の出家信徒は一切関わっていないと。ならば長く拘束する理由もない、と、フィリップス大佐は判断しました」
「その対応が甘すぎるのだ! 邪神を利用せんとした狂人どもの主張だぞ?! 信頼するに値しないだろう! 解放した出家信徒どもを野に放ち、第二、第三の転覆計画を実行するかもしれないのだぞ?! そのために暗躍しているかもしれないのだぞ?! どうしてくれる?!」
威嚇する意図があってのことか。
代役で赴任してきて、それ故ただいま座している席も、用意された机も借り物にすぎないというのに。
ボリスは力任せに机を何度も何度も平手で叩いて、鈍い打擲の音、ヒステリックな大声と絡み合い、耳障りな不協和音と化して、ソフィーの鼓膜を振るわした。
とは言え、感情的に過ぎるとはいえ、これに関してはボリスが叫んでいることにも一理あった。
拘束期間があまりにも短すぎるし、行った取り調べも簡単なもの。
ボリスほどではなくとも、心配性な人間ならば、本当に彼らはシロであるのだろうか、と疑っても、神経質にすぎるものではない。
「たしかに、大佐が危惧なさっていることは、ごもっともです。ですが、それは杞憂に終わるでしょう」
「根拠は! 根拠を示せ!」
「目、あるいは、雰囲気と言うべきでしょうか」
「雰囲気?」
「ええ。取り調べのときの、出家信徒らの雰囲気です。誰も彼もが意気消沈。また、すっかり心が折れてしまった様子でした」
彼ら出家信徒は、その目で自らの教祖が拳銃で自殺してしまったところを見てしまった。
それが故に覇気はまるっきりなくて、さながら死人のようであった。
いや、彼らがすっかり落ち込んでしまったのは、教主エドワードの死を見届けてしまったからだけではない。
むしろそれは付属的なもの。
彼らの心をひどく傷つけてしまった、主たる要因とは――
「彼らが落ち込んでしまった原因は簡単です。裏切られたから。信じていたはずの教祖に。お前らは捨て駒だ、と言われてしまったから。それを言われて落ち込む人間が、今更教団のために動くとは到底思えません」
――神と等しい存在と信頼してた人物からの裏切り。これによるところが大きい。
ましてや、信徒たちは一度は社会に絶望しきっていた人間なのだ。
エドワードが最期に彼らにした所業は、唯一の拠り所を奪ったに等しい。
で、あるからこそしばらくは、大それた真似をする気力もあるまい、とナイジェルも、そしてソフィーも判断したのだ。
「もし、彼らが一念発起してなにかをするとしても、です。それはきっと他者の命を奪う真似ではないでしょう。奪うとするならば、自らの命であるはずです」
そして、もしウィリアムが聞いたら猛烈に避難すること受け合いであるが、放っておけば、自分で自分を殺してしまうだろう、という打算もあった。
そうなれば、新主教の思想は熱烈な信者の物理的消滅によって、終止符を打たれる形となる。
唯一の懸念は、野望の次第を知っていた幹部連中を逃し、エドワードの死を陰謀論めいたものに歪曲されてしまうことであったが、幸い幹部を残さず捕縛できた。
そう時間をおかなくとも、新主教はこの世から消滅、あるいは社会を動かすほどの勢いを失うのは必至。
信徒らへの一見甘い処遇は、そんな目論見があってのことだ、とソフィーはボリスに説いてみたが、はてさて。
(納得は……まあ、いっていないようだなあ)
ソフィーはボリスに気付かれない程度に肩を落とした。
今の彼の様子が、いかにも彼女の期待外れのものであったから。
音がする。
ボリスの指が、借り物の机を叩く音。
たんたんと。
断続的に。
苛立ちげに。
音は徐々に徐々に強くなって。
一段と高い音が打ち鳴らされて。
そして音は止まる。
呆れと苛立ち、その二つが複雑にブレンドされたため息を伴って。
「……そんな理由で、手ぬるい処理をしたというのか。フィリップス大佐は。それに意見しようともしなかったのか。貴官は」
「はい。妥当な処遇、と小官も考えましたので」
「この偽善者どもめ! そのような信ずるに足らん理由で野に放したというのか!」
また、ボリスの手が振り下ろされる。
叩き割らんとする勢いで、机を打っ叩いた。
どうにもご不満なご様子である。
「こうは考えなかったのか?! 追い込まれた狂人オーエンが、洗脳した信徒らから捜査を逸らすために! まさに貴官らの反応を期待して! 暴言を吐きながら自死したのではないか、と?! 自らの命をかけて、奴らを逃がそうとした、と、考えもしなかったのか! 万一があったときの責任は誰が取るというのだ?!」
責任――
このワードがボリスの口から滑り出た途端、胸にすっと冷たいものが降りてきたのを、ソフィーはしかと感じ取った。
冷感の正体は失望だ。
ああ、この男。
金切り声を上げてなにかとつっかかってくるこの男が、一番に心配していることは。
ゾクリュの安全ではなく。
臣民の安寧ではなく。
ただただ、自分の譴責を恐れているからだと、知ってしまったが故の失望であった。
この臆病者め!
ソフィーはそう罵る叫び声を、どうにか口の中で置換することに成功した。
きっと、この小心者の大佐が望んでいるであろう言葉に。
「ご安心を。その場合、可能性は低い、と判断した私とフィリップス大佐が責任を負うことになりますので。フィンチ大佐に累は及びません」
「……まあ、良い。だが、万一の対応は私がせねばなるまい。彼奴らが暴れ回った際の対応策、それを夕方までに提出せよ。いいな?」
「……了解」
そして、この臆病者、どうやら現金な人間でもあるようであった。
責任の所在は、ナイジェルとソフィーにある、と明言した途端、それまでのヒステリーはどこへやら。
相変わらず不機嫌そうな顔付きなれど、あっという間に落ち着きを取り戻した。
「大佐? どちらへ向かうので?」
「隊舎の見回りだ。どうにも前任者の管理が適当であったせいで、常在戦場の気風が薄いようなのでな。私が直接出向いて、弛んだ性根を叩き直してくる」
なんとも落ち着きのない男なのだろうか。
ヒステリーが治まったと思えば、今度は、隊舎を出回ると言い出してきた。
これがナイジェルであったのならば、サボろうとする口実故に、なにがなんでも止めようとしたソフィーであるが、今回はそうせず。
むしろなにも言わずに、執務室を後にするフィンチの背中を見送った。
一人になって仕事がしたかったからだ。
ナイジェル時代は彼が居ないと、仕事にならなかったけれども、ただいまは真逆。
奇妙な横槍をぎゃあぎゃあと入れられない故に、こっちの方が仕事がはかどるのだ。
さきほど、ヒステリックにぶん投げた報告書の束、それをソフィーはまとめて、自らの執務机に運んで。
ため息と共に、着席。
まずは増えてしまった本来やるべきではなかった、仕事に彼女は向き合うことにした。
さて、どのようにして、あの臆病者が納得する、万一の対策をくみ上げようか。
そのために知恵を絞らんと、頬杖をついて件の報告書を眺めていると、執務室の扉が控え目に、しかしどこか無骨に打ち鳴らされた。
「ディスペンサーです。入室、よろしいでしょうか?」
「許可する。入りたまえ」
訪れてきたのは、もう随分前のことに思える、騎士級乙種事件の際に負傷していたオリバー・ディスペンサーであった。
十年以上軍の飯を食う、ベテランの一人で、新米少尉であったソフィーからすれば、頼れる下士官の一人である。
きっと彼も、ボリスに余計な業務を負わされていたのだろう。
木材をノミで粗く削りだしたのでは、と思わせるほどに大きくゴツゴツとした手には、彼の顔くらいの高さはあろう書類の山があった。
「どうにも少尉殿も。ご苦労されているようですな」
やはりそれらは、ボリスによる業務であったようだ。
オリバーは迷う素振りまったくなく、隊長の席に赴いて、仮の主が離席していることをいいことに、どさり。
大きな音を産み出すくらいには乱雑に、書類を机に置いた彼は、同情に満ち満ちた台詞をソフィーに投げかけた。
上官であるボリスを暗に揶揄する言葉。
普段のソフィーなら、差し出口を咎めるところだが、今日の彼女はそうしなかった。
むしろその逆。
陰口に乗っかってみよう、と思う始末であった。
「貴官ら下士官がフィンチ大佐を毛嫌いする理由がよくわかった。上官にこう言うのは良くないのだが、あまりにも神経質すぎる。部下の仕事、その一挙手一投足まで自分色に染め上げないと癇癪を起こすなんて……いくらなんでもやり辛い」
「ははっ。まあ、フィリップス大佐が度を超して鷹揚でしたからなあ。なおさらフィンチ大佐がカリカリしているのが、悪目立ちしてしまうやもしれません」
「だからこそ、わからなくもある。あんな神経質なのに、と思うところがある」
「なにがです?」
「彼が拘束砲撃を繰り返して戦功を得たという話だ。味方殺しと呼ばれた所以だ」
ソフィーは思い出す。
ボリスがナイジェルの代理として、一時的とはいえ守備隊の隊長に就任する、と辞令がきたときの下士官らの反応を。
それぞれ浮かべた表情は、渋っ面、難色、しかめっ面――と、露骨に辞令を嫌がるもの。
はて、かの御仁、そこまで評判の悪い人物であるのだろうか。
そう思って調べてみたところ、現れたのは味方殺しという、不穏な二つ名。
拘束砲撃の名手という、ありがたくない評価を賜っている男。
一種外道的に稼いだスコアによって、昇進を果たした男。
だから、それらの情報からソフィーが連想したボリスの人柄は、山賊盗賊匪賊といった、ならず者のアウトローのような男。
あるいはスコアだけを重視する、一種の狂人か。
だが、現実としてやってきたのはあんな人物だ。
アウトローとは対極に位置する、とても臆病な男。
狂人とも程遠い。
だからこそ、ソフィーにはいまいち納得がいかなくなったのである。
思えなくなったのである。
「噂になるまで拘束砲撃を繰り返していたのであれば、その内恐慌した兵が、死んでなるものか、と、流れ弾を作り出しそうなものだ。あそこまで小心……もとい用心深い御仁が、恨みと恐怖を、一身に集めかねない真似をするとは到底思えない」
本当にこの男が、味方を殺せたのか、と。
その疑問への答えを、どうやらオリバーは持っているようであった。
とはいえ、それはどうにも件の大佐への陰口、と、捉えかねない話らしい。
とてもではないが、将校の前で話せることではない。
それを彼女に伝えるためか。
彼はちらちらとソフィーを見やりつつ、いかにも困り切ったため息を吐いて見せた。
「ふうむ。困りましたな。なにやら急に独り言をしたい気分になりましてね。上官の愚痴をこぼしてしまうやも」
「良い。今の私は休憩中、ということにしよう。事実はともかく、気分的には給与が発生していない時間だと認識している。酒場の看板娘が座っている、とでも思ってほしい」
「では――臆病者だからこそ、ですよ。兵らを直視して、その一人一人に命があって、生活がある、と認識したくないから、拘束砲撃をあそこまで効率よくやってのけたのです」
「と、言うと?」
「兵らを血の通っている人間と認識してしまうと、途端に非情な決断ができなくなってしまう、と自分でもわかっているんでしょうな。避けられない犠牲にも心を痛めるほどに。その結果、自責の念に駆られて、心が壊れてしまうだろうという自覚も。それ故、人命をただの数字に置き換えていた、というわけです」
「つまり。感情が介入する余地のない数式を用いて、フィンチ大佐は作戦行動を展開していた、と? 心の自衛のために」
「ええ、きっと。実際、拘束砲撃が適当であった戦場、というのは多かったのです。ですが、実行したところはそれに比すると、存外少ない。感情が味方殺しを拒絶しますからな。結果、拘束砲撃よりも多い犠牲を拵えてしまうのです」
「だが。数式を当てはめれば。その事態を防ぐことができる。感情を封殺できるから。だから、他よりもずば抜けて多く拘束砲撃を実行できた、ということか」
「心を守るために人命を数字に置換したら、思わぬ副作用がでた、ってとこですな。まあ、そんなわけがあって、特に私らはフィンチ大佐の着任に、ああまで露骨に嫌な顔をしたわけです。なにかがあったら、葛藤もなく殺されちまうってね」
躊躇いなく拘束砲撃を決断できる――
なるほど、これはあの戦争においては、貴重なパーソナリティであったのかもしれない。
少なくとも軍にとっては。
だが、人間としてはとても尊敬できそうにないな、とソフィーは思った。
何故なら彼女は先日の件で知っているからだ。
拘束砲撃を下す側の心情を。
心苦しく、なにか別の手段はないか、とすがるように探してしまうあの心模様を。
あのときはなんとか回避できたけれども。
あのときはナイジェルも苦渋の選択である、と理解できたから、自分を納得させようと努力できたけれど。
もし、ボリスが躊躇いもなく、その上顔色を変えずに、あの決断を下したときに。
果たして、自分は少尉としてあるべき姿勢を維持できるのか?
できる、と言い切れる自信が今の彼女にはなく。
そして、そのあまりの態度に頭に血が上って、食ってかかってしまうのではないか?
そうしないと断言できる自信もまた、ソフィーにはなかった。
「……なにかが起きる前に、是非ともフィリップス大佐には戻ってきてほしいものだ。アーサー・ウォールデンの一件で、結局は未遂に終わったが……あんな思いはもう二度としたくはない」
「おや? フィンチ大佐の着任に、ちょっとばかりの期待を抱いていたのではなかったのですか? お守りする必要がなくなって、楽になるって」
「過去の過ちをほじくり返してくれるな。こうまで緻密さを求めるお方とは、思いもしなかったんだ。恐ろしいよ。今に、食堂の生ゴミを漁って……ジャガイモやらニンジンやらの廃棄率にも指導を入れそうで」
「ははっ。笑えませんな。まあ、いくらなんでもそこまでは――」
「ドイル少尉! 少尉は取れるか?!」
重苦しい話が、少しだけ笑い話に舵を取りかけたそのときであった。
話の報酬代わりに、デスクに潜ませた、たまにこっそりと任務中に啄むことのある秘蔵のコンフェイトを、ソフィーがオリバーに渡そうとした頃合いでもあった。
執務室に備え付けられた、血管さながらに隊舎の隅々まで張り巡らせた、真鍮の朝顔、即ち伝声管から悲鳴めいた声が聞こえてきたのだ。
男の声。
その持ち主は――噂をすればなんとやら、ってやつだろう。
ソフィーはオリバーと顔を見合わせたのち、もううんざりだと、言わんばかりに目を伏して、大きなため息。
それを自らの執務スペースに置き去りにして。
あまりの音圧に、さきほどびりびりと震えていた金属製の朝顔の下へ、とぼとぼと向かっていた。
「――はい、執務室。こちらはドイル。フィンチ大佐、いかがされました?」
「おい! この隊舎の食堂のコックにどういう教育をしているのだ! ジャガイモといいニンジンといい! 皮に身が十分ついているではないか! 臣民の血税を浪費するとはなにごとか! 改善せよ! カイゼン!」
本当に噂をすればなんとやら、という言葉が、これ以上に当てはまる状況はそうはあるまい。
古名家の姑よろしくの細かい揚げ足取りに、ソフィーはくらりと目眩を覚えて、こつん。
静かに額を、安っぽい光沢目立つ塗装されたコンクリート壁に押しつけて。
「……笑えませんな」
背中から聞こえてきたのに、その渋っ面が容易に目に浮かんでくるような、オリバーの一言にゆったり、眉根を寄せながら頷いた。
低い恨めしげなうめき声を伴いながら。




