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第五章 三十話 また、屋敷で

 そしてスクリーンは真っ黒に染まった。

 以降は待てども待てども動く像は現れず、動くものと言えば、映写機のアーク灯に照らされ、ちらちら舞い降りる細やかなホコリのみ。

 この漆黒のスクリーンは、演目が恙なく終わったことを意味しているのか、と遅ればせながらウィリアムは理解した。


 ならば、もうカーテンコールの時間だ。

 出来が素晴らしければ、席からすくと立ち上がって、万雷の拍手で作品を褒め称えなければならない。


 しかしそうだというのに、ウィリアムは未だ、席に尻を縫い付けたまま。

 赤いビロード張りの椅子に、背を預けたまま。

 薬の影響で未だ、理性の座りどころがいまいちであることも、もちろんウィリアムが立ち上がれない一つの理由でもある。


 だが、それはむしろ付随的な要因でしかなかった。

 心的要因によって、ウィリアムは立ち上がれなかったのである。

 生まれて初めて観た映画に、強く心を動かされてしまったから、彼はぴくりとも脚に力を込めることができなかったのである。

 アヘンでやられた思考能力、それでもなお、彼の心を貫き通すだけの威力を、たった今、上映された映画は誇っていたのだ。


「……みんなのために。自分を大切に」


 音曲、衣擦れ、果てにはホール自身の軋み。

 それらの音が一切消え失せて、森閑とした空気を、ウィリアムの独言が震わせる。

 映画の中で、いや、彼の埋没してしまった記憶の中で、アリスがウィリアムに語りかけてくれた言葉。

 ウィリアムはこれを自分でも口むすぶ。

 さながら偶蹄の生類のように、胸中に取り込んだ言葉を口にまで戻した。


「どう? 思い出した?」


「うん。思い出した」


 茫洋とした口ぶりなれど、しかし、しかと確信を得れたのか。

 隣に座すエリーの問いかけに答えたウィリアムは、はっきりと断言してみせた。


「忘れていた。残されることが辛いと知っているのに、その辛さから逃げるために、死を選ぶのは……他の誰かにその苦しみを押しつけてしまうってことに」


 あのとき、アリスが人身御供の生け贄となることを、自ら進言したと聞いたとき。

 ウィリアムは、あの娘はなにを馬鹿なことをしたのだろうと思った。


 子供が、自分より歳を重ねていない子供が、自ら死に挑もうとするなんて。

 そんなことをするのは間違っている!


 その場で大声で叫びたくなる衝動にすら駆られた。

 そして大いに恥じた。

 あんな小さな女の子の命を消費しなければ、村人らの生命、さらには人類の未来を守れないと判断してしまった軍を。


 だが、メアリーに指摘された通り、彼にそんな心情を抱く資格なんて、欠片もなかったのである。

 何故なら、アリスがしようとしていたことは、そのままウィリアムがかつてしてきたことでもあったのだ。

 しかも、当時のウィリアムは軍隊の中でも下から数えた方が、間違いなく早いほどに年少者であったのだ。


 周りの大人の軍人たちも、きっとウィリアムが無茶をする度に、こう思っていたに違いない。

 子供がそんな危ない真似するんじゃあない!

 そして、こうも思っていたはずだ。

 子供に命をかけさせてしまうなんて、自分たち大人はなんと情けないのだろう! と。


 いかに自分が他人の心を傷つけていたのか。

 ウィリアムはアリスを通して、ようやくそれを知ったのだ。


 そして――


「たくさんの人を救いたいのならば、長く生き延びる必要があって。常に危機に身を置く必要は実はなくて。生き延びるためには、自分を甘やかすことも、ときには必要だということを」


 ウィリアムは直接危機にある人を救うことしか考えていなかった。

 それは当然のことだった。

 何故ならその行動は、彼の心の奥底に巣くっていた、どうしようもない希死願望によるものであったからだ。

 死を前提として動いているからこそ、彼は未来を見ていなかった。

 今、救うことの出来る命を救って死ねれば、それでいいと考えていた。


 だが、それは結局、独りよがりでしかなかったのだ。

 もし、願望に抗い、生き延びることを前提に戦ってさえいれば、だ。

 また、誰かを救う機会が現れるはず。

 いつかの未来、どこかの誰かが危機に陥ったとき、助けに行くことができるのだ。


 それは当然、自分の命を繋げられていることが、絶対条件。

 死んでいたのならば、誰かを救う戦いをすることはできない。

 救えたはずの人間を殺してしまい、余計な死人を拵えてしまうことになる。


 他人の命のみ焦点をあてて戦った場合と、自分の命も守りながら誰かのために戦うこと。

 どちらの方がより人類にとって有益か。

 その答えをアリスは示してくれた。

 いかに自分が、自分のことしか見ていなかったのかを、教えてくれた。


 とても大事なことを、あのときのアリスは教えてくれていたというのに。


「……どうして、俺は。そんな大事なことを忘れていたのだろう」


 働かない頭で、ゾクリュに流されて以降の、自らの行いを省みる。

 どれもこれも、自分の安否を、端から計算に入れていない、とても軽率なものばかり。 


 まるで、少年時代の死にたくて死にたくて仕方がなかった、あのころに戻ったようだ。


 本当に今、映画で思い出した出来事は、ウィリアムの人生を大きく左右することであったというのに。

 どうして、まるで昨晩見た夢のように、あっさりと、そして綺麗に忘れてしまったのか。

 これは忘れてはならない、大事な記憶ではなかったか。


 ウィリアムは自らの記憶力の乏しさを、思い切り罵りたくなった。


「ほら。また自分を責めようとしている。思い出したばかりでしょ? たまには自分に甘くしないとダメだって。しゃーないって許さなきゃダメだって」


「でも。これを許しちゃダメな気がするんだ。だって、まだまだ。アリスと一緒に紡いだはずの記憶。これもいくつか忘れたままな気がするんだ。君のことを、まだ思い出せないのと同じように。仕方がないで済ますのは……不誠実だ」


「うーん……そのネガティブ思考は筋金入りね。こりゃ、アリスが過保護気味になるのも無理ないわ」


 それでもなお、自分を責めんとするウィリアムに、エリーは苦笑いをもらした。

 形姿はエリーの方が、ずっと年下なのに、つまらないドジを続ける我が子を見守る母親のような、とても柔らかな笑み。


 まったく、この人は本当に仕方がないなあ。


 傍から見ている者が居たのならば、そんなエリーの心の声が聞こえてきそうなほどに。


「責任逃避のように思えても仕方がないけどね。この記憶を含めて、貴方が忘れてしまっているものは、全部ウィリアムの責任の及ばぬことが原因なの。言ったでしょ? 最終戦闘の後遺症みたいなものだって。まあ、私に関する記憶は……薬の影響だね。私にとって都合がいいから、あえて手を出さないようにしているけど」


「後遺症?」


「そ。ま、深く気にしないで。どうせ、このやり取りでさえ、後には覚えていないんだからね。私が消しちゃうからね。残るのは、さっきの思い出した記憶だけ」


「それは……困る。折角、君のお陰で大切な記憶を取り戻せたのに。その恩人を忘れてしまうのは、ダメなんだよ。きちんと恩に報いないと。君にあまりにも失礼すぎる」


「あー。もう、いいんだってば。どーせ、屋敷で会うんだし。むしろ覚えられた方が、色々と都合が悪いんだから」


 やはりウィリアムの性根は、危ういまでに真っ直ぐなようだ。

 記憶を取り戻すきっかけを作ってくれた恩人に、恩を返せないことをひどく気にしている。

 肩をすくめて、目線を落とし、いかにもしょんぼりとした雰囲気を醸し出す。


 アヘンのせいで、感情の起伏が平坦なものになってなお、このザマだ。

 素面であったのならば、どれほどにまで気落ちした姿を見せるのであろうか。


「ほれ。落ち込まないの。恩知らずにはなりたくないんでしょ? だったらしゃんとしなさい。大切なことを気付かせてもらったアリスへの恩返し。したいんでしょ?」


 そんなウィリアムに発破をかけるためであろう。

 エリーは努めて気丈な声色で、ウィリアムに語りかける。

 他人の名前を忘れ、自分がどこに居るのか。

 その把握すら難しくなったウィリアムの頭でもなお、忘れる気配がこれっぽっちもなかった、アリスの名前をエリーは使った。


 そして今でもそうだ。


 アリスに恩を返さなければならないのでは?


 その問いかけに、ウィリアムはすぐさま反応。

 ゆっくりと、しかし、しっかりとした動きで、うつむき加減であった面を上げる。

 縮めていた肩も、きちんと広げる。


 さきの一言によって、ウィリアムは自罰をやめたようだ。

 ぼんやりとしつつも、その目には一つの明確な意思が宿り、どことなく力強さを感じるものであった。 


 エリーは彼の眼光を読み取り、小さく笑みを湛えて。


「そうだよ。生き延びなきゃ」


 生き延びてやる。アリスのために。

 彼の心模様を口にしたエリーは、おもむろに右手を引き上げて、ぱちんと指を鳴らす。

 映写機を動かしたときのように。


 音とほぼ時を同じくして、風景もにわかに超常的な変化が生じた。

 まるでガラスに走るそれに似た、亀裂が生じたのだ。

 壁や天井、スクリーンはもちろん、ただただ細やかなホコリが舞い落ちるだけの中空にまで。 


 ひびはみるみる内に、その勢力を増していく。

 映画館の隅々まで走り、やがて崩れる寸前のガラスよろしくに、亀裂によって辺りが真っ白になって。

 臨界。

 ガラガラと音を立てて、風景そのものが崩れる。


 そして代わりに姿を現したのは、新主教が持つ、大きなテントの中。

 さらに詳しく言えば、獅子級が囚われていた檻の中。

 今やウィリアムの眼前には獅子級が立ち塞がり、彼を葬らんとする掻撃(そうげき)を繰りだそうとしている。


 意識が映画館に吹き飛ばされる前の状況に回帰した。


「これからね。貴方の時間の感覚を元に戻す。しばらくすると、本来の時間の流れに戻って、ヤツの強烈な一撃が貴方を襲う」


 ただし、時間はまだ延伸されたまま。

 世界は蜂蜜の中に沈んでしまったのでは、と思わせるほどに、獅子級の動きは緩慢であった。

 じわり、じわじわ。

 じっと目を離さず観察しなければ、動きが認識できないほどに、その一撃はゆったりとしていた。

 実は食らっても、大した威力がないのではないか、と錯覚させるほどに。


 しかし、この獅子級の緩慢な動きも、エリーの不思議な力によるものだ。

 力の影響がなくなれば、あっさり人を葬れる、強烈な一撃へと変貌する。


「貴方本来の力なら、躱すのに容易いはず。でも、貴方は今、毒に身体を冒されていて、思うように考えることも、動くことも出来ない」


「どうしたら……いいんだ?」


「強化すればいいんだよ。魔法で。毒を分解するための臓器を。そして内臓機能全体を」


「……肝臓? そこをメインに?」


「そう。その通り。強化をしてフル回転させたのならば。もう貴方が勝ったようなもの。安心したよ。馬車でのアドバイスに従ってくれて」


 にっこりと満足げにエリーは笑む。

 かつてエリーがアドバイスした通りに、彼が助言を疑いもせずに信じてくれたからだ。

 エリーの名前を覚えていないから、恐らく馬車で交わした言葉も、今のウィリアムには思い出すことはできまい。

 だから、これはウィリアム本来の素直な気性が産んだ、偶然の産物なのだろう。


 とは言え、自分の助言通りに人が動いてくれる様を見て、嬉しくなるのが人情というもの。

 そんな情を、きちんと持ち合わせているエリーもまた、気分が上がったようだ。

 次に紡いだ言葉には、どことなく鼻歌染みたリズムが含まれていた。


「それじゃあ少しずつ時間を元に戻していくよ。その調子だと、ヤツの攻撃が届く前に、解毒できそうだし。本当は解毒しきれるまで、時間を延ばした方がいいのだろうけど。そしたら、私のこと、思い出しちゃうからね。それは都合が悪いんだ」


「俺としてはそっちの方がいいな。やられる可能性も低くなるし、なにより君の恩に報いることもできる。その上、こいつを片付けたら、君を連れて、その足で馴染みのお店に連れて行けるんだ。とってもいいことづくめなんだけど、ダメかな?」


「おっと、流石ね。もう軽口を考えられるまでになったか。じゃあ、思い出される前に、私はお暇するよ。こと戦いじゃあ、ウィリアムの役に立てないからね」


「そう。それは残念だ」


「じゃあ、ウィリアム」


 そろそろ素面に戻りそうなウィリアムを眺めて、エリーはこの場から去ろうとする。

 後ろ手に組んで、ウィリアムに目を向けたまま、一歩、二歩。

 律動的な歩調でもって、後ろ足で進んでいく。

 テントの出口へと。


 そして、彼が獅子級を打ち倒すこと。

 これを欠片も疑っていないエリーは。 


「また、屋敷で」


 また、明日。


 そんな台詞と共に友達と別れ、家路につく子供のような無邪気な声色で。

 再会を願う、まじない言を唱えてみせた。

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