第五章 三十六話 生き延びるぞ
絶叫、響く。
下を除いた三方に張られた幕、そのすべてを破らんとするほどの、音声が。
テントの中に響いた。
その絶叫は一人のものではない。
たくさんの信徒たちによる大合唱。
世代も、性別もまちまちで、統一性が一切ない、とても耳障りな音声。
恐怖に満ちた絶叫であった。
しかし、恐慌の叫びを上げるに、相応しい出来事が目の前で起きてしまったのだ。
死んだと思っていた邪神がまさか生きていて。
あまつさえ、新主教の同志が殺されてしまったのだから。
いくら困難な時代とはいえ、スプラッタシーンなど戦場に出ない限りでは、お目にかかれない、まさに非日常の極北とも言える光景。
それだけでも、十分にショッキングな光景だというのに。
かような地獄を想像せしめた獅子級は、信徒たちを脅かしたりないのか。
さらに冒涜的な行為に出た。
手当たり次第、手近な人類を襲うのが常である邪神であるのに、だ。
さきほどの打っ飛ばされたときにできた傷が深いのか。
傷を治すことが、なによりも優先すべきである、と判断したらしい。
たくさん群がる信徒たちを一瞥したのちに、獅子級の足元に転がる、エドワードと大男、二人の遺体に向き合って。
たてがみ状に密生する、肉色の触手を揺らしながら、頭を垂れて、頸を伸ばして。
そして。
「ひっ」
息を呑む声、至る所にて生じる。
邪神の行いが、あまりに冒涜的すぎて。
そして、テントに満つる、あまりに残酷な音によって。
肉を断ち、骨を砕き、血をすする――そんな音。
そうだ。
信徒たちを戦慄せしめた、音。
その正体は。
「……食って。やがる」
絞り出すようなファリクの声。
彼の言うとおりだ。
あの獅子級は貪っていたのである。
まったくもってマナーに則っていない、極めて下品な音を立てながら。
死んだばかりの、二人の人類の身体を。
自らの血肉にするために、脇目を振らず、懸命となって口に運んでいた。
エドワードの身勝手な自死。
大男の歪んだ承認欲求の吐露。
そして、他人が邪神に食われる光景を見てしまったこと。
それらの要因が、複雑に絡み合ってしまったからだろう。
目の奥の奥。
頭の一番深いところで、俺は、ぷっつり。
張り詰めていたなにかが、切れたような音を聞いてしまった。
直後激情が、腹の底から湧き上がってくる。
我慢のしようなない、強烈な怒りが、頭の天辺までに上ってきて――
「ファリクっ!!」
「は、はっ!」
「壁を! 壁を今作れ! 彼らと奴を隔てて守るための! 討つぞ! 獅子級を! 守るぞ! 彼らを!」
「り、了解!」
激情を隠さず、気分そのままに言葉を吐いてしまう。
半ば八つ当たりのようなキツい語勢で、ファリクに指示してしまう。
でも、罪悪感はこれっぽっちも抱かなかった。
いや、抱く余裕がなかった。
頭の中が、怒りで支配されてしまったが故に。
「もう嫌だ! もうたくさんだ! もう戦争は終わったんだ! なのに、なのに!」
理性のブレーキが利かない。
感情が身体を支配する。
抱いた怒りをそのまま言語化して、大声で叫んでしまう。
「どうして! 自分の命を消費してまでも! こんな戦争の続きみたいな光景を望むんだ! 引き起こすんだ!」
せっかく戦争中よりは、ちょっとだけマシな世界が訪れたというのに。
こんなとんでもない状況を、産み出そうとする人間が後を絶たないのか。
種族主義者。
アーサー・ウォールデン。
そしてエドワード・オーエンたち!
誰も彼も、どうして平和を享受しようとしなかったのか!
他人を巻き込んで、混乱を作り出そうとしたのか!
本当に腹立たしい!
「どうして! お前らはこの世から綺麗に消え去らないのか! そこまでして! 俺たち人類を苦しめようとするんだ! 答えろ、獅子級よ! お前ら邪神に、人身御供を要求する知能があるのならば! 言葉を紡いで、答えられるはずだろう! 俺たちを襲った理由を!」
怒りは、そんな混乱を望んだ連中のみに向いたものではない。
そもそもの元凶、世界を滅茶苦茶に荒らして回った邪神どもにも、怒りを覚えていた。
そもそも、からしてだ。
こんな化け物どもが世界に現れなければ、こうまで悲劇的な世の中にならなかったはず。
さきの混乱を望む者どもも、そしてあの戦争の暗部そのものであった、兵役逃れの子供たちだって、この世に出現することはなかったのだ。
もっともっと、幸福な環境下で生まれていたはずなのだ。
だから、俺は、言葉を返さないのは重々承知しているのに、獅子級に向かって、吠えざるを得なかった。
文明を、俺たちを滅ぼそうとした邪神どもに。
不幸な人々を星の数ほど拵えてしまった、化け物どもに。
人と言葉を交わせる個体も居るというのに、意思の疎通を行う気がない、天敵どもに。
俺は半ば憎しみがないまぜになった、強烈な怒りを覚えた。
「そして、俺は。俺は! どうして、こうまで人を救えない! 戦争が終わってからというものの! 救えるかもしれなかった人間を、どうしてこうみすみす不幸にしてしまうんだ! もう、もう! そんな人たちを見るのは嫌だ!」
そして、俺は俺自身にも怒りを覚えていた。
歌劇座。
ルネ・ファリエール。
そして、やはりさきほど死を選んでしまった、エドワード・オーエンら。
ゾクリュに来て以降、俺が上手く立ち回れば、救えたかもしれない人間が、ここまで沢山居たというのに。
彼らを救うことはできなかった。
それどころか、みすみす不幸の底に落ちる様を、指をくわえながら見届けただけであったではないか。
俺は他人を全然救えていない。
救った人よりも、救えなかった人の方がずっとずっと多い。
みんなが幸せになるはずであった、終戦後は特に救えていない。
おのれの無力さが、本当に腹立たしかった。
悔しかった。
もし、呪いという不思議な力があるのならば。
自分自身を思いっきり呪ってやりたいほどであった。
だから。
だからこそ!
「だから! 聞こえる?! 新主教を信じる人たち!」
ファリクが俺の要望通り拵えた、形成魔法による壁の向こう側の、一切罪のない信徒たちに語りかける。
きっとパニックにある彼らを思うのならば、本当は優しい声で語りかけるのがいいのだろうけれど。
でも、頭に血が上っている状況では、それは難儀そのもの。
だから強い口調のままで、彼らに宣言するに至る。
「俺は! 君たちの命を守ってみせる! この獅子級を討ち倒してみせる! 君たちを誰一人とて死なせはしない!」
たとえ、どんなことがあっても、無辜の君たちは死なせはしないと。
壁の向こう側に居ても、耳を塞ぎたくなるくらいの大きな声で。
守ってみせると宣言した。
「だから、まずは落ち着いてほしい! ちょっとだけ深呼吸して、秩序を保って! このテントから出てほしい! 心配しないで! 俺とファリクで! こいつをこのテントの中で葬ってみせるから!」
彼らを落ち着かせて、ここから退出させなければならない。
大型のテントであるから出入り口の大きさは、それなりではある。
とはいえ、ただいまこの場所に詰めかける信徒たちが、一度に出られるほどの大きさではない。
パニックとなって、我先に、と出口に殺到すれば、全員が出るまでの時間が、かえってかかってしまおう。
いや、それどころか最悪、ドミノ倒しのような連鎖的な転倒が発生し、怪我人や死者すら生み出しかねないだろう。
さきの宣言で、少しでも落ち着きを取り戻してくれればいいが、果たして。
「お、おい?! あ、あんたらは、逃げないのか?! 大丈夫なのか?!」
壁の向こうから、比較的冷静な信徒の声。
どうやら、俺らを置いて逃げるのに抵抗感を覚えているらしい。
「心配は要らない! これでも去年まで戦場に居たんだ! 何度も何度も、こんなことをやっている! でもその度に生き延びてきた! だから早く! 逃げて!」
返事はなかった。
けれども、俺の願いはどうやらきちんと通じたようだ。
壁の向こうから気配がする。
ざわざわ、ざわざわと。
幾人もの人間が蠢く音がする。
激しい動きによるものではないようだ。
かすかに足元から伝わる、彼らの歩みの振動は、切羽詰まったものではなかったからだ。
それは信徒たちが我先に、と必死に走って、出口に殺到しなかったことの証明であった。
信徒たちが、完全なパニックに陥らなかったこと。
そして、彼らに逃げる意思がちゃんとあったことに、俺は一安心した。
慕ってきた教主に裏切られただけあって、失望のあまり、彼らも死の道を選んでしまうのでは、という危惧があったのだ。
それでなくとも、彼らは入信以前に、現実に絶望していたという前歴もあるのだ。
エドワードの裏切りが、彼らの心をどれだけ傷つけたのかを想像するに難くない。
だが、彼らはちゃんと生き延びようとする選択をした。
色々なものから裏切られ続けてきたけれど、もしかしたのならば、この先の人生は好転するかもしれない。
結局は裏切られてしまったけれども。
でも新主教と出会ってから、今日この日までは、間違いなく幸福な日々を送っていたではないか。
人生長く生きていれば、またこんな幸福を味わえるかもしれない。
ならば――もう少しだけ生きてみよう。
そんな思いがあったからこそ、彼らは自死を選ばなかったのだろう。
だからこそ、今回、俺が背負おうものは大きい。
蜘蛛の糸のようにか細くて、ちっぽけで小さなものだけれども。
明日に、未来に希望を抱いた人たちの。
これからいい人生になっていくかもしれない人々の命が、俺たちの双肩にかかっているのだ。
だから、絶対に負けるわけにはいかなかった。
「ファリク……いや、スナイ伍長!」
「へ? いや……はっ!」
緊張感たっぷりの戦場の空気をファリクに、そして俺自身に思い出させるために。
この戦いは、やっぱり去年までの戦闘群と同じく、絶対に負けられないことを、示すために。
俺は敢えてファリクを伍長と呼んだ。
その意図を、彼はくみ取ったか。
一瞬面食らった表情を浮かべたけれども、すぐさま呼び方に対する、相応の受け答えをしてくれて。
「絶対に葬るぞ! あの獅子級を! このテントから一歩も出さずに! 片付けてみせるぞ! そして――」
発破かけ。
獅子級を片付けてみせるぞ。いいかい?
本来ならそう言うつもりであった。
そこで言葉を切るつもりであった。
けれども、どういうわけかは知らないけれども。
「――俺たちも生き延びるぞ! いいかい?!」
「了解!!」
俺たちも生き延びるぞ――
本当にどういうわけかは知らないけれども。
その一言も付け加えなければならないような気がして。
付け加えた一言に、ファリクが威勢良く返事したこと。
これも理由はわからないけれども、得も言われぬ嬉しさを覚えつつ。
俺は、死肉を食らう獅子級を討ち倒すために。
渾身の力を込めた第一歩を刻んだ。




