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第五章 二十一話 我慢の限界

 しかしながら、今日はくたびれた――


 ため息と共にそう呟きたくなったファリク・スナイは、しかしその衝動をぐっと堪えることに成功した。

 もし本当に呟いてしまえば、である。


 くたびれた――なんて、折角の修業をいかにも面倒くさそうに評するとは、なんと罰当たりなことか。

 四方八方から、そんな非難の視線に射貫かれてしまうからだ。


 ゾクリュ郊外にある、新主教の教会建築現場。

 昼と夕方の合間に顔を見せる、黄金色の陽に照らされながら、ファリクはこっそりと肩を落として、失望を表現する。


 失望は、出家した新主教に覚えていた。


 修行の末に、超自然的な力を手に入れることができると聞いて、出家したものの、新主教の実情はファリクの想像していたものではなかった。


 瞑想だとか、あるいは鞭打ちに匹敵するような、肉体的な苦痛を伴う苦行だとか。

 それらを日がな行い続ける、ひたすらストイックな生活が待ち受けているとファリクは思っていた。


 だが、現実はどうだ。

 教会の建築に駆り出され、工具を握って振り下ろすだけの日が、もうずっと続いているではないか。

 その上、金は人を堕落させる汚らわしい物、と教義で説かれてしまっているために、労働に対する報酬が出る様子がないときた。


 さらに炎天下の作業によって、汗びっしょりになっているというのに、ロクに風呂も入らせてくれないのだ。


 ここは暗黒の労働現場也。

 そう吐き捨てても許されるほどに、労働環境は劣悪であった。


 だからファリクは内心で呪詛を吐く。

 これでは修行というより、ただの無賃労働ではないか、と。

 信徒というより、人権を剥奪された奴隷ではないか、と。


 ファリク自身、生真面目な気性が幸いしてか、労働することは嫌いではない。

 けれども、流石に一日二日ならまだしも、連日の奉仕を強制されているとなると、話は別。

 流石にうんざりとしてしまっていた。


「……まったく。こんなことならば。こんなモノに興味を抱くんじゃなかった」


 周囲に聞き耳が立っていないことを、十分に確認してから、ぽつり独り言。


 どうにも自分は、都合のいいことだけを聞かされて、だまされてしまったようだ。

 宗教的な日々が、これっぽっちも訪れない現実を見れば、その事実を嫌が応にも認めざるをえなかった。


 だまされたのであるならば、こんな劣悪な環境に、いつまでも留まる義理はない。

 それ故、すぐにでも絶縁状を叩き付けて、ゾクリュの街で平凡な生活をやり直したいところではあるが、しかし。


「でも……魔法でもない、超自然的で神秘的な力。これが本当に手に入るのならば、ここで抜けるのは、ただの機会の喪失でしかないし……ううむ」


 ファリクがいまいち踏ん切りが切れない理由は、文字通り未練からであった。

 やはり彼も他の信徒らと同じく、神秘的な力を体得したくて新主教に入信したのだ。


 ただし、どうして力を欲しているのか。

 その理由は、新世界構築の手伝いをしたいといったような、そんな立派なものではなかった。

 ただただひたすら俗っぽい欲が動機となって、力を欲したのであった。


 ファリクにはどうしても欲しいものがあった。

 ただ、それがどうにも独力では手に入らないようなのだ。

 自力で難しいのならば、他力に頼るのみ。

 超自然的な力とやらを与えてもらった後は、それを自らの欲望のままに、思う存分行使してやるつもりであった。


 もしかしたならば、この無賃労働が本当に覚醒のための修行である可能性も、完全には否定できないのだ。

 そしてひょっとしたら、ファリクはその力が目覚める直前かもしれないのだ。


 それなのに、新主教から離脱して力の会得を放棄してしまうのは、なんのために汗水垂らしてタダで働いたのか、それがわからなくなってしまう。


 彼が未練がましく新主教に残り続けている理由というのは、こんなものであった。

 

「しかし、しかしだ。神秘的な力が手に入ると喧伝した割には、それを体得した人間。自分はこれを見たことがない。指導者であるエドワード氏であっても、力を行使した姿を見たことがない……となれば」


 とは言え、もう我慢の限界なのもまた事実。

 ファリクはいい加減、このきつい労働から開放されたかった。


 それに、どうにも神秘の力なるものは、口から出任せのインチキであるような気がしてならなくなってきた。

 冷静になればなるほど、力の実在を疑わざるを得ない要素ばかりが出てくるのだ。

 どうして存在を信じているのか。根拠を述べよ、と詰められれば答えに窮するほど。


「しかも、どうやら自分。冷遇されているような気もするし」


 さらにおまけとばかりに、最近教団内でのファリクの扱いが、ぞんざいになってきていることもあった。

 もはや修行の同志とは見なされず、ほとんど雑用扱いな今日この頃。

 最初はこうではなかった。

 きちんと同志として手厚く扱われており、それなりの充足感すら覚えていたものだ。


 それがにわかに悪化してしまったのは、とある出来事を挟んでからだ。


 ある日のことだ。

 イニシエーションと称して、香を焚き込めたテントに、しばし籠もって瞑想していろと命じられた。


 言われたままに籠もってみたのはいいが、あまりの香りのキツさに気分が悪くなり、瞑想どころではなくなってしまったのだ。


 酒を飲んでいるときのように、意識が薄くなっていけば、苦痛は覚えなかっただろう。

 が、酒気もないのに酔っ払えるほど、ファリクは器用ではなかった。

 災難なことに、意識はずっとはっきりとし続けたのである。


 必死に吐き気を耐えて、ギリギリと歯を食いしばり、眉根を思いっきり寄せて。

 指導しにやってきたエドワードが、思わず呆然としてしまうほどの、険しい表情を作ってしまったのだ。


 きっとそれが、必死に瞑想していなかった、と見なされてしまったのだろう。

 以降は瞑想などの修行は命じられず、ひたすら現場作業に勤しむのみの身になってしまった。

 あるいは才能なし、と断ぜられてしまったのかもしれない。


 そうだとするならば――

 ファリクはむかっ腹が立った。


「……なあにが、人類の覚醒を目指すだ。笑わせる。才能が乏しい人間すら導けない輩に。世界を救済できるものか」


 才能がないなら才能がないとはっきり言えばいい。

 そうすれば諦めもつく。

 だがやらせていることはタダ働き。

 なんとかして、導いてやろうという気概が感じられない。


 だからこそファリクは憤りを覚えたのだ。

 短くもないが、決して長くもない人生の、その貴重な時間を割いてやったというのに。

 しかし彼らの体たらくのせいで、ただただ無為な時間を過ごしてしまった。


 口では人類のためだとか高尚なことを宣っているが、実際にやってることは奴隷労働。

 賃金の要らない労働者を求めていただけ、と思われても仕方がないだろう。


 自由という人間の尊厳を奪う真似は、間違いなく大悪業だ。

 仮に本当に能力を開花する可能性があったとしても。

 もうファリクにはこんな馬鹿げたことに、付き合う気はこれっぽっちもなかった。


「頭にきた。ほんっっっとに頭にきた。辞めてやる。もうこんな酷い場所、さっさと辞めてやるぞ」


 とうとう彼は吹っ切れた。

 未練は消えてなくなった。

 自由に比べれば、神秘的な力なんて捨てるべきだったのだ。

 自身の判断の遅さを呪った。


「よし。きちんとあるな」


 ファリクはボロボロのローブの胸元をさぐる。

 質の悪い紙の感触が、指先に返ってくる。

 正体は、数日前にしたためたばかりの絶縁状である。


 そうと決めてから行動が速いのは、ファリクの常であった。

 彼は新主教の長である、エドワード・オーエンのために誂えられたテントへと向かい始めた。

 絶縁状を手に持ちながら、テントへと歩む。


 入幕許可の合図も待たず乱入して、絶縁状をエドワードに文字通り叩き付けてやるのだ。

 そのときにぶつける罵詈を考えながら、着実に目的のテントへの距離を縮めている、その最中であった。


 ファリクが足を止めざるを得ない出来事が、彼の目の前にふらりと現れた。


「……え? 軍曹?」


 あのキツい香のせいで散々な目に遭った、あの大きなテント。

 そこから嫌味の一つでも言ってやりたい、エドワードが出てきたのはいい。


 むしろ好都合で、こちらから赴く手間が省けたというもの。

 今すぐ大声を上げて呼び止めれば、ファリクの棄教願望はすぐさま現実のものとなろう。


 だが、問題はそのあとだ。

 エドワードに引き連れられる形で二人の信徒が、テントから姿を現す。

 ぐったりとした、小柄な男、ウィリアム・スウィンバーンに肩を貸しながら。


 ファリクが足を止めた理由とは、それであった。


(にゅ、入信したのか? 軍曹も? いや、それにしては様子が変だ)


 どうして、戦友の彼がここに居るのか。

 その見当はまったくつかなかった。


 だが尋常ではない、なにかがあったのは間違いなさそうだ。

 と、すれば厄介なことに巻き込まれたのか。

 面倒事のにおいを敏感に嗅ぎ取ったファリクは、釘や工具を満載した大きな木箱の影に身を隠した。


 戦場で培った防衛本能が、ここで姿を見られては、余計に話をこじらせるだけだぞ、と彼の理性に囁いての身のこなしであった。 


「……本当に様子がおかしいな。軍曹。意識が、どうにも」


 それはほとんど口内で囁くような、そんな弱い独り言であった。


 音を漏らしては、存在を知られてしまう。

 そのリスクは十分承知なれど、しかし呟かざるをえなかった、というのが、今のファリクの心持ちであった。

 強烈な違和感を覚えたのだ。


 戦場では常に余裕を湛えていた、ファリクの記憶の中のウィリアム。

 しかし、遠目に見える今の彼には、その余裕が欠片も見られないのだ。


 意識が大分怪しいらしい。

 肩を貸されて歩いている、というより、肩を貸している信徒によって、歩かされているといった体であった。


 本当に、一体なにがあったのか。

 ファリクは首を傾げざるを得なかったが、しかし。


「……このにおいは」


 手がかりとなりそうな要素が、文字通りにおい立った。


 風向きが変わったのだ。

 比喩的な意味でも、実際的な意味でも。

 ファリクの位置があの大きなテントの風下となったことで、内側の空気がいくらか彼の下に届くようになったのだ。


 覚えのあるにおいがした。

 苦い記憶を植え付けられた、あの香のにおいだ。


 自分はあのにおいで気分が悪くなってしまった。

 まさかウィリアムも、同じ目にあってしまったというのか。


「……いや、まてよ。軍曹のあの様子。あの酔っ払った風の、あの様子。あれが、もし――」


 ――薬物によるものならば。

 例えば香に酒に似た効能を持つ、薬物が混ぜられていたのならば。


 煙が充満した空間にてひたすら、嗅がされたのであれば、正気を保てなくなって然りではないか。


「自分が気分が悪くなるくらいなんだ。多様人である軍曹が、そんなものに曝されてしまえば。ああなってもおかしくはない」


 ファリクらドワーフの内臓機能は四人類随一である。

 特に毒素を分解する能力は、他の追随を許さぬほどだ。

 ドワーフが酒に異様に強いのは、この能力のおかげであった。


 しかしこの高性能の内臓を持つが故に、ドワーフというのは、よろず薬との相性がいまいちよくないのも事実であった。

 服用したそばから分解してしまい、思うような効能を得られないからだ。

 だから、ドワーフが他の人類と同じ薬効を期待したいのであれば、恐ろしい量の薬を飲まなければならなかった。


 そんな薬に強い人類である、ドワーフのファリクでさえ、気分を悪くするほどの薬が、あの香に混ぜられていたのかもしれないのだ。


「……いずれにせよ。なにか軍曹に悪さをしたな? 自分の戦友に。丁度いい。そうだったならば。宣戦布告とみなしてやる」


 どのような経緯でもって、そしてどのような体調でウィリアムがここにやって来たのかを、ファリクは知らない。


 けれども、もし、教団の悪意によって、あの状態に追い込まれてしまったのならば。

 自身に無賃労働を強いている怨恨もたっぷりと込めて。


「もしそうならば。一暴れをしなくてはいけないな」


 きっちりとお礼をしなければならない。


 辞めてやる前に、大きな騒ぎ事を起こすか否か。

 それを見極めるために、息を潜め、身を隠しながら。


 ファリクは件のテントから出てきた、エドワードらの動向を注意深く、盗み見ることにした。

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