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第五章 十三話 聖別する権利

 サファイアを溶かしたかのように綺麗な青空であった。

 綿雲はひとかけらもなく、不純物がどこにも見受けられない。

 陽光を遮るものがなく、かつ、朝からそんな空模様であるならば、日中暑くなるのは必至であろう。


 そんな自らの判断に基づく、簡単な天気予報にげんなりとしてしまう。

 過ごしにくい日になるのは、やはりどうしても疲れを感じてしまうのだ。

 身近にあるよろしくない未来にため息をつきたくなる。


 だが、俺はその衝動を堪えた。


 本日の心模様が、晴天を拝むずっと前、すなわち起床直後から落ち込んでいたからだ。

 こんなメンタルでため息をついてしまえば、気分が際限なく下がってしまうことは目に見えていた。


 舶来の工芸品に、それなりに知られている画家の絵。

 そして精緻を極めた紋様が脚に刻まれたテーブル。

 質素を旨としている屋敷では例外的に、飾りっ気のある部屋。

 それが応接間。

 まだ涼しい朝の空気を溜め込んだその部屋で、現在俺はため息の欲求と格闘中。


 ホストとゲストが会するはずの応接間に居るのはまだ、俺一人。

 ここに住んで以来、この部屋はその目的以外で使ったことはない。


 それは今日にしてもそうだった。

 この部屋でただただ時間を潰す気なんて、一切ない。


 つまり、ただいまの俺は、やってくるお客を待っているのだ。


 こちこちと柱時計の振り子が大きく響く。

 静寂。

 振り子の音どころか、自分の鼓動すら聞こえてきそうな程に。


 されど、そのしじまは長く続かず。

 閉ざされていた扉が控え目に打ち鳴らされた。

 ノックの音。


 待ち人、来たり。


「よう。ウィリアム、おはよう。いやいや、しかし今日は酷い暑さとなりそうだな」


「ようこそ、クロード。朝から呼んでしまって済まないね。それもまだ、勤務時間中なのに」


 王国陸軍のシンボルでもある、赤い上衣を身に着けた大尉殿がやってきた。

 分厚い布地のレッドコートのせいで、朝の時分でもうっすら汗を浮かべている彼が、本日の来客であった。


 今のやりとりを聞けばわかる通り、彼の来訪はこちらが望んだのであった。


「なに。構わねえさ。分隊員がらみの話ならば、無理に時間を作ってでもいくさ。幸い、それくらいのワガママが許される地位には居るからな」


「すまないね。ところでフェリシアの姿が見えないのだけれども」


「奴は俺のオートモービルに忘れ物をしたらしくてな。今、そいつを走って取りに行ってる」


 今日はクロードの他にフェリシアも招待している。

 二人を呼び寄せた理由は簡単だ。


 さっきのクロードの発言でも出ていたように、分隊がらみの話題。

 すなわち先日発覚した、新主教にファリクが出家してしまったこと。

 彼らと話し合いたいと願ったことはこれだ。


 俺とは親しい間柄で、形式張る場ではないからだろう。

 暑い暑いと呟きながら、クロードは赤い上衣を剥ぎ取り、腕まくり。

 よく鍛えられていて脂肪に欠いたその腕は、血管による隆起が目立っていた。


「ご、ごめん……お、お待たせ……いやあ。走るとあっついね。やっぱり」


 しばらくして、もう一人の招待者が、大判の封筒を携えてやってきた。

 まだ涼しい朝とはいえ、激しい運動はやはり堪えるようだ。

 フェリアシアはクロードとは比べものにならないほどの汗を流していた。


 ぱた、ぱたり。

 彼女の顎を伝う汗が玉となって、床に吸い込まれていく。

 見るからに暑苦しそうだ。


「フェリシア。ハンカチ、持ってないの?」


「不覚なことに……」


「ん。じゃあ、これ使いなよ」


「ありがと。助かる」


 ウェストコートから絹のハンカチを取り出して、戦友の少女に投げて渡す。


 フェリシアはためらいう仕草、それを一切見せずに汗を拭いはじめた。

 流れる汗が余程気持ち悪いらしい。

 顔は勿論のこと、彼女は首筋まで拭っていた。 


「ん。ずいぶんとマシになったよ。びしょびしょになっちゃったから、後日洗って返す」


「いや。返さなくていい。あげるから」


「本当? じゃ、遠慮なくもらうね。これ、すっごくいい絹使ってるし。ぼく、こういうの一つは欲しかったんだ」


「そう。喜んでもらえてなによりだ」


 渡されたハンカチを、早速自らの懐に入れるフェリシア。

 その所作は本人が言っていた通り、本当に遠慮した様子は一切ない。


 あげると言った手前ではあるが、相変わらずな彼女の得への聡さに、つい苦笑いを浮かべてしまった。


 それはそうと、面子は揃った。


「よし、それじゃあ。話を始めようか」


 遅れてきたフェリシアに席を勧める。

 彼女が黒革の椅子の前に足を進めたそのタイミングで、アリスが控え目に入室。

 この場にアイスティーを運んできた。


 先日のアリスの発熱騒動の反省もかねて、たっぷりと氷を買って、氷室で保管しているのだ。

 おかげで最近の屋敷は、アイスティーに限らず、冷たい飲み物を作りたい放題であった。


「まずは新主教についておさらいしようか」


 外から来た二人は暑くてたまらないはず。

 二人が冷えたお茶を飲む時間を作るためにも、話の口火はまずは俺が切ることにした。


「発足したのは二十五年前。丁度、共和国戦役が終わったかどうか、ってころだね。首都防衛戦を経て、社会に大きな不安が襲いかかってきたころでもある」


「ああ。当時は新主教に限らず、世界中で様々な新興宗教が発足したらしい。共和国陥落の衝撃が、どれほどデカかったのかがうかがえるな」


 二回ほどグラスを傾けたクロードが答えた。


 想像に絶する困難に見舞われたとき、人は宗教に救いを見出す生き物である。

 これは歴史を振り返ってみれば、容易に証明可能である。


 長い飢饉に直面するたびに、新しい宗派や、新しい宗教が発足することが最たる例であろう。


「身近な国が消えてしまったんだ。本当に人類が滅亡してしまうかもしれないと、恐れおののくのも仕方がない。だからなんだろうね。この時期に生まれた宗教たちには、ある共通点を持っている。それが――」


「終末論的思想。既存の宗教に比べて、これが強かった。新興宗教は、邪神の襲来とはハルマゲドンの報せであると、説いていた」


 一息にお茶を飲み干したフェリシアの言に、俺は頷いた。


「邪神に追い詰められ、人類が滅亡するのは神の意志だ――そんな言説を信じてしまう人が後を絶たなかった。一見すると恐ろしく悲観的な考え方のようだけれど……」


「むしろその逆だな。滅亡は神の意志也、と説く直後には、こう続いていることが多い。だがしかし、この教えを信ずれば救われる。滅亡後の世界でも生き延びることができる、ってな。しっかし、今聞くと……なあ」


「超絶自己中な考え方だよねえ。自分さえ助かりさえすればそれでいい。そんな考えが透けて見えるよぅ」


 クロードがフェリシアに話を振る。

 この言説、信じるに値するか、と。

 振られたフェリシアはまさか、と人を小馬鹿にしたような笑いを漏らす。


 そんな二人を窘める。


「そんなこと言わないの。滅亡が身近に感じられた世代と、戦争を終わらせるかもしれないって、そんな希望がそばにあった俺らの世代じゃ、考え方に違いが出るのは当然だよ。でも、だからこそ」


 一度言葉を句切る。

 息継ぎのために。


 そう。

 世代が変われば、人々の考え方も変わっていくのが世の道理。

 次第に終末論的な思想が、鼻につくと考える人々が多くなってくると。


「ここ五、六年で多くの新興宗教は消滅してしまった。人々の恐怖心に寄り添った彼らは、対応できなかったんだ。滅亡の恐怖心が薄い世代の台頭に」


 続けた俺の言葉にクロードが首肯した。

 彼はアイスティーで唇を潤す。

 グラスの中の氷がからんと鳴った後、クロードは口を開いた。


「消滅はしなかった団体も規模縮小は免れなかった。結局、共和国陥落前後に発生した新興宗教は一過性の流行に終わった……たった一つの教団を除いて。それが――」


「新主教、か」


 俺の半ば独り言めいた呟きにクロードは肯んじる。


「教義はあの時代の新興宗教群と共通する点が多い。だが、決定的に違う点がある。彼らは世界の滅亡は唱えてねえんだ。邪神の襲来を耐えれば、まもなく新時代が訪れ、人類を導くリーダーが現れる。そのリーダーのためにも、そして新時代を良いものにするためにも、困苦に喘ぐ人々を救っていこうではないか――つうのが彼らの主張だな」


「他の新興宗教に比べれば毛色が違うね。信徒自身の救済ではなく、信徒以外の救済をも唱えているところが」


「そうだ、ウィリアム。だからこそ彼らは生き延びたんだ。それどころか、今でも信徒数を伸ばしてすらいる。困苦に喘ぐ人々を救う――この教義のおかげでな」


 滅亡に怯えることはなくなった人類であるが、一難去ってはまた一難とはよく言ったものである。

 邪神とは別の問題が、目の前に立ち塞がったのだ。


 その問題とは――


「戦争中でさえ問題になっていた格差問題か」


「そうだ」


 正解。

 クロードは例のジェスチャーを作って、俺を指した。


「戦争で儲けた者と失っちまった者。まあ、ここまでは、いつの時代でもある格差なんだが……戦争のせいで財産を失った挙げ句、四肢すらなくす人々が、あまりにも世に満ちている。これがこの時代特有の格差問題だ」


 皮肉なことに戦争は社会にとっての、究極のセーフティネットとして機能してしまっていたのだ。


 総力戦である以上、人類は一人でも兵が欲しかった。

 取りあえず体が動けば兵役合格としていたほどに欲していた。


 そして財産を失った人々にとっては、軍隊生活というのは、最後の砦もあった。

 入隊さえ出来れば給金が生じ、あまつさえ寝床と食事が用意されるのだ。

 戦場で命を落とす大きなリスクはあるけれど、しかし、今を生きることはできる。


 だが、そんな後のない人々が兵役審査で弾かれてしまったのならば。

 あるいは戦傷で、戦場に立つことができなくなってしまったのならば。


 それは社会の落伍を意味していた。

 前者はともかく後者は特に。

 唯一の資本である体を欠損してしまったのだから。


 その戦争が終わったのだ。

 無事に兵役を終えた、五体満足な労働者が世に満ちてしまった。

 そして彼らが労働市場から、究極の持たざる人々を駆逐してしまったのである。


「本来、戦傷者には特別年金が出るはずなんだが……信じられねえくらいに数が多くて、支給がまったく追いついていない。これは戦中から続いている問題だな。さらに受給認定基準の厳格化も年を負うごとに進んでいる。そんな人々に救いの手を差し伸べたのが……」


「新主教ってわけか。彼らのために食事を与え、バラックとはいえ住む家を作って与え、仕事すら与えた。営利目的ではなく、ただただ彼らの教義を実践したかったから」


 俺がはじめ新主教に悪い感情を抱かなかったのは、そんな背景があってのことだ。

 彼らは国や社会からこぼれ落ちてしまった救うべき人々に、寄り添い、積極的に救おうとしてきたのだ。


 その行いは間違いなく善行で、褒め称えられるもの。

 嫌う理由なんて一つもない。


 そのはずであった。

 先日レミィから聞いた、あの黒い噂を聞くまでは。


 だから今では新主教については疑心暗鬼。

 彼らが本当に信頼に値する団体なのか。

 そして、戦友のファリクの身を任せるに値する教団なのか。

 わからなくなってしまった。


 それはどうにもクロードも同じであるらしい。

 残ったお茶を一息に飲んで、深い嘆息。


 今の彼のため息は一種達観したものであった。

 これから話が悪い方向に流れるだろうという、強い確信がつかせた、そんなため息。


「これで話が終われば、みんなハッピーなんだがなあ。違えんだろ? フェリシア?」


「残念ながらその通り。あくまでそんな人々の幸福のために邁進する姿ってのは、外向きの顔なの。これを見て」


 オートモービルに忘れてきたという封筒の中から取り出された代物。

 それはいかにもお手製な風情にあふれた、とても薄い粗末な冊子であった。


 魔族の情報ネットワークによって手に入れたのだろうが、元の持ち主の保管状況が悪かったのか。


 冊子はかなりくたびれていた。

 あちらこちらに折り目はあるし、日の当たる所に置いていたのか、紙は赤茶色く焼けていた。

 

 フェリシアは冊子を開いたままにて、テーブルに置く。

 くたびれていただけあって、冊子は独りでに閉じようとはしなかった。


「新主教が成立して間もないころの、出家者向けに使われてた教典なんだけどね……かなり過激で、おっかないことを説いてるんだ。ほら、ここを見て」


 まだ幼さが残る、どことなく丸いフェリシアの指が紙上を、印刷された文字をなぞる。

 指先が紙面にふれるたびに、埃っぽいような、香ばしいような、でもちょっとだけ甘いような。

 そんな古い紙のにおいがふわりと漂った。

 

 俺とクロードは、そんなにおいに包まれながら、フェリシアの指が導く一文を見て。

 二人揃って大きく目を剥いた。

 クロードは指し示された一文を、か細い声でささやきはじめた。


「……救済は人の命を救うのみにあらず。新主の世界に相応しくない者を弾くこと。これもまた救済である。新たな世を理想の形とするために。聖別することは善である――って、おい! フェリシア! こいつは……!」


「そうだよ。苦労人のあんちゃん。たしかに新主教は他者に寄り添う思考を持っている。だけれども同時に――」


「救いを受けるに値する人間を選別せんとする。そんな傲慢な選民意識もまた、有している、か」


「そして救いようのないことにね。どうにも、この古い冊子の思想。途中で捨てたりせずに、後生大事にとっているみたいなんだよ。むしろ出家者にとってはね。根幹となる教えなようなの。そりゃそうだよね。この教義は人の優越心を、心地よくくすぐるものだから」


 薄ら寒いものを感じながら呟いた言葉に、フェリシアは頷いた。

 より恐ろしい事実を付け加えながら。


 この世には救うべき人間と、救われてはいけない人間が居て。

 その選別を行うのは、新たなリーダーを迎え入れる、我らが新主教のみ。


 人類の生殺与奪は新主教が握っている。

 冊子のそれは換言すればそのようなもの。

 そんな思想を彼らは持っているようなのだ。


 そしてもし、出家したファリクが救うべき人間ではない、と判断されたら。

 そんな人間が教団のウチ側に足を踏み入れてしまったのならば。


「ファリクが危ない」


 今の俺の一言は自然に出たものだ。


 自明だった。

 その場合。

 教えの下に。

 自らの暴挙を正当化しながら。


 彼らはひっそりとにファリクを害することだろう。

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