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第五章 エピローグ 二 袋の中身は

 子供たちは元気であった。

 大人は例外なく項垂れ、夏の暑さに参っているというのに。

 暑気に負ける気配、これっぽちも感じさせずに駆け回っていた。


 そんな子供たちから少し離れたところに、暑さに負けた大人の代表格が居座っている。

 額に汗をかき、げっそりとした顔をしているのは、ゾクリュ守備隊の隊長であるナイジェル・フィリップスであった。


 ところは守備隊の隊舎からいささか離れた、芝生と樹木を植えただけの小さな公園。

 その日陰に隠れて、なにをすることでもなく、ただぼんやりと遊び回る子供たちを見ていた。


 まだ、陽は天頂に位置している。

 実際時刻は正午を回ったばかりであり、となれば本来彼は勤務時間中。

 そればかりか、件の新主教騒動の後始末によって、現在守備隊は蜂の巣を突いたように、大忙しであるはずなのに。

 にも関わらず、こうして外に出歩き、あまつさえこうして公園でぼんやりとしているなんて。

 ただいまのナイジェルは絶賛サボタージュ中であるのだろうか。


 その見方に正誤をつけるのであれば、実のところ誤りであった。

 ただただぼんやりとして、時間を潰しているようにしか見えないが。

 実はナイジェル、そんな風でもきちんと目的を持って、この公園に訪れていたのであった。


「……場所の設定。間違えちゃったかな? どうせ人と会うなら、もっと涼しい場所の方が……でも、喫茶店とかだと盗み聞きが怖いし。ううむ」


 勤務中にも関わらず持ち場を抜け出し、公園にやって来た理由。

 それは今の独言通り、待ち合わせのためであった。


 しかも、他人の聞き耳を気にしているあたり、どうやら会う約束を交わした者とは、重要な話をするつもりであるようだ。


「しっかし、遅いなあ……ジム。いくら日陰とはいえ、今日は暑いんだ。あんまり長い時間ここに居ると、バターみたいに溶けちゃうよ。まったく」


「きっとそのバターは猛毒ね。ぺろりと舐めた野良犬が哀れにも即死するくらいに。貴方ほどその身に毒素を蓄えている人間を、私は見たことがないから」


 恨み言でもあったナイジェルの独り言。

 それに返す声が、にわかに木陰の空気を震わせた。

 ナイジェルの背後から聞こえてきた。


 女の声だ。

 話の内容から鑑みるに、どうやら声の主とナイジェルは知己であるらしい。

 それも、それなりに親しい間柄であるようだ。

 でなければ、このように皮肉に満ちた台詞を投げかけることなどないだろう。


 しかし、その知り合いがこの場に訪れたこと。

 それはナイジェルにとって、まったくの予想外であったらしい。


 項垂れた頭を一度ぴくりと震わせて。

 垂れ目気味のその両眼を驚きに目一杯に広げて。


 そして、がばり。

 振り返って、声の主の姿を見た。

 短い黒髪にきついつり目。

 ブラウンのウェストコートに、灰と黒のコールパンツ。

 脇に書類袋を携えた、男装の麗人と呼ぶべき女性が、そこに居た。


「バ……バイロン卿」


 ぽつり。

 ナイジェルがその名を呟く。


 ヘイゼル・バイロン。

 まだ歴史の浅い諜報機関、国憲局の長官である。


「ああ、失礼。ゾクリュにお越しでしたか、バイロン卿。もし、わたくしにご一報いただけたのならば、来訪と同時に護衛を何人かおつけしたというのに」


 急にこの場に現れた政府高官。

 無礼がないようにとナイジェルは態度を取り繕って、急いで立ち上がった。


 尻についた芝生を手で払い、その後にナイジェルはヘイゼルに頭を下げようとするも――



「いいわ。そんな態度を取らなくとも。私と貴方の仲じゃない。昔と同じように話しましょう。同期らしく」


 ヘイゼルはやんわりと制止。

 そんなへりくだった態度は必要ないと、ナイジェルに告げた。


「いや。しかし――」


「では、フィリップス大佐。政府高官としての命令。その歯が浮きそうになる不自然な態度。それを改めなさい」


 それでも依然として、腰の低い態度を続けようとしたナイジェルにぴしゃり。

 ヘイゼルは毅然とした声で命令する。


 そう言われてしまえば、ナイジェルは従わざるをえないのか。

 彼は小さくため息をついて、一度うつむいて。


 やれやれ、しかたがない。

 そう言わんばかりにわざとらしく、肩をすくめてみせた。


「わかったよ、ヘイゼル。こうすればいいだろう? こうすれば」


「そう。はじめからそれで挑めばよかったのよ」


 ようやく変化したナイジェルの様子に、満足したのか。

 ヘイゼルは口の端をわずかにつり上げる、主張の弱い笑顔を浮かべた。


「それで? ヘイゼルはどうしてここに? 国憲局の長官様がゾクリュにやってくるなんて話。僕はぜんぜん聞いていなかったのだけれども」


「知らなくて当然よ。書類上はこの訪問は存在せず、言うなれば極秘裏のものだから」


「長官が極秘裏の訪問? なんだかとっても面倒なにおいを感じるのだけれども……やめてよね。ゾクリュを変なことに巻き込むのは。ただでさえ大変なんだから」


「安心して。訪問目的は政治的なものではないわ。むしろ私的なものよ」


「おや。真面目な君にしては珍しい。職権を私的に使うとは。一体そこまでしてゾクリュにやってきた理由。もし話せるのであれば、教えて欲しいな」


「貴方に会うためよ。ナイジェル。ジムの代わりとしてね」


 ぴくり。

 また、ナイジェルの頭が小さく動く。


 ナイジェルは先日、今は探偵を生業とする国憲局時代の旧友、ジム・クルサードに調査を依頼していた。

 依頼した調査は、とてもありふれたもので、穏当と言って差し支えのないもの。

 けれども、ナイジェルはかつてジムに、王国の極秘情報へのアクセスを依頼したことがあったのだ。

 この話が明るみに出れば、ジムはもちろん、依頼したナイジェルもただでは済まないはずだ。


 そして、国家の情報を管理する、国憲局の長官がわざわざ"ジムの代役"と明言して、ナイジェルを訪ねてくるとは、つまり――


 件の依頼、即ち、秘匿されたウィリアム・スウィンバーンの御前裁判の情報を探らせたことが、国憲局に悟られて。

 ジム共々処罰されるときがやって来たのか。

 ナイジェルは眉間に皺を寄せて、覚悟を決めた。


「ああ、勘違いしないで。彼は無事よ。拘束もしていない。いつも通り彼のオフィスで

、相も変わらず滅多にこない依頼人を、首を長くして待っているわ」


 だがしかし、どうにも彼の懸念は的外れであったらしい。

 ヘイゼルは心配するな、捕まえに来たのではない、と明言。


 情報の管理を生業とする人間の口から出た言葉とは、裏表が極端にあって当然のもの。

 すんなりと信頼するのは、本来難しい。


 だが、眼前の国憲局長官の人となりをよく理解しているナイジェルは、今の彼女の顔が、政治家とのやり取りで使う、腹芸用ではないことを目ざとく読み取った。

 どうやらあの言葉は真であるらしい。

 つまりそれは、旧友は無事であるということ。


 最悪の可能性を否定されたことに安心したナイジェルは、ほうと安堵のため息を小さく漏らした。

 いかにも力の入ったしかめっ面もほどいて、ナイジェルは、いつものいまいち締まりのない面持ちに。


「ああ、それは良かった。でもおかげ様で、なおさらわからなくなったよ。君が僕に会わんとする理由がさ」


「言ったでしょ? 昔の同僚に会いたくなったからって。それでは理由として不満かしら?」


「いいや。僕としては大歓迎。堅っ苦しい話は苦手だからさ。折角再会したんだし、一緒にカフェでも行こうよ。美味しいケーキ出してくれるお店、見つけたんだ」


「……いや、社交辞令なんだけど。まさか、本気にしてない?」


 ナイジェルの発言が、ヘイゼルに背を向け、つま先を公園の出口に向けながらのものであったからだろう。

 まさか今のを本気にしたのではあるまいな。

 それを懸念したであろうヘイゼルは、今にもため息をつきそうなほどな呆れ顔で作ってみせた。


「当然冗談だよ。本気にしたかった、という願望はあったけれど」


 言葉ではそう言うも、しかし本心では出来れば、彼女と一緒にカフェに行きたかったのだろう。

 心の底からがっかりした、というのを表現するためか。

 ナイジェルはくるりと踵を返し、ヘイゼルと向き合い、わざとらしく肩を落としてみせた。


「わざわざジムのお仕事を横取りしてまでゾクリュにやってきたんだ。しかも秘密裏で。それなりの理由がなければ、こんなことしないだろうってことは、まっことに残念ながら理解できるよ」


「心底残念そうな声を出さないで頂戴。それに、私はまだなにも言ってないじゃない。なにを残念に思うというの?」


「だって君が持ち込んできたの。どうせ、厄介事でしょ?」


 雑に発せられたナイジェルの言は、しかと的を射ていたらしい。

 隠し事がバレてしまった際、往々にして人が見せる、心の底からぎょっとした表情を、ヘイゼルは思わず出してしまった。


 厄介事、確定か。

 彼女の顔付きでそれを確信してしまったナイジェルは、心からの嘆息を、細く、長く絞り出した。


「君が秘密裏にやってくるってことは、まあ、そういうことしかないからね。なにせ、今の君は国憲局のトップなのだから。持ってきたのが厄介事でなければ、ゾクリュ訪問を公表して、その時の食事会にでも話すはずだ。違うかい?」


「……そこまでわかっていて、カフェでお茶しようなんて誘ったの? 聞き耳を立てられやすい環境に移ろうって言ったの?」


「だってそうすれば、君、本題を口にしなくなるでしょ? ご存じだけど僕は面倒と厄介は嫌いなんだ。君をカフェに誘導できれば。僕は心穏やかに今日一日を過ごせるはずだからね」


「相変わらず、楽をするのに全力を出す、とんでもない怠け者ね」


「褒め言葉としてとっておくよ」


 照れ笑いか、苦笑いか。

 その判別がつきにくい、いまいち覇気に欠いた曖昧な笑みを口元に湛えつつ、ナイジェルは再び、芝生の上に腰を落とす。

 右側の芝生をちらと見やり、まあ取りあえずは座って話そうよ、と彼はヘイゼルに暗に勧めた。


 しかし、話の主導権が彼に移りつつあることを、敏感に感じ取っているらしい彼女は、少しばかりの抵抗のつもりだろうか。

 要求通り右隣に足を進めつつも、そのまま座らず、しゃんと二足で立ったまま脇に抱えた茶色紙の書類袋を、ずいとナイジェルの右頬に押しつけた。


 平和そのものな小さな公園に、くしゃりと袋が折れ曲がるかすかな音が響く。


「うわっ。ずいぶんと手荒な渡し方だね」


「そうやってふわふわした捉えどころのない態度で、人を食おうとするからよ。そんな風にしているとね。いつか思いっきり、横っ面引っぱたかれるわよ」


「ご忠告どうも。それで、こいつが君が持ってきた厄介事かな?」


「ええ。その通り。そして貴方がジムにした依頼の結果でもあるわ」


「げえ……」


 頬に押しつけられた、ヒモ付きの袋を引き剥がしたばかりのナイジェルは、露骨に皺を顔の真ん中に寄せて嫌な顔。

 ナイジェルは怠惰な性分でありながら、同時に好奇心も警戒心も強い性格でもある。

 万が一の危機がないようにと、ジムに調査を依頼したのであったのだが、どうやらそれは藪蛇をつついてしまっただけであったようだ。


「中、見ないの?」


「……見なきゃ、ダメ?」


「ダメではないけれど。でも、いくら逃避しようとも、現実はこれっぽっちも変わらない。対策を考えるためにも。その中身を確認すべきよ」


「すべき、ね。提案ではなく、命令調なのが実に君らしい」


「ご生憎様ね。貴方が怠け者なように、私は実際的で味気のない人間なの」


 意気消沈するナイジェルを眺めたことで、主導権を取られたことの憂さを、少しでも晴らせたらしい。

 少しばかりの茶目っ気と、多分の嗜虐を声に含ませつつ、ヘイゼルはナイジェルに迫る。


 さあ、その紙袋を開封してせよ、と。


 促されたナイジェルも、いつまでもぐずついて中身を見ないのは、状況がなにも進展しないことは、とうに承知でいたようだ。

 嫌々の雰囲気を一切隠さず、いかにも面倒くさそうな手つきでもって、ヒモに手をかけて、封をほどいて、中を覗き込んで。


 そして大きなため息をついた。

 がっくりと肩も落とす。

 今度のは演技のにおいが感じられない。

 正真正銘、心の底からの仕草であった。


「……ねえ、ヘイゼル」


「なに?」


「一応聞いておくけれど。君、凡ミスしたってことはないよね?」


「いいえ。中はそれで合っているよ。私もジムも、きちんと意図して中身をそうしたの」


「……お二人ともトンチがお好きなようで」


 ナイジェルにしては、珍しく皮肉の色が濃い台詞。

 そいつを紡ぎながら、押しつけられた書類袋を口を広げたまま、地面に向けてひっくり返す。

 袋に収められた書類は重力に従い、ばさばさと音を立てながら落下してゆく定め――にあるはずであった。


 そう。

 本来ならば。

 本当に中に書類が入っているのならば。


 だが、しかし。

 音も、書類も、一切袋から飛び出てくる気配がなかった。


「袋の中身は空っぽ。そしてこれが調査結果。と、いうことはつまり」


「ええ、その通り。ジムが戸籍と、彼女が自称した出身孤児院を調べ、そればかりか顔写真を片手に、王都中の孤児院を総当たりした結果――」


 ヘイゼルがじっと、ナイジェルの手にある空の袋を見る。

 その視線は極めて深刻。

 ジムが依頼された調査の結果を、空っぽの袋として表現せざるを得なかった理由とは、つまり。


「エリー・ウィリアムスと名乗る人間は、王国に存在しないと言わざるを得ない――つまりはそういうことよ」

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