第五章 十八話 これは異変なのか?
土のにおいをかぐと、どうしても塹壕を思い出してしまうのは、きっと職業病ってやつだろう。
なにせ、屋敷の花壇をいじっているときでも、ふと塹壕掘りのことを思い出すくらいなのだ。
人生の半分を戦場で過ごしてしまうと、日常の何気ないシーンでもふと、戦争のことを思い出してしまうことがあるようだ。
今、このときのように。
その度に俺は、ちょっとしたセンチメンタルを感じてしまうのだ。
ただし――
「でも、まあ」
――戦場のフラッシュバックを覚えたそのシチュエーション。
感傷的になるのは、それが本当に平穏な場で起こったときに限る。
そんな但し書きが付いているために、この場ではセンチメンタルに襲われることはなかった。
今、俺が立つ場は、とてもではないが平穏とは言い難いのだ。
いたるところから聞こえる、なにかを打っ叩く音。
それは杭であったり、釘であったり、とにかく作業音。
目に見えるのは、露出した表土に、突き固められた基礎、そして組みかけの骨組み――
聴覚と視覚。
その二つが捉える情報は、俺にこう語りかけてくる。
この場は建設現場なり、と。
それもさきの独白通り、真っ当な建設現場ではない。
ここの異常さを見出すためには、作業に汗を流す工員たちの姿を見ればいい。
一陣の風が吹く。
夏の昼間には嬉しいそよかぜだ。
それを受けて、工員たちの服の裾がゆらゆらと揺れる。
彼らの装いは、地面に引き摺らんばかりに長大なローブであった。
動きやすさが尊ばれる現場で、そんなものを着ているだけでも奇妙なのに、だ。
その上彼らのローブはどれもこれも、とびきり古ぼけていて、つぎはぎだらけなのだ。
それはまるで物語に出てくる隠者のように見えた。
一度見れば、まず忘れないほどにインパクトのある風体。
事実俺は、そんな彼らの姿は既知であった。
先日フェリシアが持ってきた写真でおさらいをしていた。
写真の中では、戦友のファリクが眼前の彼らと、まるっきり同じ格好をしていた。
そう。
つまり、ここは。
件の。
新主教の教会建築現場だ。
「どうなさいましたか? スウィンバーンさん」
訝しみの声が前から飛んでくる。
声の主もやはり、ぼろぼろのローブを着ている、俺と変わらない年嵩の黒髪の男だ。
彼はこの現場の案内役であった。
ソトからの訪問者に、わざわざ案内役をつけるあたり、思いのほか教団が見せた反応は好意的なものであった。
もっと強い拒絶を示すと思っただけに、正直なところこの反応は予想外なもの。
ここにやってきた口実が、単純に俺が新主教に興味を持ったから、と伝えたせいかもしれない。
それとも、もしかしたならば、俺たちが抱いた懸念は完璧に、見当違いであったのかもしれない。
しかしそれはそれで、なにも気に病む事態ではないということだから、大歓迎ではある。
現に、俺に先んじる彼からは俺への敵意、これをまったく感じられない。
もっとも、さきの独り言が耳に届いてしまったからだろう。
例の彼は俺を怪しんでいるようではあるが。
「ああ、いえ。本当に自分たちで教会を作ろうとしていて、大変そうだなあ、と。俗そのものな意見で、申し訳ありませんが。職人たちに依頼すれば、もっと楽できるだろうに、と思ってしまいまして」
「ええ。たしかに仰るとおりです。本職の方々にお頼みすれば、私たちはただ待っているだけでよかったでしょう。しかし、それでは意味がないのです。この教会を私たちの手で作り上げること。これ自体が一つの修行でもあるのですから」
「そして完成すれば、世界に声高に主張できると。私たちの理想は、私たちの努力でもって、きちんと現実として叶えることができる。理想の世界だって、この教会のように、実現できるに違いない。そう胸を張って言えるようになる……ということですね?」
「その通りです」
案内役の彼は頷いた。
とても満足そうな、しかしどこか引っかかりを覚える笑顔を伴いながら。
彼の笑顔に違和感を覚える最大の理由は、その瞳にあるのだろう。
なんだか寝ぼけ眼を連想させる、そんなとろりとしていて、生気に欠いた目をしていた。
心ここにあらずといった様子。
寝起きではないというのに、しゃんと二本足で立っているというのに、半醒半睡という言葉がぴたりと当てはまる顔付きである。
まるで酒にでも酔っているかのようでもある。
いや、事実酔っ払っていて、けれどもそれは酒のせいではないだろう。
きっと彼らは――
(理想に。教義に酔っているのだろうな。そいつらで酔い潰れなければならないほどに、今の世の中は彼らにとって、とても生きづらいモノ、ということなのだろう)
人類は最大の難を乗り越えて、ようやくみなが平穏に生きられる環境を手に入れたのに、その環境では生き辛いと感じてしまう人たちが居る。
兵士として微力ながら、戦争の終結に関わった身としては、そんな彼らの姿を見るのは、やはり辛いものがある。
もっと、マシな形で戦争を終わらせることができたのでは?
もっともっと、劇的に戦っていたのならば、被害を抑えられたのではないか?
考えたところで、どうにもならないものが、頭の中でぐるぐると回っていた。
しかし、今はそれをおくびに出してはならないだろう。
また、案内役を怪しませてしまうことになるから。
幸い、今回は心持ちを隠すことには成功したようだ。
さきの教会のくだりで、いささか彼は機嫌を良くしたようである。
足取りが少しばかり軽やかになっていた。
「ご入信するにせよ、しないにせよ、です。スウィンバーンさんは興味を持って、ここに来られたのでしょう? もし、気になるものを見たのならば、なんでも私にお聞き下さい。答えられるものならば、なんでもお答えしますよ」
「そうですか。じゃあ」
なら、その言葉に甘えさせてもらおう。
この場所のメインでもある、建築真っ最中の大教会。
そこに足を進めるその途中で、すでに気になるモノを見つけたのだ。
それを指さす。
もしかしたならば、その問いかけのせいで警戒感を持たれてしまうかもだけど。
でも、遠回しに聞いてみたら、余計に不信感を抱かれるだけならば。
思い切ってストレートに聞いてしまう方が、より自然であろう。
「あのテントはなんなのですか? 見張り? のような人が常に立っていて。なんだか他のテントと比べると、物々しい雰囲気があるのですが」
「――ああ、あれですか。あれはイニシエーションのテントですよ。たった一人あのテントの中で食事も睡眠もせず、じっと、ずっと祈りを捧げ自分を見つめ直す。そんな苦行のね」
「つまり。テントの前のあの人は見張りで間違いはなかった、ってことですね。忌憚なく言わせていただければ、脱走を阻むための獄卒のような役割を果たしている、と」
「獄卒とはなんとも恐ろしい表現ですが……しかし、その認識で誤りはありませんよ」
いかめしくどっしりと立っている、体格のいい信者と、その背に立つテント。
それらは他のテント群に比べると、醸し出す雰囲気が異なっていた。
いかにも物騒な気配に満ちていたのである。
そして、どうにもあのテントは彼らにとって、あまり触れて欲しくない代物であるようだ。
俺の質問に返す、彼の言葉。
それが飛び出る前に、わずかながら間があったのが、その証拠だろう。
あれは図星を突かれた人間が見せる間であった。
そして、恐らく彼の言うイニシエーションのテントというのは、きっと嘘だろう。
言葉では、なるほど、と納得してみせたけれども、きっとその認識で誤りはないと思う。
何故なら、もし本当に信徒を外に出さないための見張りであるならば、彼を外には置かず、テントの内側に置くはずだ。
にも関わらず、外でさながら歩哨のようなことをやらせているとなると、だ。
その目的は外から内に入らせるのを、防ぐため、であろう。
(当たり、かな。残念だけれども)
なんとか俺を誤魔化せたこと。
それにほっと一安心している案内役とは対照的に、俺は暗い気持ちになる。
あのテントと見張りの信徒が醸し出す雰囲気に、俺は見覚えがあったからである。
あれは間違えるはずもない。
戦場のキャンプの、兵器庫周りの空気によく似ていた。
つまり――
(本当に持っているかもな。武器を)
まだ、間違いなくそうだ、と断言はできないけれども。
彼らがやましいことのない宗教団体であること。
これもまた、断言できないのもまた事実であった。
しかし今すぐそれを糾弾するというのは、あまりに状況が悪い。
取りあえず、しばらくは流れに身を任せた方がいいだろう。
以降は突っ込んだ質問はしなかった。
その甲斐はあった。
その後は取り立てて警戒した様子もなく、若い男は次々と現場を俺に案内していった。
そして作り始めたばかりの大教会を見物した後、俺は彼らの指導者と会見することとなった。
これは俺が要望したものだ。
ファリクとの面会許可を得ることが目的であった。
現場に設営されたテントの中で、一際大きなものに案内される。
天井は人の丈よりもずっと高く、身を屈めなくとも歩き回れるほど。
天板の上に人が寝転べるほどの、大きなマホガニーのテーブルと椅子もあるのだから、このテントがいかに広いかがわかるだろう
「では、こちらでお待ちください。今、私たちの指導者を呼んで参ります」
「それはわざわざどうも。しかし……このにおいはなんでしょうか」
眉をしかめて鼻を鳴らす。
香害と呼んで過言ではないほどの香りが、テントには満ちていたのだ。
バラの香りを連想させて、適量であれば人を心地良くするだろうが、いくらなんでもこれは強すぎる。
この場にほんの少しの時間留まっただけでも、服に香りが染みこんできそうであった。
「お香ですよ。かなり強いものを使っていて申し訳ありませんが。その……今、この現場には風呂場がないものでして。水浴みするのにも小川から遠くて、頻度が……」
「ああ。なるほど。これは失礼しました」
バツが悪そうに口を歪める案内人。
テントに漂うにおいを良く嗅いでみれば、たしかに、しつこい香りに隠れて、わずかにつんと鼻につくものがあった。
多分、アンモニア臭だろう。
風呂にあまり入れないことが由来の。
こんなにおいが充満する空間で来客を迎えるべきではない。
彼らのそんな気遣いでもって、このテントに香を焚き込めたのだろう。
加減には失敗しているものの、これに文句を言うのはゲストとしてあるべき姿ではないと思った。
「では、お待ちください。他の者に今、お茶も出させますので」
いや、お茶は要らない。
彼が姿を消す前、そう言おうとするも――
「……?」
どうしたわけか口と舌が上手に動かなくて。
結局言葉として空気を震わせることができなくて。
意思を伝える前に、彼は行ってしまった。
「どうして。舌。が」
――もつれるのか。
そう独りごちようとするも、またしても上手に口が回らなかった。
なんだ?
どうしてこうも、二度続けて言葉を発することが出来なかったのか?
これは異変なのか?
それともたまたまか?
今の俺にそれを判別する術は持っていなかった。




