第五章 三十五話 俺の力も貸してやる!
ぐらりと揺れる。
エドワードの身体が。
稲妻に打たれたかのように、ほんの一瞬だけ身を固まらせたと思うや否や、すぐさまその肉体は弛緩していって。
そして次には、どうと倒れた。
血と脂肪と脳と頭骨の欠片をまき散らしながら。
大男が引き摺ってきた、獅子級のかたわらへと。
「た、託宣者さまっっ!!」
数多の絶叫、響く。
新主教の信徒らのもの。
あまりのショッキングな事態に、彼らの顔色は、一人の例外もなく、血の気が一切消え失せた土気色。
中には、目の前の現実が受け入れられなくて、意識を手放す者すら居た。
この人になら、人生を捧げてもいい――
その域までに心酔した人間が、目の前で自害してしまったのだ。
彼らが覚えた喪失感は、恐ろしく強烈なものであろう。
家族を亡くしたときに匹敵するほどに。
突如としてやってきた悲しみに、打ちひしがれている信徒たち。
そんな彼らを尻目に俺は――
「っんの、大馬鹿野郎めがっっ!」
感情のままに、がなり立てた。
二種類の怒りの炎が、胸の中でぼうぼうと燃えさかっていた。
なんと無責任なことだろうか!
こんなにも慕ってくれている、信徒たちを置いて死を選ぶなんて!
見せびらかせるだけ見せびらかしておいて、最後の最後で、彼らに与えた希望を奪って死んでしまうなんて!
本当に度しがたい男だ!
そんなエドワード・オーエンという男の生き様に対するものが、二つの怒りの内の一つだ。
そして二つ目の怒りは。
「ファリク! 早くあの獅子級の下へと急ごう! 瀕死の邪神にとって、人間の血液は何よりの傷薬だ! 一舐めでもされていたらマズい!」
「了解! 復活される前に、トドメをさしてしまいましょう!」
彼の置き土産への怒りだ。
よくも状況を悪化させてくれたな、と内心で毒づく。
ファリクにも言ったとおり、瀕死の状態でも、人間の血肉さえ口にすれば、どういう理屈でかはわからないが、邪神はその傷をたちまち回復させてしまうのだ。
檻の中は辺り一面、エドワードの血と肉片だらけ。
獅子級からすれば、まさによりどりみどり。
ちょっと舌を伸ばすだけで、なにかしらの欠片に当たることだろう。
それだけでヤツは死を避けられる。
ましてや獅子級は鼻が利く。
自分の周りに肉片が散乱していることは、とうに承知しているはずだ。
と、なれば、今、まさにヤツは最後の力を振り絞って、その長い舌を動かそうとしているのかもしれない。
面倒事は可能な限り避けたい。
まだ、獅子級に動く気配はない。
トドメを刺すのならば、今をおいて他にはないだろう。
指導者の死によって、茫洋としたままの信徒たちを横目に、俺とファリクは急いでエドワードの遺体の下へ駆け――ようとした、が。
再度発砲音、轟く。
音源はこのテントの内側だ。
痛嘆の声でざわめいていた信徒たちは、ぱたりと口を噤む。
彼らの無数の双眼も、音の源泉へと向かう。
もう物言わぬ存在となってしまった、彼らが教主のすぐそば。
瀕死の邪神のかたわらに佇み、きっと懐から取り出したのだろう。
パーカッションリボルバーの銃口をこちらに向けている、あの大男が音を生み出したのであった。
「……動くな」
地を這うように低く、地中に潜るのでは、と思わせるほどの重たい声がする。
制止を求める声がする。
あの大男のものだ。
勿論、その要望に素直に従うつもりはない。
状況はすぐにでも最悪に転がりかねないほどに、危ういものなのだ。
ここで足を止めるわけにはいかない。
「はい、そうですか。と言うことを聞くわけにはいかないんだ。頼むから、そいつを下ろしてくれ。じゃないと貴方を伸してしまわなければならなくなる。素人が銃を使おうがとも、勝てる自信が俺たちには、ある」
「だろうな。だからこそ」
男は銃口をわずかに逸らす、俺から外す。
ファリクに照準を定めようというのか?
いや、違う。
この銃口の向きではファリクを撃つことは叶わない。
だとすると――
「……性悪め」
「性悪で結構。俺も兵役逃れの子だ。性根が歪むような環境で育ったものでね」
男の狙いを理解する。
意図したわけではないのに、悪態が自然に口からこぼれてしまう。
一瞬でも早く、獅子級の息の根を止めねばならないというのに。
あの場所に急行しなければならないというのに。
「軍曹。こいつは――」
「ああ。そうだよ。俺たちではなくて、信徒たちを狙っている」
その照準が、とんでもないところに合ってしまっているが故に。
足を止めざるを得なくなってしまった。
テントには多くの信徒たちが詰めかけている。
このような状況下ならば、わざわざ特定の対象に狙いを定める必要はない。
固まる一群に銃口を向けて、適当に引き金を絞れば、誰かしらに命中する。
特に腕がなくとも、あっさりと人を射殺せしめる。
危険人物と相対して、これほど厄介な状況はない。
先ほどのエドワードとの問答で、彼ら一般の出家信徒たちには、荒事をする意思がまるっきりないことがわかってしまった。
そうである以上、彼らは制圧対象ではなく、むしろ護衛対象だ。
思想は少し変わり種ではあるけれども、社会を直接害をなそうとは考えていない、れっきとした一般臣民であることは変わりがない。
だからこそ、男のしたことは俺たちの足を止めるのに、腹が立つほどに的確であった。
「銃を下ろしてほしい。そしてすぐさまそこから退いてほしい。エドワード・オーエンに義理立てしているのかもしれないが。だが、そのために罪を犯す必要はないだろう? もう、彼は……」
「義理立てしているのではない。俺は叶えたいだけだ。エドワードが、自分の命を消費してまで成し遂げようとした復讐を。そうでなければ、エドワードの死が無駄になってしまう。そうなるのを黙って見届けることこそ、俺にとっては最も罪深き行いなのだ」
「そこまで彼に心酔しているのであるならば! どうして彼を止めなかった! どうして今もなお! 彼の愚行を止めようとしない?!」
きっと、香に混ぜられた薬がほんの少しだけ残っているのだろうか。
今日の俺は、なんだか感情の振り幅が大きいようだ。
そんな自覚はある。
でも、抗うことができない。
怒鳴らざるをえないほどの感情に、そのまま身を任せてしまう。
「このまま行けば、エドワードは大悪人になってしまうんだぞ?! 無辜の民を騙し、邪神を放ち社会を混乱させようと企図した、そんな血に飢えた狂人として、歴史に刻まれてしまうんだぞ?! その生涯を、永遠に悪党として否定され続けてしまうんだ! それでいいのか?!」
他の信徒たちと比べて、男とエドワードの関係がかなり濃密であることは、すぐにわかった。
訪ねてきた俺を邪神のエサにして始末しようという、真っ黒な所業の現場に、わざわざ同行させるほどなのだ。
エドワードは男から情報が漏れることはない、と確信していたからこそ、このテントにまで連れてきたのだ。
男への強い信頼をうかがわさせる。
暗い秘密の共有すら行われるほどに強い信頼関係。
一朝一夕ではこれは築くことはできない。
男とエドワードはかなり古い仲で、それも親友と呼んで差し支えない間柄であったはずだ。
だからこそ、この台詞は心に響くはずだ。
友人が後世の人々から侮蔑を受けるか否か。
その鍵を握っているのは、自分だぞ、と諭してみれば。
普通の感性をもつ人間であるのならば、躊躇いを抱くはずだろう。
だが、しかし――
「悪党、か」
男は不敵な笑みをこぼした。
「いいではないか、悪党呼ばわりされるのは」
「……は?」
「ああ。そいつは本当にいい。本当に素敵だ。あいつも、きっと喜ぶはずだ。悪党。悪党! 大悪党エドワード・オーエン! ああ! なんていい響きだ!」
「……なにを、言っているんだ?」
それまでむっつり、無愛想との評がこれ以上にないくらいに、しっくりときた面持ちであったのに。
友人が悪党として記憶されてしまう、と俺が言った瞬間、にわかに相好、恍惚としたものとなる。
片端だけ上げて歪められた唇、急に光を失った瞳、左右異なるまぶたの上がり具合――
あまりにも狂気染みていた。
根源的な恐怖を感じるほどに。
思わず、後ずさりをしてしまいたい衝動に駆られるほどに。
「理解できないか? 俺たちはその出生故、存在そのものを認められなかったのだ。だが、あいつが企図した復讐をきちんと完遂できれば、だ。悪党であろうと、アイツの存在が社会に認められることになるではないか。その存在が、きちんと承認されるではないか! 祝福すべきではないか! 永く、人の記憶に残ることができるのだぞ!」
「自分の存在を承認してもらうために! 平穏が、社会が、誰かが! 壊れてしまってもいいと! 本気でそう思うのかっ?!」
「当たり前だろう?! 親! 友人! 同僚! 恋人! 子供! 孫! 人は成長と共に、それらを介して、承認欲求を満たそうと必死になるではないか! だが俺たちはどうだ?! 誕生とともに無条件に得られるはずの承認を、親の愛を! 受け取っていないではないか! それだけに留まらず! その出生故に! 同胞以外からは! 一度たりとも! 認められることなんてなかった! お前らと同じように! 俺たちが承認を求めてなにが悪い!」
「っ。それは……」
「さっきから聞いていれば、なんて身勝手な! なんてワガママな! いいか! よく聞いとけよ!」
俺と男のやり取りを、ずっと聞いていたファリクはくちばしを挟む。
大男のあんまりな主張に、とうとう彼の堪忍袋の緒が切れたのだろう。
辛抱たまらぬ、といった声色であった。
「いいか! 自分自身を認めてもらいたかったら――」
ごつごつで、太く短い人差し指を、ぴっと男に向けてファリクは吠える。
きっと根が真面目なファリクのことだろう。
彼を、いや、彼らを真っ正面から正論で説教してやろう、という腹づもりなはずだ。
俺とてファリクの気持ちはわかる。
彼の思うがまま正論を吐かせてやりたい気持ちもある。
けれども俺は、男を指差すファリクの右手に手をかけて、そっと下ろしてやった。
「ファリク。いい。もう、いいんだよ。言わなくても」
「軍曹?! しかし――」
「君の言いたいことはわかる。でも、いいんだ。いくらやっても、彼に俺らの言葉は届かないのだから」
他人から承認されたかったのならば、まずは自分が他人を承認すべきだ――
ファリクの言いたかったことはきっとこれであろう。
事実、さきの男の口ぶりは見事に自分の気持ちしか考えていない、ひどく身勝手なものであった。
で、あれば、まったくもってファリクの言わんとしていたことは、正しい、と言わざるを得ない。
まずは自分が動かないと、よくない現状というものは回復しないもの。
だから、あのような文句を言う前に、まずは自分自身が改善を模索しなくてはならないのだ。
そう、本来であれば、普通の環境に置かれている人であれば、の話であるが。
だが、社会から蔑まれてきた彼らは違う。
友好を得たくて社会に歩み寄ろうとも、返ってくるのは、暴言と石ばかり。
それどころか、ロクでもなしの子供の分際で、と余計に憎しみをぶつけてくる者すら居かねない状況で、彼らは育ってきたのだ。
そうだ。
歩み寄りの余地を放棄してしまったのは、彼らからではない。
社会の方から壊してしまったのだ。
恨まれて然りな行いを積み重ねたのは、社会の方だったのだ。
それなのに、社会に歩み寄る努力をしろ、なんて説教するなんて。
傷口に塩を塗り込む行いにしか過ぎず、余計に彼らのような人々を加熱させてしまうだけだろう。
もう、彼らの社会への復讐心は凝り固まってしまったのだ。
外からの刺激からでは、どうしようもないくらいに。
信徒たちの尊敬視という承認でさえ、彼らの復讐心という業火を消すことができなかったのだ。
そうであるならば。
心底残念であるけれども、もう対話は不可能だ。
どう説得しても傾いてはくれまい。
だから。
とても心苦しいけれども――
「……ファリク」
「……軍曹? なぜ、小声で?」
「一つ聞きたい。この地面の金属成分を集めて。信徒たちを銃弾から守る壁を作るのに、どれくらい時間がかかる?」
あの死にかけの獅子級の下へ急ぐためにも。
実力行使で男を退かすしかあるまい。
そのためには、やはり男の拳銃に睨まれている信徒たちが気がかり。
そこでファリクに問うたのだ。
彼お得意の形成魔法を用いて、地面の金属成分を原料に、壁を拵えるのに、どれくらいの時間がかかるのかと。
鉱物関係の知識はまったくの素人であるけれど、このあたりの土壌が金属資源に恵まれているとは思えない。
昔、好奇心から、並の使い手に今回ファリクに要求したことが可能か否かを、問うたことがある。
そのときの使い手は、その地が鉱山地帯にないのならば、下手をすれば半日はかかる、と答えた。
と、すれば今回も同じくらいの時間が要るのかもしれない。
ならば、信徒たちを守る壁を作り上げるのは、不可能なこと。
だが、しかし、ここに居るファリクは並の使い手ではない。
独立精鋭遊撃分隊の一員ということは、やはり何かしらの技量が著しく優れていることでもあるのだ。
彼の場合、それが形成魔法であった。
さて、達人の答えや、いかに。
ファリクは眉尻、わずかに下げる。
いかにも申し訳なさそうにする。
「鉱山地帯でもなく、ここはただの平原地帯。金属が希薄なので、それなりには」
「どれくらい?」
「十五秒ほど」
「なら上出来だよ。それじゃあ、いまから、俺が彼と言葉を交わして、注意を向ける。その隙に、こっそりと術式を発動してほしい。壁が生まれる直前で術式を停止。寸止め。その後に俺が合図をしたら、即座に壁を産み出してくれないか? その間に、彼を制圧する」
「了解」
やはり人間相手に暴力を振るうのは、とても気が進まない。
やりたくない。
だが、そんな私心は殺さなければならない。
躊躇いを吹き飛ばすために、一度大きくため息。
再び、男と向き合った。
「もう、説得は意味がない、ということならば。俺は、貴方を力でねじ伏せなきゃならなくなる。痛い思いをしたくないのならば……これが最後のチャンスだ」
「なんと未練がましい。説得は意味がない、と、自分で言っておきながら、それでもまだ降伏勧告をするとは」
「男だからね。男は未練がましいものさ。すっぱりと未練を断つことができる女の人が、ときどき猛烈に羨ましくなることがあるよ。俺は特に悩みやすい性格だから」
「……未練、か」
「ん?」
ここにきて、手応えを感じる。
未練というワードに大男が、反応を示したのだ。
男の顔色も変わる。
遠い目をしてあさってを眺めていた。
その仕草にひどく感傷的なものを感じる。
これは。
もしかしたならば。
未練という言葉が、遅ればせながら、彼の心を打ったか?
愚行への躊躇いを引き出すことができたのか?
期待の視線を、彼に送る。
「たしかに、そうだな。男は未練がましい。現に俺も……今、一つの未練が心の中にあるのを認めたよ」
「それが……降伏に応ずるきっかけになればいいのだけれども」
「残念ながら、だな。だが、まあ、いい。教えてやろう。俺が抱いた未練ってやつを」
だが、しかし、その期待はあっさりと霧散する。
投降する気はない、ときっぱり告げた声には、やはりエドワードの復讐を完遂させること、これへの躊躇いがまったくもって感じ取ることができなかった。
だが、残念無念にはまだ早い。
望みはまだ、ある。
彼の未練の正体次第では、それを攻め口に、彼の心を揺さぶる材料を得るかもしれないのだから。
男の口に、声に、意識を集中させる。
「この復讐が王国の歴史の教科書に載るところ。そしてその教科書を、俺が手に取ることができないこと……これが俺の未練だ」
――それはどういう意味か?
そう問おうとしたけれど、しかし。
言葉は口から出ることはなかった。
音を聞いたからだ。
あまりいい音とは言えないものだ。
ぴちゃり、ぴちゃり。
鍾乳石から水がしたたり落ちるものより、ずいぶんと粘っこさを感じる音を、耳は捉えたのだ。
まるで、血を舐め取る……ような?
「まさか」
小さくそううめく。
目を、急いで男から、あの獅子級へ。
すると。
奴は蠢いていた。
舌を伸ばして、エドワードの血を舐め取り。
そして。
ぎょろり。
その血走った目はこちらを。
いや。
すぐ傍に居る男を射貫いて。
「そこから! 逃げろ!」
大声でそう促すも。
大男はにっこり。
これまで見たことがないような柔らかな笑みを浮かべたかと思うと。
「エドワード。俺も力を貸す。俺もこいつの血肉となって……今という時代を。一緒に」
ぽそり一言。
そしてまるでそれに答えるかのようなタイミングで。
獅子級立ち上がり。
さきほど、俺を屠らんとしたその豪腕で。
大男の命を、彼の上半身ごと削り取ってみせた。




