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第五章 二十四話 そしてブザーは鳴った

 エリーがウィリアムの額に触れた直後のことであった。

 彼の意識がすっ飛んだ。

 文字通りすっ飛んだ。


 先ほどまで、ゾクリュ郊外にあったテントの中に居たはずなのに。

 ものの一瞬にして彼の意識は、奇妙なところに移動してしまったのだ。


 その場所は劇場に似ていた。

 綺麗に横に並んだ、ビロード張りの椅子の列。

 それが何段も何段も、後ろへ後ろへと、幾重にも積み重なっていた。


 ステージもきちんとある。

 そして、後ろへ行けば行くほど、席の位置は前のものよりも高くなる。

 後方の席を取った客が、ステージがよく見えるようにと、席は階段状に設置されているからだ。


 まさにそれは劇場のホールそのものの特徴。

 けれども、劇場では見られないものも、そこにはあった。


 それはステージの上にあった。

 書き割りとも、緞帳とも異なる真っ白なスクリーンが、天井の上から垂れ下がっているのである。


 気付けば最前列ど真ん中に着席していたウィリアムが、しっかりとした意識を持っているのであれば、こう思うことだろう。


 こんなホールは見たことがない。

 なんて奇妙な劇場なんだろう、と。

 未知の場所に来てしまった人間が抱く感想を、素直に持ったはずだろう。


「……ここは?」


 ぼんやりと不安を覚えた様子のウィリアム。

 唐突に未知なる場所に来てしまったからだろう。

 そんな彼とは対照的な声が、ウィリアムの右隣から聞こえてきた。


「そうだね。劇場の一種だよ。観劇する場。ただ、ステージの上に役者はあがらないけれどね。生の演技が行われることも、ない」


 エリーの声には訝しみの影、これを少しも見出すことができなかった。

 彼女がまったく動揺した様子を見せなかったのは、当然であった。

 なにしろこの空間。

 エリーが生まれの由来故に持つ、奇妙な力によって産み出したものなのだから。


 しかし、エリーの今の説明は、いささか奇妙なものであった。

 劇場の一種だというのに、ここではステージの上で演技が行われないという。


 意識の怪しいウィリアムであれど、流石に今の説明のおかしさに気付くことができたようだ。

 気だるげにゆっくりと小首を傾げて、いまいち意味がくみ取れぬ、と無言で宣言した。


「簡単に言えば、そうだね。ここで観るのは、ものすごく短い間隔で撮った連続写真といったところかな? そしてその写真群を、あのスクリーンに投影してみせると――」


 エリーはぱちんと指を鳴らした。

 するとホールの光量が見る見る落ちていって、薄暗くなっていく。

 近くの物を見るために、目を細める必要が出てきた頃合いか。


 スクリーンがぱっと光を反射して。


「――こうして動きを再現できるってわけ。活動写真とか映画とか言われる代物ね。多分、近い内に誰かが発明すると思うよ」


 白い幕の上に、どこかの駅の一幕が再現された。


 スクリーンの外側、つまり客席へと迫る汽車。

 徐々に汽車は減速していって。

 停車。

 乗客が降り、入れ替わりに待ち客が乗り込む。


 スクリーンに映されたのは、そんなありふれた、平穏な駅の日常であった。


 動く写真。

 もし、多くの人にこれを見せたのならば、きっと十人十色の反応を見せることだろう。

 迫り来る汽車に恐れおののき、思わず席から飛び出す者。

 スクリーンの外に消えてしまった汽車は何処に? それが気になって、スクリーンの真横に立って首を傾げる者。

 商売の可能性を見出して、撮影者にオファーを試みる者。

 こんな風に、様々な反応を見せるはずだ。


 だが、ウィリアムの反応はいささか淡泊であった。

 どうにも感情の起伏も薬によって、蝕まれているらしい。

 ただただ、小さく感嘆の息を漏らすのみで、いまいち彼の感動が外に伝わりにくかった。



 エリーは彼の反応が乏しいことを、少しだけ残念に思ったようだ。

 眉尻をわずかに下げる。

 もう少し、劇的な反応を期待していたらしい。


 しかしそれも一瞬のこと。

 一度咳払いをして、その口惜しさを吹き飛ばす。


「そして今回この場所に来た目的は……さっき言った通り、ウィリアム。貴方の記憶をここでのぞき見ることにあるの」


「俺の。記憶を?」


「そう。これから上映するのは、貴方にとって大切な記憶。貴方の心に根を張っていた宿痾の、その根治に向けて刻んだ、第一歩の記憶。アリスとの記憶」


「アリスとの?」


 薬のせいで、エリーのことを忘れてしまっても、ウィリアムはアリスのことはしっかりと覚えているらしい。

 エリーが彼女の名を紡いだ瞬間、ほとんど間をおかずに反応した。


 その様子にエリーは満足げな笑みを浮かべて頷いた。


「そう。本当は忘れられないほどに、強烈な記憶。でも、あの戦争の最後の戦いの副作用で、忘れてしまった記憶の一つ。それを今から取り戻すの」


 またエリーは指を鳴らした。

 たちまち駅の一幕はかき消えて、スクリーンには別の像が結ばれる。


 映ったのは、村の情景であった。

 くたびれた木造の家、石畳などなく踏み固められただけの道、いかにも歴史を重ねて風情に満ちた、家と家の間にある石垣、遠くに見える牧草地――

 のどかで、しかしさびれにさびれた寒村が映し出された。


 そして――


「この映画館で。貴方は思い出すの。その、記憶を。あの目の前のスクリーンに映し出される映画によって。もう一度、あのときの記憶を追想することで」


 エリーがその言葉を、丁度言い終えた直後に。

 スクリーンには一人分の人影が浮かび上がった。


 盗品か、あるいは捨てられた物を拾って、身に着けているのか。

 とかく、あちらこちら破れていて糸がほつれている、とてもボロボロなピナフォア姿の少女が映し出された。


 エリーの隣のウィリアムから息を呑む気配、漂う。


 それもそのはずだろう。

 今、スクリーンの上に映し出されている、その少女の正体とは。

 彼がよく知る人物であったからだ。


「――アリス」


 ウィリアムがぽそりと呟く。

 その正体を。

 あの少女の名前を。


 彼の幽閉先の屋敷で、彼と共に生活をする女性、アリス。

 その子供時代の、きっとウィリアムと初めて会った頃の姿が、この映画館に映し出されたのだ。


「さて、上映開始だよ。演目は貴方の大切な過去。それをここで見直してみよう」


 そう言って、エリーは体を背もたれに預ける。

 ウィリアムの、いや、彼とアリスが織りなす記憶そのものの映画を、見届けるために。

 ウィリアムと彼女は眼前の映像へと向き合った。

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