第五章 九話 都合の良い人材
幸いなことに、アリスの夏風邪はこじらせることはなかった。
案の定、熱が下がっていないのに動こうとしたアリスであるが、屋敷の住民全員から制止されて、完全休養を何日か押しつけられたのだ。
これが彼女の快復に繋がったのだろう。
おかげで今のアリスはとても元気。
後遺症の一つもなく、いつも通りの生活を送っている。
しかしながら、俺はアリスが倒れる以前とまるっきり同じ生活。
これをする気はまったくなかった。
アリスが倒れてしまったのは、俺が彼女に甘えすぎて、多くの仕事を任せてしまったことが原因だ。
彼女を診てくれた老医師の言葉を思い出す。
この規模でこの人数が住んでいるのならば、あと何人か使用人を雇うべき――
という言葉を。
倒れる以前とまったく同じ生活を送ってしまったのならば、またアリスが倒れてしまう。
同じ過ちを繰り返す気はなく、早速俺はアリスの他に使用人を増やす決意をしたのであった。
これにはアリスは反対した。
だが、多数に無勢。
またしてもお屋敷オールスターズに、そしてまさかのクロードにまで説得されて、アリスが折れるに至ったのである。
とはいえこの屋敷は一応俺の幽閉場所である。
使用人を入れることには、やはり政治的な判断の下の許可が要る。
それが下りるまでそれなりの時間がかかるはずだ、と思っていた。
しかし、どうやらクロードが殿下に相談していたらしい。
多分、殿下お得意の横紙破りが炸裂したのだろう。
申し出から、わずか三日で許可の通知が屋敷に届いてしまったのであった。
二人くらいなら雇ってもいいと。
中身はそんなものであった。
そんな予想外に速い返答に、俺は泡を食う――
ことはなかった。
実のところ、二人の内一人は、すで内定していたのだ。
「ではアンジェリカさん。今日はアイロンのかけ方をお教えしますよ。これまで使ったことはありますか?」
「はい、アリスさん。家で少しだけ……でも、炭を入れるタイプだったから、実はこて型は使ったことがなくて」
「あら、珍しい型を使ってらしたのですね。わかりました。それでは、まずアイロンストーブの火の着け方からお教えしますね。乾燥室に行きましょうか」
「はい。お願いします」
昼下がりのラウンジで、そんな二人の会話を眺め見る。
先輩使用人と後輩使用人の会話だ。
どうやら今日はアイロン研修であるらしい。
そう。
その内定者とは、この屋敷で預かっているアンジェリカであった。
新たに使用人を迎え入れようとなったとき、真っ先に手を上げたのが彼女であったのだ。
元々アリスの助手になりかけていたこともあったし、適任と言えばたしかに適任ではあった。
とはいえ、まだ幼いアンジェリカに労働を押しつけるなんて、正直目覚めの悪い話。
だから俺はそのときに返答することはできなくて、先延ばしにして。
いつものカフェのテラス席でクロードに相談してしまったのであった。
「いいんじゃねえか。アリスの手ほどきを受けるんだろ? 職業訓練としちゃ最適じゃねえか? アンジェリカが育ったときのためによ」
カフェでは彼はそう言った。
クロードは答えには一理あった。
アンジェリカのその後を考慮すれば、たしかにこの屋敷で経験を積んでおくのも悪くはない。
そんなわけで、新米使用人、アンジェリカが誕生したのであった。
さきの会話を見るとおり、彼女のやる気は十分。
出だしは上々、と言って差し支えはないだろう。
「一人目はアンジェリカで決まり。二人目もさっさと決めようか。求人票を作り上げなきゃ」
黒檀のラウンジテーブル。
こいつに向かってわずかに頭を垂れれば、腰掛けたソファの白革がぎゅうと音を立てた。
艶やかな黒色の天板の上、湯気が立ち上るティーカップのとなりに横たわる真っ白な紙。
こいつは原稿用紙だ。
求人のための。
この真っ白なキャンパスに今から俺は、見た人が思わず応募したくなるような、そんな素敵な文面を落とし込まなければならない。
昨夜のうちに文面は考えてきた。
ウェストコートの内ポケットから、折りたたまれた紙片を引っ張り出す。
件の夜なべして書いた下書きだ。
そいつを白紙の上に広げて――
さて、書き写していこう、としたのだが。
ひょいと横から伸びてきた手に、下書きはあっさりと取られてしまった。
あまりに鮮やかな手口。
きっとスリの常連だ。
犯人は。
「募集。眺めのいい丘の上のお屋敷で働いてみませんか? 三食揃って、浴場つき。要住み込み。休暇については要相談……なにこれ」
「レミィ。そいつを返してくれないかな。今から使用人の募集要項をを書くんだからさ」
「求人票? これが? だったらもう少し修飾した文章を使うべきでは? これじゃ味気なさ過ぎて、誰の目にも留まらない」
「こういうのはね、シンプルに書くべきなの。調子に乗ったクロードのスピーチみたいに、コテコテな文章書いてごらんよ。読んだだけで胸焼けを起こして、こいつは哀れゴミ箱行きさ」
「依然。ウィリアムは元貴族とは思えない。貴族ほどこういう文章に、奇妙な情熱を燃やすというのに」
「貴族たちの修飾がくどいのは、文字が上流階級のものであったころの名残さ。読み手の教養の有無をたしかめるための試金石だったんだ。でも、今は多くの人が読めるから、そんなことをする必要がない」
「試金石。で、あれば、なおのことコテコテにするべきでは? ふるいをかけるためにも。修飾文を読み解けるということは、それなりの能力を持った人、と見なせるのだから」
「あのなあ。そんな教養を持った人が、奇妙なところにぽつんと建っている、こんな怪しい屋敷にやってくると思う? そんな人はすでにどこかの貴族家に仕えてるよ」
「納得。言われてみれば、そうだ」
「だろう?」
それがわかったのならば、さあ、下書きを返してくれ。
その意思を伝えるために、右手をレミィに突き出すジェスチャーを取る。
だが、彼女は一向に返そうとしない。
まだ、紙切れに目を注いだままだ。
なにか興味がわくような一文でも見つけたのか?
シンプルに募集要項をまとめたはずだから、そこまで面白い文章ではないはず。
と、いうことは、俺の文字の形が綺麗か否か、それを判別していたり?
それはちょっと困る。
「レミィ。俺の文字、そんなに汚い?」
「否。そこまでは。気になる点はあるけれども、無視して構わないレベル」
「なら良かったよ。綺麗な文字の書き方講座を開講されずにすんで」
「希望。望むのであれば、今からでも開こうか?」
「遠慮しておくよ。そうなってしまえば。多分、今日中に書き上げることが難しくなってしまうだろうから」
レミィの書く文字はとても美しく、他人に指導できるほどだ。
戦争中、時々教鞭を取って、綺麗な書き方を教えていたものだ。
ただし、その教え方は割とスパルタ。
その上、時間も結構取られるときた。
ひどい文字を書くヘッセニアが、よく犠牲になって半泣きになっていたのが懐かしい。
そしてそんなスパルタで教えることが嫌いではないのか。
謹んでお断りしてみれば、レミィは口を尖らせてどことなく残念そう。
そんな彼女の様子に苦笑いを浮かべながら、俺はティーカップに口を付ける。
ローズヒップの酸味が口いっぱいに広がった。
「採点。この下書きの採点をお願いする」
「採点をお願い? 今、ラウンジには俺と君しか居ないよ。一体、どこに採点する人が居るというんだ?」
「ここに居るぞ!」
声が響いた。
そいつは本来この屋敷に響いちゃいけない声。
聞き覚えのある声。
どきり。
嫌な予感に心臓が、一度だけ大きく鼓動した。
俺はカップを戻す手を思わず止める。
右に左に視線を振って、声の源がどこであるのか。
それを詳らかにしようとする。
だが、なんど見渡しても。
隅から隅まで見直しても。
人影がまったくもって見当たらない。
そしてふと思い出す。
レミィは採点をお願いすると言っていた。
つまり。
エルフの戦友の顔を見る。
とても嫌らしく悪戯っぽいニタニタを、口元に、そして目元に貼り付けていた。
「……どこだい?」
「疑問。なにが?」
「とぼけるんじゃないよ。どこに隠れているのか。君なら知っているはずだろう?」
「質問。知りたい?」
「知りたい」
「続。ギブアップ?」
「ギブアップ」
「受諾。そうかそうか。わからないか」
いかにも勝ち誇った風の、レミィのしたり顔。
こうは言いたくはないが、癪に障る、とても腹立たしい顔だ。
悪戯が見事に成功して、そんなに嬉しいのだろうか。
まったく、分隊一のご高齢のくせして、精神年齢が随分と幼いこと。
そんな失礼なことを考えている俺の内心なんてつゆ知らず。
レミィは下書きを手にしたまま、突然くるりと身を翻して。
いかにも慇懃な身のこなしで膝をつき、頭を垂れて。
一言。
「照覧。種明かし。それでは殿下、よろしくお願いします」
「うむ! 相わかった!」
直後響くは布がはためく音。
時同じくして、外套が中空にひらめく。
それまで、そこにはなにもない、と認識していたのに。
外套が宙を舞い、あまつさえ人影が現れた、となれば。
答えは一つだけであった。
「……王女殿下」
隠れていた人物。
つまり好奇心が旺盛な王女殿下が、認識阻害の外套を使っていた――
答えというのは、つまりはそういうことであった。
屋敷に入ってから道具を使ったのか、はたまた街からここまでずっとか。
後者であれば、きっとこの屋敷中に散らばっているはずの護衛の苦労が忍ばれる。
なにせうっかりすると、護衛対象を上手に認識できなくなって見失ってしまうのだ。
心からの同情申し上げたい。
「呵々っ。良い表情だな! ウィリアム! 面白きおもちゃをよく用意してくれた! レミィ! 褒めて遣わそう!」
「感謝。ありがたき幸せ」
なるほど。
そういうことか。
どうして殿下がマイナーな魔道具を持っているのかと思えば、レミィの仕業か。
非難をたっぷりこめて、レミィを見る。
なんてロクでもないブツを渡してしまったのか、と。
破天荒王女メアリー様のことだ。
悪戯に使うのは自明だろう、と目でレミィを責める。
しかし、レミィはそんな非難なんぞどこ吹く風。
悪戯が決まったことがさぞ愉快であるらしい。
呵々大笑する殿下と一緒に、俺を指さしてゲラゲラ笑っていた。
ええい、この佞臣め。
真に殿下の臣であるならば、ここは一発諫めるべきだろうに。
俺が手本を示さねばなるまい。
「お楽しみ中、申し訳ございませんが……王族が認識阻害の魔道具を使って出歩くことは、ご遠慮していただけませんかね? きっと護衛する方が大変でしょうから」
「護衛が大変だと?! なに寝言を言っておるのだ! 私とてそこまで非常識ではないわ! この魔道具はな、ちゃんと屋敷に入ってから使い始めたわ!」
「しかし、それだとしても危険なのは変わりないでしょう。この屋敷の中とて絶対の安全が保証されている、と言えないのですから」
「馬鹿を言うな! ウィリアム! 我が王国において、この屋敷ほど安全な場所は存在しないわ! なにせ自慢の分隊員がごろごろ居るのだからな! なにかがあっても、お前らがすぐに駆けつけて、不届き者などイチコロであろう!」
「外套を着けていなかったのならば、殿下のご期待通りの活躍はお約束できるでしょう。しかし、その魔道具を着けられていると話は別です。今のように、完全に虚を突かれてしまいます。初動が遅れかねません。どうかご自重を」
俺の発言に思うところがあるのか。
殿下はきりりと口を真横一本線に結んだ。
それだけで為政者に相応しい、威厳のある面持ちができあがる。
生まれながらのカリスマってやつは、これができる人のことを言うのだろう。
「うむ。その通りだな。自重するとしよう。たしかにお前を欺けるとは思わなんだ。これでは暗殺が手軽にできてしまうな。王都に戻ったら規制を設けるよう、あの陰険宰相に掛け合ってみよう」
度々無茶を押し通す殿下であるが、その反面、心からの諫言を素直に受け入れるという長所もあった。
今のもそうだ。
認識阻害が孕むリスクを瞬時に理解し、国を挙げて規制するべき、という結論を、たった数秒のやり取りで得たのだ。
真に頭の回転が速くなければできない真似だろう。
臣下としては常にその聡明さを発揮してくれて、真面目に日々の公務に当たって欲しいところ。
しかし、そこは破天荒王女。
必要な場面以外は、やりたい放題やる。
自儘に往く。
だからこその二つ名であった。
「それで、殿下? 何用がありまして、この屋敷にお越しに?」
「うむ! お前、新しい使用人を欲しているのだろう? 喜べ! もうこんな無味無臭もいいところの、世紀の駄文を書き写す必要がなくなったぞ!」
「せ、世紀の駄文……」
人が折角夜なべして、徹底的に情報を圧縮した文をばっさり駄文とは……
いや、いい文章でないことは自覚していたが。
しかし、こうして他人にはっきり言われるとちょっと傷付くものだ。
まあ、俺の傷心はひとまず置いておこう。
下書きが無用の長物となった、とのことだが、一体なにをもってそう言い切れるのか。
これから続くはずの殿下の言葉に、耳を傾けよう。
「なんとだな! 私自ら新しい使用人を一人都合して、ここに連れてきたのだ!」
「御自ら? と、なると……アリスのときのように、お付きの使用人から抽出されたのでしょうか?」
「いいや! 違う! ゾクリュの街でぷらぷらしているやつを見つけてな! 話を聞いてみたら、ここで働くのに、これ以上にないくらいに都合が良かったんで連れてきたのだ!」
「連れて来たって……同意なく、ですか? それ、世間では拉致って言うのですが」
「馬鹿言え! 拉致ではない! 本人も乗り気だからな!」
「はあ。やる気があるのはいいことですが……しかし、ぷらぷらしてたって……信用できるのでしょうか?」
「勿論! なにせお前も知っている奴だからな! その点はまったくもって、問題ないと断言できるぞ!」
「私も知っている? 誰でしょうか?」
「うむ! 百聞は一見にしかずだ! おい! もう良いぞ! 入ってくるがいい!」
どうやらスカウトしてきたその人と俺とのお目見えは、すでにセッティング済みであったようだ。
殿下は廊下に待機しているであろう、その人を呼び寄せた。
軽い足音が二、三回ほど聞こえた。
音がやや軽めであったのは、その人が音を殺して動いたから、ではなさそうだ。
足音とは対照的に、遠慮なくドアノブを摑んだこと知らせる、大きな音が鳴り。
次いでドアは勢いよく、そして豪快に開け放たれた。
殿下がスカウトした人とは、一体。
「はいはーい。どもども。今後ともよろしく!」
扉の向こうに見えたのは。
片手を高く上げて、元気のいいあいさつをしたのは。
サイズのあっていないだぼだぼのパンツに、よれよれの綿シャツを着た少女。
赤毛の少女。
なるほど。
さきほど殿下が言っていた、都合が良かったという台詞。
それを遅ればせながら理解した。
殿下がスカウトしたのは、いつぞや知り合った自称旅人の少女エリー・ウィリアムズ。
住所不定であるが故に、住み込みという条件は彼女にとって、とても都合がいいはずだ。
だが、殿下の言うところの好都合なるものは、きっとエリーにとってのものだけではあるまい。
それはきっと、エリー以上に、俺の都合に合致するのだ。
彼女を使用人として雇うということは、つまり、だ。
住む家を与え、仕事も与え、そしてアンジェリカと同じように、職業訓練の意味さえ含んでくるのだ。
のちの人生で、飯のタネになるかもしれない技術が学べるかもしれないのだ。
なるほど、この屋敷で孤児院の真似事をするのであれば。
エリーを雇うこと。
これはたしかに、まごうことなき社会貢献であり。
殿下が当初目論んだ道筋を往くためには、大変都合の良い人材であるのは違いがなかった。




