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第五章 エピローグ 三 王室特務がやってきた!

 風景そのものが変わったわけではない。

 雲もなければ、びゅうびゅうと強く吹く風もないし、いまだ子供たちは、大きくもない公園を駆け回る。

 気に病む要素が一つもない、まさに平和の象徴とも呼ぶべき、穏やかそのものな光景。

 ナイジェルとヘイゼルの目の前では、変わらずにそれが広がっているはずなのに、である。

 二人の顔色はどこか物憂げ、いや、暗澹として多分に影が目立つもの。

 平和な光景を目の当たりにしているはずなのに、その顔は、まるで敗北寸前の戦場を目の当たりにしている兵士のよう。


 それだけナイジェルが手に持つ、空の書類袋が彼らに与えた、負のインパクトは強烈なものであったのだ。


「……今の世の中、別に戸籍を持っていない人間も珍しくもないし、経歴を詐称する人もごまんと居る。だから別にこの調査結果も、そこまで深刻視するものではないわ」


 短くはない沈黙をおいて、ヘイゼルが言葉を絞り出した。

 実のところ言うならば、エリー・ウィリアムスなる人間が、公式には存在していないことになっていたとしても、不思議ではないと。


「戦争の混乱は行政事務にも及んでいたからね。実際には死んでなきゃいけない人間が、戸籍の上では生きていたり、逆に生きてなきゃいけない人間が実際には死んでいたり。だから、あの娘の経歴がこんな風でも、君の言うとおり問題にはならないはずなんだよね」


 ナイジェルはヘイゼルの言に肯んじる。

 実のところ言えば、今回発覚したエリーの件は特別なものではなく、今の世の中においてはむしろ普遍的なものと言えた。


 戦争遂行に注力しすぎ、人員を軍関係に次々投入していった結果、王国は行政機能の低下を招いてしまったのだ。


 それは戸籍管理も例外ではない。

 診断書なしでも死亡届が受理されるほどに杜撰となっていたのである。

 特に戦線から距離のない地域では、いい加減な手続きは、輪をかけてひどくなる傾向にあった。

 その上、本当に一家全滅してしまう事例も珍しくはなかったために、赤の他人が死亡届を提出する、なんて例外を政府が作ってしまったから、さあ大変。

 タチの悪い流感にやられ、家族全員仲良く入院で家を空けていたら、お節介な隣人が、あの家族は戦争に巻き込まれて全滅した、と勘違い。

 隣人が出した死亡届が、危うく受理されかけた、なんて話も、決してレアなケースではない。

 あるいは、用があって役所に出向いたら、戸籍上ではすでに死んでいることが発覚したりとか。


 その手の話は悲しいことにありふれたものなのだ。

 パブに出向いて耳を澄ましてみれば、そいつらを笑い話にして盛り上がるテーブルが、一つは見つかるほどに。


 近代国家にも関わらず、自国民の戸籍管理がしっかりしていないというのは、やはり政府からすれば恥ずべき体たらく。

 発覚次第、順次書類上の()()()()を施しているものの、何分数が多くて、手が回らず、蘇生待ちの戸籍ゾンビたちは増える一方。

 政府高官たちも頭を抱えているのが現状であった。


 いや、ただ単純に死亡記録が誤っているだけならまだいい。

 死亡届の受理が適当であれば、その管理もまた杜撰。

 なんと役所が厳重に保管すべき住民台帳がマフィアどもへと流出し、あまつさえ、死亡者の戸籍情報が、連中の商品となっている地域すらある。

 死亡届が簡単に撤回されるからこそ、どうしても王国の民になりたい難民たちの間では、死亡者の戸籍情報というのは、大枚を叩く価値があったのだ。


 だから赤の他人が、どこかの誰かの戸籍を買って、身分を詐称していることも、実のところ珍しい案件ではない。

 もっと突っ込んで言えば、エリーのように戸籍上では存在しない人物が生まれることも、決してないことではない。


 例えば――


「普通に考えるのならば」


 ものぐさなナイジェルは、とうとう芝生に座ることすら億劫になった。

 よっこいしょ。

 周囲の目もはばからず、自らの腕を枕にごろりと仰向けになった。


 ヘイゼルから咎める声はない。

 なぜなら、彼女も立ちっぱなしは疲れると判断したのか。

 ナイジェルらが間借りしている木陰、それを産み出す樫の木に腕を組んで背を預け、いささかラフな体勢になっているからだ。


「あの娘がどこかの国の難民で、王国に帰化したいと考えていたとして。こんな風になっちゃったのは、正式な手続きを踏まず、阿漕な連中から戸籍を買ったから、と見るのが一番ありそうな線だよね」


「そうでしょうね。ただ、彼女にとって不運なのが戸籍を買った相手が、マフィアの中でもとびきり悪質な連中だった、ってことかしらね。きっと流出した台帳にすら存在していない、マフィアが勝手に作り上げたエリー・ウィリアムスという名を、騙されて買ってしまった」


「だから、いくら調べても彼女と思しき人物が戸籍上でヒットしない。そして、どっかから流れてきた難民だから、いくら王都を調べても彼女の足跡が摑むことができない――この空っぽの袋に至った原因はそれである。と、そんな風に解釈して然り……の、わけなんだけれども」


「ええ。この場合、その解釈には無理が生じるわ。何故であるならば」


 二人の視線が同じ方へ向いたのは、まったく同時であった。

 雨期直後のキノコよろしくに、にょきにょきと群れをなして空へ伸びゆく、復興の証たる四階建て以上のビルたち――

 ではなく、ただいまは見えない、建設中のビルの向こう側の遠くにある丘。

 二人はその頂上に根を下ろす、とあるカントリーハウスを睨んでいた。


「あの娘は今ウィリアム・スウィンバーンの傍に居る。王女殿下の推挙によって、あの屋敷で働いている。戸籍を持っていない人間があの屋敷で住み込みで働けるなんて、普通はあり得ないもの」


「彼は建前上は戦後の安寧を乱す者、と見なされて裁かれた訳だからね。そんな人のところに、どこぞの諜報員である可能性が無視できない、無戸籍の者を置くのは、あまりにリスキーすぎる」


 あの戦争でいささか陰りを見せている、とはいえだ。

 王国は強大な軍事力を背景に、植民地支配を推進したこともあってか、非常に恨みを買っている国でもある。

 その王国が、蒸気機関による産業革命を遂げて以降、もっとも弱体化しているのが、ただいまなのだ。

 世界中に散らばっていた植民地のほとんどを、維持できなくなるほどに。


 王国に積年の恨みを持つ者どもにとっては、これは一矢報いるに絶好の機会だ。

 そのような状況下、現政体打破の神輿となりかねない、と見なされ、一方的に処罰された人物に接触できれば、である。

 彼をたき付けて、かつて王国上層部が懸念した通りに、ウィリアムを御旗とした、内戦を起こせるかもしれないのだ。


 内戦を防ぐために、ウィリアムに近付く人間には、たとえ真っ当な戸籍を持っていたとしても、徹底的な身辺調査がなされているはず。

 背景を摑みきれない無戸籍の人間が彼に近付くこと、これは王国が本来許すはずがないのだ。


 だというのに、国はまさしくそんな者であるエリーの接触を許してしまっている。

 それどころか、王女であるメアリーが、あの屋敷で働くことを認めてしまっている。


 内乱の種子をゴミ箱に排除したというのに、そのゴミ箱に栄養たっぷりの腐葉土と水を与えるが如き所業。

 あまりに奇妙な矛盾である、と断ぜざるを得なかった。


「ヘイゼル。王女殿下が命じたはずの、あの娘の身辺調査。それって国憲局がやったの?」


「ええ。そうよ。当初はそのはずだった」


「当初? そのはず?」


「横槍が入ったのよ。仕事に取りかかろうとしたすわそのとき、王室特務が突然やってきて、殿下の依頼を横取りしていった」


 自らの職権を侵害されたことに不愉快を隠せないのか。

 ヘイゼルは眉間に皺を寄せ、わずかに唇を歪めながら、そう吐き捨てた。


「うげ。王室特務……かあ」


 そして苦々しい顔を浮かべたのは、ナイジェルも同じであった。

 もっともその理由は、ヘイゼルと違って国憲局の職分への乱入ではなく、割り込みをしてきた連中そのものであったが。


 王室特務。

 近衛とは別に、王家が、いや正確には国王と宰相が保持する特務機関。

 ほとんど動くことはないとされる、不動の機関として名高い存在ではあるが、一度活動してしまえば、他のあらゆる組織の職分を侵害可能な、超法規的機関。

 戦争遂行の意思決定を円滑にすることを名目に、権力を王室に集中させ、立憲君主制を形骸化せしめた、現国王を象徴する存在。


 彼らが動いて、国憲局から王女の依頼を奪っていったということはつまり。


「連中が出しゃばったってことは。陛下と宰相。現政体の二つ頭が、嫌がったってことだよね。国憲局があの娘を調べるのを」


「ええ。そして、王女殿下がいくら破天荒なお方であっても。スウィンバーンが殿下のお気に入りであっても。いや、お気に入りであるからこそ、ちゃんとした身の上がある者を置きたがるはず。そう考えると――」


「特務の連中が殿下に真実を伝えなかった、ってことか。でっち上げを報告したってことか。どういう意図があるのかは見当もつかないけれど。あの娘がウィリアムさんの近くに居ることを、二つ頭は望んだ、ってことか」


「……そう考えざるを得ないわね」


 きっかけはちょっとした警戒心からであった。

 軍人の警戒を簡単にすり抜けられる、年端のいかぬ少女を訝しんで、旧友の探偵にその身辺を探らせてみた。


 だが、返ってきた反応といえばこれだ。

 少女が無戸籍であることが発覚したばかりか、どうにも国を牽引する二つ頭の思惑が絡み合っていると断ぜざるを得なくなってしまった。

 巨大な人食い鮫を釣り上げてしまった。


 そしてもはや事態は、自分たちの許された力量ではどうにもならない。

 その事実を確認してしまった二人は、ひどく重たい空気に包まれた。

 沈黙した。

 さわさわとそよ風に揺れる、頭上の樫の葉擦れが嫌に彼らの耳に残るくらいに。


「ナイジェル。国憲局に戻ってらっしゃい」


 長く、とても重厚な沈黙。

 これを破ったのはヘイゼルであった。


 話の脈絡からずいぶんと飛んだ、唐突なスカウト。


 君は急に何を言っているんだい?


 そう言いたげに片眉を上げて訝しみの表情を作りながら、ナイジェルは自らの頭上にて樫に背をあずける、元同僚の国憲局長官を見た。


 件のヘイゼルの顔は平静そのもの。

 先の王室特務の行いの嫌悪の面持ちはどこへやら、凪のように平坦で、ともすれば冷淡とも評されかねない、仮面染みたもの。


(焦り、かな。これは)


 けれども、それなりに付き合いのあるナイジェルにはわかった。

 彼女の今の顔は、胸の内に燻る感情を押し殺してのものであることを。

 そしてその感情の正体も。


「わかるでしょ。今のゾクリュはおかしいわ。立て続けに起きる事件に、存在すると認めざる得ない陰謀の影。仕事をするには、とても危うい状況よ」


「たしかにね。心配するのはありがたいけどね。僕はこのゾクリュ守備隊の長である今の仕事が、存外気に入っているんだ。辞令ならともかく、自分から動くつもりはないよ」


「呑気なこと言っている場合? これからゾクリュで、とんでもない事件が起こるかもしれないのよ? その責任を貴方に取らされかねないのよ? 貴方に責任が一切なくても。例えその責任が貴方よりも、ずっと上の方にあっても。譴責されるのは貴方なのよ?」


「それならそれでいいかもしれないなあ。サボっても文句の言われない閑職に飛ばされるかもしれないし。理想的だよ」


「ナイジェル。お願いだから頷いて。貴方が出世をめぐる局内の政治と、政治家の足の引っ張り合いに辟易して、国憲局を出て行ったのはわかるわ。でも、今は私が長官よ。そんな腐臭漂う仕事から、貴方を守ることができる。貴方がうんざりしない仕事を、常に与え続けられる。だから戻ってきて。貴方の力を、そして貴方を腐らせたくないの」


 そしてヘイゼルの内心がどのようなものであるかの答え合わせ。

 その機会は存外はやく訪れた。

 のらりくらりとヘイゼルの要望を躱すナイジェルに焦れたのか。

 言葉をやり取りする度に、国憲局の長の口数が増え、みるみると早口になっていく。


 焦りを抱く者が見せる、典型的な特徴だ。


「ありがとう。でも、ヘイゼル。仮に今、僕がこの場で頷いたとしても」


 そんな彼女の様子に、ナイジェルは罪悪感を抱いた。

 自分のせいで彼女に不安を与えてしまっている、それを十分に理解していたからだ。


 だが、それをいくらきちんと理解していても、ナイジェルはヘイゼルの誘いに頷くつもりはなかった。


 いや、正確には。


「いくら今の君でも。彼らから僕を守ることはできないよ」


 彼は知っていたのだ。

 例え、その誘いに頷けたとしても。

 彼女の力が及ばない存在が、彼の身に迫っていることを。


 ナイジェルはそろそろ頃合いかな、ぼそりと呟きながら、ヘイゼルに背を向けたまま、横臥から立ち上がる。

 背中に、尻に引っ付いた芝生を手で払って、そして。

 くるりと踵を返して、ヘイゼルを、いや、彼女が寄りかかる樫の向こう側に居る者を見た。


 視線の向きから、自分の後ろに何者かが居ることを悟ったらしい。

 ヘイゼルは喫驚を伴いながら、木の幹から背を剥がし、ナイジェルの動きに追随、振り返る。


 その視線の先には、各々好みのウェストコートとシャツを着込む、街中でありふれた形姿の紳士が四人。

 いつからそうしていたのか、直立不動の体でそこに居た。


「……いつの間に」


 思わず、といった体でヘイゼルが呟く。

 当然驚きを含んだ音色で。


 情報機関に身を置くものとして、尾行任務や潜入任務をこなしたことのある彼女は、その手の職につくほとんどの者がそうであるように、他者の気配なるものに敏感であった。


 にも関わらず、連中はヘイゼルの直感の警戒網をあっさりと突破してみせた。

 掃いて捨てるほどのつまらない背格好とは対照的に、この者どもはただ者ではないことの証左、としても過言ではないだろう。


 ともすれば、警戒して然りな状況。

 静かに、すり足の要領でゆっくりと彼らから距離を取るヘイゼルのように。


「……貴方たち、何者?」


 警戒心を多分ににじませた声で、ヘイゼルが誰何。

 いまだすり足で距離を作ろうとしながら。


 されど男どもはヘイゼルに答えず。

 一瞥もせず。

 四対の感情の揺らぎを感じさせない、仄暗い双眼を、ナイジェルにじっと向けながら――


「ナイジェル・フィリップス大佐、ですね?」


 逆にナイジェルを誰何。

 その声には感情も特徴も一切感じられなくて、二、三刻もすれば忘れてしまいそうなほどに没個性的で。

 それが逆に、正体を明かさないことも相まって、人の心を不安にさせるに足る、不気味さを孕んだものでもあった。

 その証拠につばを飲み込む音。

 ヘイゼルのもの。


 だが、ナイジェルはその不気味さにあてられた様子はない。

 いつも通りの、気のない表情のまま、彼らの問いに頷いた。


 それどころか、どうやらナイジェルは彼らの正体のあたりをすでに付けているらしい。

 待っていたよ、と小さく呟いて、にっこりとわざとらしい笑みを浮かべる余裕すら見せた。


「ん。いかにも。そういう君らは王室特務だね?」


「ええ、その通り」


「なっ」


 絶句する声はヘイゼルのもの。

 当然だ。

 噂をすればなんとやら、ではないが、話題に上げた当の対象が、自分たちに忍び寄っていたのだから。


 そしてヘイゼルの面持ちは変わる。

 驚愕から祈りの色が濃いものへ。


 あまりにタイミングが悪すぎるからだ。

 ナイジェルが国を治める二つ頭の陰謀を、知らずに突っついていたのを知った直後に、その二人の手先が彼の下にやってくるなんて。


 これはどう考えても――


 だから彼女は祈ったのであろう。

 どうか、旧友であり同期に入局した彼が、連れて行かれるようなことなかれ、と。

 彼女はそう祈ったはずだ。


 然れど現実は――


 ◇◇◇


 翌日、ゾクリュ守備隊隊舎は騒然となった。

 ゾクリュ守備隊体調、ナイジェル・フィリップスが、あまりにも唐突すぎる王都へ召還されたことを、事後で知らされたために。

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