第五章 二十八話 格好つけの権利
「お、お兄ちゃん? どうして、ここに」
困惑を隠せぬ様子のアリスの声。
心の底から驚き、目を大きく丸め、いかにも呆然とした面持ちでもあった。
しかし、アリスの立場から見れば、少女が抱いた驚きは、まったくもって妥当なものであった。
たしかに、人のいいウィリアムの性格を考えれば、この場に駆けつけにきても、なんら不思議なことではない。
だが、ウィリアムは軍人であるのだ。
上意下達、上が白を黒と言えば、黒と認識しなければならない、そんな義務が発生する、軍人であるのだ。
ウィリアムが配属されていた部隊は、いや、そもそもさらにマクロに方面軍自体が、人身御供を要求した邪神と相対すること。
これにひどく消極的であったと聞いていた。
つまりは、軍はアリスを見殺しにすることを是としていたのだ。
一人の命で大勢の命を確実に救えるのならば、安い取引だ。
そんな風に考えていたのだ。
そして上意下達の原則を当てはめれば、当然ウィリアムの意思もそのように染まっていたはず。
アリスが生け贄になることを、見て見ぬ振りをするように命じられたはずである。
にも関わらず、ウィリアムはここまでやってきた。
下手をすれば、それは上司への抗命に当たるかもしれないのに。
抗命した兵士に下される処分といえば……良くて営倉行き、悪くて銃殺刑。
つまりウィリアムは銃殺刑も承知でここまでやってきたのだ。
命を賭して、アリスの下へすっ飛んできたのだ。
「怪我……は、ないか。ああ、よかった。間に合った」
ぺたんと樫の根元で座り込んでいたアリスを、何度も何度も見返したあとのウィリアムの一言。
それまでいかにも余裕が一切なく、焦りに焦った様相であったのに。
少女の無事を確認するや否や、ほうと一つ安堵の息。
柔らかな笑みを湛えて、アリスの健在を喜んだ。
「お、お兄ちゃん? どうして? なんで?」
「なんでって。当たり前だ。アリス、君を助けにすっ飛んできた」
自分を助けに来た。
邪神の生け贄になること。
それを志願したとき、誰からも止められなかった自分を。
自らの危険を冒してでも救う価値があると、ウィリアムは言った。
本来それは、アリスにとって喜ぶべき台詞だ。
君は死ぬべきではない、死んではいけない。
彼女の人生は無駄なんかではなかった、と言っているのに等しいから。
だがしかし、そうだというのに、アリスがまず最初に覚えたのは歓喜ではなかった。
はじめに覚えたのは困惑であって、その次に彼女の胸にやって来たのは――
「で、でも! これは兵隊さんの偉い人が決めたことでもあるんでしょ?! だったら。それに逆らったお兄ちゃんは!」
アリスは声を荒げる。
ほんの少しの怒気を伴いながら。
そうだ、少女は幾ばくかの怒りを抱いたのだ。
それはきっと、ウィリアムのあまりにも向こう見ずな行動に対するもの。
「ああ。そんなことを気にしているのか。そんなこと、アリスが気にすることではない。きっとなんとかなるから」
「な、なんとかなるって! お兄ちゃん、死んじゃうかもしれないんでしょ?! 罰で殺されちゃうかもしれないんでしょ?! どうしてそんなことするの?! どうして自分の命を!」
自分の命は大切にしてほしい。
アリスの怒りの根源は、きっとこれであろう。
対するウィリアムの反応は――
なんだか不思議なものであった。
おいおい。この娘は何を言っているんだ?
ワガママを言い続ける子供に向かっているような、その手の呆れが色濃いものであった。
「……それは、君が言えることか? まだまだ子供なのに、こんな格好付けた真似しちゃって」
「それは――」
自分は死のうとしていたのに、他人が死のうとする真似は許さない。
今のアリスの態度といえば、そんなものなのだ。
なるほど、先ほどのワガママ娘め、と不言にて語っていたウィリアムの態度は、議論の余地なく真っ当なものであったと言えよう。
図星をつかれてしまったために、アリスは言葉を失う。
彼女はすぐさま言い返すことができなかった。
「子供がなにかを守るために、自分の命をかけるような真似をするんじゃない。そんな格好つけはな。大人の特権なんだ。もうしばらく歳を重ねてはじめて、格好をつける権利が生まれるんだ」
いや、それを言うのであれば、ウィリアムとてまだ子供と呼べる年齢ではないか。
迂闊にも隙のあるウィリアムの発言に、アリスは指摘を試みようとする、も。
「え? ひ、ひっ」
少女の思考は声として、表の世界に躍り出ることはなかった。
意味を含まぬ、ほとんど音と言って差し支えない声に、出番を奪われたからだ。
アリスの喉から零れ出た、聞くからに怖れに満ちた音が生じた理由。
それは陽の出ずる方角からやってきた。
まだ西の空に居座っているが故に、もちろん東からやってきたのは、恒星の輝きではない。
またしても、律動的な地響き、きたる。
ただしそのインターバルは先ほどよりも、甚だ短く、むしろ律動と呼ぶより断続とした方が適当なほど。
地響きの正体は……今更、改めて言及する必要はあるまい。
「き、来たっ! 邪神がっ! た、倒せていなかったっ!」
一度、生存の見込みを得てしまったからだろう。
アリスはその光景、ウィリアムが強かに打っ飛ばした猿人級が、四つ足となって、疾くに迫り来る様に恐れおののいた。
彼女はとうとう本能に頭を垂れる。
体もがたがたと震える。
立ち上がって、猿人級に背を向けて逃げだそうとするも、それ能わず。
恐怖で腰が抜けてしまい、必死に努力するも、立ち上がることすら叶わない。
迫る猿人級から、せめてわずかでも距離を取らんとする意思の表れか。
彼女はなんとか自由の利く両の腕を頼りに、後ろ手にずるりずるり。
小さな尻を引き摺りながらも、逃亡を試みていた。
傍から見ればそれは、間違いなく無様な姿であった。
性根のねじ曲がった奴が見たのであれば、指を指して笑い転げるくらいに。
そして、たった今、アリスに最も近くに居るウィリアムも、うっすらと笑みを浮かべていた。
ただし、嘲りの笑みではない。
むしろ指向はその逆。
見る者を安心させるための、微笑みと呼ぶべき柔らかく、そして優しげなものであった。
「大丈夫。逃げる必要はない。心配する必要も。今からアイツを――」
ウィリアムはさらにアリスに語りかける。
静かに、穏やかな口調で。
「ちょっと葬ってくるから」
ひどく物騒な台詞を、ゆったりと紡いだ。
直後ウィリアムの足元がにわかに爆ぜる。
強化魔法によって、人間とは思えぬほどの速度を産み出しながら、迫り来る猿人級へと向かってゆく。
――さきほど猿人級の腕を射貫いた拳銃を、アリスの下に置いていきながら。
「……え? ちょ、ちょっと、お兄ちゃん?! これっ!」
アリスは困惑した。
あの猿人級はずっとずっとウィリアムより大きいというのに。
そして露出した筋肉は、人間とは比べものにならないくらいに発達しているというのに。
大きさ、そして筋量。
その絶望的な差を埋めるための武器を、携帯していないのだ。
アリスが慌て色濃い声で、彼を呼び止めんとするのは、当然であった。
いくら軍人であっても、銃を持っていないのであれば、勝ち目がないに決まっている!
アリスは、危機感と共に、そのような感想を抱いた。
そしてそれは、この状況に出会ったときに人間が抱く、いたってノーマルなものであった。
だが、しかし。
そんなノーマルをあざ笑うかのように。
現実は皮肉たっぷりに、アブノーマルな状況をさらけ出した。
「うそっ」
互いに近付き合っているが故に、みるみるウィリアムと邪神の距離は詰まっていって。
そして猿人級の間合いにウィリアムが踏み入った、すわそのとき。
そのご自慢の太い右腕でもって、赤毛の少年をぺちゃんこにしようと試みた。
さながら隕石のような、力と速度を伴った一撃を彼に向かって繰り出す。
アリスは戦いの素人なれど、直感でわかった。
あのタイミングで、そしてあの速度の攻撃を放たれてしまえば、躱すことができない。
銃を忘れた者が辿るべき最期がウィリアムに――。
そんな未来を思い描いてしまった。
だが、ウィリアムはアリスの直感を簡単に裏切った。
岩のように巨大で、ごつごつとした拳が、赤い毛に包まれた脳天に直撃する、まさにその瞬間。
紙一重。
ひょいと上体をわずかに、左に傾けて。
必殺となるはずであった一撃。
それを訳もなく躱してみせてしまった。
それだけでもアリスにとっては驚嘆に値する、衝撃の事実。
だが、ウィリアムはまだアリスを驚かし足りないらしい。
巨大なこぶしを躱しがてら、腰に下げられた軍剣の柄を摑むや否や。
鞘走りの勢い、そのまま利用して、殴打を繰り出したが故に伸びきった猿人級の腕にへと一閃。
銀光がきらり。
アリスの網膜にそれだけを残した、正真正銘目にも留まらぬ一閃は。
――――!!??
空蝉の村に響くは邪神の咆哮。
苦悶の悲鳴。
それを産み出して。
邪神の腕と体を分離させる結果をもたらした。
「でも、剣がっ!」
ただし、代償は大きかった。
蓋し、ウィリアムの強力に耐えきれなかったのだろう。
数打ちものの軍剣はあえなく破断。
根元から断ち折れる。
使い物にならないガラクタへと成り果てる。
また一つ、ウィリアムが頼るべき道具が一つ減ってしまった。
しかれども、ウィリアムは意に介さず。
むしろ自ら猿人級の間合いへと進んでいく。
持ち前の再生能力で右腕を作り直す猿人級は、未だ彼が自らの間合いにあることを、当然認めていた。
無傷である左手を、真横に払う。
力任せに、空気を押しのけながら、ウィリアムを打っ飛ばすために。
此度の攻撃は大ぶりで、躱すに容易いように見えた。
回避不可と思われたあの一撃を、回避したウィリアムなのだ。
今度もこともなげに、あっさりと攻撃を避けられるはずだ。
それ故、アリスはさきの一撃ほどの焦燥は、抱かなかったのだけれども。
「え?」
ウィリアムは動かない。
あれだけ大ぶりで、楽に避けられそうな一振りだというのに。
回避行動一切取らず、そのまま間合いを詰めるのみ。
逃げて!
アリスがそう叫ぼうとするも、しかし、時すでに遅し。
暴力的な横っ風が、赤毛の少年の痩身に強かに衝突。
その衝撃の強さたるや、人類の軽い体なんて、木の葉のように容易く吹き飛ばしてしまうくらい。
しかし、なんということだろうか。
そうだというのに、ウィリアムは猿人級の一振りを受け止めてみせた。
右手を盾に衝撃を真っ正面から受け止めて、膝をつくこともなく、しゃんと二本足で立って見せた。
「……ありえない」
思わずアリスが言葉を漏らす。
彼の戦い方は、常識から明らかに逸脱している。
なんと無茶苦茶な強さを誇っているのだろうか。
その思いはきっと、あの猿人級も同じことだろう。
自慢の怪力を真っ正面から受け止められた事実に、巨体の化け物は明らかに狼狽していた。
全身の骨を砕き、遠くに打っ飛ばすはずだったのに。
にも関わらず、どうしてこの小さな生物は、吹き飛ばされもせず、あまつさえ大したダメージを受けていないのだろうか。
理解不能。
きっとかの猿人級の脳には、そのような思いが氾濫しているのだろう。
人類の天敵はそんな戸惑いの群衆に巻き込まれ、動きをにわかに止めてしまい。
結果、ウィリアムに隙を突かれてしまうことになった。
盾代わりにした右腕を、素早く猿人級の大木のような左腕に巻き付け、脇に抱えて。
「ふっ。すうっ、ふっ」
強い吐息と共に、文字通り一息に邪神の左腕を捻り上げる。
太い腕はあっという間にねじれて、関節の限界まで達し、そして。
ぼきん。
さながら樹になった果実を収穫するが如し。
こともなげ、わけもなく。
ウィリアムは邪神の左腕をもぎり取ってしまった。
――――????!!!!
再度、絶叫、響く。
野獣そのものな叫びにも関わらず、それには困惑が多分に含まれていること、これを容易にうかがわさせるものであった。
こんなちっぽけな存在に、両の腕を破壊されるなんて、信じられない。
邪神はきっと、そう叫んでいるのだろうな。
アリスになんとなしに、そう思わせるくらいに。
しかし、かくして猿人級はウィリアムの接近を防ぐ手段を喪失した。
腕を振り回して近寄らせないようにすることも、ウィリアムがたった今やったように、彼の攻撃を受け止めることも出来なくなった。
こうなってしまえば、あとはもう一方的であった。
一足、二足、三足。
ウィリアムは軽やかな足取りで敏速に距離を詰めて。
その途中、本来ライフルに装着するはずの銃剣を抜いて。
さしたる抵抗を受けずに。
未だパニックの中にある猿人級の肩に飛び乗って、そして。
いかにも切れ味に劣る、矮小な刃物だというのに。
きっと強化魔法の恩恵を受けた影響か。
ウィリアムの銃剣は、まるでババロアを切り裂いていくスプーンのように、するりするり。
おぞましいその素っ首に沈み込んでいって。
猿人級の頭を生きながらにして、切り落としてみせた。




