第五章 二十五話 大きな樫の木の下で
そこは寂れた農村であった。
朽ちかけの家に、崩れかけの石垣、しかし手入れだけは行き届いた牧草地――
それこそ王国のそこかしこにあるような、変わり映えのしない、もの寂しい村。
代替品が世の中にあふれている以上、取り立ててその村に見所なんてない、と考えるのが普通だろう。
だから、そんな村の情景をスケッチするのは、変わり者と言って差し支えがなかった。
そして、今そんな変わり者が一人、唯一の村のランドマークと呼ぶべき、樫の大木の根元に寄りかかって、ひたすらに素描していた。
真っ赤な上衣を身に着けていることから、王国陸軍の所属であるらしい。
小柄な体躯に、くすんだ赤い直毛を持つ男……いや、齢十四、五の少年。
村を描く変わり者とは、伍長の階級章を持つ彼であった。
この面白げのない村には、村人の他に、多くの軍人が滞在していた。
単位にして一中隊分。
軍人と言えば、勇ましく無骨な者どもというイメージが付きまとい、それが故に、年端のいかぬ少年たちから、常に英雄視される存在。
しかし、この村に留まる彼らに限って言えば、そんなステレオタイプは当てはまらなかった。
勇ましさも剛健さも一切感じられずに、むしろよろずに自信なさげで、どこか頼りない空気を伴っている。
傍から見れば、もっとしゃんとしろ、軍人だろう、と言ってしまいたくなる体たらく。
しかし、彼らの所以は、自信が消え失せた態度を身に纏わり付かせても、然りと頷けるものであった。
この村からいくらか東に離れた場所にある、邪神との戦闘地。
そこで繰り広げられた戦闘によって、壊滅した部隊の生き残りの寄せ集め。
彼らの正体はそれであった。
すなわち敗軍の将兵達。
自信や勇ましさといった類いのものは、みんなみんな、死んでいった仲間たちと共に、邪神に食われてしまったのだ。
戦力と呼ぶには、あまりに頼りないと言わざるを得なかった。
だからだろう。
彼らを受け入れた村は、露骨に彼らを厄介視していた。
本来であれば、仮に邪神が襲ってきたとしても、対抗しうる戦力故に、村からすれば、歓迎すべき事態ではある。
けれども、彼らがその身に纏う、陰気な雰囲気のせいで、邪神に立ち向かっていくだろうと思わせる気を、すっかり失わせてしまっているのだ。
さっさと戦地に戻ってくれないか、と言わんばかりの冷たい態度。
だから、留まる兵らに話しかけようとする村人が居るのならば、やはり、寒村をスケッチしようとする人間と同じくらいに変わり者であった。
そして、類は友を呼ぶと言うべきか。
村側の変わり者が、軍人側の変わり者に接触を試みた。
その変わり者とは、ボロボロなピナフォア姿の幼い少女であった。
ためらうそぶり、これを一切見せず、しっかりとした足取りで大きな樫の木の下へと、足を運んでいった。
「ウィリアムお兄ちゃん」
少女が彼、ウィリアムを呼ぶ。
写生に熱中していたのだろう。
名を呼ばれるまで、彼は少女がやってきたことに気がつかなかったようだ。
はっとした様子で、声のした方へと首を回す。
「アリスか。気がつかなかった。いつ来た?」
「たった今」
少女、アリスが声をかけるまで、その存在に気がつかなかったこと。
ウィリアムはこれに恥を覚えているようであった。
少年はきっと、照れ隠しだろう。
二、三、頬を掻きながら、少女がいつやって来たのかを問うた。
対するアリスは彼が写生に夢中で、彼女に気がつかなかったこと。
これをまったく気にしていないようだ。
へそを曲げた様子も特になく、アリスはウィリアムの隣に座り込んで、彼が抱え込んでいた画板を覗き込んだ。
「なにを描いているの? この村の風景?」
「ん。そ。君の村を描いてた」
「ふうん。でも、こんな村、描いてて楽しい? 描いて面白いと思うようなもの、なにもないよ?」
「……滞在させてもらっている手前、こんなこと言うのはマズいけれどさ。アリスの言うとおりだった。なんというか、いかにも教科書的な農村でさ。さながら家庭教師から出された課題をこなしているような気分になった。正直つまらなかった」
「でしょう?」
「でも、まあ。いい時間つぶしにはなった。少なくとも……君がここにやって来るまでの時間つぶしには」
そう言うと、ウィリアムは視線を、寂れた農村からアリスへと移す。
貧しい孤児故に、アリスの装いは薄汚れていた。
顔にも髪にも、薄くへばりついたホコリが、層となっているので、肌のハリだとか毛髪の艶やかさに欠いている。
だが、薄汚れてはいるものの、不思議と不潔さを感じることはなかった。
それはきっと、彼女の元々がいいからなのだろうな、とウィリアムはぼんやりと思った。
「それで? 今日はなにを描いて欲しいんだ?」
変わり者二人がこうして過ごすのは、珍しいことではなかった。
むしろ毎日のように、この幼い二人は時間を共有していた。
特に最近はアリスのリクエストしたものを、ウィリアムがひたすら描いていく、といった過ごし方が多い。
村に絵心のある若者が居なかっただけに、曲がりなりともマトモな絵を描けるウィリアムというのは、アリスにとってとても新鮮な存在であったのだ。
毎日、毎日、とかくアリスはウィリアムに絵を描いて欲しいと、ねだって着いて回っていた。
ウィリアムはそんなアリスを邪険に扱わず、むしろ積極的に彼女の要望に応えていたのは、単に彼も絵を描くことが好きだったということもある。
だが、それ以上に、彼はアリスの境遇を聞いて、捨て置けないと思ったのだ。
アリスに両親はすでにない。
そうだからか、村では浮いた存在であったらしい。
厄介者、とすらみなされていた。
軍隊の世話役としての役目を、村から与えられたのは、そんな背景があってのことだ。
こんな小さな女の子を軍隊に宛がわれても困るというもの。
ここで軍が彼女を村に押し返すなんて真似をすれば。
折角厄介払い出来たというのに、その厄介が戻ってきてしまえば。
果たして村はどのような態度を、彼女に取るだろうか。
流石にそこまで悪いものにはならないだろうが、しかし、この暗い御時世なのだ。
もしかしたならば――
かくの如き理由でウィリアムは、日々アリスの相手をすることにしたのだ。
少なくとも、自分の話し相手にはなっている。
そのことを示すために。
「ほら、早く言いな。猫、犬、ウサギ、花……なんだっていい。いつものように、なんでも描いてやるから」
いつものアリスは、ウィリアムの下にやってきたらすぐに、リクエストの嵐を飛ばしてくる。
しかし、今日はどうしたことだろうか。
そんな怒濤の要望ラッシュがやってこない。
ウィリアムは不思議に思った。
そして、じっとアリスを見た。
今日の彼女は少し様子がおかしかった。
なんだか、もじもじしている。
手持ち無沙汰な両の手を、なにやらこねくりまわしている。
なにかを言うか言わないか、悩んでいるようにウィリアムは見えた。
顔もウィリアムを一切見ず、うつむき気味。
これもまた、珍しい反応であった。
いつもはウィリアムの目を真っ直ぐ見てくるのに――
らしくない。
本当にらしくないアリスの姿に、ウィリアムは首を傾げた。
「えっと……あのね」
しばし間があいた後、アリスが口を開いた。
言う決心が着いたようであった。
「今日はね……描いて欲しいの……その。私を」
「アリスを?」
「うん。ダメ?」
「いや。全然構わない。ただ……いいのか? 前に言ったとおり、俺は基礎しか囓ってない。だから、正直出来は保証しかねるんだが」
こくりと無言でアリスは頷いた。
人物画を描いて欲しい。
どうやら先ほどまでの、アリスの恥じらいの原因はこれであるようだった。
たしかに、人物画なんて貴族か、かなり裕福な中流家庭でもないと、手に入れられないもの。
ならば、出来上がった代物をまじまじと見るのは、慣れない人からすると、恥ずかしいかもしれないな。
ウィリアムはそう思った。
「じゃあ、この木を背もたれにして、座って欲しい。描いている最中は、できる限り動いて欲しくないが……出来る?」
「うん。出来る」
モデルの姿勢を保持させるのに、出来れば椅子があればいいが、生憎とここにはない。
だからあるもので代用することにした。
ウィリアムは立ち上がり、それまで自分が陣取っていた場所を、少女に譲った。
彼はアリスの真っ正面にてあぐらをかいて。
そして手にした鉛筆を動かしはじめた。
画板の上の紙に押しつけだした。
二人の間から会話が消え去る。
代わりにあるのは、鉛筆の芯が、紙の上を滑る音。
その他の音と言えば――
風に揺れる葉擦れの音。
鍬を引っ張る、牛の声。
牧草地に放牧された、とても呑気な羊たちの合唱。
それらにウィリアムが奏でる、鉛筆の音が合わさるのだ。
一緒くたに混じり合ったそれは、ただいまが、戦時中とは思えないほどにのどかなものであって。
そののどかさたるや、涙もろい兵士が居たのであれば、平穏の尊さに感涙にむせぶことが想像できるほど。
しかし、ウィリアムは涙を浮かべない。
一心不乱に目の前の少女を、紙にへと落とし込む。
そうしてどのくらいの時間が経ったころだろうか。
修正のため、細かく、小さく。
とかく繊細に動かしていたウィリアムの鉛筆が、ぴたりと止まって。
「よし。できた」
ため息一つ吐いた後に、依頼主に告げる。
ご依頼完了也、と。
「本当? 見てもいい?」
「当然。ほら」
ウィリアムは画板ごと、彼女に手渡す。
アリスはウィリアムによって、描かれた自らの姿。
それを認めて、言葉を失った。
わずかに口を開いているあたり、どうやら感想が上手に口から出てこないようだ。
その反応をウィリアムは、絵が彼女の想定を下回ったことによるものと解釈したらしい。
バツが悪そうに、二、三回、頭をかいた。
「悪いね。あんまし上手に出来なかった」
「ううん! そんなことないよ。とても上手。本当に上手」
「そう。ならよかった。画板から絵を取りな」
アリスの声の音色には、忖度の色はなかった。
取りあえず世辞でウィリアムの絵を褒めているようではなさそうであった。
それをしかと感じ取ったか。
素直に褒められることの喜びを覚えたウィリアムは、年相応のはにかみを見せた。
そしていつも通り、描いたそれをアリスに譲ろうとした――
――のであるが。
アリスはじっと絵を見つめたまま、いつまで経っても画板から絵を取り外そうとしない。
自らの懐に入れようとしない。
これもまた、珍しいことであった。
いつもなら喜んで、すぐに自分の下に絵を引き寄せるというのに。
人物画の依頼の時の恥じらいといい、なんだか今日のアリスはらしくない。
ウィリアムは小首を傾げる。訝しんだ。
「……ううん。いらない」
「ん?」
「お兄ちゃんが持ってて」
「俺が持ってて……って」
「いいの。ほら!」
さらに珍しいアリスの反応は続く。
描いて欲しいとねだった、その絵を要らないというのだ。
絵が挟まったままの画板を、そのままウィリアムに押し返してきたのだ。
要望したのに、押し返すなんて、矛盾した行いと言えよう。
当然、ウィリアムは混乱した。
いつもとは違う様子で、そしていまいち意図がどこにあるのか、それがはっきりとしない、アリスの行動に。
「ウィリアム・スウィンバーン。ここにおったか……って、おおっと」
二人きりであった、大きな樫の木の下に、訪問者。
ウィリアムを探しに来た、女性の声。
年の頃はウィリアムと同じくらいの、栗毛をシニオンに纏めた少女が主だ。
彼女もまた、レッドコートを身に着けていた。
しかし、少女の所属はどうにも王国陸軍ではないことは、すぐにわかった。
陸軍は男女問わず、軍服としてスラックスが支給されるはず。
だが、やってきた少女は、どういうわけか、タイトなロングスカート姿、改造軍服であった。
上流貴族であっても軍服の改造は許されていない。
ただ一つの例外を除いては。
そして少女は胸に勲章をじゃらじゃらと付けていた。
身のこなしから、軍隊生活なんて送ったことがないのは自明であるのに。
改造軍服に、戦場経験が皆無にも関わらずの叙勲。
これらの意味することは、つまり――
「お、王女殿下」
ウィリアムがその御名を紡ぐ。
王位継承者第一位メアリー。
王国の次期女王が少女の正体であった。
「済まない。逢瀬の最中であったか。私は邪魔か? お暇するべきかね? ん?」
いたずらっ子そのものな声色で、王女メアリーは二人に茶々を入れる。
言葉遣い、そして発音そのものはとてもノーブル。
しかし、ニヤニヤといかにも意地の悪い笑みのせいで、言葉自体の高貴さは、とても残念なことに消え失せてしまった。
「いいえ。もう大丈夫。これから私は帰るから。お兄ちゃん。絵、かいてくれてありがとうね」
「え? ちょ、ちょっと! アリス待って!」
王女の乱入を、事を強引に終わらせる絶好の機会とみたらしい。
アリスはぐいっと、絵を画板ごとウィリアムへ押しつけるや否や、まさに脱兎の如く。
感謝の言葉を置いていって、さっさと走り去ってしまった。
突然の王族の訪問に泡を食ったウィリアムは、アリスの動きにまったく対応できなかった。
彼女を捕まえようと手を伸ばすも、すでに後の祭り。
ただただ空を切るのみに終わってしまった。
「なんなんだ一体……」
「呵々。振られたか」
「振られたってねえ……彼女はまだ、子供じゃないですか」
「なに。年の差は関係あるまい。と、いうか、ウィリアム・スウィンバーン。私たちもまだまだガキではないか。大して変わらん」
「それはそうですが……しかし、殿下。何用があって、私の下へ? スカウトの件なら、いつものご返答しかできませんが」
これまで戦場に縁遠かった彼女が、どうして改造軍服を身に着けて、戦場近くを闊歩しているのか。
それは、ウィリアムをスカウトするためであった。
破天荒王女に名に相応しい、ロクでもない彼女の構想を実現するために。
遊撃分隊構想。
王女の思いつきとはこれだ。
人類連合軍から特別な手練れを抽出し、部隊を編成。
尖兵として激戦地を行脚させれば、戦況を打開できるのではないか?
そんな思いつきもいいところの構想を実現するために、彼女は日々ウィリアムにしつこくアプローチを続けているのである。
対するウィリアムは、端からその構想が上手くいくとは思っていないようだ。
箸にも棒にも掛けぬ、不敬そのものな態度で先手を打った。
いつも通り、お誘いはお断りします。
そんな態度を控えめに表明した。
だが、どうにも樫の木にやってきた目的は、いつものスカウトではないようだ。
いつも通りの親しみを覚える態度でもなく。
そして、先ほどまでの、人を茶化すことを楽しんでいる面持ちを、すっかりと捨て去って。
深刻な顔色を、ウィリアムに向けていたのだ。
なにか、とても悪いことが起きたらしい。
それも分隊構想のような、個人的なことではなく、極めてパブリックな凶事が。
表情豊かな王女が、感情を殺して通達しなければならないほどに、重大ななにかが。
悪い予感が、ウィリアムの胸に差し込んだ。
「凶報を伝えに来た」
「凶報?」
「ああ。特大の凶報だ。お前がこの前まで戦っていた戦線だがな。戦況が甚だ芳しくなく、戦線維持が困難と判断された。戦線の後退が決定された」
「……それじゃあ」
「ああ。そうだ」
そして、ウィリアムの悪い予感は的中した。
飛び切り悪い報せが、王女の口からもたらされる。
戦線維持の困難。
戦線の後退。
直接的な言葉を用いていなかったけれど、それが意味することはつまり、だ。
あの戦線で人類は壊滅的な被害を被ったのだ。
つまりは人類は敗北してしまったのだ。
戦争を継続するために、計画的に領土を邪神に明け渡す。
そんな苦渋の選択がなされてしまった、ということだ。
そして、その戦線はこの村からそう遠くない位置にある。
戦線が後退することとはつまり――
「この村は廃村となる。この場所が戦線となるからだ。村落疎開の対象となるからだ」
――疎開が必要であった。
疎開。
もっともらしい呼称ではあるが、やることはつまり。
軍による、村全域の強制接収であった。
守るべき臣民の生活を、望まざるとはいえ破壊すること。
その屈辱を必死に耐えているのだろう。
疎開という言葉を紡いだ後のメアリーは、下唇をぎゅうと噛みしめていて。
口角からつう。
一筋の血液がしたたり落ちた。
ウィリアムもまた、眉を思い切りしかめていた。




