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第五章 八話 誰かのために――

 厨房に立つアンジェリカはひっそりと感謝したことがある。

 それはウィリアムがアリスにつきっきりになってくれたことだ。


 病床にあるアリスは目が離せない。

 一人で眠らせておくには、やはり大きな不安があったのだ。


 その不安は当然ウィリアムも抱いていたものであった。

 だから彼は医師の見送りすらせず、そっとアリスの傍に寄り添うことを選んだのだ。

 おかげで、アンジェリカの不安もいささか解消された。

 あとで看病の交代を申し出ねばと、アンジェリカは思った。


 しかし、少女が抱いた感謝の念はそれに対するものだけではない。

 ウィリアムがアリスの代わりに料理を作ろうとすること。

 これを考えなかったことにも、アンジェリカは強い感謝の念を抱いたのである。


(ウィリアムさん。料理だけは全然上手くいかないからなあ)


 ウィリアムは料理が下手な自分にコンプレックスを感じているのか、度々アリスに教授を願い出ることがあった。


 最近ではアンジェリカもその場に居合わせることが多いのだが、しかし、ウィリアムの作る料理は例外なく残念なものばかり。


 基本的に味が薄く、過度な加熱調理により食感は失われ、さらには奇妙な野草を料理に放り入れようとする始末。


 しかしそんな惨状でも、少しずつ上達はしているらしい。

 アリスに言わせれば、前は薄味というにもおこがましい、無味の可食物を拵えていたとのこと。

 その上足りない味を、得体の知れない野草やキノコで補おうとしていたらしい。

 なるほど、ならばアンジェリカが試食したことのある料理は、まだマシであったのだろう。


 とはいえ、である。

 彼の料理は味が悪いことには違いがない。


 二度とウィリアムに料理を作ってもらいたくない、とアンジェリカに思わせるのに、十分な出来栄えであったのだ。


 そんな彼が、アリスが倒れたという状況下で、妙なやる気を出してしまったら。

 今日の夕食は悲惨を極める、おぞましいものになってしまうのは必至。

 下手をすればヘッセニアあたりが、恐れおののいて、逃げ出すかもしれなかった。


 おまけにアリスのために病人食を作ろうとしてしまったのならば。

 これはもう、アリスへのトドメの一撃となりかねない。


 だから、ウィリアムに反対意見をつきつけること。

 それは世話になっている手前、甚だ気まずいけれども。

 もし、彼が料理を作る、と言ったのならば、アンジェリカは全力で反対する気でいたのだ。


 だから少女は、やる気を出さなかったウィリアムに、とても強い感謝を抱いているのだった。


 かくして今夜の屋敷の夕食はアンジェリカが作る運びとなったのだ。

 齢十一なれど、すでに料理の腕前においては屋敷の内でナンバーツー。

 今宵の夕食の平穏が保証されたと言っても、過言ではなかった。


「完了。アンジェリカ。イモの皮むきは終了した。ほかにすることは?」


 ボウルにたくさん入った、皮をむき終えてつるつるとなったジャガイモ。

 それを調理台に置きつつ、そんな問いかけをアンジェリカにしたのはレミィであった。


 幼いアンジェリカに指示を求めているあたり、やはり彼女も料理ができなかった。

 それもあのウィリアムよりもひどいという評判があるのだ。


 精々出来るのは野菜の皮むき程度。

 とてもではないが、厨房を任せることなどできなかった。


 とはいえ、自分が料理を作ってはならないという自覚がある分、ウィリアムよりもずっと無害な存在であるのも、また事実であった。


「ありがとうございます。料理のお手伝いは大丈夫ですので……そうですね。レミィさんは、属性魔法が使えるんでしたっけ?」


「是。もっとも私は不器用で、火と風しか使えないけれども」


「火が使えるなら十分です。悪いのですけれども、レンジに火を入れてくれませんか?」


 レミィがむいてくれたジャガイモのカットを始めつつ、アンジェリカは、とある一点を顎でしゃくる。


 その先にはいささか煤で黒ずんだ、キャビネットに似た白い筐体。

 調理台の背後に設置されているそれこそ、コンロやオーブン、果てには料理の保温機能すら持つ万能器具たるレンジであった。


「了解。一応聞いておくけれど、これ、石炭レンジ?」


「その通りです。ガスレンジなら、マッチだけで火が熾せると聞いたのですけれども……このお屋敷は丘の上ですので、ガスが……ごめんなさい」


「平気。謝らなくていい」


 なにかと便利な石炭レンジであれど、着火するには一苦労が要った。


 石炭が赫々となるまで、薪か魔法で作った火種の面倒を見なければならないのだ。

 しかもそれは、紙に火を着けるときとは話が違う。

 高い温度をそれなりの時間維持しなければ、石炭は赤くなってくれないのだ。

 

 アンジェリカが心の底から申し訳なさそうな声を上げたのは、そんな事情があってのことだ。

 たしかに、面倒な作業をレミィに押しつけてしまったようにも、見えなくはない。


「元来。私は料理ができない。これくらいはやるべき。石炭が真っ赤になるまで、火の面倒をみるくらい、朝飯前」


 だが、レミィは意に介した様子はない。

 ためらう様子なく、レンジの前でしゃがみ込んで、小さなボイラー室を開ける。

 言葉通り料理が出来ない分、これくらいの仕事はやるべき、と端から考えていたようだ。


「薪。それで熾すよりも、魔法での方がきっと楽。薪はくべる量を考える必要がある。でも魔法は直感のまま火の大小をいじくれる。大した労力ではない」


「ありがとうございます。では、よろしくおねがいしますね」


 レンジはすべてをレミィに任せていいだろう。

 そう思ったアンジェリカは、イモを切る手を止めて、一度深呼吸。

 状況を俯瞰してみることにした。


「野菜はもう切るだけ。レンジも使えるようになる。となるとあとは……」


 今夜は無国籍亭で夕食を摂る予定であったためか。

 屋敷に貯蔵されている食材は少なめであった。


 ましてや今は夏場であるのだ。

 保存の利く野菜しかなく、肉類に関してはベーコンを除けば皆無。

 貯蔵されているものだけで夕食を作るのであれば、ずいぶんとわびしい内容になりそうである。


 このような緊急時であれば致し方がない、と割り切ることも出来るかもしれないが、しかし。


「アリスさんなら、それでもきちんとした料理を揃えるはず。想定外でもあっさり乗り越えられるはず」


 そんな思いがあったが故に。

 アンジェリカは割切ることを良しとはしなかった。


 自分はアリスほど経験もなければ、技量もないけれど。

 しかし、だからこそ、予想外の事態でも対応できるように努力すること。

 それだけは真似しなければ、と思っていた。


 できる限り多くの料理をテーブルに並べてみせる。

 そんな強い覚悟をアンジェリカは抱いていた。


「そのためには、ヘッセニアさんを待たないと」


 そして、覚悟が実現できるか否か。

 その鍵はヘッセニアが握っていた。


 事の要となる部分を他人に任せるのは、やや無責任にも感じるけれども。

 それでもこれがアンジェリカにとって考えに考え抜いた、最良の選択だと少女は信じていた。


 アンジェリカがヘッセニアに任せたこと。

 それは食材の確保であった。


 もちろん、街へと走らせたわけではない。

 時間が時間故に、市場や生協はとっくに店じまいをしているから、走らせたところで無駄となる。


 では、どのように食材確保するのか?

 答えは簡単であった。


 この屋敷の、いやこの丘のすぐ下に存在する天然の食料庫。

 即ち、小川。

 そこに行って、食材を、つまり魚を捕まえてくるだけ。


 もちろんこの闇の中、魚を見つけて、捕まえることは至難の業だけれども。

 しかしヘッセニアは――


「はいはーい。お待たせお嬢ちゃん(ニーニャ)。捕まえてきたよ。おねむしていたお魚さんたちを」


 ――そんなハンデをあっさり乗り越えてしまうだけの技術を持っていた。


 ヘッセニアが厨房にやってきた。

 両手でブリキのバケツを、重たげに引っ提げて。

 バケツの中ではたくさんの魚たちが、腹を天井に向けてぷかぷか浮かんでいた。


 魚とイモさえあればフィッシュパイを作ることができる。

 メインディッシュに困ることは、これでなくなった。


「ありがとうございます、ヘッセニアさん。それにしても、本当に爆発力を絞っても捕まえられるんですね。音、全然聞こえませんでしたよ」


「魚は石打漁の衝撃で気絶するからね。ごくごく小規模の爆発でも、威力は十分ってわけ。私個人はつまらないけれど、流石に派手な爆発で、アリスを起こすわけにはいかないし」


「ご配慮ありがとうございます。じゃあ、バケツはこの調理台の上に」


「了解。よいしょ」


 アンジェリカはイモが入ったボウルを脇に寄せてスペースを作る。

 その出来たての間にヘッセニアはどかりとバケツを乗せた。


 イモはいつでも切ることができる。

 が、魚はいつまでも気絶しているわけではない。

 ならば。


「さっさと締めちゃいましょう。目が覚める前に」


 アンジェリカはバケツの中で特に大きな魚を選んで、掴み上げて。

 調理台に寝かしたのちにナイフを持って。

 そしてエラの中に向けて、切っ先を突き立てる。

 脳天に向けて切っ先を進める。

 

 ざくり。

 手応え。

 魚の口はぱかりと開かれる。

 絶命。

 中締め成功。


 拍手が上がる。

 手持ち無沙汰となったヘッセニアのものだ。


「お見事。お嬢ちゃん」


「恐縮です。でも、こんなの誰でもできますよ」


「それがどっこい、そうではない。なぜであるならば、このヘッセニア・アルッフテルができない人間であるからだ! よって中締めは誰でもできるスキルではない! 誇るがいいよ、お嬢ちゃん!」


「……胸を張って言うことじゃないと思いますよ」


「同感。張るだけの胸がない癖に」


「胸がないことは私にとってメリットさ。あんなもんただの邪魔くさい突起物だ。実験中、胸に引っかけて薬品ぶちまけたらヤバいじゃん。利用価値がほとんどないね」


「誘惑。男は単純。谷間や膨らみを強調すれば、脈があるか否かを判別できる。これほど便利な代物はないぞ?」


「おおう。なんとも堕落した利用法をご存じで。お嬢ちゃんは、このお姉ちゃんみたいに爛れた大人になっちゃだめだよ?」


「……お姉ちゃん、ですか」


 アンジェリカのオウム返しは、レミィのとさかにくるものであったらしい。

 レンジに向き合ったレミィの背中から、強烈な不満の気配が立ち上った。

 どうやらアンジェリカの一言を、自分に向けたものと解釈したようだ。

 レミィは歳に話に敏感であるらしい。


「不快。私は婆さんとでも? 私から言わせれば、エルフ以外の人類がどいつもこいつも短命に過ぎるのだけれど」


「ああ。ごめんなさい。そういうわけじゃないんです。ただ……ちょっとウィリアムさんとアリスさんのことで気になることがあって」


「気になること? なにさそれ」


「その……あの二人って……兄妹なのですか?」


「はいぃ?」


 それは予想外の発言だったようだ。

 やることのないヘッセニアはただ目をまん丸にして、アンジェリカを見た。


 レミィも魔族の戦友と同じ思いを抱いたらしい。

 レンジに向けていた意識を少女へと向けすぎて、魔法の制御がなおざりになったのだろう。

 おっといけないと、慌てて火種へと向き合い直した。


 二人の反応から、アンジェリカは自分の言ったことが的はずれであったことを悟った。


「ええっと、お嬢ちゃん? なんだってそんな独創的なことを?」


「……厨房に来る前、アリスさんの部屋に行こうと思ったんです。様子を見るために。そしたら聞こえたんです。扉越しにアリスさんの声が。うわごとだけどたしかに、ウィリアムお兄ちゃん、って言ってたのが。だから……」


「兄妹かと思ったと?」


 魚を締める手を休めずに、アンジェリカはヘッセニアの声に頷いた。


 ちらとヘッセニアの視線はレンジの方、レミィへと飛ぶ。

 その視線をレミィは背中越しで感じ取っていたらしい。

 火の面倒を見つつも、芝居がかった仕草で肩をすくめてみせた。


 どうやらレミィは知らないようだ。

 それを見てヘッセニアがふうと息を漏らした。


「私だってそうだよ。でも」


「でも?」


「二人が分隊結成前からの知り合いで、なにかがあったってことは、なんとなしにわかる」


「なにかってことは……ヘッセニアさんもよくわかってない?」


「まあね。でも、その当時からウィリアムが、アリスに相当肩入れしてたのはたしかだよ。アリスは分隊が結成してから、四年経ったあとに入隊したのだけどね。そのとき、ウィリアムがさ。猛反対したんだ。アリスの入隊に」


「回顧。そう言えばそうだった。あれは珍しかった。殿下の無茶ぶり命令に辟易しつつも、一切文句を言わなかったウィリアムが、強硬に反対したのはあとにも先にもあれだけだった」


「そうそう。あの口ぶりはほとんど不敬だったよねえ。見てるこっちが怖かったよ」


「王女様が関わっていたんですか? アリスさんの入隊に」


「そう。分隊に入る前はね、アリスは殿下お付きのメイドだったの。ま、本人が希望していることもあって、とうとうウィリアムも反対ができなくなったんだけど」


「……それがどうして、戦場に?」


 とうとうアンジェリカは、締める手を止めてしまった。

 アリスの選択はあまりにも不可解でしかなかったために。


 王女お付きであれば、少なくとも王都に居続けることができたはずだ。

 戦争に負けない限り、そこは安全が保証された場所である。

 そんな安全地帯を飛び出して、明日の命も知れぬ過酷な場に行きたいと自ら願ったのだ。


 自殺願望があったとしか思えない選択だ。

 少なくともアンジェリカには、そうとしか思えなかった。


「どうして、か。それは当然、ウィリアムを追ってよ」


「ウィリアムさんを、ですか?」


 ヘッセニアはゆったりと肯んじた。

 その表情にいつものお気楽な様子はなかった。

 とても真剣であって、それでいてなにか心配を抱いているような、そんな深刻なもの。


 なぜ、彼女はここまで暗い表情を浮かべているのか。

 アンジェリカには、とんと見当がつかなかった。


 だがしかし、少女はもうすぐ知ることとなる。

 どうして、ヘッセニアが渋い顔を作っていたのかを。

 他ならぬ、ヘッセニア自身の言葉によって。


「分隊ができる前。ウィリアムと知り合った段階で、あの娘は気付いたんだろうね。ウィリアムの危なっかしさに。こいつには誰かが、いや私が付いてなきゃダメだって。じゃないと」


「じゃないと?」


 ヘッセニアはためらう仕草を見せた。

 口をつぐむ。

 ちらとそっぽをむく。

 床板を眺める。

 本当に言ってもいいか、それを逡巡したようである。


「ヘッセニア」


 まだレンジと向かい合ったままのレミィの声。

 先を促す声だ。


 そこまで言ってしまったのならば、最後まで言わないと不誠実だ。

 彼女の声はそう言いたげであった。


 戦友の促しに観念したのか。

 ヘッセニアは大きく息を吐いて、そして。


 留めていた言葉を口にした。


「……じゃないと、喜んで死にに行っちゃうって。誰かのために」


「……え?」


 ――自殺願望を抱いているとしか思えない。


 奇しくも、さきほど抱いたアンジェリカが考えは正鵠を射ていたのである。


 ただし、希死の思いを抱いていたのはアリスではなく。

 アンジェリカが予想だにしなかった。


 この屋敷の一応の主である、ウィリアム・スウィンバーンが願望の持ち主ではあったが。

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