第五章 二十三話 あつまれ! 信徒たちの群れ!
「んな……! 獅子級……だと?!」
比喩表現抜きに、ファリクはひっくり返りそうになった。
ウィリアムがいつもは厳重に固められている、一際大きなテントに連れ込まれたのを見たファリクは、こっそりと近付いて、幕に穴を開けて内をうかがっていたのである。
他の信徒にバレないように、裏に回って、物陰に隠れて。
こっそりひっそり。
そんな風に盗み見ていた。
そしたら、この状況だ。
テントの中には妙に大きな檻が置かれていて、その内に獅子級が囚われていた。
しかもその獅子級は、どうにも長い間、人の手によって面倒を見られていたらしい。
寝転ぶ獅子級のそばには、赤い染みがこびりついた、夥しい数の白い骨が、ごろごろと転がっている。
それは給餌の証だ。
邪神の食物とはつまり――
「ああ、畜生。食わせていたな。餌として。信徒を利用していたな……!」
今にして思えば、そういえば、と思い当たる節が、ファリクにはあった。
よろずに暗くて、活力のない信徒がある日突然姿を消してしまうことが、ままあったのである。
そんな者が出る度に、ファリクは脱走でもしたか、と思っていた。
だが、しかし今はその認識が誤りであると、彼は自信をもって言えた。
居なくなってしまった彼らは、穴の向こう側に居る、あの邪神に食わされたのだ、と。
「くそっ。それはそうと、軍曹がマズい。やはり、薬でやられているなっ!」
いつも見張りをしている大男に担がれたまま、だらんと脱力してぴくりとも動かないウィリアムを見て、ファリクは大いに焦る。
状況的にエドワードらは、ウィリアムを獅子級に与えるメインディッシュにしようという魂胆だろう。
常のウィリアムであれば、心配は要らない。
例え手足を縛られて、あの檻に放り入れられようとも、縄を強引にちぎって、勢いそのままに邪神を制圧するはずだから。
だが、今のウィリアムときたら、危機的な状況にも関わらず動く気配がない。
いや、とんでもなく悪い状況に陥っていることにすら、恐らく気付いていない。
このままでは、ウィリアムが邪神にやられてしまう。
ファリクにとって、最悪の事態になってしまう。
戦友が目の前で死んでしまうという、現役、退役問わず軍人にとっての悪夢が現実になってしまう。
そうであるならば。
「ええい! 畜生! 暴れてやる! 暴れてやるぞ!」
鼻息荒くして、このテントへと踏み入ること。
彼がやることは、もはやそれ一つしかなかった。
周りの目を気にせず、ファリクは駆ける。
途中にあった木箱やゴミ箱を蹴散らす、騒々しい音で衆目を集めながら、なお走る。
普段はあの大男がでんと直立する、入り口へ。
そして入幕の許可を当然得ずに、乱暴な身振りで内側へと入ろうとした。
しかし。
「おい! お前! なにをしている!」
正義感の強い信徒に呼び止められる。
肩を摑まれて、動きを止められる。
このテントは指導者エドワードの許可を得た者しか入れない、一種の聖域であるのだ。
教会建築現場の指揮を執る、言わば教団の幹部クラスにしか入幕を許されていない場所なのだ。
明らかに幹部ではない一般の出家信徒が、恐れ多くも無断で、聖域に踏み入ろうとしている。
生真面目な人間からすれば、そんなファリクの行動は、まさに咎めるに値するものであったのである。
ファリク自身も真面目な性根故に、呼び止めた信徒の気持ちは十分に理解できる。
けれども状況が状況だ。
一秒でも無駄にしたくない。
本来は共感できる行動なれど、今回はそんなものはまるっきり抱かずに、むしろ煩わしさすら感じた。
「邪魔だ! どけ!」
「お前! ここに入る許可を得ているのか!」
「そんなものどうでもいい! 自分は今すぐに! この中に入らなきゃならないんだよ!」
「どうでもいいだと?! みんな、集まれ! 堕落した者が居る! 自ら悪業に手を染めようとしている! 止めるんだ!」
生真面目な信徒の叫びに、他の信徒たちは素早く対応した。
どこに潜んでいたのやら、あるいは雑草よろしくに、地面から涌いて出たのか。
わらわらと問題のテントの前に、信徒たちが集まってくる。
そしてそれぞれの手を、乱暴な動きでもってファリクへと伸ばす。
ある者の手は彼の肩を摑み、ある者は手を掴み、またある者は――
そんな風に各々好き勝手な所を摑んで、ファリクの動きを止めようとした。
「離せっ! 自分の戦友がっ。戦友が危ないんだよっ! いいから、離せ!」
掴みかかられたそばから、ファリクは手を振りほどいていく。
ときには捻って関節を決めるという、痛みを伴うやり方でもって。
この場に留めようとする力を、強引に排除してみせた。
しかし、それもすぐに限界が訪れてしまった。
「くそっ! 頼む! 頼むからっ! 離してくれ!」
漏らす言葉もいつしか、懇願の色が濃くなる。
多数に無勢。
次第に”敵”のあまりの物量に、押され始め、まんまとテントの入り口に釘付けにされてしまった。
彼らの命を省みないのであれば、対応は楽。
だが、いくら狂信者たちとは言え、人間の命を奪うのは――
よってファリクは、穏当な手段でしか、信徒らの拘束を振りほどけなかったのである。
一秒でも惜しい状況なのに、彼らが邪魔で急行することが出来ない。
その状況に、強い苛立ちをファリクは覚えた。
「軍曹!」
ファリクは、あらん限りの声で叫んだ。
テントの中にまで聞こえるようにと叫んだ。
頼むからこの大声で正気を取り戻してくれ。
そんな一縷の望みを込めて。
「軍曹ーっ!!」
ファリクはまた絶叫した。
◇◇◇
声が聞こえたような気がした。
誰の声であるのか思い出せない。
でも、なんだか懐かしい声であった。
そんな声が自分を呼んでいた気がした。
いまいち、考えのまとまらない頭を動かして、声の主が誰であるか。
それを必死に考えようとするも、しかし、集中力はどうやっても結局霧散。
深くモノを考えることができなかった。
なんだかさっきからずっとこうだ。
ずっと夢見心地。
どうしてこうなったのかは、いまいちわからないけれど、どうにも大変なことになってしまったようだ。
そして、大変なことになってしまったのは、考えがまとまらないことだけではないようだ。
今、俺が置かれている状況も、どうにも大変らしい。
どのような経緯でここに来てしまったのか。
それがよく思い出せないけれども、俺は今、檻に放り込まれていた。
冷たい、鋼鉄製の檻。
そこにどういうわけか、寝そべっていた。
そればかりではなく、その檻にはとても物騒な先客が居た。
獅子にも似た、肉色をした不気味な生物。
邪神。
俺たちの天敵。
獅子級は急に檻に放り込まれた俺を、餌だと思ったらしい。
不揃いで不気味な牙を、ぎらりとむき出しにしながら、俺へとにじり寄る。
ぽたぽたと涎を垂らしながら、ひたひたひた。
接近してくる。
邪神と出会ったのならば、すぐさま倒さなければならない。
勇気を振り絞らなければならない。
すぐに立ち上がらなければならない。
そうだというのに、あの邪神を倒そうとする気力。
これが少しも涌いてこなかった。
それどころか、胸の内に溢れてくるのは。
(――もう、いいかもしれない。戦わなくても。このままやられてしまっても)
諦めの思いのみ。
思考はふわふわとして、いまいちまとまらないというのに。
その諦めの感情だけは、はっきりと感じることができた。
ふと、気がついてしまったのだ。
どうやら俺は、戦後を生きてはいけない人間ということに。
だって、そうじゃないか。
戦争が終わって一年も経つというのに。
少しずつ世の中が平和になっていかなきゃならないのに。
俺がゾクリュにやってきてからというもの、この場所は騒動ばかり起きてしまう。
禍事ばかり集まってきてしまう。
もしかしたならば、俺は磁石のような存在なのかもしれない。
それも強力なやつ。
変事という砂鉄をひたすらに吸い寄せ続ける、そんな厄介な磁石だ。
そうであるならば。
(やっぱり。このまま)
この獅子級に殺されること。
これが、世界にとってプラスとなる。
そのはずだ。
だって……えっと、なんだっけ?
この間の……邪神が街にたくさん押し寄せた事件もそうだ。
あの件で、守備隊員は何人か死んでしまった。
きっとあの事件も、俺がゾクリュにやってこなければ起きなかったに違いない。
俺が来なければ、彼らは死なずに済んだに違いない。
俺がこれ以上生きるのならば、きっと禍事を引き寄せ続けて。
また誰かが死んでしまう。
悲劇が、この場所で、また。
実家が滅んでしまったときのように。
「――それは。もう嫌だなあ」
体が気だるい。
言葉を紡ぐのも一苦労。
でも諦めの言葉を口にしたせいか。
心がふと楽になった。
きっと言葉が表に出たことで、覚悟を決められたからだろう。
死に挑む覚悟を。
自分の命を代償に、世の災いの種を絶つ。
人生の最後にそんな善行を積めるのだ。
後悔なんて少しもなかった。
唯一、気がかりなことと言えば――
「先生や。みんなは。迎えに。来てくれるだろうか」
必死になって先立たれてしまった人々の顔を思い出す。
もやがかかったような思考の中、なんとかその輪郭を、目鼻立ちを紡ぐことに成功した。
親、弟や妹、使用人、そして、杖の放浪人たる先生――
死後の世界で彼らは俺を迎えに来てくれるだろうか?
しかし、それもいずれわかること。
今、獅子級が冷たい鋼鉄の床を蹴って、飛び跳ねて。
大口を開けて。
俺を食い殺そうと――
「――?」
した、はずなのに。
とても奇妙なことが起こった。
飛びかかろうとしている獅子級の動きが、中空でにわかに鈍化したのだ。
まるで目に見えない蜜の中に飛び込んでしまったかのように。
奴の動きが、鈍く。
いや、違う。
どちらかと言えば時間が伸びたのだ。
そっちのほうが感覚的に正しい。
まるで一秒が、百? 千? 万倍にまで引き延ばされたかのようだ。
一体、なにがあったのだろう。
必死に考えても、やはり考えがまとまらない。
「いいや。歓迎はしないはずだよ。むしろ激怒する。なんで死を選んだのか、って」
声が響いた。
はっきりとした、女の子の声。
時間が延伸されて、とすれば、音も無様に引き延ばされて、水の中に居るようにくぐもって聞こえるはずなのに。
まったく不都合なく聞き取ることができた。
一体誰だろう。
そう思って、声のした方に目を向けると。
自分の髪の色によく似た女の子が、後ろ手を組みながらゆっくりと、檻の中へと入ってきた。
見たことがある女の子だ。
多分、知り合い。
でも、やっぱり上手に考えられなくて、それが誰であるのか。
そのあたりをつけることはできなかった。
「ごめん。ウィリアム。油断した。まさか奴らも邪神を捕らえているとは、考えもしなかった。気配もこれっぽちも摑むことができなかった。本当にごめん。危ない目に遭わせちゃって。あの馬車の時点で止めるべきだった」
「えっと……? 君は? たしか……」
「今は無理に思い出さなくてもいいよ。そっちの方が、色々と都合がいいだろうから。それよりも――ねえ、ウィリアム。聞きたいことがあるの」
人と対面しているというのに、その人の名前を思い出せないなんて失礼なこと。
だから、必死に思い出そうとするも、その動きは少女によって制された。
自分の名前を思い出す必要はない。
ただその代わりに、今から自分が聞くことに答えて欲しい。
少女はそう言いたげであった。
「貴方本当に、今でも死にたいの? 今でも腐ったままなの? みんな、みんな。俺を置いて死んでいってしまうことに、拗ねたままなの?」
咎めの声。
とても明確な。
多分、俺が内心死にたがっていたことへの。
でも、不思議だ。
なんで彼女は、俺の心の内を知っていたのだろう?
彼女とどこであったのか。
それは思い出せないけれど、少なくとも、こんな少女に弱音を吐くような真似はしなかったはずだ。
「どうして……それを?」
「私は知ってるよ、なんでも。希死願望。貴方はそれをずいぶんと前に、克服したことも。思い出せない?」
「……克服?」
「そっか、思い出せないか。じゃあ、思いだそう。貴方がその暗い願望から開放された、そのきっかけとなったできごとを。ほんの一瞬だけ見る夢の中で」
そう言うと彼女は右手を伸ばした。
人差し指も伸ばす。
俺の額に向かって。
額に彼女の指が触れる寸前、ふと全身が総毛立つ。
本能がなにかを感じ取る。
人智を超えたなにかが近付いていると。
そして本能はこう語っていた。
得体が知れないのは、この少女の指だぞと。
いやこの少女自身だぞと。
警戒しろと。
「私と一緒に」
どうやったのかは知らないが、彼女は俺の本能の叫びを察知したようだ。
心配することはない。
そう暗に語っている笑顔を浮かべた後に。
彼女の指は俺の額に触れた。
直後、意識が真っ暗闇の底に落ちていった。




