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第五章 十六話 努力してみせよう

 その日の夜はなんだか気まずいものとなった。


 昼間の一件で、なんとフィリップス大佐が引き下がってしまったからだ。

 それも新主教への潜入依頼の合意が至らずに、だ。


 この結果だけを取り出してみれば、まさにアリスの茶々によって、あの話し合いが水泡に帰してしまったことになる。


 大佐が屋敷を去った後、冷静さを取り戻したアリスは猛烈な自己嫌悪に襲われたようだ。

 客人に無礼を働いてしまったこと、自分のせいであの場を台無しにしてしまったこと。

 これらを悔いているようであった。


 来客の気分を害しかねないことをやった彼女には、本来、俺は叱責せねばならない立場にあった。

 だが、ヘタレであることは重々承知なれど、どうにもその気が起きなかった。


 それはアリスが噛みついた事柄が、俺に深く関連するものだからだ。


 ファリエール女史の叫び、そして先日の守備隊の殉職者たち。

 彼らから受けたショックを、もっと上手に隠せていれば、アリスに心配を抱かせることはなかったはずだ。

 彼女が今日爆発してしまうことはなかったはずだ。


 と、なれば、やはり一番の責めを受けるべきは、俺自身ということになる。

 それ故、彼女を叱りつけるなんて真似は、責任転嫁としか思えなかった。


 かと言って、気にすることはない、と声をかけるのもなにかが違う。


 彼女にどんな声をかけたらいいのか。

 それがまるっきりわからなくなってしまって、必然アリスと会話することが減って、気まずくなって――


 そうこうしている内に夜になってしまったのだ。


 その間、俺とアリスがなんだか妙な空気をかもしていることに、屋敷に住まう戦友二人は意地の悪いニヤニヤを浮かべていたし、ひたすら気まずいし、いいことは一つもなかった。


 この空気感が明日まで続いてしまうのは、勘弁して欲しいところ。

 だから、気まずさを飲み干して、勇気を出して話をしに、こうしてアリスの部屋に赴いた次第であった。


 ここに足を運ぶのは、彼女が熱で倒れたとき以来か。

 あまり時を置いていないはずなのに、ずいぶんと前のことに思える。

 それはきっと――


 ああ、いや。

 いつまでも回想に浸って、部屋に踏み入ることを先延ばしにするのはやめよう。


 はやくこの気まずさを取っ払ってしまうのだ。

 俺は、小さく息を吸い込んだのちに。

 静かに扉を叩いた。


「夜分にごめん。ウィリアムだけど、入ってもいいかな?」


「ええ。どうぞ」


 ほとんど間を置かずに返ってくる、アリスの声。

 入室許可の声。

 拒まれないで一安心。


 ドアノブに手をかける。

 いざ、アリスの部屋へ。


 寝間着となった彼女は、レターデスクの前に居た。

 読書か、あるいはなにか書を認めていたのだろう。


「ウィリアムさん? どうなさいました?」


 アリスが問いかける。

 その声は普段通りで、あの出来事によるしこりなんて、これっぽっちも感じさせない態度であった。


 だが、アリスとは長い付き合いなのだ。

 これが演技だということは、なんとなしにわかる。


 とはいえ今は彼女の表面上の態度に、俺も合わせることにしよう。

 後ろ手に扉を閉めて、そのまま寄りかかって。

 気まずさを必死に押し込みながら、なるべく気楽な調子で口を開く。


「うん。いやさ。朝のあれはどうしたのかなって。アリスにしては珍しかったから」


 ここに着くまで、色々とかけるべき言葉を考えていた。

 それこそクロードみたいに、勿体ぶって本題を後回しにするやり口とか。


 でも、それは俺の性にはどうにも合わなかった。

 なので、こうしてストレートに聞くことにしたのだ。


 どうして、普段はやらないあんなことをやってしまったの、と。


 その言葉を受けた途端、アリスの本音が垣間見える。

 いつものニコニコとした仮面は割れて落ちて、露わとなったのは怯えの表情であった。


「ああ。大丈夫だよ。別に怒るとか、そういうのじゃないから。むしろ心配なんだ。君に余裕を失わせる、なにかあったんじゃないのか? ってさ」


 我ながら、ここにきて彼女を詰問しないのは甘いと思う。


 しかし、いつも完璧な仕事ぶりを見せるアリスが、あんなに感情的になってしまったのだ。

 なにか、心を奪われてしまうことがあったのかもしれない。


 それが、アリスにとって負担になっているのならば。

 俺はそれを取り除かねばならないのだ。

 そして、そのことはきっと強い口調で向かい合ったのならば、叶わないことだろう。


 ならばきっと、俺のこの甘い態度は間違いではないはずだ。


「…………その。いえ。特には、なにも」


「なにもないってことはないだろう? 君との付き合いは長いんだ。こないだの夏風邪の兆候は、とても悔しいことに見落としてしまったけれど。でも、いつもと違う様子なのはわかるから」


 先ほどのアリスの一言の直前に空いた、ちょっとした間。

 あれは迷いによるものだろう。

 本当のことを言ってもいいものか、それを考えるための。


「気分が乗らないなら、無理に言わなくてもいい。でも、相談した方がいいかな、と少しでも思っていたのならば。俺に話してくれないかな? なにがあったのかを」


 微力ながら力になるよ。

 そのことをアリスに重ねて伝える。


 成果は……あったと思いたい。

 アリスは俺から目を逸らして、下唇をわずかに口腔にひっこめて、床板を眺めて――

 明らかに迷いが色濃い様子を見せた。


 迷いは晴れたか。

 静かに瞼を降ろして、彼女はふうと息を吐く。

 そしてまた、視線を俺に戻して。


「……夢。夢を見たんです」


 ぽそり。

 語り出した。

 様子が妙であった、そのわけを。


「夢?」


「ええ。夢です。あのとき、熱を出して倒れてしまったときです。子どものころの夢でした。ウィリアムさんと出会った、あのころの」


「ああ――」


 やはりうわごと言っていたときは、昔の夢を見ていたのか。


 八年前の夢を。

 俺が十四、アリスが十であった、あの当時の夢を。


 部隊が俺を残して玉砕して、似たような境遇の将兵で新たに構成された、寄せ集め部隊に配属されたばかりのことだ。

 補給のために立ち寄った、前線近くの村。

 そこで雑用をこなて糊口をしのぐ、両親と死別した少女が居た。


 それがアリスであったのだ。

 村でもその存在は浮いていたのだろう。

 部隊の世話役として、彼女は半ば強引に押しつけられて、一番歳が近かった俺が彼女の面倒を見ることになったのだ。


 そしてその村で色々あって……最終的に、分隊結成のために東奔西走していた殿下が、俺の分隊入りを条件に、彼女をお付きの使用人として雇ったのであった。


 思い返してみると、あの時代に相応しい、ロクでもない経緯の出会い方であった。

 けれども、その縁が今でも続いているというのは、なんとも不思議なことだ。


 今の関係も相まって、俺の中では決して悪い記憶ではなかったのだが……

 どうにもアリスにとってはそうではないようだ。

 こうして彼女の平常心を蝕むほどに重たいものであるようだ。


「……時間の感覚が奇妙だったんです。その夢の中では。十歳のころの夢だと思ったら、次の瞬間には十四、十五と分隊に居たころに飛んだんです。そして……そうして夢の中で歳を重ねていくのが辛かった……」


「どうして?」


「だって……!」


 アリスがまた、俯いた。

 前髪が垂れたせいで、彼女の目色をうかがえない。

 今、アリスがどの様な表情を作っているのかはわからない。

 でも、推測することはできた。


「だって……! その夢で見る、戦場に立つウィリアムさんはいつだって傷だらけで……誰かを救えなくて悲しんで、また傷付いて! どんどん摩耗していったのに……私はなにも言葉をかけられなかった!」


 また、彼女の感情が溢れ出る。

 激情だ。

 悔しくて悔しくてたまらないといった風の。


「意思はあるのに。そばに居るのに、声を、気をかけてあげられなくて……! それが辛くて! あの時のフィリップス大佐のお願いが、夢と重なってしまって……だから私は! もう、見るだけなのは嫌で……嫌で!」


「……だからあんな風に。今度は間違いなく、声が出てくるから。止めることができるから」


 ええ、そうです。

 俯いたまま、アリスは無言で頷いた。


 つまり、だ。

 タイミングがあまりにも悪すぎたのだ。


 戦中、満身創痍になりながらも戦っていたあのころを夢見た直後に、物騒極まりない話を聞いてしまったが故に、彼女は思ってしまったのだ。


 あのころのようになってしまうのではないかと、と。

 また一つ、俺の体に新しい傷が出来てしまうのではないのか、と。

 不安になってしまったのだ。


 その不安になる気持ちも俺とて理解できる。

 もし逆の立場だったら、絶対に俺はいい顔をしないはずだ。

 他人が危ない目に遭うというのは、人の表情を曇らせるのに、十分すぎる威力を持っているから。


 しかし、それを踏まえても。

 いや、踏まえたからこそ。

 俺は――


「……ウィリアムさんは。やはり行ってしまうのですね?」


「……うん。悪いけれど」


「どうしても、ですか」


「どうしても。多くの人たちと、それとファリクの安全がかかっているから。アリスの心配は嬉しいけれど、放っておけないよ」


「……そうです、か」


 ――俺は大佐の依頼を受けなければならない。

 心の底からそう思った。


 だって、このまま放っておけば沢山の人の顔が曇ってしまうかもしれないのだ。

 そんな悪夢を未然に防げるかもしれないならば。

 

 アリスのことを考えると後ろ髪を引かれるけれど、ためらってはならないと思った。


 胸中を吐露して、すこし落ち着きを取り戻したアリスも、それは薄々わかっていたらしい。

 午前中のような強硬な態度で反対することはなかった。


 アリスが再び面を上げる。

 下唇をわずかに噛み、物憂さげに眉尻をさげる面持ちを彼女は作っていた。

 悔しげで、悲しげ。

 そんなとてもブルーな表情であった。


「……わかっていました。貴方がそれでもあの要望を受けてしまうことは。でも。だからこそ、約束して下さい」


「約束?」


「必ず、帰ってきて下さい。絶対に、無事で」


 か細い声でアリスは懇願する。

 無事に帰ってくることを。

 これが本音では俺をあの現場に行かせたくないアリスにとって、最大の譲歩なのだろう。


 このアリスの願いを叶えることで、彼女の不安。

 それを少しでも和らげられるのであれば――


「うん。約束するよ」


 頷かない理由がなかった。


 アリスが望む未来をきっと提供してみせると。

 その()()をしてみせると。


 ゆっくり、そしてしっかりとした発音で、俺はアリスにそう誓った。 

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