第五章 エピローグ 一 英雄の条件
屋敷への帰路についたのは、夕方と呼ぶには、もう随分と遅い頃合いであった。
空の大勢は茜色ではなく、飛びっきりの濃紺が優位を決していたから、ほとんど夜と呼んで差し支えないだろう。
あれだけ暑かった昼間の空気は、今や少しだけ冷やされ、庭の東屋で涼むに丁度いい具合にまでになっていた。
俺とファリクを乗せたオートモービルは、過ごしやすい早晩の涼やかな空気を切り裂きながら、屋敷へと走る。
いやはや、やはり文明の利器は素晴らしい。
あの建設現場での一件で、俺は流石にくたびれてしまった。
歩いて帰ることを考えると、あんまりにも億劫すぎて、そのまま現場で夜を明かしてしまいたくなるくらいに。
だから、遅れて現場入りしたフィリップス大佐の、車を回してくれるという厚意。
これに俺は、社交辞令もへったくれもなく甘えて、すぐさま頷き、そして今に至る、という次第であった。
だがしかし、である。
厚意に甘えた手前、こう思うのはあまりに失礼であるのは、重々承知だけど。
この車での帰り道、とても快適なものかと問われれば、誠に残念だけれども、否、と答えるしかなかった。
乗り心地は甚だよろしくない。
たまに圧力が思うように出なくなるらしい。
ボイラーからガタガタとぐずつく音と、不快な振動がやってきて、たまに奇妙に減速する時があった。
奇妙な振動は車体をも揺らす。
あまり心地のいい揺れではない。
おかげで快適性の面で言えば、行きの馬車よりもずっと悪い、という評を下さねばならなかった。
その上、排気装置の調子もどうにもいまいちであるようだ。
本来なら風に流されてそこまで感じないはずの、ほのかに油っ気を含んだ木の燃えかすににたにおい、つまりは石炭の燃焼臭がつんと鼻をつく。
「しっかし……なんとも調子の悪い車だなあ。こいつ、途中でぶっ壊れて止まったりしないよな?」
あんまりな車の乗り心地に音を上げたのは、俺の左隣に座すファリクであった。
いまだ出家信徒のボロボロなローブを身に纏う彼は、後部座席から顔をずいと突き出す。
そして車を操っている、雀卵斑が目立つ、まだ少年と呼ぶべき栗色髪の守備隊員に乗り心地の悪さを訴えた。
眉間に深い皺を刻んだまま、憮然と語りかけるあたり、どうにもファリクは本気で参っているようであった。
四角に近い骨太な顔付きに、無精髭、そして眉根を寄せる表情。
それらの三点セットのおかげで、今のファリクの人相は強烈に悪い。
今の面持ちのまま街をぷらぷら歩けば、間違いなく、守備隊に捕まってしまって然りなほどだ。
ちなみに俺の現在のファリク評は、決してオーバーなものではないはずだ。
現に、そんな殺人鬼よろしくの凶相を真っ直ぐ向けられた、少年隊員は――
「ひっ」
小さな悲鳴を上げて、びくりと身を震わす。
少年は反射的に舵を右に倒してしまったらしい。
車はにわかに右に回頭。
右方からぐぐっと見えない力に押しつけられる感触を覚えた。
座っている俺はまだしも、腰を浮かしかけたファリクは、その力をモロに受けてしまう。
彼のがっちりとした身体がぐらりと左に傾いて、あわや車外に投げ出される寸前にまで崩れた。
「うおっ! と、と」
終戦から一年経とうとも、彼の身体はそこまでなまっていないようであった。
慌てが目立つ声色とは対照的に、実にあっさりとファリクは、バランスを取り戻してみせた。
「お、おい! 危ないだろう!」
「す、すいません! つい、驚いてしまって」
ファリクは車から落ちかけたのを、またしても、ずいと顔を前席に突き出して抗議。
眉間の皺、一層深く刻まれ、凶相、ますます険しく、もはや視線だけで人を殺せそうなほど。
此度は物騒な顔が後ろから出てくるのを、きちんと予想できたからだろうか。
雀卵斑の少年は先ほどのように、舵を大きく取られるほどの動揺は見せなかった。
とはいえ、とてもおっかない顔を遠慮なしに叩き付けられるのに、やはり怖さは覚えているのだろう。
舵を握る手は細かくぷるぷると震え、夕闇という光に欠いた環境下でもってしても、一目で気がつくほどに顔色は青白くなっていた。
しかし、ファリクは昔から生真面目な割には、人の機微を読み取ることがいまいち苦手という欠点がある。
ちなみに言えば、そんな欠点はただいまも絶賛発露中であった。
誰がどう見ても、少年隊員はファリクの凶相に怯えているというのに、彼は表情を緩める気配が一切ない。
気がついていないのだ。
自分が少年を怖がらせていることに。
と、なれば。
「ファリク」
幼い守備隊員へ助け船を出すしかないだろう。
「ちゃんと座りなよ。車がちょっとした石に乗り上げただけで、前に突っ込みそうで、見ていて怖い。それに」
「それに?」
「今の君の顔はもの凄くおっかない。そんな顔を向けられている彼が気の毒で仕方がないよ」
「そ、そんなに、険しいですか? 今の自分の顔」
「うん。そんなに。下手をすれば邪神並に」
「じゃ、邪神並……」
ファリクは俺の言葉通りに、きちんと座り直す。
流石に邪神並みに強烈な表情を浮かべている、というのはショックであったようだ。
でも、表情を険しくさせている自覚がないから、どのように表情を和らげたらいいのか、それがわからないらしい。
表情筋のみでの改善を早々に諦めたようで、うんうんと唸りながら、眉間やら頬やらをもみはじめた。
筋肉のコリみたいに、それで強ばった表情が柔らかくなればいいけれど、正直言って期待薄だろう。
とはいえ、折角の努力を端から無駄、と切り捨てるのは紛うことなく鬼畜の所業だろう。
ファリクの行いを黙って見守ることにした。
「悪いね。彼も悪気があったわけじゃないんだ。ただ、こう……恐ろしく真面目で腹芸のできない性分というか、なんというか。とにかく、ちょっと感情がそのまま出てしまうんだ」
「あ、いえ! 気にしておりません! こちらこそ失礼な態度をとってしまい、申し訳ありませんでした! スウィンバーン軍曹!」
「いやいや。ファリクがちゃんと座ったら、君の顔色が戻ったんだ。気にしていなかったってことは……って、うん?」
今の幼い守備隊員とのやり取り。
その中で少しばかりの違和感を覚えて、首を傾げる。
彼は今、俺のことを軍曹と呼んだ。
それ自体は別に不自然ではない。
ゾクリュ守備隊の一員なのだから、俺の過去の経歴を知っていても、特別なことではない。
問題は音色にあった。
いかにも自らの上官に接するような、そんな生々しい敬意が、多分に込められていた。
これが退役した上級将校相手であるならば、それでも別に不自然はないのだが、かつての俺は一下士官にすぎない身。
同じ部隊に居たのならともかく、現役時、まったく接点のなかった者に、あの手の敬意を抱かれる理由が、俺にはどうにも見当たらなかった。
「ちょっと、奇妙なこと聞くけれど。君、以前に……いや戦争中にどこかで会ったことある? 部隊が壊滅したとかして、一時的にウチの指揮下に入ったりとか、した?」
「いいえ! 今日、このときが初対面です! ですが、自分の叔父が軍曹に世話になったようで! 戦中、一時休暇で帰ってきたときには、軍曹のご武勇を決まって話してくれましたよ! 殿軍支援のおかげで、生還できたと!」
「君の叔父が? 失礼だけれども、君の名前は?」
「はっ! ショーン・パットンと申します! ジョナサン・パットンは自分の叔父です!」
「ジョナサン・パットン……って、ああ! あの!」
独立精鋭遊撃分隊は、結成以来、それこそ星の数ほどの、殿軍支援を行ってきた。
だから夜空に瞬くすべての星を覚えきれないのと同じように、支援した彼らの名前と顔のすべても、覚え切れてはいなかった。
だが、彼の叔父のことはしっかりと覚えていた。
印象的な人物であったからだ。
たしかジョナサン・パットンと言えば。
「あの堅パンの大尉殿か! 中隊長殿か! 覚えているよ」
「叔父を覚えておいでですか! 恐縮です!」
いつぞやの殿軍支援で、冗談めかして救命料として糧食の堅パンを要求したら、本当に投げて寄越してくれた、あの大尉殿だ。
堅パンのエピソードといい、俺らが到着するまでの間、部隊の被害をほとんどゼロに抑えた手腕といい、なにかと記憶に残る人であった。
それにしても、あの大尉殿が、オートモービルを動かすこの少年の叔父であったとは。
いやはや、案外世界というものは狭いものであるらしい。
「軍曹のおかげで、叔父は今も軍人を続けておりますよ」
「そうか。大尉殿は、無事に終戦を迎えられたんだ。それはなによりだよ」
「ええ! 軍曹がいなければ、今頃王立墓地に居たでしょうから。家族を代表して、改めてお礼申し上げます! ありがとうございました!」
「そ、そう。それは……うん、なんというか。うん、どういたしまして」
ストレートに好意と謝意をぶつけてくる相手を前にすると、なんとも小恥ずかしいことか。
俺は彼の方を直視できずに、思わず目線を外し、二、三頬を掻きながらの、失礼極まりない対応をするに至ってしまった。
我ながら、ちょっとばかし、いやとてもうぶな反応だと思う。
「本当に感謝してもしきれません。自分にとっての祖母が、叔父が幼いころに病没してしまったらしくてね。そんなもんで、母はたいそう叔父を可愛がっていたそうです。だから……情報錯綜による、叔父の誤った戦死通知が届いてしまったときに、母は病んでしまって……」
「……そう」
「でも、軍曹のおかげで叔父が生還できて。母は大分よくなりました。一時は家族がどんよりとしていたこともありましたが、今は全然。だから、軍曹は自分たち家族にとっての恩人なんです。たとえ、今、複雑な身であろうとも。軍曹は、自分たちにとっては英雄なのです!」
「……英雄、ね」
「はい!」
聞いていて気持ちがよくなるほどの、威勢のいい答え。
きっと今の言葉通り、ショーンは俺が英雄であることを、つゆほども疑っていないのを、容易にうかがわせる声色。
だからこそ、俺は据わりの悪さを覚えた。
そして少しばかり頭を悩ませる。
はて、どのように対応すべきかを。
ありがとうと、小恥ずかしげに笑ってみせるべきか。
それとも――
「ほーう。なるほど。貴官も軍曹のファンか」
「ファン? そうですね、言われるとそうです」
「なるほど。ではこれに興味はないかね? その叔父殿以外の現場での、軍曹の活躍。知りたくないかね? 知りたくば話してやろう」
「本当ですか?! 是非、お願いします!」
「よしきた。では、そうだな。自分的、軍曹すげーよランキング、第三位から話していこうか。あれは西方戦線の――」
だが思わぬ助け船によって、悩ましい選択をしなくて済むようになった。
必至に表情をほぐそうとしていた、ファリクが今の話題に食いつき、そしてそのままショーンと意気投合。
共通の話題を見つけられたことがきっかけか。
二人の中は急速に接近していって、いまや知己の間柄よろしくに、気安い声色がファリクらの間を飛び交うようになった。
ファリクが俺が悩んでいる気配を察知して、この話題を出して――
いや、違うか。
単純に彼が、この話題でショーンと盛り上がりたかっただけなのだろう。
とはいえ、ファリクのおかげで助かったのも事実。
二人の会話を妨げないように、内心でファリクへの感謝の言葉を述べつつ、俺は軽く腰を浮かべたあと、シートに深く座り直した。
背もたれにたっぷり体重を預けながら、小さくため息を吐く。
その息の音色は、我ながら重苦しいものであった。
(……俺は、ただの一兵士だ。英雄なんかじゃない)
ファリクと会話の花を咲かせるショーンに、言うか言わぬかを迷った、俺のまったくの本心を口内にて独り言つ。
そうだ。
俺は英雄なんかではない。
あの戦争でもたらした戦果がいくら優れていたとしても。
俺は英雄となるための条件を満たしていない。
それは自信をもって断言できた。
もし俺が英雄ならば、だ。
俺はあのサーカスよろしくの巨大なテントで、二人の男の命を救えたはずだ。
ファリクはいずれにしても、彼らの自殺は止めることができなかった、と慰めてはくれたけれども。
しかし、一見すれば不可能を可能にしてみせ、一人でも多くの命を救うこと。
これこそが英雄の定義であるはずなのだ。
だが、俺はそれができなかった。
出来たことといえば小を切り捨て、大を生かしただけ。
換言すれば効率よく人を殺して、成果を得たということだ。
それは軍人の本質であって、間違っても英雄が持つ属性ではない。
だから俺は英雄では、ない。
むしろ、エドワードの方がまだ英雄と呼ぶべき要素を兼ね備えていた。
彼は社会に救済不可能と見なされ、それ故絶望し、自ら命を絶とうとしていた人々を、曲がりなりにも救ってみせた。
きちんと不可能を可能にしてみせた。
人の命も救ってみせた。
たとえそれが歪んだ形であっても。
不可能を可能にできない俺よりは、彼はずっとずっと英雄らしい男であった。
(ならば俺は、大悪党だな。そんな英雄を見殺しにしてしまったのだから)
ふっと自嘲の鼻息漏れる。
大悪党。
ああ、まったくもって。
順番は前後してしまっているけれど。
この流罪に処された俺に相応しい評価ではないか、と。
「と、なれば。次に俺に求められていることは……死ぬこと、かな?」
「軍曹? なにか言いましたか?」
「いいや、なんでもないよ。ファリク」
ファリクに聞こえないように、口に出してみたけれども、ちょっとばかし声量が大きかったようだ。
丁度、話にひとくさりつけたファリクが、訝しげな視線と共に問いかけるも、俺はそれを適当にいなした。
英雄を殺してしまった者の末路は、往々にして悲惨なものだ。
逆上してしまった彼の者の信奉者に殺されるか、天罰としか思えないような、運に見放されたにもほどがある、壮絶な死を迎えるか。この二つだ。
と、なれば。
流罪と英雄殺しを俺に与えた運命ってやつが、次に要求するのは俺の命だろう。
あの現場に着く前の俺ならば。
そうなっても仕方がないな、って思っていたかもしれない。
いや、むしろ喜んで死んでいたのかもしれない。
断罪のために死ねるのだ。
きちんと意味のある死を迎えることができるのだ。
俺の中の希死願望を満たせることができるのだ。
あの戦争中で、そしてあの御前裁判でも無理であったのに。
ならば、ならば。
この機会を逃す理由がない!
そうやって、きっと死に挑んでいっただろう。
でも、今は――
「軍曹、ファリク殿。お待たせ致しました。着きましたよ」
思考は中断される。
身体が静かに、わずかに前に押し出される感覚によって。
車が減速した証によって。
辺りを見渡してみると、暗闇に沈みかけているものの、あの群生している夏アザミのとげとげなシルエットは、たしかに機知のものだ。
屋敷が建つ、丘の麓の風景だ。
オートモービルはじわじわと減速していく。
どうにも制動装置も具合が悪いらしい。
金属をひっかくような、文字通りの金切声が車輪から生じて、やがてピタリ。
車は門へと続く昇り道、その麓に横付けした。
「うん。ありがとう。それじゃあ壊れないように、ちゃんと車を労りながら帰りなよ」
「軍曹、了解しました! ファリク殿! またお話をお聞かせくださいね!」
「ああ。また話をしよう。じゃあ、気をつけてな」
喘鳴じみた、苦しい駆動音をあげながら、オートモービルは丘の麓を後にする。
きっとこれから、事件の処理でてんてこ舞いであろう隊舎に戻るために。
音が遠ざかって、遠ざかって。
そして丘の下は夜の静寂に包まれた。
「じゃ、行こうか」
「はっ。しかし、自分がこんな急に屋敷に訪れても、本当にいいので?」
「いいもなにも、それしかないだろう。だって、ファリク。財産全部新主教に突っ込んじゃって、正真正銘のすっからかんなんでしょ?」
「へへへ……申し訳ありません。連中にいいように扱われてしまって」
ファリクは照れ隠しの笑みを浮かべた。
その反応を見る限り、新主教への未練は一切ないようだ。
ファリクはそこまで新主教に傾倒していなかったことがわかる。
だが、それならそれで、どうして熱狂していなかったのに、全財産を寄付する、という極端に過ぎる真似をしたのだろうかが、不思議であった。
乙種との戦いが終わって、今に至るまで、幾度も彼と話を交わしてきたけれども、宗教に熱狂して然りと思うほどの苦悩、これが全然見られなかった。
だから、ファリクがどうして出家したのかが、かなりの謎だけれども……まあ、それは追々聞いていくことにしよう。
ファリクに先んじる形で、丘を登る。
目の前はもうすっかり夜になってはいたけれど、今宵は月がはっきりと出ている。
丘には頭の上に枝を広げる背の高い樹木はなく、月明かりの恩恵すべてを享受することができた。
おかげで、前を見るのに苦労はしなかった。
「なんだ、あれ? 門の前が……」
あと少しばかり歩いたら門、というタイミング。
少しばかり屋敷の門が顔をのぞかせる頃合い。
俺に着いてきているファリクが、不思議そうな声を上げた。
門を怪しんでいる声。
彼につられて、門の方へと意識を向けてみると――
灯りが浮いていた。
丁度大人の腰辺りの高さで、月明かりよりもずっとずっと強い輝きを放つものがあった。
あの光には見覚えがある。
オイルランプの光だ。
それが、門の前にて浮いていると言うことは、つまり。
誰かが、俺の迎えに来ている、ということを意味していた。
「うーん。やっぱ心配、かけちゃったか」
そして屋敷に住まう人間の中で、このような真似をする人なんて、たった一人だけに決まっている。
きっとその人は、暗くなっても俺が帰ってこないことに不安を覚えて、ランプを手に、門外に出てきてしまったのだろう。
ずしりと罪悪感で、心が重くなるのを感じた。
ファリクを置いていくのを承知で、歩を速める、早足になる。
光は徐々に徐々にその大きさを増していき、比例して輝きの強さも大きくなる。
近付けば近付くほど、オイルランプを手に持ち、門で出迎えるその人のシルエットが、はっきりとしてくる。
歩みは一切緩めない。
早足をずっと維持。
さらにシルエットは明確になる。
真っ白で清潔なエプロン。
色気を醸さないようにデザインされた、黒を基調とした、肌の露出が少ないロングドレス――
カントリーハウスではどこにでも居るような、典型的な奉公人の格好であった。
黒のスタンドカラーの上にある顔は、やっぱり予想通り、とても憂いに染まっていた。
眉尻を下げて、ほんの少しだけ震える下唇をわずかだけ噛んでいる様といい、彼女が心穏やかではないのは、一見にして理解できよう。
そんな顔を作ってしまった原因が、俺にある、と自覚しているだけに、気まずさが胸に走った。
だが、俺が原因で彼女がこんな顔をしているのならば。
この表情をほどく鍵は、間違いなく俺にあるはず。
だから。
「アリス」
「はい」
邪神の血で服は汚れてしまっているけれど、怪我はない。
ピンピンしている。
それを示すためにも大きく腕を広げて。
「ただいま」
「はい。お帰りなさい」
無事に帰ってくる――
その約束をきちんと果たしたことを、ありふれた帰宅の挨拶で、表現してみせた。
そうだ。
今の俺には、死を望む理由はないのだ。
いや、死を望んではならないのだ。
――みんなのための力になりたいのならば、まずは自分を大切にすること。
あの日俺に欠けていたモノを気付かせてくれた、あの幼い女の子のためにも。
アリスに恩を報いるためにも。
俺はまだ。
生き延びなければならないのだ。
それがたとえ、いまだ苦悩に満ち、平穏になり切れていない世の中でも。




