第五章 三十七話 Let's dance!
檻の中で獅子級を打っ飛ばしたとき、たしかに手応えは感じていた。
致死の一撃を与えたと確信していて、一方で言えばそれは正しいものであった。
現にヤツを、虫の息にまで追い込んでいたし、幾ばくかの時をおいてしまえば、実際、獅子級を死に至らしめていたのだから。
だが、他方で言えば正しくはなかったのである。
致命傷を与えていたものの、即死させることができなかった。
いくら薬物酩酊からの復帰直後であったとはいえ、詰めが甘かったと認めざるを得なかった。
そして詰めの甘さがもたらした影響は、悪い意味で大きかった。
クーデター染みていたことを画策していた指導者と、その狂信者。
二人揃って、みすみす死なせてしまったのだから。
今後の調査においても、また、人命救出という人倫の観点からしても、大きな失点以外に他ならなかった。
だからこそ、次はし損じは許されない。
もし、またしても仕留めきれなかったら、被害は甚大なものになってしまうからだ。
何一つとして罪のない人々の命まで、危機にさらしてしまうからだ。
檻での大立ち回りで、とりたてて加減したつもりはないけれど。
でも、万が一を防ぐために、今度は全身全霊でもって、獅子級に挑む。
間合いを詰めるために施した、脚力への強化魔法もほとんど全力だ。
たった一歩の踏み込みで優れた速さを得て、あっという間に、俺の間合いへ。
よほど飢えていたのか。
強化魔法による、地響きを伴った俺の足音に、獅子級はこちらを気にかける素振りが少しもない。
言うまでもなく、俺にとってはいい傾向。
ならば、一瞬で勝負を決めてみせる。
たった一撃でヤツを屠ってみせる。
その気概を胸に、渾身の力を脚に込めていると。
にわかに嗅覚、奇妙なにおいを捉える。
実際的なにおいではない、比喩的なもの。
言うなれば、実戦経験に裏打ちされた、戦闘直感ってやつだろうか。
そいつが警鐘をガンガンと鳴らしてきたのだ。
まて、ウィリアム。
なにかがおかしいぞ? と。
往々にしてこの手の直感というものは、正しいものだ。
事実、戦場では数え切れないほどに、こいつに助けられてきた。
根拠はいまだ不明なれど、今回も素直に従うことにした。
蹴り飛ばすために脚に込めた力を、暴力ではなく、別のベクトルへ置換。
すなわち、距離を取る方へ。
折角詰めた間合いを、放棄する方へ。
一見すれば、勿体ない行動と取れるかもしれない。
実際、俺も少しオーバーな反応だったかもしれない、と一瞬思った。
だがしかし、俺はすぐさま翻意する羽目となる。
直感に感謝することとなる。
バックステップを刻んだ、すわそのときであった。
獅子級ご自慢のたてがみ様の触手の一つが、ぐねりと蠢く。
先端をまっすぐに俺に向ける。
きらり、眼球の照り返しにも似た、光を一瞬伴いながら。
直後に鼓膜を震わせる、音。
紙袋を勢いよく中空で振り回すのによく似た、なにかが弾けるような音。
平行して深紅のきらきらと光る糸、にわかに空中に走る。
蹴り飛ばすか、それとも一度距離を取るかの決断を下した、その地点に。
もし蹴り飛ばす選択をしていたのならば、もろに糸と俺が被っていたはずの、その位置に。
これは――
「軍曹!!」
俺の安否を気遣う、ファリクの大声。
彼の声色は、いささか焦りに満ちていた。
だが、ファリクの反応はまったくオーバーにあらず。
たった今走った糸は、そして走ったタイミングは、歴戦の兵である彼にして、心胆を寒からしめるものであったのだ。
「大丈夫! 無事だ!」
着地と共に、彼の心配に受け答え。
「今の見た?! 今の赤いのは触手からの攻撃だ!」
「や、やはり! あれは……件の血の水鉄砲、ですか?! ということは、つまり!」
「そうだ! コイツ! この獅子級は! 乙種になってしまった!」
きっと、エドワードらの血肉を食らうことで、階梯を一つ上ってしまったのだろう。
さきの赤い糸は、獅子級の乙種特有の攻撃であった。
ファリクの言にあった通り、その正体は獅子級の血液そのもの。
たてがみ様の触手から高圧、そして高速で血液を噴出することにより、拳銃程度の鉄塊であれば、容易く切り裂いてしまう、危険極まりない飛び道具である。
獅子級の強みというのは、獣に近似した形姿相応の機敏さと、力強さの二つ。
当然人類のか細い四肢ではまともな応戦は出来ず、それ故、獅子級への近接戦闘は推奨されていなかった。
だが、実のところ獅子級はそこまで厄介視されていたわけではない。
力強さ、素早さは比較にならないものの、動き方そのものが、猛獣の延長線上から出ないからだ。
猿人級のような器用さもなければ、騎士級のように、多少の攻撃では傷付きもしない、圧倒的な防御力があるわけでもない。
従って距離を取り、銃弾による飽和攻撃を展開すれば、比較的安全に御することができる。
経験さえ積めば、狩猟感覚で倒せてしまう。
数ある邪神の中では、むしろ戦いやすい相手と断言してもよかった。
「くそっ! 厄介な!」
そう吐き捨てたのはファリクであった
獅子級が御しやすいのは、原種である場合に限ってのことだ。
どの邪神でもそうなのだが、乙種となると脅威度は急激に上昇してしまう。
獅子級の場合だと、ヤツ自身が飛び道具を手に入れてしまったが故に、銃撃による一方的な討伐が困難になってしまう。
だからといって、インファイトを仕掛けるのはあまりに危険。
その間合いは本来のヤツの領域であるからだ。
歴戦の兵でも、あっさりと屠られてしまう。
さらに厄介なのは、乙種となると、獅子級から死角なるものが、すっかりと消滅してしまう点にある。
きっと照準を合わせるためのものであろう。
たてがみ状の触手一つ一つに、粗末なものながらも、眼球が発生するからだ。
その上、獅子級本来の視界にて呑気に突っ立っていれば、とんでもない精度でもって、血液を飛ばしてくる始末。
軍隊が獅子級乙種に遭遇すれば、最小限に犠牲を抑えるために、すぐさま拘束砲撃が検討されるほどの厄介さ。
そんなヤツと俺たちは対峙しているというのに――
「……本当に厄介! 丸腰でコイツに挑まなければならないなんて!」
ファリクが拵えた壁によって、ずいぶんと狭くなってしまったテントに響く、俺の悪態。
そうだ。
なによりも面倒なのは、手段を選ばず相対すべし、とされているあの乙種に、俺たちは丸腰で挑まねばならないところにあった。
独立精鋭遊撃分隊の一員といえども、流石に乙種相手に素手での戦闘で勝利を収めるのは、少しばかり難しい。
たっぷり時間をかけてもいいのであれば、そこまでの問題はないものの、今回は場所が場所だ。
例えば、激しい戦闘を長く行ってしまったせいで、このテントが崩落して。
信徒たちでごった返す、外のテント群にいくさ場が移ってしまったら――
それこそ状況としては最悪だ。
とても悔しいけれども、数えるに苦労するほどの人間を守りながらの、素手での戦闘をこなせる自信は正直ない。
武器。
なににつけても武器だ。
銃でも剣でもなんでもいい。
それさえあれば、いくらでもやりようがあるというのに!
「今のところまだ救いがあるのは。まだヤツは肉を食うのに必死ってことでしょうかね。おかげで、精密射撃を食らわないで済んでます」
「でも、時間はかけていられないよ。はやく、なんとかしてアイツを倒す手段を考えないと」
「そうですな。あの大きな口だ。二人分の身体を完食するのに、そこまでの時間はかからないでしょうから。残されたシンキングタイムは多くはない、と見るべきでしょう」
「それもそうなんだけど――」
「軍曹?」
「――できれば、あの二人の遺体も回収しておきたい。きちんと原形を留めている内に。いくら邪なことを企んで、社会を壊そうとしていたからといえども。ちゃんと弔ってやらないのは、ダメだと思うから」
「なんともまあ、お優しいことで」
おぞましい咀嚼音を背景に、いかにも呆れたような、ファリクの声。
たしかに、我ながら人が良すぎるかもしれない。
でも、彼らはその生い立ちによって、晩年はともかく、過酷な境遇の中で生きてきたのだ。
野辺で朽ちるのですらなく、邪神の血肉と化し、その痕跡の一切を消滅させられてしまう最期なんて、いくらなんでも、悲劇的すぎる。
そして俺は――
「彼らの自死を止めることができなかった。彼らは、俺が殺したようなものだから。せめてもの罪滅ぼしのためにも。きちんと弔ってやらないと」
――彼らの命を救うことができなかった。
もしかしたら説得できたかもしれないのに。
悔しさのあまり、下唇を噛んだ。
「……軍曹。差し出口ですが、そいつは自分を追い込みすぎってやつです。あいつらを説き伏せるのは。たとえ、一流のネゴシエーターであっても、無理であったと思いますがね」
「……そうかもしれない。ありがとう。そう思っておくことにするよ。今は」
「今は、ですか」
「うん。今は。余計なことを考えると、この状況を悪化させかねない。俺たちまで、死んでしまいかねないから」
しかし、今は感傷はほどほどにしておこう。
戦場では余計なことを考えた人から死んでいくのが、お決まりってやつだからだ。
ただいまは敗北が許されていない状況。
俺たちの死は、絶対に許されない状況。
で、あれば、思考のすべてを注がねばなるまい。
速やかにアイツをうち倒す方法を。
「さて、ファリク。この地面から、もう一回金属成分を集めて。武器を作ることは可能?」
「可能ですが、キツいです。流石に。さっきの壁で結構吸い取ってしまいましたから。長針が一周まわるかどうかの時間をかけて、ようやく軍剣一振りできるかどうか、ってところ」
「……現実的ではないね。と、するならば」
「ええ」
俺とファリク、二人分の視線がほとんど同時にちらと、乙種の方へと移る。
いや、より正確に言えば、頭を垂れ、顎を上下させる天敵より、さらに奥側。
冷たい鈍色をぼんやりと浮かび上がらせる、ひしゃげた格子をその身に納めた、無骨で、見るからに頑丈そうな鋼鉄製の檻。
武器を拵えるのに、これ以上にない材料がそこに屹立していた。
「あの檻から武器を作るのであれば?」
「瞬きする間に、四つや五つは楽に。ですが、軍曹。さっき拵えたばかりの壁を原料とするのは? そっちの方が、自分たちに近いです」
「耳を澄ましてご覧よ。壁の向こう側は、まだ避難が済んでいない。剣の二、三振り分だけとはいえ、そうしてしまえば……その分、壁がもろくなる。ヤツの赤い糸が貫通したら大惨事だ」
「んー、仰るとおりで。と、なると、やはり」
「うん。やっぱり檻を使うしかない。ただ、問題は――」
「どうやって自分があそこまで行くか、ですね」
最善なのは、壁のときと同じく、この場の地面からファリクが形成魔法で武器を拵えることだ。
場所を移動する必要もないし、なにより、あの獅子級を下手に刺激する心配がない。
だが、肝心の武器を産み出すのに、莫大な時間を要するのであるならば、まったくもってお話にならない。
時計の長針が一周するかどうかまでに時間がかかるのならば、ヤツは食事を恙なく終えてしまうし、それどころか、食後のデザートを探してしまうかもしれない。
と、なれば別の方策、すなわちあの邪神を捉えていた檻に、形成魔法を使うより他はあるまい。
こちらは形成魔法さえかけてしまえば、一瞬で武器を創造出来るのが、大きな利点ではある。
ただし、問題点はファリクが述べたとおり。
檻と獅子級の距離があまりにも近すぎる。
呑気にとことこ檻に近付けば、獅子級の注目はファリクに集中することになろう。
そして殺人的な勢いを持つ水流も殺到するはずだ。
無策で近付くのは、ファリクにあまりにも大きなリスクを背負わせることになる。
どうにかして、ファリクに獅子級の注意を、向けさせないようにしなければならなかった。
「一つ、聞きたいのだけども」
「なんでしょうか?」
「君はあの赤い糸を避けられるかい?」
「きちんと狙いを定めたものならば難しいですが、触手の半ば自律めいた迎撃なら、問題なく」
「よし。じゃあ、こうしよう。俺がヤツの注意を引き続ける。囮となる。その間にファリクは、檻に近付いて。その道中は自律迎撃に注意。いいかい?」
その提案に、ファリクは躊躇いがちに肯んじた。
心からの肯定とは程遠い模様。
どうやら、懸案事項を胸に秘めているらしい。
「了解しましたが……しかし、それでは、軍曹があまりに危険では? ヤツの精密射撃を、一身に受ける羽目になるでしょう?」
「なに、大丈夫さ。今の獅子級との距離であるならば、例え狙撃されても、回避は難しくはない。これ以上近付けば、話は別だけど」
「そうなら安心しますがね。しかし、それはそれで問題があるでしょう? 自分たちがたった今もこの場で話を交わしているというのに、ヤツは少しも警戒の視線を、こちらに寄越そうとしない」
ファリクが顎で獅子級をしゃくる。
ヤツは相も変わらず、こちらに目もくれずにお食事中。
一応、触手の数本はこちらに目を向けているけれど、一向にヤツから仕掛けてくる気配、これがまるっきりなかった。
すなわち、今の彼我の距離は邪神からすれば、まったくもって警戒すべきものではないということ。
意識を半分だけ向けても問題ない、と判断している証。
意識を独占しようとなると、もう少し近付いて、ヤツの間合いに踏み込まなければならないだろう。
だが、ヤツが血液の弾幕を形成する故に、接近は難しい。
着弾を構わないのならば、それでも問題はないけれど、いくらなんでもそいつはリスクが大きすぎる。
だがら、別の手段でもって、獅子級の注目を寄せる必要があった。
「ファリク。頼みがあるんだけど」
「はっ。なんでしょうか?」
「形成魔法で、ここの土を固めた塊。そいつを二つほど作って欲しい。できる?」
「可能ですが……一体なにに使うので?」
「ヤツの注意を俺に向ける。ヤツを怒らせるために」
ファリクはどうにも、意図をいまいち読み取ることができなかったようだ。
ほんのり片眉を上げて、訝しげな顔付きをする。
しかしそれでも彼は、しゃがみ込んで、地面に手を当て俺の要求通りに形成魔法を行使してくれた。
土塊を産み出すのは、造作もないことらしい。
本当に瞬きをする合間に、はじめは人差し指の先っぽ程度であった土の塊が、あれよあれよの内に、みるみる膨張していき、いまやその直径が俺のくるぶしほどに。
それもファリクは、一度に二個同時に拵えてみせた。
一つの物を作り出すのにも、相当な集中力を有するというのに。
形成魔法の達人の面目躍如、といったところか。
さて、そんな彼自身の溢れんばかりの才気によって産み出された土塊。
色といい、表面のでこぼこ具合といい、まるでジャガイモの親玉みたいな風情のかたまりを、俺は右のつま先を上手く使って、ひょいと足の甲に乗せて。
意識を集中。
右足に魔力を流して。
「ふっ」
そして、未だ品の欠如した音を、変わらず立て続ける獅子級に目掛けて。
ファリクが作ってくれた塊を、吐息と共に、力一杯蹴り飛ばした。
フットボールのシュートの要領で。
土塊は風切り音を生じながら、中空を走り。
走り。
走り。
走り。
ついにはその巨体を支える、極太の左前脚、そのちょうど膝の裏に。
強かに、激突した。
獅子の形に似た大きな影が、ぐらりと揺らいだ。
二回、三回、たたら踏み。
目に見えた傷はないけれど、しかし、ヤツに強烈な痛みを与えられたのはたしかだろう。
なにせ、飛ばした土塊の勢いは、本来であればあらゆる生物の骨を打ち砕くに、十分なものなのだ。
いかに頑丈な邪神といえど、まったくのノーダメージ、というわけにはいくまい。
その証拠に、ほら獅子級は。
嚥下をやめて、やや左の前足を庇いながらこちらに向いて、そして。
ゆっくりとヤツは姿勢を変えた。
獅子級が頸を、頭を下げて。
その喉から、下げた頭部に比例するかのような、地を這うようにごろごろと響く重低音。
筋肉が露出した、見るに堪えない尾っぽも、天幕に突き立てるかのように高く掲げる――
それは十中八九、威嚇の体勢。
獅子級はご立腹のようだ。
「あっは。いくら邪神と言えど。流石に食べているときに邪魔されちゃ、怒るよね。うん」
言葉に自然と笑声が混じる。
思惑通りに、ヤツの意識をこちらに向けさせることができたから。
どうにかして、捕食行動を止めさせることができたから。
なんとか、エドワードらの身体を残せることができそうだったから。
笑みがこぼれたのだ。
そして、俺に向いた注意、それをしっかりと固定するためにも。
ヤツの食事を邪魔する存在ということを、教えるためにも。
ファリクをヤツの視界の外に追いやるためにも。
残る一つの土塊を、さきとまったく要領で蹴り飛ばし。
今度は、獅子級の顔面に当てることに成功した。
直後に咆哮。
怒りの咆哮。
ぞわりぞわりと触手が蠢き、ほとんどが鎌首を上げて。
その先端の群れがぎろりと俺を睨んだ。
狙撃準備完了、といったところ。
どうやらヤツは俺を、優先して討つべき対象として認めたようだ。
これでしばらくは、ヤツは俺を潰そうと必死になるだろう。
ファリクが檻に接近する隙が生まれるというものだ。
まったくもって、目論見通り。
「さて、ファリク。頼んだよ。こっそりと、でもできるだけ速く、あの檻へ着いて欲しい」
「微力を尽くします。軍曹こそ、無理をなさらず」
「ん。了解」
敬礼を寄越したファリクは、そろりそろり、忍び足をはじめた。
獅子級に気付かれないように、静かに、静かに。
獅子級はそれに気付いた様子はない。
それはファリクのその仕事が、上手くいっている証であった。
ならば、その仕事を無駄にしないためにも。
俺も気合いを入れて、役割を果たさねばなるまい。
「それじゃあ。しばし、お付き合いいただこうかな。そっちも不承不承だろうけれど、こっちも本心を言うなれば、乗り気じゃないんだよ――」
右足をずらす。
踵側にずらす、半身となる。
獅子級の動きに瞬時に対応するために。
怒りにまかせたヤツの攻撃、そのすべてを躱すために。
そして。
「化け物と踊るのは、ね。気が進まないんだ。俺も」
命をかけた、物騒なダンスを踊りきるために。
俺の意識のすべてを、眼前の進化してしまった天敵に注いだ。




