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第五章 三十一話 暴力、お返しします

 迫り来る。

 暴力が迫り来る。

 人のそれとは勿論、似ているとしている獅子よりも、ずっとずっと凶悪な爪が、巨大な手が。

 肉を骨を、そして命を削り取らんと迫り来る。


 それを見ていた俺は。

 いつも通り、何度も何度もやってきた通りに、脚に力を、魔力を込めて。

 ぐっとぐっとその一撃を引き寄せて。

 そして我が身に当たる、すわその寸前に。

 とんと、一歩、バックステップ。

 かくして俺の頭蓋目掛けて襲ってきた、一撃はあえなく空を切るに終わる。

 俺の鼻先、それよりも大分遠くの空気を押しのける。


「なっ」


 一驚の声、響く。

 聞き覚えがない声で、俺のものではない。

 ただ、声は俺が獅子級の攻撃を躱したこと、これに驚いたものであったから、きっと、俺をこの檻に放り込んだ人間のものであろう。


 着地。

 慣性。

 身体が滑る。

 背中側へと引っ張られる。

 鋼鉄の上を。

 次いで伝わるのは、こつんと踵に当たる、鉄格子の手応え、いや足応えか。

 それを最後に動きはぴたり。

 静止。


 鉄格子を足がかりに、また力と魔力を込めて、今度は前にへと飛ぶ。

 一撃を躱されたばかりの獅子級へと飛びかかる。


 さきの一発は、獅子級にとって、渾身のものであったのだろう。

 反動か、あるいは体勢が整っていないのか。

 その瞳孔の所在がはっきりせぬ赤い眼球で、じろりとこちらを睨むも、動く気配は欠片もない。


 当然、それは俺にとっては好都合。

 距離を詰めるがてら、さきほど脚部に施したように、右の腕に、肩に、そして背中に二つの力を込めて。

 握りこぶしを作って、ぐっと大きくバックスイングをして。

 その間にも彼我の距離。

 詰まり。

 詰まり。

 詰まり。

 瞬く間に俺の間合いに。

 すうと息を軽く吸って。

 ほんの一拍、息を留めて。


「ふっ」


 そして開放、息を吐き出す。

 溜めに溜めた、力も一緒に開放する。

 さきほど振るわれた暴力を、獅子級に謹んで返却。

 跳躍の勢い、元来の筋力、そして魔力による水増しがたっぷり乗った拳は。

 文字通り風となりて、人類の天敵へと降り注ぐ。

 目指すは、肉がそのまま露出した、おぞましき額。

 抵抗一切なく、一撃は目論見通り眉間に突き刺さる。

 肉裂き、骨にぶち当たる感触。

 実にバイオレンスで、身の毛のよだつ手応え。

 それでも構わず、俺は拳を振り抜いて。

 巨体の獣に似た天敵を勢いよく、打っ飛ばした。

 直後に鋼鉄が打たれる、けたたましい音、響く。

 打っ飛ばされた獅子級が、鉄格子に衝突する音だ。

 そんな音を背景に、俺は着地。


「あー……まあ、うん。手、汚れるよね」


 ふと右手を見下ろしてみれば、獅子級の肉を裂いた痕跡、つまりは血糊がべったりとついていた。

 力任せに邪神を打っ叩いた代償だ。


 生臭ささに、水とは明らかに違う、粘度の高い肌触り。

 いずれも、五感に不快を訴えるものだ。


 長く身に着けている道理はなく、清潔な左手でウェストコートのウェルトポケットから、ハンカチを取り出して血糊を拭う。


 汚れ一つない真っ白の絹ハンカチは、あっという間に真っ赤に染まった。

 これが植物油来で、綺麗な赤色であったのならば、見事な染色と言えるけれど、さにあらず。

 生物由来で、甚だ汚い赤黒色で、なおかつ生臭いのだ。

 とてもではないが、今後染め付けのハンカチとして活用はできまい。

 であれば、もう捨てるしかない。


「あーあ。このハンカチだって、決して安いものじゃないんだけどなあ。原因を作ってくれたんだ。弁償、当然してくれますよね?」


 もはや汚染物と成り果てたハンカチを背後に投げ捨てながら、始終を眺めていた者どもに、ちらと目線を寄越しながら、語りかける。


 艶かな長い茶色髪を持つ、奇妙に顔のいい中年男と、怪しいテントの見張り押していた大男。その二人に言葉を投げる。

 檻に放り込まれた前後の経緯が、いまだ判然としないけれども、外で俺を眺める二人の仕業だろう、という認識はきっと誤ったものではあるまい。


 何故なら、かの二人は、今の俺の行い、そして咎めの視線を受けて、いかにも狼狽しているからだ。

 彼らはごくりと生唾を飲み干した。


 そんな、そんははずでは。


 彼らの表情がそう語っていた。

 それはつまり、彼らが期待した結果は得られなかったということだ。

 連中が期待した結果とは……まあ、言うまでもあるまい。

 さっき伸した獅子級の胃袋に、俺を収納させてしまおう、というヤツだろう。


 さて、その目論見はずれて、奴らが慌てふためいたのは、ほんの僅かな間だけであった。

 予想外の結末がやってきたものの、状況を俯瞰してみれば、そこまで彼らにとって絶望的なものではないからだ。


 たしかに俺は、獅子級という脅威を排除した。

 ともすればその拳が、いつ彼らに向けられても、おかしくはないと考えて然り。


 だが、ただいま俺は檻の中。

 動物園で飼育されている猛獣を見て、来園者が死の恐怖を覚えないのは何故か。

 猛獣が檻の外へと這い出ることが、絶対にないと知っているからだ。

 即ち、彼らからすれば今の俺は、動物園の猛獣と、まったく相違ない存在なのだ。


 おっかないが、檻がある以上、こちらに被害をもたらすことはない。

 それを再認識したからこそ、彼らはにわかに落ち着きを取り戻したのだ。


 そうだ、恐れることはない、と。


「お話、聞かせて貰えませんかね? どうにもこうなった経緯が曖昧ですが。状況から見て、さっき吹っ飛ばした獅子級。こいつは貴方方新主教が連れてきた、とみて間違いなさそうですが……果たして?」


「……ええ。そうだ。まったくもってその通りだ。たしかにその邪神は。私たちが、多大な苦労を伴って、捕獲して。そして私たちの目的成就のために……そんな代物であった」


 長髪の男が、言い訳一つも紡がず、本当にあっさりと肯んじた。


 よくよく見ればこの男には見覚えがあった。

 フィリップス大佐が彼の写真を持っていたのだ。

 たしか……新主教が教祖、エドワード・オーエンであったか。


 つまりは、教祖直々に暴挙を認めたわけだ。


「おや。罪状をお認めになるので? これが外に漏れたら、とても大変なことになりますよ? 王国全土の守備隊が、貴方方のお仲間を一人残さず検挙して。新主教、あっという間にお取り潰しになると思うのですが?」


 一歩、二歩。

 檻の外に居る彼らに近寄る。

 鉄格子という強固な境界線を有していても、俺に怖れを抱くのか。

 一歩、二歩。

 彼らは歩調を揃えて、後ずさる。


「その心配は御無用。その危機が訪れるのは、貴方がこの場から外に出られた場合のみのこと。私たちはこの檻から貴方を出す気は、これっぽっちもない。そうすれば、この事実が表に出ることはない」


「なるほど。それはたしかにごもっとも。ならば……こうするだけだ」


 鋼鉄の冷感、手のひらより伝わる。

 両手にそれぞれ二本の格子を持ったからだ。

 外から見れば、今の俺はとても滑稽な姿だろう。

 風刺画に出てくる、逮捕された大泥棒が、ここから出してくれ、と、格子を揺らして喚いている様に、よく似ているはずだ。


 もちろん気持ちとしては、俺とて風刺画の大泥棒と同じ。

 だが、その願いを眼前の彼らが聞き入れることはない、という確信もまた持っていた。

 と、なれば自分の願望を叶えるためには――


 ――やはり、自力救済に依るしかあるまい。


 獅子級と対峙したときと同じ要領で、肉体に魔力を流す。

 そして。

 一、二、三、今。

 両手に力を込めれば。


「……んなっ」


 いかに頑丈な鋼鉄であろうと、曲げるに容易い。

 まるで細い針金の捻じ曲げるかのような手軽さで、格子をこじ開ける姿に、エドワードは肝を潰したか。

 あんぐり、ぽかん。言葉を失ったようだ。


 そして晴れて俺は自由の身となった。


 一歩を刻む。

 鋼鉄の床から、それよりはいくらか柔らかい、乾燥した地面へと。


 また、二人の男は一歩後ずさり。

 距離を取った。


「さて。これで俺は檻の外へ出たわけです。ほとんど自由な身となったわけです。どうです? 大人しく投降、して貰えませんかね? こんな暴挙にどうして出ようとしたのか。その訳もお聞かせ願いませんかね?」


「これは驚いた。もう、勝った気でいるのか。貴方は今、敵陣の真っ只中に居るのでは? ならば私が今、大声を出して信徒らを呼び寄せれば。貴方を圧倒できはしなくとも、数の利により、この場に拘束することは可能なのでは? もちろん、貴方に人を殺せるだけの覚悟さえあれば、話は別だが」


「たしかに。それをやられてしまうと、かなり困ります。俺は人殺しはやらない。だからいちいち、手加減をせざるを得なくなる。きっと一人を相手している内に、背中を取られてしまって、手間取って……きっと貴方を取り逃がすことでしょう。ですが、それも――」


 まったくもってエドワードの言う通りである。

 他人を殺していいのならば、いや、俺自身に他人を殺せるだけの権限と度胸があるのならば、さしたる問題はない。

 さきの獅子級とまったく同じ対応をすればいいのだから。


 だが、そうでない以上、手加減をしなくてはならない。

 それも怪我の後遺症はなくて、なおかつ、相手の動きを封ずるに足る怪我を負わせる必要があるのだ。

 強化魔法を用いたのならば明らかにやりすぎで、なれば、ヒラの身体能力で制圧せねばならない。

 その意味で言えば、むしろ邪神と相対するより、難儀な話であった。


 と、なれば、なるほど。

 たしかに俺はエドワードらを取り逃がしてしまうだろう。


 だが、俺はそんな失態をするだろうという懸念を持ってはいない。

 そしてこれは、現実をきちんと正確に把握できていないが故の、お気楽な楽観論ではない。


 楽観するに足る、明確な材料をきちんと捉えていたからだ。

 意識がはっきりとした、その時点で。

 聴覚は捉えていたのだ。


「俺一人で相手をした場合、に限りますが」


 どったんばったん。

 時折雄々しい叫び声を上げながら。

 このテントの外で、なにやら大立ち回りをしている、頼もしい戦友の存在を。

 俺は捉えていた。


「軍曹ーっ! 無事でありますか?!」


 貴方方にとって誠に残念ではあるが、俺は一人ではない――


 そんな意図を含んだ笑みを、二人にお披露目した直後、彼らが後ずさりに目指していた入り口から、テント全体をびりびりと震わせるほどの大声が響いた。

 乱入者が一人現れたのだ。

 信徒らを文字通り蹴散らしながら。


 その乱入者とは独立精鋭遊撃分隊が一人、ファリク・スナイ。

 そして発言から察するに、俺を救助し、入信したはずの新主教に仇なそうという意思をくみ取ることができた。


 特に謀ったわけではないが。

 しかし俺にとって、非常に都合のいいことに。

 背中を預けるに足る、心強い味方がここに登場。


 状況は、好転した。

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