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第五章 十五話 感情、爆発

 屋敷の外から音が聞こえた。

 さえずり、羽音。

 小鳥が産み出すささやかで可愛らしい音だ。


 何気なく日々を過ごしてしまうのあれば、生活音で霧消してしまうそれらが、はっきりと聞こえてしまうまでに、応接間は静けさにつつまれていた。

 さきほどまで、大佐と俺の声があったというのに、である。


 その理由を求めるのは簡単だ。

 俺と大佐の視線を辿ってみればいい。


 真っ白にペイントされた扉。

 その向かって右隣、白地に青のアザミの意匠が描かれた壁を背にして、立っているメイドさん。

 この屋敷の同居人であるアリスが、にわかに声を上げたからだ。


 俺と大佐との間で、合意に至りそうであった新主教への抜き打ち調査の依頼。

 その土壇場で彼女が明確な拒絶の意思を、にわかに表明したのだ。


 よろず控え目な態度で物事に当たり、強い自己主張をしないアリス。

 それが今日はどうしたことだろう。

 口を真横に結んで、眉間に皺を寄せて、いかにも譲歩は認めぬ風情を身にまとい、俺と大佐……いや大佐だけを睨み付けていた。


 アリスは明確に抗議の意志を表していた。

 しかも前言を撤回するつもりはまったくないらしい。

 彼女にしては珍しい、かなり強硬な態度だ。


 もしかしたならば、さきのやりとりで気に入らぬ点があって、それが彼女の逆鱗に触れてしまったのかもしれない。


 だからこそ、俺はうろたえる。

 彼女がそんな真似をするなんて、夢にも思っていなかったから。


「ええっと? アリスさん? どうしました?」


 彼女の予想外の反応に困惑したのは大佐も同じようであった。

 彼にも、一体今日のアリスはどうしたのだろう、といった戸惑いを感じられるも、年の功と言うべきか。


 どうして、俺を差し置いて大佐の要請を却下しようとしたのかを。

 そして、何故いかにも気分を害した雰囲気を漂わせているのかを。


 狼狽し、彼女を諫める言葉が一切出ない俺を尻目に、大佐はそれらをアリスに問う。


「質問を質問で返すご無礼をお許し下さい。フィリップス大佐。いくつかおうかがいしたいことがあるのですが。よろしいでしょうか?」


「どうぞ」


「最初に、さきほどウィリアムさんからお話になるまで、新主教に対しての大佐の認識はどのようなものであったのでしょうか? 最近勢いのある宗教団体。そのようなものでしたか?」


「ええ。その通りです。まさか彼らがそんな危ない思想を持っていたとは、思いもよりませんでしたよ」


「つまり、新主教が危険思想の持ち主であること。これは大佐にとって予想外であった、と?」


「その通りです」


 大佐はいつも通り、ゆるいことこの上ない仕草でゆったりと頷く。

 見る者の気勢をそいでしまう、やる気のなさに満ちた頷き。

 しかし今日のアリスは、どうやらその大佐のマイペースな動きが癪に障るらしい。

 一層眉根を寄せて、不快感を覚えたことを隠そうともしなかった。


「それなのに、横流しされていた銃器を新主教が保持しているかもしれない、と推測を立てたのですか? あの推測は元より彼らを危険視していない限り、思いつくものではないと思いますが」


「眉唾ものでしたからねえ。ウィリアムさんのお話を聞くまで、陰謀論の類と思っていましたから。ただ、さすがにあそこまでの選民意思を持っていたのならば、ちょっと放っておくのは危ないかなあ、と思いまして。まあ、今ここで対策を練り上げたわけです。にわか仕込み故に、穴だらけだと思いますが……」


「言葉を遮るようで申し訳ありませんが。それこそが。その案が急拵えであることが、一番気になるところなのです」


「と、言いますと?」


「ウィリアムさんのお話を聞いて、対策の必要性を感じたと仰りましたが……どうして最初に、その対策案を()()()()()()()()()()()()しようとしなかったのですか? どうしていきなりウィリアムさんに頼む込もうとしたのでしょうか?」


 ぴしり。

 空気が張り詰める音を聞いたような気がした。

 音源は言うまでもなく、アリスと大佐の間に跨がるなにもない空間だ。


 ひらりひらりとアリスの追及をかわしていたフィリップス大佐であったが、今の指摘をいなすことには失敗した。

 ここに来て、彼がはじめて言葉に窮した。


 彼がなにかを言おうと口を開くも、しかしきちんとした言葉が出てきていない。

 いや、それどころか、音すらも口から出ることはなかった。


「教えて下さい。隊舎でさまざまな人と協議すれば、きっとよりよい案になったはずですよね? それをどうしてしなかったのですか? なぜ思いつきをそのまま、ウィリアムさんに頼もうとしたのですか?」


 アリスは大佐に言葉を促す。

 だが大佐は相も変わらず、音を紡ぎ出すことはできていない。


 バツが悪そうに片眉上げて、頭をばりぼり。

 まずいなあ、どうにも失言してしまったな、と言わんばかりの所作であった。


「答えられないのですか? なら、私は推測で物を語りますね」


 一向に返事をしない大佐にしびれを切らしたか。

 許可を得ていないのに、アリスはずいと一歩前に出て述懐をはじめた。


「大佐はお屋敷に来る前から、新主教への調査の必要性を認識していたのではないでしょうか? そして、それをはじめからウィリアムさんにやらせようと、そう思っていたのではないでしょうか? そうすれば、守備隊に新たな犠牲が出ることなく、事態を解決できるから。危機を殉職者なしで切り抜けられたならば、それは大佐の名声をよりよくする助けになるでしょう」


 ゾクリュ守備隊から犠牲者を出すのは避けたい。

 何故なら前日のアーサー・ウォールデンが起こした暴挙によって、すでに殉職者を出してしまっているから。

 これ以上死人を出すのは、上層部の覚えが致命的に悪くなってしまうから。


 そんな彼女の物言いは恐ろしく挑戦的であった。

 アリスは静かに憤りを覚えているのだろう。

 それも爆発一歩手前の、相当に圧力が高い怒りを。


 さらに都合が悪いことは続く。

 アリスの強烈な皮肉に、フィリップス大佐がまただんまりを決め込んでしまったのだ。


 元よりアリスは大佐の弁明を求めていたのだ。

 なのに沈黙を選ぶとなると……

 それは火に油を注ぐ真似でしかあるまい。


「……今の推測が誤っているかどうか。それすらのお答えもいただけないのですか? 沈黙は肯定と受け取りますが、よろしいのですね?」


 震える声で、感情を抑えきれぬといった調子で、アリスはそう言った。

 今の言はきっと、最終通告なのだろう。

 これ以上、無言を貫くのであれば激情を抑えることをやめる。

 彼女は暗にそう大佐に告げていた。


 対するフィリップス大佐は――

 いまだ貝になったまま。

 腕組みをして、目を瞑って沈黙。


 これはまずい。


「アリ――」


 だから俺は慌てて彼女を窘めようとする。

 が――


「ふざけないで下さい!」


 どうやら間に合わなかったようだ。


 俺の声をかき消すのに十分な叫び声が、ビリビリと応接間にあるすべてのものを振るわした。

 激情を抑えることをやめたアリスが、まるで地団駄を踏むような強い足取りで、俺と大佐が向き合っていたテーブルへと歩みを進めた。


「大佐が組織の長として、部下の犠牲を抑えようとするのはいいです! それが貴方の職務なのだから! でも、でも! なぜその解決策のために! ウィリアムさんを消費しようというのですか?! ウィリアムさんに危ない橋を渡らせようとするのですか?!」


 いつもアリスが丹念に磨いているテーブルを、彼女自身が両手で思い切り打っ叩く。

 グラスは跳ねて音を鳴らし、中身のお茶は溢れ出て天板を濡らし、皿に盛ったフィナンシェのいくつかが床へと転がり落ちた。


 散々な様相となってしまった、テーブル周り。

 しかしアリスはそれらに気を取られることなく、怒気に身を震わせながら、なおも叫んだ。


「そんなの許されるわけないじゃないですか! 私は……私は! もう嫌なんです! ウィリアムさんが傷付くところを見るのは!」


 怒りを隠さずに表明している副作用、というやつだろうか。

 彼女の物言いが、そして声がどんどん感情的なものとなる。

 さきほどまでは曲がりなりに、理性的な音が含まれていたのに。

 今では理性が完全に揮発し、彼女の感情がそのまま音と言葉になって、空気を震わせているだけだ。


「アリス。俺を心配してくれることは嬉しいけれど。俺はだいじょう――」


 俺は大丈夫、だから落ち着いて。

 そう彼女に語りかけようとするも、それは途中で叶わなくなる。


 口を塞がれたからだ。

 アリスが俺の頭を抱きしめて、口を封じたのだ。


 彼女のエプロンが俺の鼻先と口に当たる。

 声が出せなくなる。

 ふわりと柑橘の香りが顔面に纏わり付く。

 アリスがいつも使っている香水の香だ。


「だっておかしいじゃないですか! 折角戦争が終わったのに! あんな常軌を逸した裁判にかけられて! それでもなんとかこの地で穏やかな生活を送れそうだったのに! なのに毎回毎回、どうして大佐は事件の話をウィリアムさんに持ち込むのですか?! ウィリアムさんが平和に生きてしまうと不都合があるというのですか?!」


「……そうではありませんよ。ただ、ウィリアムさんにお手伝いを請うこと。これが最良であるケースが立て続いただけです」


「最良? ええ、ゾクリュからすればそれが最良でしょう! でも私からすれば、それは最良じゃないのです! 最悪なのです! 事件の度に危険にさらされて、現実に打ちひしがれて傷付いて! それでも我慢して平静を装うとするウィリアムさんの姿を見るのが、辛いんです! 嫌なんです! どうして、この人がこんな目に遭わなきゃいけないのって! どうしてこの人には戦後が! 平穏が訪れないのって!」


 ようやく大佐が言葉を返す。

 だが、すっかり思考が沸騰してしまっている今のアリスは、聞く耳を持っていないようだ。

 アリスの勢いはまったく衰えず、大佐に噛みついてみせた。


「私は認めません! ウィリアムさんがこれ以上に不幸になることを! ずっとずっと頑張って来た人に、こんな仕打ちが許されるなんてあんまりです! だから私は遠ざける! その原因から! それが例え誰かの不幸の源となっても、関係ない! ウィリアムさんが無理をしなくてもいいのならば、傷付かないならば喜んで! だから……! ならば!」


 さわさわ。

 俺の髪が柔らかく動く。

 動かされる。

 頭を抱きかかえているアリスによって撫でられる。


 その手つきは、今もなお吐き続けている強い言葉からは、信じられないくらいに優しくて。


 いますぐアリスを叱責して、諫めなければならないのに。

 優しい手つきにまどわされてか、あるいは彼女の言動不一致に困惑してしまったのか。


「フィリップス大佐! お引き取り下さい!」


 ついに俺は口を挟めずに、アリスがフィリップス大佐を追い出すための台詞。

 それを吐かせてしまった。

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