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第五章 二十九話 Fragile mind

 アリスは、かつて木こりの仕事に着いていったことがあった。

 それ故、目の前の光景に既視感を覚えたのだ。

 似ていたのだ。

 木こりのそれと。


 頸を失い、だらりと脱力し、ゆっくりと崩れゆく猿人級の姿。

 これが根元を叩き切られ、みしみしと音を立てながら地面に倒れる樹木の姿と、ぴたりと符合したのだ。


 さらに邪神の命を奪った張本人、ウィリアムを見れば一層のことその感は強くなる。

 杣人が木を切り倒したときと同じく、まだ幼さの残る彼の顔には、得意げなものが、一切見られなかった。


 ただただ、やるべき仕事をこなしただけで、自分はなにも特別なことをしたわけではない。

 そんな風に極めて淡泊で、感情の起伏を感じさせぬ面持ちで、絶命した猿人級を眺めていた。


 だが、取り立てて感動を覚えなかったのは、当の本人だけであったらしい。

 彼のすぐ傍で始終を見ていたアリスは、ウィリアムのこなした偉業に、ただただ唖然とするよりほかなかった。


(お兄ちゃん。本当に強かったんだ)


 ウィリアムにご執心なメアリー王女殿下から、彼が優れた戦闘能力を持っているのかを、これでもかというくらいに、アリスは聞かされていた。

 しかし本音を言えば、王女から聞かされたことは、半信半疑であった。


 なにせ村に駐留しているときのウィリアムといったら、絵を描くか、どこかから見繕ってきた本を読むかをしていて、とにかく物静かに過ごしていたのだ。

 とてもではないが、荒事に向いているとは見えず、むしろ村の農家の跡取り息子どもの方が、よほど強そうに見えるほど。


 どちらかと言えば、沢山の花に囲まれた東屋で、紅茶とケーキを啄みながら、のんびり昼下がりを楽しむ――

 ウィリアムにはそんな姿がしっくりとくるくらいに、大人しさが先行している少年であった。


 だがしかし、蓋を開けてみればどうだ。


 複数人で戦うべき、と考えられている邪神に、たった一人で立ち向かった挙げ句、あっという間に圧倒してしまったではないか。


 なるほど、たしかに、メアリーがスカウトに必死になるのも理解できる。

 その実力からして彼は、才気にあふれた、未来の英雄候補であり、そして理想の兵士と呼んでも差し支えなかろう。


(でも……どうしてだろう。納得がいかない)


 しかし、どうしたことか。

 ここまで常識外れの実力を見せつけられたのにも関わらず。

 邪神を簡単に葬り去る戦闘力を目の当たりにしたはずなのに。


 ウィリアムが天性の兵士であるという見方、アリスはこれを取ることが出来ないでいた。


 なにかが、ひっかかるのである。

 喉の奥になにかがひかかってしまったときと、似た感触を覚えた。

 そこになにかがあるのはわかっているけれど、その正体がいまいちつかみ取れなくて、もやもやとする。

 そんな感覚だ。


 一体自分は、どうして、ウィリアムが天性の兵士であると認めるのに、抵抗を覚えているのか。

 この違和感の根本はなにであるのか。

 アリスはそれを摑むことが出来ず、心の靄は濃くなる一方であった。


 じゃりりと音がする。

 ウィリアムの軍靴が、小石を噛み踏む音だ。

 彼は痙攣すらしなくなった邪神を一瞥し、つま先をアリスへと向けた。


 そして一歩、二歩。

 静かに腰を抜かして尻餅をつく少女に歩み寄る。

 しゃがみ込む。

 アリスの目の高さに自らのそれを合わせ、しげしげ。

 つま先から頭の天辺まで視線を何度も何度も這わせて、そして。


「ああ。良かった。本当に、怪我はないようだ。安心したよ」


 ふうと安堵の息を漏らした。

 戦闘中に見せていた、あのいかめしい顔付きはどこへやら。

 いまや、世の中に掃いて捨てるほどに居る、育ちが良さそうな少年に相応しい、いかにも人好きのする、はにかみを見せた。


 アリスが無事であったことを、心から喜んでいるが故の笑顔だった。

 そのような由来であったからか。

 ストレートな笑顔を前にして、アリスはなんだかこそばゆくなる。


 しかしながら、アリスを恥ずかしがらせたその笑顔は、長くは続かなかった。

 じっと少女を見つめる赤毛の少年の顔。

 これがにわかに崩れ出す。

 いや、にじみ始める。

 主として、その綺麗な瞳が。

 さながら塗り分けに失敗した、下手くそな水彩画のように。

 急に輪郭を失ってしまって。


「……本当に。本当に良かった」


 ぱたり。ぱたぱた。

 雫が眼瞼の縁から溢れて、こぼれ落ちた。

 落涙。

 ウィリアムは静かに泣き始めた。

 さめざめ、さめざめと。


 アリスは困惑した。

 理由もわからず、急に彼が泣き始めたから、ということもある。

 だがそれ以上に、戸惑いの種となっているのは、ひとえにアリスにとって、このような経験が初めてであったからだ。

 大人と子供の境界線に立つ年頃とはいえ、しかし年上の男に目の前で泣かれるのは、これまでの人生で一度たりとも経験したことがなかったのだ。


 年下の男の子であれば、優しく慰めの言葉をかけるべきであろう。

 だが、年上の男に対してもそれをやるべきなのか、否か。

 頭を大いに悩ませるに足る、難問中の難問。


 しかし、そんなアリスを気にする余裕を、今のウィリアムは持てていないようだ。

 涙を堪えるのでもなく、拭うのでもなく、誤魔化しの笑みを浮かべるのでもなく。

 ただただ小さくうめき、時折しゃくり上げ、静かに涙を流し続けた。


「良かった……良かった。間に合って……君が死なずに済んで。死なないでいてくれて。本当に……良かった」


 何度も何度も嗚咽に阻まれながら、ウィリアムは言い続ける。

 良かった。とにかく良かった。アリスが死なないでくれて良かった、と。


 飽きもせずに幾度も幾度も繰り返される、安堵の台詞。

 彼の涙は、心の底からほっとしているがために、流しているものなのだろう。


 なるほど。彼の涙は、彼自身の言葉によって、うれし涙に分類されるものだとはわかった。

 だが、アリスはまたしても違和感を覚えた。


 軍人は嫌が応にも別れに慣れてしまう生業だ。

 そのほとんどが死別であり、で、あれば、彼も然りなはず。

 少しの間だけ一緒に過ごした小娘の死なぞ、本来なら簡単に割り切れてしまうはず。


 だが、今アリスの目の前に居るウィリアムはどうだ。

 他人の死に割り切れた様子が見られないではないか。

 アリスの健在を心の底から喜び、感涙にむせいでいるではないか。

 とてもではないが、他人の死に慣れた人間が見せる姿とは思えなかった。


「お兄ちゃん?」


「うん?」


「……その。どうして泣いているの? どうして、そこまで」


 だからアリスはストレートに聞くことにした。

 ウィリアムに直接、どうしてうれし泣きをしているのかを。 


「もう、嫌なんだ」


「え?」


「もう……誰かの犠牲ありきで行われる作戦は、嫌なんだ。犠牲を割り切ることも。もう、したくないんだ。もう……もう……嫌だ。だから、お願いだから……人身御供なんて真似は……」


(ああ。そうか。この人は)


 アリスは理解した。

 ウィリアム・スウィンバーンという人間の本質を。


(ひどく、繊細なんだ)


 そのせいで、他人の死を割り切れないのだ。

 誰かの死に直面する度に、強烈なセンチメンタルに襲われてしまい、心が傷付いてしまうのだ。

 それは数え切れないほどの、味方の死を看取らねばならない軍人にとっては、致命的な弱点であろう。


 つまり本来、ウィリアムは軍人になるべき人間ではなかったのである。

 その繊細さと、気性の不向きさを、アリスは直感的に感じ取っていたのだ。

 だからこそアリスは躊躇いを覚えたのである。

 彼を理想の兵士と見なすことに。


(……かわいそうすぎるよ。いくらなんでも)


 だが性根とは裏腹に、彼の肉体は、この時代にまったくもって求められるものであった。

 単身で、それも肉弾戦でもって、邪神と渡り合える才能を持って生まれてしまっていた。

 戦いに、兵士に向くものであってしまった。

 これを悲劇としないとするならば、なにを悲劇とすればいいのだろうか。


「でも……慣れなくちゃいけないんだ。俺は、みんなを守るために軍人になったんだ。なのに……もう三年も戦ってきているというのに。俺は今の時代の軍人の在りようを、まったくその身に叩き込めていない。ダメだよな、そんなの。ワガママだよな。泣き言を言わずに戦わないと……ダメなのに」


 そして何よりも悲劇的なのは、彼自身が、世界が自分に求めている役割とはなにかを、きちんと理解してしまっていることにあろう。


 自分は邪神と真っ向からぶつかり合うことができる。

 それは人類にとって、間違いなく有益なこと。

 人類の利益を前にして、優先すべき私情はないはず。

 ならば我慢しなければ。

 例え、心が傷だらけになろうとも。


 そんな思いでもって、この少年は戦場に立ち続けたのだ。

 その結果、自分の心が悲鳴を上げて、壊れてしまおうとも。


 いや、もしかしたならば、彼の心はもうすでに壊れかかっているのかもしれない。

 攻撃を紙一重で躱し、敢えて一撃を受け止める選択をしたウィリアムを見たアリスとしては、そのような懸念を否定しきれなかった。


 あの自分の身を省みない戦い方は、彼の心の悲鳴なのではなかろうか。

 度重なる心の痛みに耐えかねて、楽になりたくて。

 責任を全うしながらも、痛みから解放される死を迎えたくて。

 あのような無茶は、限界になりかかった心が取らせたものではないか。


 もし、そうならば――


「ははは。ごめん、急に泣いちゃって。驚かせてしまって。でも、もう大丈夫だから――」


「……いいんだよ。泣き言を言っても、泣いていても」


「え?」


 彼には理解者が、あるいは彼を甘やかす人間が必要だと、アリスは思った。

 今のウィリアムにはそんな存在が身近に居ないのだろう、とも思った。

 そうでなくては、自分のような小娘に、ぽろぽろと涙を見せながら、あのような泣き言を吐露するはずがない。

 女の、それも年下の前で涙をみせるというのは、本来男の意地とやらで、見せたくないものなのに。

 我慢する仕草、一切なく、彼はあっさりと泣いてしまった。


 で、あるのならば……やはり彼の心はもう限界に近いのだろう。

 まるで真っ黒な濁流にその身をみるみる削られる、古い堤のように。

 今すぐにでも破れてしまって、取り返しのつかないダメージを負っても、おかしくない状況なのだ。


 だから一刻も早く、彼の心を補強してやらねばなるまい。

 壊れてしまうその前に。


 だからアリスは口にする。


「自分を追い込みすぎないで。我慢しすぎないで。じゃないと、お兄ちゃん。いつか壊れちゃうよ」


 無理をする必要はないんだよ、と。

 いくら戦いの才能に溢れていても、自分の心まで壊して戦う必要はないんだよ、と。


 だが、ひとまず泣き止んだウィリアムは、それを許せないようだ。

 ふるふると力なくかぶりを振る。


「……でも。この時代は、苦難の時代で。みんな、みんな。我慢して生きているじゃないか。なのに、俺だけ我慢しないなんてのは、とても卑怯なことだ。そんな甘えた真似は――」


「お兄ちゃん」


 きっと続くはずであった、自罰的な台詞。

 アリスはちょっぴり声を荒げて、それを強引に遮った。

 その声はウィリアムも初めて聞くもの。

 だから、驚いてしまって。

 彼は言葉を、音をはくりと噛みつぶして、飲み込んだ。

 きっと、それは彼からすれば、不随意のものであったかもしれないけれど。


「そんな風に考えて、自分を奮い立たせて戦っているのなら……お兄ちゃんはもう限界だよ。すぐに戦いを捨てて、どこか静かな場所で、穏やかに暮らした方が絶対にいい。でも……それはお兄ちゃん自身が許せないんでしょ?」


 少女の問いかけに、ウィリアムは肯んじた。

 そんな責任放棄。

 辛いから逃げるなんてみっともない真似は、絶対に出来るわけがないと、肯定した。


「だったら、ときどきでいいから、自分を甘やかさないと。自分を大切にしないと。長く保たないよ」


「でも――」


「お兄ちゃんは。みんなを守りたくて軍人になったんでしょ? だったら、一日でも長く生き延びて、その力を振るって。多くの人たちを助けなきゃダメ。違う?」


「それは……そうだ」


 ウィリアムの言葉を遮り続けること。

 これにいささかの罪悪感を覚えながらも、アリスはなお、言葉を続けた。

 必死に柔らかい声色を産み出して、ひたすらに彼を諭し続けた。


 その甲斐あってか、彼はアリスの言うところを認める。

 まったくもって、その通りだと。


 もちろん、長く戦い続けることは、彼の性格から言って、深刻な重しとなるのは間違いない。

 アリスが懸念したとおり、いつか心が壊れて、日常生活を送ることすら難しくなってしまうだろう。


 少女は強く思う。

 それだけは避けなければならない結末であると。


 自分を気にかけてくれて、そして命の恩人でもある彼が、人類のために使い潰されてしまう未来は、絶対に回避しなくてはならない。


 そのために自分が出来ることとは。

 自分の恩人を守るために、やるべきことは。


「でも、もし、ね? 自分を甘やかすことができないのならば。まだ、全然実力も、器量も足りていないことは、重々承知しているけれど」


 そしてアリスはウィリアムに贖罪もしなければならないのだ。

 似顔絵の件。

 自分の生きた証を彼の心に残すために、自らの死を利用しようとした。

 こんなにも繊細なウィリアムなのだ。

 もし、アリスが本当に邪神に食われてしまったのならば。

 そのときの彼の心境は――


 ああ。

 自分はなんと恩知らずなことをしようとしていたのか!


「私に、甘えていいから。だから、お兄ちゃん」


 救ってくれた恩に報いるためにも、心を傷つけようとしたことに、落とし前をつけるためにも。


「皆のために。自分を、大切にしようよ、ね?」


 彼の理解者になってみせよう。

 

 自分にできることとは、それだけだ。

 アリスはそう、思った。


 そして少女は、きっと大人の女性の真似をして見せた。

 傷ついた人間を慰めるために。

 自分より大きな少年の両肩を、精いっぱい体を広げて包み込んだ。


 その効果は……あったのかもしれない。


 二人を照らす西日が、きらりと光らせた再びのウィリアムの涙は。

 誰かがそばにいてくれようとすることへの、安堵のものであったろうから。

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