第五章 十七話 アドバイス?
晴れているとも、曇っているとも言い難い、昼前のこと。
ゾクリュへと続く道を馬車が俺を乗せて往く。
最近はなにかとオートモービルを使っていたせいか。
久々に乗るカブリオレの馬車は、いささかにおいが目立つような気がした。
動力に生き物を使っているから仕方のないことである。
だがしかし、そんなことに気になるようになるなんて、昔の自分からは考えられないことであった。
戦場ではいちいち獣のにおいなぞ、気にする余裕がなかったのもある。
しかしそれ以上に、乗り慣れてしまったオートモービルが無臭であったこと。
これが嗅覚に変化をもたらした最大の要因だろう。
乗り物とは、けものにおいがしないもの。
それが俺の中でニューノーマルとなってしまったのである。
「おおう……流石は軍所有の馬車ね……モノを運べりゃそれでヨシ! って考えが透けてみるよ……いまどきサスペンションのない馬車を使っているとは……」
まだカブリオレに乗り込んで、それほど時間をおいていないのに、いかにもうんざりといった声がする。
同乗者であるエリーのものだ。
幼さの残る顔を思いっきりしかめて、不快感を表明。
どうやら尻からの突き上げが、お気に召さないらしい。
腰をくねらせて、なにかとヒップを気にしていた。
顔にせよ、身振りにせよ、とても自分の感情に素直な様子である。
それはそうと、さきのエリーの言葉通り、この馬車は軍、ゾクリュ守備隊が保有するものだ。
そいつに揺られて俺がゾクリュへと向かう理由は簡単。
先日大佐から受けた、新主教への突撃訪問。
これをこなすためだ。
「暑いのが嫌ならば、お尻の痛みは我慢してよ。それとも、ここから市場まで歩いてみるかい?」
「うっ。そっちの方が嫌だなあ……これから私はお買い物っていう大仕事を控えてるんだし。体力を温存しないと。まーたヘマしそうで怖いし」
アリスから任されたおつかいに出かけようと、エリーが気合を入れたちょうどそのときである。
大佐がよこした馬車が屋敷に着いたのは。
エリーも馬車も目的地はほとんど同じ。
少なくとも彼女からすれば、これは僥倖以外の何物でもなかった。
だから彼女は厚かましくも、こう申し出たのだ。
頼むから私も乗せていってくれ、と。
無理やり乗り込んだ負い目は、一応覚えているのだろう。
乗り心地への文句は恩知らずであったか、と気付いたらしく、彼女は不満を口にしなくなった。
「それにしても、買い物に失敗しないために体力を温存するなんて……恐ろしく不器用だって自覚あるんだ」
「実際、はじめての経験だから緊張してるんだよ。おつかいを頼まれるのは」
「そう。じゃあ、ささやかながら、成功を祈っておくよ」
「それさあ。どっちかって言うと、私がウィリアムにかける台詞じゃない? 実際、本当にやべー現場に向かうんだしさ」
「そうかもしれない。でも、いくら彼らがとんでもない思想の持ち主だろうとも、本当に思想を実践しているとは限らないんだ。それにもし今回、俺に手を出したのならば、守備隊が黙ってないことくらい、彼らだってわかってるはず。案外穏やかに済むと俺は思っているけれどね」
「……いや。ガキの私が言うのもアレなんだけどさ。その考え方は、ちょーっと甘いと思うよ」
エリーの声色がにわかに変わった。
年相応な明るさに満ちたものから、容姿とは不釣り合いなほどに、世間慣れしたものとなる。
まるで年下を窘めるときの、年長者のような話し方だ。
「甘いって、なにが?」
「新主教が理性的な集団であるかのように話しているじゃん。理屈の通じる相手だと思ってない?」
「そう言うからには、エリーは彼らが話の通じない相手だと思っている?」
「まあね」
彼女は頷いた。
目を動かす。
馬車の外を見る。
表情に乏しい平原が、ただただ後ろに動いていく風景を眺めながら、エリーは次の句を紡ぐ。
「……在家信徒と話す分には、まあ、ウィリアムの態度も間違いはないと思うの。でも、今回は違う。相手は出家信徒。独自の社会を作り上げてしまった連中じゃない。そう言った手合いはね。往々にして話が通じないものなの」
「それはどういうこと?」
「そもそも外界と決別して、自分たちで集団を作るってことはだよ。元々その団体は、ソトの世界のルールに、大なり小なり不満を覚えていたはず。だからウチ側に存在するルールってやつは、ソトの常識に対して挑発的で、あるいは逸脱している場合が多いわけ」
「でもそんなことすれば、ますます社会から孤立してしまうじゃないか。最悪、国家権力に目をつけられてしまう」
「それでもいいのよ、彼らは。だってソトの世界でなんと思われようとも、関係ないもの。仲間たちで構成された、ウチの世界の安寧さえ保てていればいいわけだから。ソトの悪評なんてささいなもの。本気でそう思っているはずだよ」
「うーん……つまり、だ。君は俺が思うような理性的な対話。これができないかもしれない、と思った方がいいって言いたいんだ」
「そう思っていた方がいいよ。にわかには信じられないかもしれないけどね。でも、そういう人たちが居るのは事実だよ。それに……ウィリアムは知っているはず」
「なにを?」
「ウチの倫理が、時にソトの倫理とぶつかり合って、ソトのものを否定してしまう実例を。アンジェリカが生まれた村で、彼女をめぐってなにが起きたのか。それを思い出してみて」
「……む」
それまでエビデンスに欠けていて、どこか現実離れもしていて、ぼんやりとした印象だったエリーの話。
しかし、アンジェリカが辿ってきた道を思い出せ、と言われれば、急に話の輪郭がはっきりとしてきた。
差し出し女の風習。
現代の倫理よりも、因習を優先する世界。
新主教と違って、世間とは決別したわけでもないのに。
アンジェリカが生まれた村は、倫理にもとる選択を取った。
なるほど。
年少者の忠告には、たしかにずしりとした説得力があった。
「……たしかに。ちょっと楽観的であったかもしれない。君のおかげで、気を引き締め直すことができそうだ。ありがとう」
「気をつけなさいよ。ウィリアムになにかがあると、きっとアリスは物凄く取り乱すはずだから。そんな姿、私は見たくないの」
「そうだね。君の言う通りだ。しかし、日常生活では皿も満足に片付けられないポンコツなのに、妙なところでは鋭いんだな」
「そりゃ元・住居不定の身だし。やべーにおいをきちんと嗅ぎ分けられることが、必須スキルだったから。持ってないと、とんでもない目に遭うからね」
「今回はその嗅覚に頼ることにするけれど。でも、悲しいな。君みたいな娘がそんな技術を持たざるをえなかっただなんて。ロクな社会を作れなかった、俺たち大人の責任を痛感するよ」
「その責任。ウィリアムたちには、この世界の人類にはないよ。悪いのは当然、襲ってきた方なんだから」
「それはそうかもしれないけれど。でも、たとえ天災でも誰かが責任を取らなきゃ、人間って生物は気が済まないモノだよ。つまり人々が石を投げるための、スケープゴートが必要なんだ」
「大人が生け贄になるべきだと。ウィリアムはそう思うんだ」
「じゃないと、君たちの世代に申し訳が立たないじゃないか。俺たちが君らに渡せる財産はないのに、そのくせ、押しつけてしまう負債はたっぷりある。孤児、復興、そして雇用。今の世の中は戦争由来の問題だらけなんだからさ」
「……それは良くないよ。冤罪だ。本来、石を投げられることになるのは……」
「うん?」
エリーがうつむき加減で呟いたような気がした。
なにを言ったのか、それは聞き取れなかったけれど。
それでも、顔向き、そして声色から察するに。
なんだか彼女は、たくさんの後悔をしているように見えた。
なにか、気になることでもあるのかい?
そう彼女に問いかけようとした頃合い。
馬車が減速をはじめた。
どうやら目的地についたらしい。
じわじわと速度が下がっていって、やがて停車。
車の外には、石畳と人々の喧噪。
ゾクリュ市街に到着した。
エリーが降りる場所だ。
俺はもう少し馬車に乗って、隊舎に赴く必要がある。
「ほれ、着いたぞ」
「あ。はーい。ありがとう。今、降ります」
到着を告げた御者の守備隊員に返したその言葉には、さきほど見せた影は見受けられなかった。
今の彼女はいつものエリーであった。
だから、俺は聞くことをやめた。
なにか気がかりなことでもあったのか、と。
俺の見間違いであったかもしれなかったから。
「私はここで。是非とも気をつけてね」
「ん。そっちこそまた、露店の食べ物を盗まないように」
「その話を蒸し返さないでよ……まったくもう。じゃあね」
前科の話をされるのは、居心地が悪いらしい。
エリーは馬車からとても身軽に飛び降りた。
そして逃げ足はとても速い。
そそくさと早足で、街の雑踏へ溶け込む――
――その直前。
エリーはぴたりと足を止めた。
なにがあったのだろうか。
そう思うや、彼女は急に身を翻して戻ってきた。
顔にはなにやら真面目な表情を浮かべながら。
「ウィリアム。一つだけアドバイス。異邦人のプロとしての」
「アドバイス?」
「そ。これから、ウィリアムは仲間が誰一人としていない場所に行くわけだけど……どんな場所であろうとね。それでも味方になってくれる声ってのはあるものなの。もし、そういう声に出会ったら、素直に従った方がいいよ」
エリーのそのアドバイスとやらは、とても漠然としいて、ふわふわとしたものであった。
俺にとってはアウェーな場所で、もしかしたならば味方が出現するかもしれない。
現れたのならば、素直に助けてもらえ。
根拠に乏しく信じるか信じないか、それ以前の問題の発言。
「……なんだかよくわからないけれど……でも覚えておくよ」
「ん。そんじゃ、今度こそ。じゃあね」
だが少なくとも、俺を心配しての発言であったのは間違いない。
だから素直に、その厚意を受け入れておく。
その対応に満足したのか。
エリーはシリアスな表情をほどいて、満面を笑みを浮かべ、今度こそ人混みへと入り込んでいった。
「……助けの声が聞こえるかもしれない、か」
再び走り始めた馬車の中、改めてエリーのアドバイスを口にしてみる。
敵陣のど真ん中で、はて、そんな都合のいいことが起きるのだろうか。
それが甚だ疑問で、誰かに聞いてみたかったけれども。
ただいまは相乗りする人は居ない。
だから、肯定する声も、否定する声も当然なかった。




