第五章 二十七話 汝、生贄なりや?
ひとりぼっちの村というのは、かくも静かなものであったのか。
そしてなんと、心細いものなのか。
今更ながら、アリスはそう思った。
両親が没して以来、アリスは村で浮いた存在となり、なにかと一人で居ることが多くなった。
だから、一人で居ることは慣れているはず――そう思っていたのだが、しかし、それは気のせいであったようだ。
村人たちが、積極的に自分と関わろうとしなかったといえ、だ。
村に満ちあふれていた生活音が、知らずの内にアリスの孤独を癒やしていたのである。
だから、アリスは今まで心が押しつぶされそうになるほどの寂しさを、覚えずに済んでいたのだ。
しかし、今はそんな彼女の気が利く友人たちすら、この村から消え失せていた。
放牧された羊の声も、それを追う牧羊犬の声も、大工が奏でる槌の音も、どこかの家から漏れる雑談の声も、今はない。
けれども、今の村で、いつもはあって今はないものと言えば、村人たちと、それくらいなものなのだ。
アリスは、ウィリアムに自らを描いてもらった樫の大木の根元にて、自分が育った村を眺めた。
村の風景はいつもとなんら変わりがなく、のどかなままだ。
堆肥と青草が混じった臭気も、崩れかけの石垣も、くたびれきった家屋も、昨日と変わらぬ姿。
本当にいつもどおり。
今すぐにでも、なくなってしまった音たちが帰ってきてくれるのではないか。
そう期待させるほどに。
だがまともなのは、見た目だけであった。
今の村には、中身がまったくない。
本来そこにあるはずの、人々の日常がない。
だからひどく空虚な存在であった。
形だけは立派だけど、中身が詰まっていないから、触れただけで壊れてしまいそうであった。
まるで蝉の抜け殻のように。
その事実が、アリスの寂寥感と孤独感をより一層際立てた。
彼女はきゅうと両手で、両膝を抱え込んだ。
そうすれば寂しさを誤魔化せるのではないか、と思ったからだ。
だが、現実は幼い願望を、粉々に打ち砕いた。
寂寥は薄くなるどころか、どんどんと色濃くなる始末。
それどころか――
「……怖い」
丹念に、入念に。
そして丁寧に押し隠したはずの恐怖が、ここに来て顔を見せ始めた。
彼女の恐怖の源泉は言うまでもない。
死。
それがアリスに恐怖をもたらしていた。
「怖いよう」
また、恐怖を口にする。
一陣の風が吹く。
生ぬるい風。
でも今のアリスには、まるで真冬の北風のように冷たく感じて。
ぶるりと大きな身震いをした。
覚悟は決めたはずだった。
人身御供を持ちかけてきた邪神の件を聞いたとき、今こそ自分が立ち上がらなければ。
両親を喪ってから、希薄化してしまった自分の存在意義。
それを隣人たちのための、生け贄になることで見出したはずだったのに。
そう思っていたというのに。
いざ、こうして一人で死を待つ身になると、本当にあっさりと、決意が揺らいでしまった。
今すぐにでも逃げ出したい。
両腕で抱えた足を必死に動かして、どこか遠くに向かって駆け出したい。
自分が犠牲になる、と申し出たあの瞬間に戻れるのならば、無理矢理にでも口を塞いでしまいたい。
アリスは自らの決断を呪いだしすらした。
「嫌。嫌っ」
恐怖は収まる様子を見せない。
むしろどんどん強くなる一方。
怖い。
本当に。
とてつもなく。
死ぬのが怖かった。
嫌だった。
自分が消え去ってしまうのが怖かった。
意識が闇に飲まれてしまうのは嫌だった。
だが、彼女にとってそれ以上に恐ろしいことがある。
それは自分が死んだ後を想像することであった。
あの娘のおかげで、安全に逃げ延びられた。
感謝しなければ。
そんな思いによって、なるほど、アリスは村人たちの記憶に強く刻み込まれるだろう。
だが、それもしばらくの間のことだ。
時間が経てば経つほど、忘れまいと誓ったはずの感謝の念は薄くなっていく。
そしてやがては、思い出すことすら難しくなっていって。
いつしか綺麗さっぱり忘れ去られてしまうのだ。
アリスはそれがたまらなく怖くて、悲しかった。
今、ここに居る自分という存在が、はじめからなかったことにされるのだ。
今まで送ってきた人生すべてが無駄である。
そう断言されるように、アリスは感じた。
「それは。それはっ! 嫌っ!」
アリスは両腕の力を緩める。
ほんの少し足に力を入れれば、あっさりと自縛をほどけるほどに。
そして、あさっての方角に走り出すために。
アリスはぐっと、足に力を入れようとする――も。
「で、でも! ダメ。ダメっ! そんなことをしちゃ、ダメっ」
辛うじて残った理性が、生存本能に抗う。
理性が口を、舌を動かし、本能を否定する言を紡ぐ。
そうすることで、薄くなってしまった決意を補強する。
自分の生存に対する欲求をなんとか押さえ込む。
今、少女が抱いた欲求というのは、生物である限り、本来抗いがたいものだ。
大の大人でさえも、ヒステリックな悲鳴を上げながら、本能に頭を垂れても不思議ではない。
にも関わらず、アリスは耐えて見せた。
まだまだ親に甘えていたいはずの、か弱くて当然の年頃なのに。
辛うじてとは言え、歯を食いしばって耐えて見せた。
なぜ、齢が二桁に達したばかりの少女が、大人顔負けの根性を見せたのか。
その要因はこの村落疎開が決定される、まさにその直前に求められる。
丁度、この樫の木の下で起きたこと。
それが彼女にとっての支え木となって、心がぽっきりと折れることを防いだのであった。
「大丈夫……大丈夫。例え私が死んでも……あの絵は。お兄ちゃんが描いてくれた絵は、ずっとずっと残ってくれる。お兄ちゃんが残してくれる。そのはず」
つまりは遺影だったのだ。
あのとき、ウィリアムに求めて自らを描いてもらったものの正体は。
アリスがたしかにこの世界で生きていたこと。
分という存在が、たしかにこの世界に在ったということ。
それを永く残すことが出来る。
あの絵さえあれば。
例え人々の記憶から消え去ってしまっても、だ。
生きた証拠がそこに在り続けることができる。
そして少なくともその絵がウィリアムの手元にある限り、彼が死ぬそのときまで、彼はアリスのことを忘れられないだろう、という推測も、結果として彼女を勇気づけた。
彼の人のいい性格からすれば、恐らく絵を捨て去る、という選択はしまい。
多分、彼女のこの行いは、彼の心に傷を負わせてしまうだろう。
それはアリスも重々承知で、罪悪感も覚えていた。
でも、アリスからすれば、人生最後のわがままなのである。
ちょっとばかし重たい要求でも、きっと許されるはず。
彼女はそう思うことにした。
「大丈夫。大丈夫。私は忘れられたりしない。忘れられないための対策はしっかりとした。大丈夫。大丈夫。怖くない。怖くない。あとは……しっかりと役目を果たすだけ」
恐怖はきれいに払拭されたわけではない。
だが、最期のわがままのおかげで、体をがたがた振るわし、顔中を涙と鼻水で汚すことはなさそうだ。
その程度には怖気との折り合いをつけることができた。
あとは文字通り、彼女はこの場にやって来る死を迎え入れるのみ。
そのときまで、静かに待とう。
アリスはゆったりと目を閉じる。
背を樫に預けた。
それからどれくらい時間が経っただろうか。
少なくとも、西日がきつくなって、その方角を直視できなくなった頃合いであった。
ずん、ずんと、律動的な地響き、きたる。
震源ははじめ遠い場所にあった。
だが、音が鳴る度に、徐々に徐々にと音と震えが大きくなっていった。
つまりは地響きを生んでいるモノが、アリスへと近付いているということ。
その地響きの正体は、巨大なナニカの足音ということ。
「き、来た」
アリスは生唾を飲み込んだ。
目を開こうと思っても、瞼が拒んで、瞳孔に光を取り入れようとしない。
鳩尾のあたりが、誰かにきゅうと鷲づかみにされたような、息苦しさも覚える。
手と足の先端が、ぴりぴりしはじめる。
それらはいずれも、恐怖に相対したときに体がみせる一種の反射。
やはり、叫んで逃げ出したい。
押し込んだはずの本能が、再び勢いを盛り返し、アリスの体を動かそうとする。
しかし、それでも少女の理性は本能の猛攻をしのぎきる。
ほんのわずかにだけとはいえ、恐怖と向き合うこともできた。
それ故、彼女が見せていた、恐怖への反射、これが一つだけなくなる。
瞼の自由が利くようになったのだ。
せめて自分の命を奪うモノ、それをしかと目に焼き付けてから死んでいこうか。
死後にそいつを呪い殺す機会がやってくるかもしれない。
そのとき、どの邪神を呪殺するのかわからない、ではあまりにも勿体なさ過ぎる。
勇気を振り絞り、アリスは目を開く。
足跡の方へと、視線を向ける。
「ひっ」
息を呑む。
それはすぐそば。
呼気が孕む生臭さを嗅ぎ取れるくらいに近くに居た。
二本足の邪神。
どこかの奥地に生息するという、巨大な猿に似た形姿。
けれども、まるで血抜きがされ、皮を剥がれた牛や豚よろしくの、表皮を欠いたそのフォルムは、見る者の生理的嫌悪を惹起させた。
猿人級。
西日で真っ赤に染まっているそいつは、大人たちがそう呼んでいる存在だ。
――汝か?
「え?」
声が聞こえた。
がらがらで、ざらざらとした、とても聞くに堪えない醜悪な声が。
それも耳で捉えたのではなく、声は頭蓋の内で響いたのだ。
そんな無遠慮な伝え方をわざわざ選ぶ辺り、声の主は人間の機微というものが、まったくもって理解出来ていないらしい。
もっとも声の主が、人のおもむきが理解できないのは、当然であった。
――汝か? 我に捧げられし贄は? 汝、生け贄なりや?
また、アリスの頭に直接語りかける声。
まさかと思ってはいたが、間違いない。
今の問いかけで、声の主がなにであるのか。
少女はそれを理解した。
邪神だ。
これは邪神の声なのだ、と。
――代償。たしかに。しからば聞き入れよう。汝らの願いを。
まったく返答をしていないし、なんなら肯定するような思考も抱いていないというのに。
語りかける邪神は、マイペースに話を進める。
生け贄はたしかに捧げられたと宣言する。
なるほど。
端っからこちらの話を聞く気はない、ということか。
邪神には人身御供を要求する程度の知能があるのだから、対話でもって戦争を終わらせればいいのに。
アリスは時折、こう思うことがあったのだが、結局のところ、夢物語であったかと悟る。
向こうに歩み寄りの気配が一切ないのでは、対話のしようがない。
「……ははは」
どうしてもうすぐ、自分は死んでしまうのに、こんな奇妙な納得を得ているのだろうか。
アリスは我ながらではあるが、変になってしまった今の心境に、笑いを漏らしてしまった。
怖れはまだある。
けれども、死を目前としたことへの開き直りとも言うべきか。
恐慌に至るほどではなくなっていた。
では、彼女の理性はこれ以上になく勢力を取り戻したのであろうか?
だがしかし、それは違った。
理性が恐怖を超越したのではなく、恐怖とはまったく別の感情が、彼女の怖れを飲み込んだのであった。
「……この世界よ。呪われてあれ」
その言葉は、十歳の少女の口から出たものとは思えないほどに低く、とても重たいものであった。
走馬灯、であるのだろうか。
アリスの頭の中には、これまでの人生のハイライトが次々と過ったのだ。
その中には貧しくとも幸せであった、両親が健在であったころの記憶も、当然あった。
だが、それ以上に強烈なのは喪ってからの記憶だ。
村人らに厄介視され、ときにキツい手伝いを、恐ろしく安い駄賃でこなす日々。
とてもではないが、幸せと思えない、過酷な記憶。
どうして、自分がこんな目に遭わねばならないのか、と思ったことは、数えるのに両手ではとても足りなかった。
最後の方で、ウィリアムのおかげで少しはマシな日常を送れていた、とはいえ、だ。
アリスの短い十年の人生を、幸福であった、と締めくくるには、あまりにも楽しい記憶が欠乏していた。
だから彼女は思ったのだ。
最期の瞬間を目前にして、自己犠牲の精神はどこへやら。
すみやかに心が腐ってしまったのである。
ああ。こんなにも自分に優しくない世界であるのならば。
こんな世界、滅んでしまえ、と。
猿人級がゆらりとうごめく。
ゆっくりと丸太の如き、発達した腕を振り上げる。
哀れな生け贄を儚くするために。
アリスは恨みの籠もった視線でじっとそれを見つめて。
そして腕は振り下ろされた――
――その刹那。
耳を劈く音が生活音が死滅した村に響いた。
爆発音。
続けて六発。
そしてアリスを打っ叩こうとした、猿人級の腕から血しぶきが上がる。
小さなものであったけれど、それでも六回上がる。
それはつまり。
誰かが、発砲をしたことの証。
弾が猿人級の腕に着弾した反応。
鋭い痛みを六回も受けたからか。
おぞましいそれは、振り下ろしかけた腕を慌てて引っ込める。
その瞬間、アリスの寿命が少しだけ延長。
状況はなおも目まぐるしく変わる。
入射角から、どこから撃たれたのか、猿人級はそれを突き止めたのだろう。
迷いのにおいが欠片もない動きで西へ向いて。
そしてにわかにその巨体が吹っ飛ばされた。
まるで嵐のせいで宙に舞うおんぼろ看板のように。
一体なにが起きたのか。
アリスはまるっきりついて行けなかった。
辛うじてわかったのは、猿人級がすっ飛んでいく寸前、特に夕焼けで赤い方角から、くすんだ赤い影が飛来してきたことと。
そしてその影の正体が。
「アリス! アリス!! 生きてる?! 怪我はない?!」
真摯に向き合ってくれたこと、あるいは絵を描いてくれたこと。
それらの行いで、少しばかりアリスの短い人生に幸福な色を加えてくれた。
彼女の言うところのお兄ちゃんであったこと。
アリスが理解できているのは、その二つだけであった。




