第五章 三十八話 ご先祖様の下へ
化け物はうなりを上げる。
地を這うという表現でも、なお足りず、地中奥底にまで響いて、地震を誘発させるのでは? と思わせるほどの低音。
十人中十人が威嚇の声と判断するほどの、害意のトゲが目立つ声。
そして、そのトゲを向けている先には――
今更言及する必要もあるまい。
さきほど、ヤツの食事に茶々を入れた俺が居た。
獅子級はうなり声相応に、低い姿勢を維持する。
頭を下げ、身をかがめ、全身でバネを押しつけるかのような、大層こわばった印象を受けるポーズだ。
いや、バネ、という表現は実際、的を射たものであろう。
ヤツは力を蓄えているのだ。
一歩でも俺が、ヤツの間合いに踏み入ったとき、間髪入れずに飛びかかるために。
それが読み取れるのであれば、俺のやることは一つだ。
ヤツの備えをまるまる無駄にするためにも、俺は獅子級の間合いには一切歩み寄らない。
そして獅子級を、俺の間合いに収めようともしない。
ただいまの距離感を保ちつづけ、ただいまの緊張関係を維持し続ける――
今状況下では、それが最善策であると、俺は確信していた。
なにせ今の俺に要求されていることは、時間稼ぎ。
ファリクが武器の原料となりうる、件の鋼鉄の檻に接触するまで、眼前の化け物の意識を、釘付けにしなければならないのだ。
要求されていることがそれである以上、にらみ合いは望むところだ。
互いが警戒しあるだけ、警戒しあって、ただただ時間が浪費されるなんて展開は、まったくもって素晴らしいではないか。
「……そんな状況が、ずうっと続くのであったのならば。もっと、俺は楽できたろうなあ」
忌々しげに呟く。
最善の状況が瓦解してしまったが故のぼやき。
にらみ合いの均衡はここにピリオドを打った。
ぶるりぶるりと、鎌首をもたげ続けていた触手の群れの内の一つが、さながら寒気を覚えた人間よろしくに細かく震えだしたのだ。
十一の時分から戦場に立ってきたからわかる。
獅子級乙種があの動作を行うときというのは。
それはつまり、攻撃の前兆であり――
「ちっ」
――鉄をも切り裂く、物騒極まりない水流を絞り出すための、予備動作でもあるのだ。
深紅の水糸が俺へと襲いかかる。
びしりと中空を切り裂く音を伴いながら。
俺の首へと迫り来る。
頭と胴を切り離し、意思なき肉塊にせんと、赤線、中空を駆る。
幸い、襲いかかる血液は一筋だけ。
獅子級としては狙いを定め、必殺の一射であったかもしれないけれども、相手が悪い。
肉体に魔力を流し、一つ一つの動作が極めて敏になった俺にかかれば。
わずかに身を反らすだけの、最小限の動きでもって、あっさりと躱せる。
ぶんと空気を押しのける音が、眼前を通過した。
身体に痛みはない。
被害はなし。
これにて直近の危機の対処は完了。
今のやりとりで、獅子級が諦めてくれればいいのだけれども。
当然、状況は都合良く好転なぞしてくれはしない。
「げ」
むしろその逆、難化するばかり。
うめきの声を漏らすに値する光景が目に入った。
俺を一発で仕留めきれなかった事実を、きっと獅子級は厳重に受け止めたのだろう。
今度は一つだけとは言わず、一見にて、数えるに能わぬほどの触手が震えだして、血液をほとんど同時に射出。
総数は……ええい! 数えている暇なんてない!
今度は最小限の動きで回避する余裕はなく、派手に身体を動かさざるをえなかった。
先行して迫り来る、頭目掛けた一発を身を屈めてやり過ごすのと時同じくして、小さく左に横っ飛び。
これで、右腕と太ももに殺到した二射は躱せるはず。
果たして目論見通り。
着地と同時に、俺の右側面を二つの赤線が通過。
されど、安堵の一息をつく暇は存在せず。
逃げた先にも、殺意の具現、接近す。
腹と胸への二射。
当たれば致命傷は必至。
しかし俺は焦らずに対応。
今しがたの跳躍の勢いをそのまま利用。
もう一度右へ、跳ぶ。
かくしてリスクを回避。
これにて第一波は終了。
被害はまったくゼロ。
上々の結果。
「ファリクは……」
わずかに一息付ける間に、檻へと向かわせたファリクを確認する。
彼と檻の距離は、いまだに大也。
全力疾走で数瞬。
抜き足差し足忍び足でその倍以上、といったところ。
もう少し時間を稼がなければならないようだ。
再び注意のすべてを、相対する獅子級へ。
乙種へとステップアップしたため、情緒を持つようになったからか。
ご自慢の遠距離攻撃をいなされてしまったこと。
これにヤツは口惜しさと苛立ちを覚えたようだ。
いかにも歯噛みをしつつのうめき声、短く漏らす。
その直後のこと。
暴力の波濤、発生。
再びヤツは射る。
俺へと向けて。
第二波、襲来。
一回目のそれよりも、さらに多くの触手を動員して、発射、発射、発射!
乱射!
「ああ、面倒! 知恵、働かせて!」
舌打ちの代わりの悪態、小さく吐き出す。
やはり、乙種化は邪神の思考能力をも向上させるものらしい。
知恵の欠片も感じさせられない、力任せの攻撃とは、多分に趣を異とする暴力が俺へと迫り来る。
ヤツは今、少しだけ時間差をおいて、自らの血液をばらまいてみせた。
今度の害意は、前後、即ち空間的な奥行きがきっちり取られていた。
いや、その前後の概念は、初撃でも一応は取られてはいた。
けれども、今回はその間隔があまりに絶妙で精緻。
例えば、ただいま真正面より迫る頭、首、胸を狙った三つの水流を、さきに倣って、右に跳んで避けるとすると――
着地と同時に、右方より迫る、嬉しくもない真っ赤な糸に身体を射貫かれてしまう。
それは左に逃げても同じこと。
すなわち俺は、右にも左にも避けられぬ状況に追い込まれた、ということ。
絶望するに値する状況にも見える。
だがしかし、逃げ道を完全に断たれたわけでは、ない。
「ただっ! できればまだ使いたくはなかったけれどもっ! ほっんとに嫌だなあ!」
またしても、口から滑り出る悪態。
さっきから、クロードを口が悪いと茶化せなくなるほどに、ネガティブワードが次々と口から零れ出てしまう。
口を動かしながらも、身体は残された退路へと向かう。
当然強化魔法を施しながら、一歩、二歩とバックステップ。
だが踵にこつんという感触、来る。
三歩目は刻めず。
一回毎の跳躍幅が大きいが故に、あっという間に、ファリク印の鉄壁に、進路を阻まれてしまったのだ。
一見すれば、絶体絶命に追い込まれたかのように思える。
だがさにあらず。
むしろこれが目的。
俺はこの信徒たちを獅子級から守る壁に用があった。
こいつこそが、あの工夫を利かせた射撃を躱すための要であった。
血液の刃が迫る。
一呼吸も置かずに、俺を死へと誘う深紅の暴力。
俺はそいつをやりすごすために。
とんと垂直に跳躍。
人の丈ほど飛び上がる。
上に逃げる。
だが、その方向に逃げたとしても、それは自らの寿命をほんの瞬きの分、伸ばしただけ。
第二波の頭を躱しても、遅れてやってくる尻尾が、跳躍地点に到達するのは、俺が丁度地に戻るのと、時を同じくしている。
着地したそのときが、俺の最期と相成る。
そうならないためにも俺は。
元来の筋力、そして魔力をたくさん左腕に込めて。
ファリクが作り上げた壁に叩き付ける。
壁に存在する、わずかな凹凸に指を引っかける。
壁にぶら下がる。
落下を強引に止める。
かくして俺は射撃を免れる。
されど、動きはそれだけに終わらない。
俺を中空へと留めてくれる左腕とは別に、右腕にも魔力を込めて、壁に押し当てる。
強化。
だがその対象は俺自身ではない。
壁だ。
俺を屠らんと放った、獅子級の血液を受け止める。
ファリクのことだから、万一はないと思うけれども。
それでも、信徒らを無傷に逃がすために。
絶対に貫通することがないように、強化を施す。
振動が手のひらより伝わる。
がりがりと、まるで金ヤスリで金属を削るような感触だ。
それはつまり、壁が乙種の射撃を受け止めている証。
足元を、さきほどまで俺が居た場所を見る。
真っ赤な液体は、四方八方に勢いよく飛び散っている。
強かに壁にぶつかっている。
けれども一向に貫かれる気配はない。
獅子級の害意は、壁によってきちんと遮断されて、信徒らに届かなかった。
ほっと一安心。
二度目の暴力の波濤も無傷でやりすごしたことを確認すると、左腕の強化を解除。
地面へと降りる。
ごつごつとした手触りを感じながら、滑り降りる最中、ファリクを見やる。
まだ、檻には至っていない。
「……まっずいなあ。これは」
信徒らに被害が及ばなかったことの一安心は、あっという間に払拭されてしまう。
そればかりか苦々しい思いと、少しばかりの焦燥を抱いてしまった。
第二波を躱して、獅子級のより一層の警戒を引き出して、互いに様子を見合う状況を作り出せたというのに、である。
「ちょっと、もう後がないかもしれないなあ」
努めて笑みを湛えてみるものの、表情ほど余裕があるわけではない。
むしろこぼした言葉通りに、半ば追い詰められた、とみてもいい。
「ヤツは横っ飛びに対応した攻撃を放ってきた……ってことは、次は」
垂直方向の回避への対策、これをきっと施してくるだろう。
つまり今やった、壁に張り付いての回避が二度と通じなくなるということ。
俺に許された、あの血の射撃を躱すための手段が、着実に減じてしまっている、ということ。
それ故、ファリクがまだ檻に到達していない、というのは頭の痛い事態であった。
ほどなくして、彼はたどり着くだろうけれども、しかしどう甘く見積もっても、その間に第三波が来るのは必至。
今はにらみ合っているけれど、どうにもこの膠着は長くは続きそうにはない、と経験に裏打ちされた直感が語っていた。
はてさて、なんとも難儀な状況に陥ってしまった。
「さあて。どうしよっか」
音を口元に留める程度に小さく独りごちる。
先ほどのヤモリよろしくに壁に張り付く真似は、実のところ最後の最後までとっておきたかった、虎の子であり、奥の手であった。
切り札はもう切ってしまったってこと。
対して、向こうの手札は無数にある。
俺を殺すための役を、気分次第で場に叩き付ける余裕がある。
それを手元に残る弱いカードたちで、どうにかして勝負しなければならないのが、今の状況であった。
「……いっそのこと、奇襲をかけてみようか? 突進して思いっきり蹴っ飛ばす。でも、それは――」
ヤツの意識すべてが、俺に向いている状況なのだ。
たとえ意表をつけたとしても、だ。
条件反射染みた迎撃でも、回避に注力しなければ躱すに難しい以上、俺の被弾は受け合い。
かすり傷で済めば、素晴らしい費用対効果と言えるけれど、致命傷を受けるリスクも背負わねばならないのが玉に疵。
とはいえ、それでも構わず突撃するのも、実のところアリと言えばアリな選択だ。
俺の命を消費して、信徒たちの命を救うという取引は、とても割がよくて魅力的な選択なのだから。
でも――
「でも、それじゃあ。約束、破っちゃうことになるし」
それを選択するわけにはいかなかった。
何故なら、俺はここに来る前、アリスと約束したから。
無事に彼女の下に帰ってくるって。
他の誰かならまだしも、彼女との約束は、破りたくはない。
俺はヤツに向かって突っ込まない。
たとえ、それが魅力的な選択でも。
「――ってことは、もう俺ができることはっ! もうこれしかっ!」
と、なれば残された道はただ一つ。
ひたすらに、がむしゃらに、やけくそに。
獅子級の目が留まらぬ速さで、動き回るのみ!
常に先手を取り、俺を追い仕留めるために、ヤツが血をぶっ放す状況。
物騒な血の刃との追いかけっこをし続けるのみ!
目は、じっと獅子級に向けたまま。
でも、顔から下はとてもアクティブになる。
文字通り身体の隅々まで強化魔法を施して。
派手に、とにかくヤツの迎撃を引き出せるまでに、爪の間合いの外で動き回る!
駆けて、向きを変え、跳ねて、時に速さを緩めて――
ほら、撃ってこないのかい? と、獅子級を翻弄。
挑発は上手くゆく。
ちょこまかと動き回る俺を、小バエのように鬱陶しく思ったのか。
獅子級は触手を立ち上げ、先端を俺に向けて。
そして発射。
真っ赤な血潮を。
何度も、何度も。
吐き出した。
「狙いがっ! 甘いっ!」
迫り来る害意。
されど、俺がちょろちょろと動き回るからか。
さきの二射と比べると、その狙いは大分甘かった。
特に飛び跳ねたり、身を捩ったりしなくとも、その大半は俺が走り抜けた後の地面をえぐるのみ。
時折やってくる、的確な一撃だけに特別な注意を払うだけで、ことは足りた。
だが、さすがは人類の天敵に末席を置くだけはある。
乙種化したことにより、発達した知能によって、ちょろちょろ動き回る的の狙い方を、この短時間で学んだらしい。
徐々に徐々にと天秤は傾く。
的確な一撃が、迫る害意の大多数を占めるようになる。
その度に身体を捩って、上手に加減速をして軸をずらし、あるいは大胆に一瞬足を止めて。
どうにかして、暴力の群れをやり過ごす。
時には紙一重で躱さざるを得なかったからだろう。
身体には当たってはないけれど、かすめた箇所のシャツが、ウエストコートが、スラックスがヤツの血でじんわりと汚れた。
もちろんそれは、悪い傾向。
余裕を持った回避が能わぬようになってきている、ということは。
ヤツが俺を捕らえるようになるのは、そう遠くはない未来、ということ。
ますます、胸の内にくすぶる焦燥の火の手が増し、ちょっとした種火にならんとする、そんな頃合い――
「軍曹!」
戦友の、ファリクの声が聞こえた。
片目で天敵の動きに気を払いつつ、もう片方で、声の方を見る。
ファリクは――
よし、上々。
俺はわずかに口角を上げて。
そして跳躍。
高く高く。
あとすこしで天幕に触れるか否かというところまで跳ぶ。
それを受けて獅子級は、きっとヤツが笑いを浮かべることができたのならば。
きっと、今、それはそれは嫌らしく、にんまりと笑んでいたことだろう。
なにせ獲物が逃げ場一切ない上空へと行ったのだから。
ファリクが作った壁が傍にあった、少し前とは違って、正真正銘の中空。
故に落下の軌道を変えることはできず、やれることと言えば、身を捩る程度。
今、集中砲火を受けたら、ひとたまりもなく、俺の身体は哀れ、穴あきチーズと化すだろう。
事実、そうするために獅子級は、自慢の触手の鎌首、そのすべてをもたげさせて。
触手の一つ一つについた、粗末な眼球が俺を睨んで。
そして、光が走った。
ただし。
赤色ではなく鈍色の光ではあったが。
血液が殺到するその前に、俺に向かって飛んでくるものがあった。
数は二つ。
その正体は、邪神を捕らえていたあの檻とまったく同色の、投げ槍であった。
もちろん、こいつが一人でに飛んできたのではない。
ファリクだ。
彼が俺に向かって、投げたのだ。
お得意の形成魔法で拵えたばかりの槍を寄越してきたのだ。
「いいタイミングだ!」
中空にてファリクを絶賛。
飛んできた槍を、漏らさず空で摑んでみせて。
ずっしりとした鋼鉄の重みもそこそこに。
すぐさま、一発、二発。
立て続けに、力一杯邪神目掛けてぶん投げた。
高さ、質量、そして俺の筋力と魔力。
その三つの要素が絡み合った、生まれたてのジャベリンは。
勢いこれっぽっちも衰えもせずに。
血を放つ直前の邪神、その左右の前脚に突き刺さって、地面とヤツを縫い付けた。
――――!!??
苦悶の絶叫、響く。
あの獅子級からすれば、今の反撃は、予想範疇の外からやってきたのだろう。
折角の好機、それを逃すのも構わず、痛みに大きく怯む、鳴き叫ぶ。
言うまでもなく、それは俺らにとっては突くべき、大きな隙。
トドメを刺す絶好の機会。
だが、自由落下をはじめた俺では、トドメを刺すこと能わぬ。
と、なれば。
この戦いのトリを飾るのは。
「ファリク! 頼んだ!」
「了解!」
呼びかけるよりも前に、駆けだしていたか。
小柄な体躯に似合わぬ、重々しい足音踏み鳴らしながら、ファリクは獅子級との距離を詰める。
俺に投げて寄越したジャベリンと、まったく同じ材質の、これまた彼に似合わぬほどの大斧を担ぎながら。
痛みにうめく獅子級は、反射の迎撃を試みる余裕すらない。
だから突撃するか否か。さっきの俺の葛藤が、馬鹿らしくなるほどにあっさりと彼は、自分の間合いを手に入れて。
「ご先祖様ンとこに! 逝ってしまいな!」
ドワーフらしい捨て台詞と共に。
できたてて、くもり一つない大斧を一閃、斬り上げる。
勢いさながら、噴火の如し。
両の前脚封じられ、激烈な一撃を防ぐに能わぬ獅子級は。
いや、獅子級の首は。
かくして胴と頭が、泣き別れるに至った。




