第六章 一話 いわゆる魔が差した、ってやつ
陽が出ればまだまだ夏で、鬱陶しくなるくらいに暑いものの、最近は日没を迎えれば、むしろ肌寒い日もあるようになってきた。
まさにただいまは初秋、と呼ぶべき季節なのだろう。
とはいえ、先述の通りまだまだ日中は十分に暑いし、それは本日とて同じことであった。
そんな暑い日差しが降り注ぐ屋敷の庭の一角。
まだまだ我らの盛るときぞ、と力強く主張する草々の青臭さがどこかより漂う中。
俺はファリクと共に、肉体を用いた作業にせっせと勤しんでいた。
「軍曹。こんなので、どうですか?」
本日の作業のパートナーであるファリクが、黒土が露出した地面にごろりと寝そべる、人の丈より三周りも大きな鉄柱を指差して問いかけた。
この鈍色をした鉄柱はファリクがたった今、大量のくず鉄から形成魔法で拵えた代物だ。
つまりは今の彼の声は、品質チェックを求めるもの。
鉄柱の出来はさて、いかに。
実のところ、鉄材の目利きには自信はないけれど、彼の問いかけに答えるために、俺はしゃがみこんで鉄柱に触れてみる。
滑らかな手触りだ。
ガラス玉をこの上で転がせば、綺麗な軌道を描いて、つーっとどこまでも転がっていくだろう、と確信させるくらいに、その表面に凹凸はない。
次いで右頬をぴったりと付ける形で、右目を柱から近い位置で、つんと鼻孔を刺す鉄臭さに耐えながら平行視。
肉眼では曲がりも歪みも一切観測されず、ぴしっと定規で線を引いたかのように、美しい直線的な面が、柱頭にまで続いていた。
「うん。素晴らしい。流石の仕事ぶりだよ、ファリク」
結局の所は素人目の判断だけど、そう思った。
手放しの賞賛を与えて然りの、素晴らしい出来。
それを彼に余すところなく伝えるために、俺は立ち上がりがてら、ファリクに向けて拍手。
たった一人のスタンディングオべーション。
でも、拍手を彼に与えるのは、ちょっとばかしオーバーであったか。
当のファリクはなんだか小恥ずかしげ。
ぷいと視線を俺から外して頬を二、三掻く。
典型的な照れ隠しのジェスチャー。
「そいつはよかった。お褒めいただき光栄です。んで? 次に自分がやること、ありますかね? また柱を作るのですかね?」
「いや、柱はこれで看板。次はガラスを都合して欲しいのだけれども……ファリクは、ガラスへの形成魔法、使えたっけ?」
「鉱物関係ほど得意じゃありませんが。絶対にやりたくない、って思うほど苦手でもないので、ご安心を。問題なくやれます」
「それじゃあ、ガラスをお願い。俺はその間自分の仕事をやってるからさ。なにかがあったら、遠慮なく声をかけてほしい」
「了解です。なにかが起こらないような丁寧な仕事。それを心がけます」
「そいつは結構」
くそ真面目ど真ん中そのものな返事をするや否やファリクは、もうずいぶんと小綺麗になった庭からは、ずいぶんと浮いている、真っ黒に古ぼけた木箱へと向き合った。
箱の中身には、街中から集めた廃棄される予定であった、割れたガラスが山積みとなっている。
見るだけならば、陽光をきらきらと跳ね返して、さながら装飾品よろしくの輝きを放つそれら。
ファリクはガラスの切れ端で手を切らないように、慎重な動きでその輝きに手を入れて、そして。
魔法を行使。
直後、積み重なったガラスの破片がかちゃりかちゃりと独りでに音を奏でだして。
あれよあれよの内に、真っ平らなガラス板が、古い木箱の中からにょきにょきと生えだした。
それは、彼の形成魔法が恙なく発動している証。
この調子ならば、ガラス作りは鉄柱のとき同様、彼にすべてを任してもいいだろう。
もっともダメだったとしても、じゃあ俺になんの手伝いが出来るのか、という話になるのだけれども。
と、なれば、俺はファリクを気にする必要は、もはやあるいまい。
自分の仕事に注力しなければ。
強化魔法を使ってできたての鉄柱を軽々担いで、山積みとなった同じくファリク印のそれらの一番上に置いたら、さあ、仕事再開。
鉄柱の山のかたわらに置いておいた、たっぷりとモルタルが入ったブリキのバケツを引っ提げて、いざ、ハーブ畑と化した花壇へ歩む。
まだ植えてからそこまで時をおいていないというのに、花壇の内側一面を、緑の絨毯と変貌させた、強烈な繁殖力を誇示するハーブ畑。
そこから、十歩ほどの距離、まだ真新しい石畳が途切れたところに、本日の仕事現場があった。
そこには五段まで積んだ、どことなく粉っぽい朱色をしたレンガがあった。
レンガにサンドされる形で、まるで雨後のように、ちらちらと湿り気を帯びた照り返しを持つ、暗い灰色をしたモルタル。
そうだ。
今日の俺の作業はレンガ積みであった。
素人の仕事だけれども、我ながら、なかなかいい仕事をしていると思う。
まだ、五段しか積んでいないけれど、モルタルをきちんと均等に均せたらしい。
試しにレンガ積みの天辺に水準器を置いてみれば、水泡はぴったり真ん中で安定。
いまのところやり直しは必要なさそうだ。
会心の出来、と言ってもいい。
ぴくりとも動かない水準器の水泡を眺め続けていると、腹の底から愉悦がこんこんと溢れてきてしまって、ついに耐えかねて。
くつくつと、喉の奥からあまりにも不穏極まる笑声、漏れる。
クサい台詞の一つや二つ、吐きたい気分となる。
「くっくっく。哀れなレンガ共よ。ハーブ花壇で散々繰り返したやり直しのおかげで、磨きに磨かれた我が腕に恐怖せよ。そして頭を垂れよ。一つ残らず、綺麗に積み上げてやろうではないか」
「……なに言ってんだ? お前?」
調子に乗って芝居がかった口調で独りごちていると、困惑の声、思いもよらぬ方からやってくる。
俺の背からやって来る。
意味するのは、つまり独り言を聞かれてしまったということ。
しかも誰かに聞かれたら、飛び切り恥ずかしくなるタイプのヤツを。
油を欠いた歯車機構のように、いかにもギチギチと耳障りな音が聞こえてきそうなほどの、ぎこちないことこの上ない動きで声の方を見る。
首を回す。
視線の先には――
「ク、クロード? いつ、屋敷に来たんだ?」
レッドコート。
陸軍の証。
いつの間にやら。
大尉の階級章を誇らしげに付けたクロードが、訝しげな表情で立っていた。
「今さっき。悪いと思うが、庭から作業の音が聞こえたんでな。気になって勝手に入っちまった」
「そ、そう。ち、ちなみにさ? さっきの独り言。どっから聞いてた?」
「急に笑い出したところからだな」
「……全部ってことか」
「誠に遺憾ながら」
しかもよりにもよって、クロードはあの恥ずかしい独り言を頭から尻尾まで、きちんと聞き遂げてしまったようだ。
畜生、顔が妙に熱い。今、鏡で顔を見たら、よく熟れたリンゴみたいになっているはずだ。
あるいは怪しい露店で売っている、見るからに塗料で着色された、不自然に鮮やかなトマトか。
いずれにせよ、ただいまの俺の顔面は真っ赤になっているはず。
顔から火が出そう、という文句が、これほど当てはまる状況はそうそうあるまい。
さらに厄介なことに、独り言を聞いてしまったクロードときたら、いかにも根性がねじくり曲がったような、ひどく嫌らしい笑みを湛えていた。
オノマトペにしてニタニタ、というのがぴたりと符合するほどの歪んだ笑み。
ああ、畜生。
これは今のをネタに、後々好き放題イジろうと心に決めやがった顔だな。
いつもなにかとイジられることが多いクロードは、どうにも常日頃から意趣返しの機会をうかがっているような節があるのだ。
これ幸いとネタを見つけた彼の食いつきぶりは尋常なものではない。
まるで獲物を噛み殺しにかかるワニのような執拗さでもって、延々とイジり続けるのだ。
羞恥もそこそこにしておいて、きちんとした交渉を重ねないと、後々面倒なことになりそうだ。
「……ちなみにクロード。今、聞いたこと、忘れる可能性って、ある?」
「まあ俺も人間だからな。コロッと忘れちまうこともあるだろうさ。とっても喜ばしいニュースを聞いたら、記憶が上書きされたりするかもしれん」
「例えば」
「欲しいものが手に入ったり、とか」
クロードの唇が、さらに大きく歪む。まるで夜空に浮かぶ、見事な三日月みたいに。
憎らしいはずのその表情は、彼生来の顔の良さに助けられて、醜悪さのにおい、少しも嗅ぎ取れず。
今の表情の根底にあるはずのいじわるさは、ルックスのおかげで、茶目っ気に満ちた顔、と評するべきまでに、マイルドなものになってしまった。
悪意のある面持ちでも、こうまで好意的なものに見えてしまうのだから、やっぱり美形ってずるい。
それはそれとして、この男はなんという強突く張りか。
クロードはつまりはこう言いたいのだ。
今の出来事を忘れて欲しくば、なにかを献上せよ、と。
きっと自国の利益を最大限に引きだそうとする外交官も、こんな感じに相手の弱みを散々いたぶって、厚顔無恥な要求をし続けるのだろう。
今の俺は、外交戦で大国にボロボロにやられてしまう、小国みたいな境遇だ。
涙を呑んで要求を受け入れざるを得ない、という点で、悲しいくらいにそれと符合している。
こんなに悔しい気分にさせてくるのだ。
クロードはくそ真面目な気性故に向いていないと思っていたけれど、この厚かましさは案外外交の場で活躍できるかもしれない。
心の底から外交官への転身を勧めたい気分であった。
「……なにが欲しいんだい? 葉巻? ジン? ビール? それともウィスキー?」
「うむ。そのラインナップも魅力的だ。だが、最近無性に口に入れたいモノがあってな」
「それは、なに?」
「ワイン。共和国の」
人混みの多い通りでやってみれば、何人かの女性を落とせそうなほどに、爽やかな笑みとイタズラっぽいウィンク。
それらとは対照的に、催促してきたモノは極悪であった。
ワインの名産地として名が高かった共和国産のワイン、こいつを飲ませろと要求してきた。
素晴らしいワインを産み出すことで、元々それなりにお値段の張った共和国ワインだけれども、共和国が亡国となってしまい、新作が途絶えたおかげで、すぐさまプレミア化。
傑作と評される年代ものとなると、冗談抜きで日を重ねるごとに希少価値は増していく始末。
飲んで笑顔に、自慢して悦に、といったワイン本来の楽しみ方以外にも、とてもホットな投資対象としての価値が見いだせるほどに、値段の釣り上がりっぷりが凄まじいのだ。
いくら大きな金を使わない生活を送っているとはいえ、ちょっとこれは、二の足を踏まざるを得ない。
無駄とは思うけれど、翻意を促してみよう。
「……国産のじゃダメかな? 最近の王国ワインも質はいいよ。軽い飲み口で食前、食中酒として最適だって評判だし」
「たしかに王国ワインも捨てがたいがな。だが最近の俺の舌は、重たいヤツを求めてる。ライトなやつじゃ、舌の重しが足りないだろうから、なにかの拍子で滑っちまうかもしれねえなあ」
本当にクロードは、外交官になった方がいいのではないだろうか?
彼は不退転の意思を露わにする。
しかも厄介なのは、ご希望に添えなかった場合、先の独言を暴露するときっちり脅しを入れるところにあろう。
俺は大きなため息をつく。
これは彼の要望通りにしなければならないようだ。
やれやれ、一体ゼロが幾つ並ぶ請求書を眺めねばならないのだろうか。
今からそのときを考えてしまって、ああ、まったくもって気が重い。
こんなことになるのならば、いつぞやファリエール女史から渡されたあのワイン、飲むんじゃなかったかな。
「……わかったよ。どんな年代のやつでもいいから、欲しいのを選びなよ。当然、請求書は俺宛で」
「お、太っ腹。本当か? いやあ、そいつは嬉しいね。思ってもみなかった。それじゃ、お言葉に甘えるとしようか」
驚いた風に目をわざとらしくまん丸に丸めて、クロードは僥倖僥倖、にやけの音色が大いに含んだ呟きを口にした。
いかにも頷いてくれるとは、思ってもみなかった、と言わんばかりの態度だ。
その様は見ていて腹が立つほどに白々しい。
なにが思ってもみなかった、だ。
頷かざるを得ないような状況を、しっかりと作っていたというのに!
とはいえ、そんな不満は口には出さなかった。
下手に突いて、気分を損ねて、やっぱり二本飲みたい、なんて言われちゃ目も当てられない。
口元にまで出かかった悪態を、苦労しつつも何とか飲み干すことに成功した。
「んで? 作業中のようだが……お前は一体なにを作ろうとしてるんだ? モルタルとレンガ。それに鉄柱にガラス。てんで読めねえんだが」
彼が言うところの、思いがけない幸運をひとしきり味わったのか。
俺の傍に置かれている物品に目をくれたあと、いかにも不思議そうな声色で問いかけてきた。
本当に、俺がこれからなにを作ろうというのかが、わからないようであった。
「温室だよ。オランジェリーを作ろうと思ってね」
「オランジェリー? ああ、なるほど。たしかにないと庭が寂しいもんな」
答えを聞いて、彼は何度も何度も頷く。
心から納得したようであった。
俺がこれから作ろうとしているものに。
オランジェリー。
つまりは、オレンジをはじめとした果物を育てるための温室だ。
この国の空の色はなにか、と問われれば、鈍色、と即答できるくらいに、王国の天候は夏はともかくとして、恵まれた気候とは言い難い。
それ故、麦以外の作物の発育がよろしくなく、昔は野菜はまだしも収穫できる果物となると、極端に限られていた。
つまり果物が他の国と比べても、より価値が高い代物であったのだ。
そんなお国事情がきっと、珍しいものを手に入れて自慢したい、という貴族根性をくすぐったのだろう。
貴族たちは自らの庭に温室を設え、本来王国の露地では育ちにくい果物を、競って栽培するようになったのである。
オランジェリーを持っていない貴族は貴族にあらず、と社交界に馬鹿にされるほどに、王国貴族は温室での果物作りに傾倒していったのであった。
そしてその情熱は、元貴族の俺にもきちんと遺伝しているようだ。
実のところ、この屋敷に着いたとき、一番不満に思ったのが、庭の荒廃具合ではなく、オランジェリーがないことであったのだから。
「上手くいけば甘味を自給できるしね。ファリクが居てくれて助かったよ。簡単にガラスが都合出来るから」
もちろん、王国貴族の血が騒いだことのみが、オランジェリー建設のきっかけではなかった。
オランジェリーが出来れば、街で果物を買う機会がぐっと減らせるはずだ。
アリスをはじめとした、買い出しに行く人間の負担を減らすことができる。
元貴族の見栄と、親しい人たちに楽をさせたいという願い、そしてファリクという、形成魔法の達人がきたことで材料調達の容易化。
これらの要因が合わさって、此度のオランジェリー建設に踏み切った次第なのであった。
「ああ、そうだ。そのファリクと言えば、だ。ほれ、ウィリアム。殿下からの封書だ。こいつがファリクの居住許可の勅書だ」
「ん。ありがとう。さすがは殿下。仕事が速い。これでファリクもしばらくは住む家に困らなくなった」
「そいつあ喜ばしいことだがよ。俺たちの部下たちゃあ、ちったあ遠慮してくれねえかな。勅令を連発しすぎて、各所の恨みがパンパンになってんじゃねえかと、気が気じゃねえんだよ」
「ん? ああ、ごめん。今回は俺が殿下にお願いしたんだ」
「へ? お前が?」
俺が殿下に直接交渉したこと。
これがクロードにとっては存外であったらしい。
彼はまたしても、大きく目を剥いた。
今度のは、演技の欠片がこれっぽっちも感じられない、正真正銘の喫驚の仕草であった。
「だってさ、今の屋敷の面々を思い出してごらんよ。俺以外はみんな女性だ。やっぱりどうしても気を遣ってしまうから……気兼ねなく接せられる、男の同居人が欲しかったんだ」
「おーう。相変わらず繊細だなあ。んなもん、軍隊生活と同じノリでいいんじゃねえのか。世界の半分は女なんだし、別段気を遣うこたあねえと思うがな」
「役に立つアドバイスをありがとう。クロードのようにさっぱりとしていて、男らしい性格じゃないことが、一番の俺の不幸に違いないよ」
ちょっとだけ言葉に皮肉を混ぜ込む。
俺はたしかに、よろず物事を気にしすぎるタチなのは大いに認めるけれども、クロードはこと私生活においては、あまりに浅慮すぎるだろうと。
そんなんだから女性に愛想を尽かされて長続きしなかったり、浮気されて散々な目にあったりするのだろう、と言外にチクり、ワインの件の仕返しをする。
その皮肉は、きちんとクロードに届いたらしい。
実に不愉快そうに彼は唇の端を、ぴくり。
痙攣じみた動きでわずかに動かした。
ちょっとした意趣返しは成功裏に終わる。
さて、共和国ワインを追加購入される悲劇を回避するためにも、だ。
ここはちょっと話題を変えることにしよう。
「それで? 本題は?」
「あん?」
「大尉を王族のメッセンジャーとして使うなんて、陸軍はずいぶんと暇のある戦後を送っているんじゃない?」
クロードの今の格好は、レッドコート。
これが意味するのは彼は、ただいまオフにあらずってこと。
仕事中に抜け出したことになる。
なにかあるごとにサボろうとしているらしい、フィリップス大佐ならともかく、ファリクに負けないくらいに生真面目な希少なクロードのことだ。
大した用もないのに、ここに訪れるってことはないだろう。
殿下からの勅書にしても、わざわざクロードが渡す意味はなく、信頼できる部下に任せればいい話だ。
と、なれば、殿下の勅書はむしろついでなのだ。
なにかがあるはずなのだ。
ゾクリュ官舎街にある陸軍の出張所から抜け出すに値する、なにかが。
そしてそれは正鵠を射ていたようだ。
さきの皮肉を受けて、眉根寄せて、不機嫌さを隠そうともしなかったクロードは、にわかに顔を取り繕って、真顔になって。
右に左に。
ちらりちらり。
周りをうかがうジェスチャーを見せたあと。
その大きな身体を気持ち屈めて。
静かに、低く。
潜めた声を紡ぎはじめた。
「……大丈夫だと思うが……一応、人の耳がない場所に移動したい。万が一のこともある。青空の下で話すにゃ、ちっとばかし憚れる話がある」
「わかった。応接間で大丈夫?」
「ああ。それでいい」
「ん。じゃあ、移動しよう。しかし、わざわざ聞き耳を気にするなんて。さては持ってきた話、また厄介な代物だな?」
「お前に直接面倒がかかる話じゃないから、安心して欲しい。むしろ他人の面倒話だ。だが、お前も知った方がいい話でもある」
「ふうん。誰かが厄介に巻き込まれたってこと?」
「そうだ」
「その可哀相な人って誰?」
「フィリップス大佐」
「へえ。フィリップス大佐が……って、え?」
予想外の名前が飛び出てきて、今度は俺が目を大きく見開く羽目となる。
ゾクリュに来て以降、なにかと縁のある守備隊隊長、ナイジェル・フィリップス大佐。
勤務態度はさておいて、その能力はまったくもって問題のない人物であるのだ。
わざわざクロードが話にくるくらいの大問題なんて、起こしそうとは俺には思えなかった。
「……あの人になにがあったんだ?」
クロードは答えなかった。
代わりに彼は無言で足を動かす、屋敷へと歩を進める。
その行き先は言うまでもなく、応接間。
俺の問いに答える気配は、今の彼には一切ない。
けれども、俺は、それを咎める気にはならなかった。
クロードの背中が不言にて語っていたからだ。
それを話すために、これから屋敷に向かうんだろう? と。
彼のその声を読み取った俺は、まったくだ、と、クロードに追従して、心中にて頷いて。
そしてこれまたクロードに追従。
モルタルの入ったバケツを、積みかけのレンガの上に置いて。
屋敷への第一歩を踏み出した。




