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第五章 十二話 シーシャの煙に満つ夕方で

 思いのほか長い時間を無国籍亭で過ごしてしまった。


 フェリシアと真剣に話し込み、そして買い出しを終えて屋敷に帰ってきたころには、もうすっかり夕暮れ時。

 景色は夕焼けで真っ赤に染まる時分であった。


 昼間、それなりにヘビィな話を聞いてしまったせいか。

 食料品、そしてその他の品をしまうべき場所に納めると、疲れがどっと表れてしまった。


 このまま自室に戻ってしまえば、ベットの海にダイブしたら最後、朝まで目を覚まさないだろう。

 そう断言できるほどのくたびれぶりであった。


 まだ寝入るのには時間が早い。

 ならば、仮に寝入っても誰かが起こしてくれそうな場所に居るべきか。


 そんな判断の下、俺は両足を引き摺るようにして歩く。

 薄暗くなりつつある廊下を行き、いざラウンジへ。


 すでに誰かラウンジで暇を潰しているのだろうか。

 扉の隙間からは、ランプの光がわずかに漏れ出ていた。

 

 誰かが居るならば好都合だ。

 適当に会話を交わして、この疲れと眠気をやりすごすことにしよう。


 他人を道具のように使うこと。

 それにちょっとした罪悪感を抱くも、頑張って見なかったことにして扉を開け放つ。


 薄暗がりから、明るいところに出たせいで、目がくらむ――よりも前に、嗅覚が視覚に先んじてなにかを捉える。


「なんだ。これ」


 匂いだ。

 それもとてつもなく甘ったるい匂い。

 まるで、この場で蜜を煮詰めているのか、と思うほどに濃密な匂いだ。

 嗅ぎなれないにそれに戸惑い、俺は部屋に踏み入る足を止めてしまった。


 これは、一体なにの匂いだろうか。

 そう思うころには、視覚が嗅覚に追いつく。


 質素で、けれども質の良い家具で固められた、お馴染みのラウンジ。

 そこにはどういうわけか、濃い煙が充満していた。


 いつもは嗅がない匂いに、いつもは見ない煙。

 どうやら、この二つは強い因果関係があるようだ。


 多分、この推察は誤ったものではないと思うけれど、それを確かめるためにも、煙の元を探さねば。

 万が一、火事であったらとても困る。

 初期消火ができるうちに、火元を明らかにせねば。


 と、意気込んでみるも、なんてことはない。

 改めて気合いを入れなくとも、本当にあっさりと煙の源を突き止められたのであった。


 中綿でパンパンに膨らんだ、真っ白なソファーの上。

 その上で寝転がっている人から、煙は間欠的にもうもうと立ち上っていた。


 人間から煙が生じているのならば、これは人体発火か?


 いや、違う。

 俺とアリスより先に、仕事から帰ってきた彼女が燃えているわけではない。

 ただただ彼女は、煙を吸い込んで吐き出しているだけだ。


「レミィか。それは……シャシーだっけか?」


「否。シーシャ。いわゆる水タバコ」


 黒檀のテーブルの上にでんと居座る、花瓶によく似た背の高いガラス器。

 そこから伸びた管を咥えながら、レミィは俺の言い間違いを訂正した。


 そう、彼女は喫煙しているだけであった。

 ありふれた紙巻きや、葉巻、パイプではなく水タバコで。

 つまりはラウンジに詰まっていた煙の正体は、紫煙であったのだ。


 寝っ転がりながらタバコを喫むなんて、あまり行儀のいい姿とは言えず、見るからに怠惰な所業だ。


 だがレミィ自身の美貌も相まって、その怠惰な仕草が、暑さが残る夏の夕方の気だるさを見事に表現しているようにも見えた。

 悔しいことに、絵画よろしくにサマになっている。


 とりあえず火事ではないことにほっと一息をついてから、テーブルを挟んでレミィの対面にある椅子に身を預ける。


 どうやら疲れが少しばかり足腰に来ているらしい。

 ふんばりがいまいち効かず、大げさな勢いを伴って着座してしまった。


「随分。お疲れのようで。買い物、たっぷりしたんだ?」


「いや。そうじゃないよ。肉体的な疲れというより、心労によるものかな?」


「心労? またヘッセニアが街でなにかやらかして、お小言でも言われた?」


「街でやらかすのはどちらかというと君の方だろう。しょっちゅう夜の街に繰り出してるし。ヘッセニアは出不精であんまり街に出ないから、やらかすのはむしろ屋敷の中だ」


「納得。じゃあ、私と寝た男に絡まれた? レミィと同居してるとは何事か。さては貴様、奴の本夫だな、とか言われて」


「今回は違ったけど……そうなり得る自覚があるのならば、自重して欲しいな。戦友の痴情のもつれで、しかも俺は無関係なのに巻き込まれた挙句、刺されて死ぬのは流石に嫌だから」


「無理。私は私の趣味を楽しんだ結果、たとえ人死にが出ようともだ。自重する気はこれっぽっちもない。今、ここにそれを明言しておこう」


「うん。外道宣言、ありがとう。まったく。本当にいい趣味してるよ。君もヘッセニアも」


「不快。あんなテロリスト予備軍みたいな爆発魔と一緒にしないで。私の趣味は環境も汚さないし、実にクリーンなものだ」


「その代わり、君のは倫理観が壊滅的だけどね。しかも下手を打てば人間関係がボロボロになる、たちの悪いばい菌みたいなやつ」


 皮肉と軽口の応酬。

 それも結構遠慮のないやつ。

 傍から見れば、いつ口げんかに発展してもおかしくもないと見られるだろう。


 だがしかし、これでもレミィとは分隊で六年間、寝食を共にしてきた仲なのだ。


 お互いどの線まで踏み越えていいかきちんと弁えている。

 今のやりとりも、俺らからすれば戯れのようなものだ。


 現にレミィの額には青筋は立ってないし、奴の趣味の結果、殺されてもいいと言い捨てられた俺も、とさかには来ていなかった。


「実際。どうなの?」


「なにが?」


 レミィはタバコの煙を吸い込んで間を作る。

 そののちに。


「街でなにがあった? ただ詫びを入れて買い物しただけでは、そんな風に疲れないはず」


 紫煙と一緒に彼女は問いかけた。

 一体、なにがあったのか、と。


「実はさ。ファリクがちょっと、ね」


「再会。したのか? ゾクリュの街で」


「いや、実際には会ってはいない。けれど、今、彼がなにをしているのか。その情報が入ってきたんだ」


「得心。その様子から察するに、トラブルの類いだろう。それにしても興味深い。ファリクがどんなトラブルを引き起こしたのかが。本当に気になる」


「トラブルを起こしたというか、巻き込まれたというか……いや、あれは自発的に巻き込まれに行った、というべきかな?」


「既視感。トラブルに積極的に巻き込まれに行くその姿。ウィリアムにそっくりだ。で? 奴はなにをやらかした?」


新主教(しんしゅきょう)……って知ってる?」


「是。今、一番勢いに乗っている新興宗教だ。ああ、なるほど。そこの信徒と殴り合いの喧嘩でもして、収監されたか」


「いや、むしろその逆」


「逆?」


「どうやらファリクね。入信したようなんだ。新主教に」


「ぶっ。ぐむ。げほ」


 無国籍亭で判明した今の彼の境涯は、レミィの想像を超えるものだったのか。

 彼女は吸い込む煙の量を見誤ってしまったようだ。

 盛大にむせ込む。


 上体を起こし、着座の姿勢を取り、しばらくのあいだ咳き込んで。


「けほっ。し、真実? それは?」


 たくさんむせて涙目となったレミィはそう聞いてきた。


「絶対そうだ、とは言えないけれど。でも写真で見たんだ。ボロボロの法衣を着ているファリクの姿を」


「法衣? ってことは」


「ああ、そうだよ」


 言葉をため息で区切る。

 主成分が後悔のため息だ。


「出家、してしまったようなんだ」


 苦々しい思いと共に、そう呟く。

 とても強い悔いが、俺の胸の中で渦巻いていた。

 下唇も噛む。


 だって、そうだろう?

 ファリクとも六年間共に生活したのに。

 彼は宗教に傾倒するまでの悩みを抱いていたのに。

 それにまったくもって気がつかなかったのだから。


 俺の目は節穴もいいところであった。

 戦友の役に立てない自分が、どうしようもなく憎くて憎くて仕方がない。


 出家、という言葉を受けて、レミィの顔も一気に深刻なものとなる。

 きっと彼女も後悔の念を――と思ったけれど。


 だが、どうにも俺の心中と彼女のものとでは趣が違うらしい。

 レミィのは後悔や悔しさではなさそうだ。


 彼女は焦りを抱いているように見えた。

 どうにかしないと、取り返しのつかないことになる――かもしれない。

 そんな風に焦っているように見えた。


「……質問。ウィリアム」


「なに?」


「新主教。貴方はどう思う? 悪い感情を抱いている?」


「悪い感情は持ってないさ。だって、彼らは炊き出しとかバザーとか。積極的に社会貢献をしようとしているから。それに悪い噂もまったく聞かないし」


 素直に質問に答える。

 

 たとえ教団側が信者獲得という下心で動いていたとしても、彼らが成した行いは間違いなく善行であるのだ。

 炊き出しにせよバザーにせよ、それによって必ずや救われた人間が居るはずなのだ。


 たしかに、ファリクの悩みに気付けなかったことには悔しい気持ちを抱いている。

 だが、出家することを心配したり、反対する気持ちは欠片もないのだ。


 新主教のようなきちんとした組織であれば、ファリクが身を置いても大丈夫なはずだ。

 そんな信頼があった。


 しかしながら、俺のその認識は現実から離れたものであったか。


 レミィが再び悩ましい顔を浮かべる。

 さて、どのように真実を説明してやるか。

 頭を抱えて項垂れた彼女は、そんなことを悩んでいるように見えた。


「実態は違う、と言うのか?」


「……是。残念ながら、悪い噂は存在している。最近になって、にわかにたちのぼりはじめた。しかも結構深刻なやつが」


「と、言うと?」


「出家信徒。それを巡り家族と教団が対立している。会わせてくれと願う家族たちを、教団は色々と理由をつけて拒絶。出家したら最後、再会が叶わなくなってしまった……そんな事例が頻発している」


「なんだい、それ。拉致じゃないか」


「拉致。たしかにそうだ。でもそれで済むのならば、まだ可愛い方。こっちは完全に噂話で、裏は取れてないけれど……いや」


 はくり。

 レミィは出かかった言葉を噛みつぶした。


 やはり、これ以上は言わない方がいいだろう。

 何故ならば、確証がない可能性の話であって、本来話の俎上にあげることすら憚れるものであるから。


 レミィが急に発言を引っ込めようとしたのは、話そうとした事柄が、そんな属性を帯びていたからに違いない。


 だけれどもしかし、一度は口にしようとしたのを鑑みるにだ。

 きっとその話題はまったくのデタラメなどではなくて、さもありなん、と思わせる要素が教団にはあるのだろう。


 なら聞くだけの価値がある話だ。

 俺は続きを促すことにした。


「いいよ。言って」


「噂。本当にあくまで噂で、裏が取れていない与太話の類であることを、もう一度言っておく」


 気分を変えるためか、それとも俺の翻意を期待しての時間稼ぎであったか。

 彼女は再びガラス器から伸びる管を摑んで、口に運ぶ。

 煙を吸って。

 たっぷり時間をかけて口から吐き出す。

 着香されたタバコ葉の匂いでラウンジが一杯となる。


 その間、俺はレミィから一切目を離さずに意思を示す。

 早く聞かせてくれ、と。

 目で語る。


 レミィは時間稼ぎが、意味を成さなかったことを悟ったようだ。

 もう一度煙を口にして、今度は間髪入れずに排煙して。

 空っぽになったレミィの真っ赤な口腔が、言葉を紡ぎ出した。


 エビデンスに欠いた話とは一体。

 その言葉に俺は、誠心誠意の態度でもって耳を傾ける。


「噂話。その内容はこんなものだ。出家信徒のその多くはすでに死んでしまっている。激しい修行のせいで。だから、会わせられない――と」


 死。

 強烈なワードに脳天を打っ叩(ぶったた)かれたかのような衝撃を覚える。


 レミィになにか言葉を返そうとするも、ショックが大きすぎて、上手に言葉に出来ない。


 ごもごもとした音が口から情けなくこぼれ出るだけであった。


 でも、それも当然のこと。

 出家信者がもしかしたならば、たくさん死んでいるのかも知れない。


 今の俺にとっての出家信者の代表格はファリクであって。

 その戦友と死という言葉が繋がってしまったのであれば。


 もう、俺が冷静でいられる理由は一つもなかった。

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